著者
田島 奈都子
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.20, pp.1-29, 2020-03-20

本稿は「大戦ポスター」としばしば称される、第一次世界大戦期に欧米で製作されたポスターが、1910年代半ば~1920年代までの間に、日本のデザイン界においてどのように受容され、影響を与えたのかについて論じた「戦前期日本のデザイン界における第一次世界大戦ポスターの受容と影響」の続きであり、1931年の満洲事変勃発以降、1945年の終戦までの間に、大戦ポスターがどのように取り上げられ、受容されたかについて検証することを目的としている。 日本における政治宣伝を目的としたプロパガンダ・ポスターは、1929年に陸軍省と文部省を依頼主として製作された作品に遡る。ただし、その製作が本格化したのは、1931年の満洲事変勃発以降であり、1937年の日中戦争開戦を契機として、それは一段と活発化した。しかし、それまでの日本においては、プロパガンダ・ポスターが製作されてこなかったことから、依頼主となる各省庁も依頼を受ける図案家も、どのような図案にすればよいのかわからず、その際に参照・翻案 とされたのが大戦ポスターであった。 こうして、大戦ポスターは十五年戦争期に再び注目され、ポスターや新聞広告を製作する際に盛んに翻案とされたが、この時代に積極的に選ばれたのは、銃剣を手にして戦う兵士を主題としたものや、機関銃や戦車、弾薬など、前線を感じさせる作品であり、1920年代までとは大きく異なっていた。ただし、十五年戦争期の日本においては、実際の製作・使用から10年以上が経過した大戦ポスターが再び注目され、新たなグラフィック作品を製作する上で大いに活用されたのは事実であり、その頻度は欧米よりも高く、影響は長く続いた。 なお、この時代の大戦ポスターは、市民に対して銃後の覚悟を促すための、格好の材料としても盛んに活用され、実際にはそのような文脈で、直接的に紹介・使用されることの方が多かったことも忘れてはならない。
著者
田島 奈都子 タジマ ナツコ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所 非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.22, pp.35-72, 2021-03-20

本稿は中国のポスター史の黎明期に当たる、1880 ~ 1920年代半ばに製作された中国語表記のポスターを研究対象とし、それらに見られる特徴について、考察・検証したものである。この時代については、現存作品が極めて少なく、そのことが長らく研究上の足かせになっていた。しかし、2017年から数年にわたって、論者は香港文化博物館とマカオ在住の個人コレクター・蕭春源氏が所蔵する、大量の戦前期のポスターを、中国人女性研究者の呉詠梅氏と共同で、直接閲覧調査する機会を得たことで、多くの新発見を得ることができた。中国におけるポスター史は、現存する作品を見る限り、イギリス系商社である泰隆洋行を依頼主とする、1889 ~ 90年用の作品によって幕が開いた。そして以降も 1920年代後半まで、つまり技術的には製版方法が描画で、その作業に膨大な手間隙と資金を要した時代に、中国のポスター界を牽引したのは、香港や上海を拠点に活動した、貿易に携わる外資系の損害保険、商社、海運、エネルギーの四業種であった。これらは度重なるポスター製作を通して、後世につながる中国製ポスターの基本的な仕様、具体的には四六半切のアート紙を用いて、上段のリボン状の部分に社名を横書きで記載し、下段にカレンダーを配することなどを、実質的に規定・定着させた。ただし、画面中央部のポスター主題に関して述べると、外資系企業は中国の古典や故事に則ったものを選ぶ傾向が強く、これらは清代に製作・流布した蘇州版画と重なる。ところが、1910年代半ば以降になって、ポスターの依頼主として登場した中国人資本の企業は、こうした主題を採用せず、それらは同時代の近代的な風俗画を好んだ。なお、最初期の中国語表記のポスターは、これまで上海のイギリス租界に所在した印刷会社が窓口となって受注し、同社のロンドン工場で製作されたと認識されてきた。しかし、今回の調査によって、早い段階から香港に所在する印刷会社も製作を請け負っていたことが判明した。