著者
廣田 龍平
出版者
一般社団法人 日本民俗学会
雑誌
日本民俗学 (ISSN:04288653)
巻号頁・発行日
vol.308, pp.39-55, 2021-11-30 (Released:2023-08-02)
参考文献数
76

This article examines the ontological function of a body technique called matanozoki, which is found sporadically in the Japanese archipelago in modern times. Matanozoki is a posture of bending oneʼs body and looking backward from between the legs, corresponding to what is labeled in the Motif-Index of Folk-Literature as D1821.3.3.: “magic sight by looking under oneʼs legs.” This article also takes another magical posture called sodenozoki (D1821.3.1., “magic sight by looking under arm”) as having the same ontological function since there is structural isomorphism with matanozoki. Through matanozoki or sodenozoki, one can discover that ships or human beings could actually be a host of ghosts of the drowned or mysterious foxes or other yōkai (mysterious nonhuman beings), or that yōkai that trying to hide their actual bodies with magic could be there. Furthermore, there is a modern folk belief that an infant doing matanozoki is a sign of its motherʼs pregnancy, indicating that matanozoki enables infants to see the near future. Quite similar beliefs that demons and future spouses can be glimpsed between the legs can also be found in Europe, Asia, the Americas, and Africa.   Tsunemitsu Toru claims that what one sees by matanozoki is the other world. However, a closer look at the cases collected by Tsunemitsu and others shows that in some cases, matanozoki enables a person to restore his/her normal sight. These cases imply that the person involved had already been transformed into an abnormal being by mischievous yōkai with their mysterious power. Adopting the anthropological theory of perspectivism, this article proposes a hypothesis that many peoples consider matanozoki (D1821.3.3.) as a switch between normal human sight and mysterious nonhuman sight. Assuming that matanozoki reverses the ontological relationship between the world and the human body, this hypothesis can possibly provide a consistent explanation to various cases of matanozoki, including similar cases in other countries.
著者
香川 雅信
出版者
一般社団法人 日本民俗学会
雑誌
日本民俗学 (ISSN:04288653)
巻号頁・発行日
vol.302, pp.1-35, 2020-05-29 (Released:2023-04-19)
参考文献数
48

現在、妖怪には多くの種類が存在するように考えられているが、江戸時代に入るまでは、「鬼」や「天狗」といった限られた怪異のエージェントが想定されているだけで、個別の怪異に名前が与えられることはなかった。その状況が一変するのが十七世紀である。寛永年間(一六二四~一六四四)以降、妖怪の名称が急速に増えていくが、その背景には、怪異に対する認識の変容と、俳諧という新たな文芸の発達があったと考えられる。 江戸時代初期、とりわけ寛永年間には流言としての妖怪が多く見られる。その一つに「髪切虫」があるが、同時代の資料を検討すると、それが一種の凶兆=「恠異」として捉えられていたことが分かる。しかし、「恠異」を判定し、しかるべき対処を行うという中世までの危機管理のシステムは江戸時代においてはすでに機能しなくなっており、怪異は凶兆としての意味を失って、ただそこに在るだけの「モノ」として扱われるようになっていったと考えられる。 また、十七世紀の複数の文献に現れている妖怪の大半が俳諧に詠まれていることに注目し、「俳言」としての価値を持つものとして、妖怪の名称が俳諧にたずさわる者たちの関心を集めたのではないかという仮説を提示した。『古今百物語評判』という怪談集が俳人によって生み出され、河内国を代表する妖怪「姥が火」が俳人たちのネットワークの中から生まれてきたことがその証左として挙げられる。 さらに、江戸時代の文献に記された妖怪の名称の中で最も大きな割合を占めるのは怪火の名称であったが、それは怪火が凶兆としての意味を失ってただ「見える」だけのモノになり、またそれゆえに俳諧の題材として捉えられたためだと考えられる。怪火ばかりでなく、名前をつけられた妖怪の多くは無害で日常的に存在するものとして捉えられており、そうした「怪異の日常化」と俳諧の題材としての意義が江戸時代における妖怪の「名づけ」を促したと推測することができる。
著者
柏木 亨介
出版者
一般社団法人 日本民俗学会
雑誌
日本民俗学 (ISSN:04288653)
巻号頁・発行日
vol.307, pp.33-67, 2021-08-31 (Released:2022-12-20)
参考文献数
57

本稿は、戦前から平成にかけての旧華族神職家の活動に着目し、彼ら自身が背負う歴史の受け止め方と伝え方の分析を通して伝承の力学を論じるものである。阿蘇神社(熊本県阿蘇市鎮座)は延喜式神名帳記載の名神大社、近代の官幣大社であり、宮司職を代々務める阿蘇家は阿蘇国造の末裔として華族(男爵)に列せられた名家である。戦後、華族と神社をとりまく社会環境が変わるなか、歴代宮司たちによる神社とイエの維持の仕方を手記や聞き書きから分析した。 戦後、国家の後ろ盾を失った神社は運営方針の転換を迫られたが、青年期を戦前に過ごし終戦直後に神職生活を始めた第九〇代宮司は、新たな社会の価値観のなかでイエと神社を継承しなければならなくなり、積極的に地域の人びとと交流して氏子青年会などを結成したり、各種講演会活動を通した神道教化活動を行ったりすることで、氏子からの全面的な協力を得られる組織づくりに努めた。彼の跡を継いだ第九一代宮司は、安易に参拝者を増やす方針は採らず、氏子崇敬者からの奉賛と国の文化財保護制度の活用によって故実に従った祭祀を厳修し、伝統ある神社としての矜持を保つよう努めた。そして先代宮司は、行政や地元経済界の事情や要望を調整しながら、阿蘇家と阿蘇神社の伝統を次の世代に渡していった。 阿蘇家と阿蘇神社の歴史のなかで、戦国末の一時没落は史上最大の危機として記憶され、終戦直後の難局としばしば対比される。その歴史を踏まえて彼らが重視するのは、イエと神社を没落させないことであって、時代状況に応じた運営方法を創り上げて祭祀を厳修し、次代に伝えていくことに注力する。ここにみられる伝承の力学には、地元の人びとから寄せられるイエと神社への期待に応えること、個を犠牲にしながら家系維持と神社運営に努めてきた先人の歴史を絶やさぬこと、一家団欒という幸せな家族像を実現すること、といったイエに対する規範意識が働いていることを指摘した。
著者
間所 瑛史
出版者
一般社団法人 日本民俗学会
雑誌
日本民俗学 (ISSN:04288653)
巻号頁・発行日
vol.311, pp.35-53, 2022-08-31 (Released:2023-08-31)
参考文献数
22

This article offers observations on the oral history of Tono-kochi in the Shori District of Kannamachi in Tano-gun, Gunma Prefecture, which is located near the boundary with Saitama Prefecture. It explains the historical background as seen from the local peopleʼs narrative and how this is understood at present.   Kannamachi was part of an area called sanchuryo, or a domain under the direct jurisdiction of the Edo Shogunate, during the early modern period. In the Genroku Era (1688-1704), a dispute over the fief boundary arose between the sanchuryo and Bushu. A court verdict determined that the line along the mountain ridge was the boundary. On the other hand, research has shown that the Kannagawa River running in the center of the sanchuryo used to be the fief boundary. It has been noted that perception of the boundary has been ambiguous.   In Tono-kochi on the right bank of the present Kannagawa, oral history has it that coal was buried in the mountain during the Meiji Period as evidence that a court decision changed the fief boundary. The former Shinto priest family of the Tono Shrine relayed the detailed history of the beginning of Tono-kochi and the change of fief boundary. However, the Tono Shrine was a shrine that had had connections with Chichibu since the Genroku Era. Moreover, the history of its affiliation with Bushu was known even outside Chichibu, and this history has gradually been understood through the ancestorsʼ experience and the excellent Shinto funeral tradition in the area on the right bank of Kannagawa. Furthermore, the period when the change of boundary allegedly took place was a time when the boundaries with Joshu, Iwahana Prefecture, and Gunma Prefecture were in flux. This was behind the history of fief boundary shift.   The history of boundary change in Tono-kochi has been passed on in oral history not only by way of the experience of people in the past, but also through present day geographical and cultural disparities.
著者
大地 真帆
出版者
一般社団法人 日本民俗学会
雑誌
日本民俗学 (ISSN:04288653)
巻号頁・発行日
vol.307, pp.1-32, 2021-08-31 (Released:2022-12-20)
参考文献数
32

本論は従来の両墓制研究が詣り墓重視であったこと、また死穢忌避観念の希薄化した後の埋葬墓地の管理化の問題を等閑視していた点を指摘し、従来の静態的な視点とは異なり、墓は生き物のように日々新陳代謝をする(metabolism)という動態的視点から、香川県観音寺市大畑の両墓制を調査対象とした。 そして土葬時代に忌避され、非日常的な空間に放棄されていた埋葬墓地(サンマイ)が一九八〇年代の火葬導入と墓地開発によって、住民の視線と意識を引きよせる「見られる」墓へ変貌をとげ、住民自身によって日常生活下で管理されるに至ったプロセスを数量的・質的分析アプローチの双方より明らかにした。具体的にはサンマイの石塔造立の数量的分析より、火葬導入による遺骸から遺骨への形態変化に対応するために、新しくカロート付石塔の家墓が造立されるようになった墓地開発のパターンを明らかにした。そして各々の墓を所有する「顔」がみえずに匿名性が高い入会制管理の状態から、やがてコンクリート製外柵の設置によって、家ごとの墓域と土地所有が明確な状態へと変貌していく様相を指摘する。 そして各家のもつ墓域の明瞭化によって管理主体の個としての「顔」が見えるようになったサンマイは、土葬時代まで墓地を管理してきた三昧聖ともいえるアンモウリの消失と重なりあいながら、住民自らが家の標識ともいえる家墓に色花を飾り「祀る」ようになり、二〇〇〇年代初頭には墓地管理委員会を新設して日常的に管理するようになった。 さらに住民の視線を誘引して「見られる」墓となったサンマイは、日常的に家墓に墓参りをして墓前に色花を絶やさず「きれい」な状態にしておくことが「善い家」であるという、新たな社会的評価をもたらす場へと空間的機能が変わっていった。この村落内における新たな〝美徳〟の発生は、非日常的空間として放棄されてきたサンマイを日常的な管理のもとへ急速に組み込んでいった。つまり八〇年代以降のアンモウリ不在の穴を埋めるようにして〝美徳〟の発生が住民自らによる墓地を管理する原動力としてはたらき、持続可能な墓地管理のシステムを生みだしていることを明らかにした。