- 著者
-
柏木 亨介
- 出版者
- 一般社団法人 日本民俗学会
- 雑誌
- 日本民俗学 (ISSN:04288653)
- 巻号頁・発行日
- vol.307, pp.33-67, 2021-08-31 (Released:2022-12-20)
- 参考文献数
- 57
本稿は、戦前から平成にかけての旧華族神職家の活動に着目し、彼ら自身が背負う歴史の受け止め方と伝え方の分析を通して伝承の力学を論じるものである。阿蘇神社(熊本県阿蘇市鎮座)は延喜式神名帳記載の名神大社、近代の官幣大社であり、宮司職を代々務める阿蘇家は阿蘇国造の末裔として華族(男爵)に列せられた名家である。戦後、華族と神社をとりまく社会環境が変わるなか、歴代宮司たちによる神社とイエの維持の仕方を手記や聞き書きから分析した。 戦後、国家の後ろ盾を失った神社は運営方針の転換を迫られたが、青年期を戦前に過ごし終戦直後に神職生活を始めた第九〇代宮司は、新たな社会の価値観のなかでイエと神社を継承しなければならなくなり、積極的に地域の人びとと交流して氏子青年会などを結成したり、各種講演会活動を通した神道教化活動を行ったりすることで、氏子からの全面的な協力を得られる組織づくりに努めた。彼の跡を継いだ第九一代宮司は、安易に参拝者を増やす方針は採らず、氏子崇敬者からの奉賛と国の文化財保護制度の活用によって故実に従った祭祀を厳修し、伝統ある神社としての矜持を保つよう努めた。そして先代宮司は、行政や地元経済界の事情や要望を調整しながら、阿蘇家と阿蘇神社の伝統を次の世代に渡していった。 阿蘇家と阿蘇神社の歴史のなかで、戦国末の一時没落は史上最大の危機として記憶され、終戦直後の難局としばしば対比される。その歴史を踏まえて彼らが重視するのは、イエと神社を没落させないことであって、時代状況に応じた運営方法を創り上げて祭祀を厳修し、次代に伝えていくことに注力する。ここにみられる伝承の力学には、地元の人びとから寄せられるイエと神社への期待に応えること、個を犠牲にしながら家系維持と神社運営に努めてきた先人の歴史を絶やさぬこと、一家団欒という幸せな家族像を実現すること、といったイエに対する規範意識が働いていることを指摘した。