著者
金庭 久美子
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.1-31, 2011-03

本研究では、ニュース聴解の指導のために必要な「言語知識」と「認知能力」について明らかにした。まず、「言語知識」では1.談話構造、2.文・表現、3.語彙の三つの観点から分析を行った。ニュースの1.談話構造では、先行研究で言及されている談話構造を比較し、基本的な談話構造が「リード文+背景+詳細+展望・付加」であることを示した。さらに談話構造の違いが理解に影響を与えるかどうかテストを行った結果、超級クラスも上級クラスも平均値に差はないものの、いずれも標準偏差の値が大きく相関の仕方が両クラスで異なった。よって談話構造の差が原因であるというよりも個人差が問題であることを指摘した。2.文・表現では、『日本語能力試験出題基準』(2002)(以下『日能試』)の機能語のリストとニュース文に用いられる表現を比較した。ニュース文の複合助詞のいくつかは『日能試』のリストと一致したが、それ以外は一致するものが少ないことから、文・表現が聴解の難しさの原因であるとは考えにくい。その他、ニュースの談話構造と表現の関係、連語表現についても見た。3.語彙では、ニュース語彙の難易度を見た。ニュース語彙のうち約4分の1が『日能試』にない語でニュースの理解には級外に相当する語の指導が必要であることが分かった。級外語の意味分野を『分類語彙表』(2004)と対照した結果、特に【16 時間】【17 時間】【24 成員】【15 作用】の分野の語の指導が必要であることがわかった。さらに語彙力と理解の関係を見たところ、学部1年生の留学生では両テストの間に中程度の相関があった。テストの得点の類似者をタイプ別にまとめた結果、語彙力が高くても理解できないタイプがおり、語彙は重要であるが聴解の難しさの原因は語彙だけではないことがわかった。次に、「認知能力」では「事前情報」の影響と「予測能力」について見た。「事前情報」を利用させるため学習者に継続的な学習リソースの利用を促した結果、言語知識を多く持たない学習者の聴解に変化が見られた。また、「予測能力」と語彙力や理解との関係では、語彙力も予測能力も理解に影響を与えているが、予測能力より語彙力の方が影響が大きいことがわかった。テストの得点の類似者をタイプ別にまとめた結果、語彙力や理解が同等であっても予測能力に差が見られた。特に予測するタイプは、十分な語彙力を持っていることがわかった。これら一連の研究の結果から、日本語教育への応用について述べた。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.107-125, 2015

ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす70 歳代男性のライフストーリー。 稲葉正彦さん(園名)は,1934 年,熊本県生まれ。中学を卒業して,神戸製鋼に勤める。26 歳で結婚。ハンセン病の症状が出始め,大阪大学で通院治療を受けるが,「1 日おきの通院」を求められ,勤めを辞めざるをえなくなり,1965 年5 月26 日,菊池恵楓園に収容。結婚して5 年目,31 歳になったばかりの働き盛りであった。兵庫県の車で熊本まで移送されるものの,彼にはこのとき一晩で恵楓園まで着いたのか二晩かかったのかの定かな記憶が再現できない。――このときの悔しさゆえ,1998 年提訴の「らい予防法違憲国賠訴訟」では,原告の一員に加わったのだという。ハンセン病に罹ったこと自体を不遇の根拠と考えてしまうハンセン病罹患者が多いなかで,彼は「らい予防法」ゆえに社会生活を送りながらの通院加療の体制が整えられていなかったのだと,明晰な認識を構築しえているのが印象的であった。 聞き取りは,2011 年7 月8 日,菊池恵楓園の自治会室にて。聞き手は福岡安則と黒坂愛衣。聞き取り時点で77 歳。なお,2012 年12 月7 日,ご本人と読み上げによる原稿確認をした。稲葉さんには隔離収容体験の苛烈さゆえか,"自分が置かれた立場の自己対象化の明晰さ"と同時に,一面"シニカルさ"をも併せ持っているように感じられるが,それも彼を取り巻く社会的関係性の函数であることを伺わせる語りが,この補充の聞き取りで聞くことができた。つまり,2011 年の聞き取りでは,身内からは"供養事は呼ばれても祝い事は呼ばれない"と諦めに似た感慨とともに語っていたのが,2012 年のときには,この1 年のあいだに"姪の子の結婚式に招かれた"ことを喜びとともに語り,ハンセン病問題にかんする"啓発が行き届き始めているのではないか"と,これからに希望を見いだしつつある。 語りのなかで,稲葉さんは「ガンの治療」をしたとサラッと語っているが,どうやら予後はあまり芳しくないようである。2014 年7 月にわたしたちが再度,恵楓園を訪ねたとき,彼の顔色はよくなかった。しかし,その体で彼は,恵楓園自治会の副会長をつとめ,他の自治会役員とともに,月に複数回,恵楓園を訪ねてくる小中学生たちを相手の説明役をこなしている。 なお,〔 〕は聞き手による補筆である。 【追記】稲葉正彦さんは,2015 年1 月3 日永眠された。享年80 歳。合掌。 This is the life story of a man in his 70s living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen's disease facility. Mr. Masahiko Inaba (his alias in the Hansen's disease facility) was born in Kumamoto prefecture in 1934. After graduating junior high school, he worked for Kobe Steel. He got married at 26. When Mr. Inaba got Hansen's disease he went to the Osaka University Hospital to seek a cure. He had to quit his job because his doctor told him that he needed to attend every other day for medicine. He was sent to Kikuchi-Keifūen on 26th May 1965. He was only 31 years old when he entered the Hansen's disease facility. It was the 5th year of his marriage and the prime time of his life. He was transferred from Hyogo prefecture to Kumamoto by a car but he did not remember if it took one night or a couple of nights to arrive at Kikuchi-Keifūen. The fury that he felt at that time never disappeared and propelled him to join the lawsuit suing the Segregation Policy for unconstitutionality as a member of plaintiffs 33 years later. In general, many Hansen's disease ex-patients have a tendency to regard having symptoms as individual adversity. However, Mr. Inaba seemed to have a clear opinion that the Segregation Policy and lack of social systems to support Hansen's disease patients in their attempts to carry on a normal life style while making regular hospital visits were real problems. This interview was conducted at the resident association office of Kikuchi-Keifūen on 8th July 2011. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Ai Kurosaka. Mr. Inaba was 77 years old at the time of the interview. The interview script was revised with a follow-up interview and then approved by him on 7th December 2012. His stories show his objective and somewhat cynical attitudes toward his own experiences of segregated life in the Hansen's disease facility. Through the follow-up interview we learned that such attitudes were the product of the relationship between him and intimate people around him. When we interviewed him in 2011 he lamented that his relatives invited him for sad events but never sought him for celebrations. However, when we visited him again in 2012, he happily told us that he was invited for the wedding ceremony of his niece's children. Mr. Inaba also added that this event showed a hopeful development of the people's understanding of Hansen's disease. During the interview, he told us he has cancer, and it seemed that he was not in good condition. In July 2014, when we met him again at Kikuchi-Keifūen, in spite of his bad condition, he was serving as vice president of the resident association and giving speeches to young students to explain about Hansen's disease.
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.131-163, 2014

0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられた抗議の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対――日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ――ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以下,次号以降に掲載予定)4. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1964年8月~1967年12月5. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7. 東京ベ平連との連携 1966年6月~8. 労働者と学生の参加9. 十の日デモの広がりとその評価日本全国に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,最も息の長い運動を続けたひとつが福岡市におけるベトナム反戦市民運動であった。1965年から1973年の間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民による反戦デモである「十の日デモ」が続けられたのである。十の日デモは,さまざまな理由から1968年前半に運動上の大きな転換点を迎えている。そこで筆者は,1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付け,福岡での市民によるベトナム反戦運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにすると同時に,このローカルな運動を全国的なベトナム反戦運動というより広い文脈の中において検討することを目的とした論考を準備した。本稿は,その第1部にあたる部分である(第2部以下は次号以降に掲載予定)。本稿ではまず,政党や労働組合といった組織によらない市民のベトナム戦争反対の動きが,福岡市ではどのように始まったのかを明らかにした。あわせて,その動きを起こした九州大学の中心的メンバーのプロフィールを検討し,福岡市におけるベトナム反戦市民運動発足時の運動の性格について論じた。しかし,ローカルなベトナム反戦運動の歴史は,全国的な動きのなかに位置づけて検討される必要がある。そのために本稿の後半では,いったん福岡からは離れ,ベトナム反戦運動の全国的動向の再検討を行なっている。政党や労働組合など既成組織の動向と市民の自発的な反戦運動の動向とを比較しながら,1967年2月の米軍による北ベトナム爆撃(北爆)以降,日本の中でどのようにしてベトナム反戦運動が広まっていったのかをみていく。またその際には,同時期に運動課題となった日韓条約反対闘争との関係,各種マス・メディアが世論や運動に与えた影響,ベトナム反戦運動において注目された自発性および個人性の問題,労働運動が反戦運動に取り組む際に直面した問題などに注目した。それら個別の論点の検討をとおして,日本におけるベトナム反戦運動全般の重要な特質を明らかにするよう努め,最後の小括のなかでその結果の提示を試みた。One of the longest-lasting anti-Vietnam War movements in Japan was that which emerged in the city of Fukuoka in Kyushu in the middle of the 1960s. Its citizens formed a small protest group and carried out regular protest walks for seven and half years between 1965 and 1973. The walk was called the 'tenth day protest walk' (Ju-no-hi-demo or To-no-hi-demo in Japanese), for it took place on the 10th, 20th and 30th of every month.However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as To-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a long draft historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the first part of that essay and the subsequent two parts will appear in the next two issues of this journal.The article firstly looks at the beginning of the citizens' anti-war movement in Fukuoka, exploring the biographical backgrounds and ideas of its core members. In the second part of the article, a number of citizens' anti-Vietnam War movements that emerged in other areas in Japan as well as anti-war protest actions organized by trade unions and political parties are examined. This provides a wider context for the Fukuoka citizens' movement that should give a more balanced view of what happened there.In exploring the very beginning of the history of the anti-Vietnam War movement in Japan, this article pays special attention to the following questions which illuminate the peculiarity of the Japanese ant-Vietnam War movements: How did the Japanese people and society respond to the question of the Treaty on Basic Relations between Japan and the Republic of Korea of 1965, which left-wing intellectuals regarded as a part of the US military strategy in Asia? How did the mass media in Japan, which started to report on the Vietnam War intensely after the US bombing of North Vietnam, influence Japanese society? Why did so many people in Japan feel compelled to raise their voices against Vietnam War by themselves? And, what kinds of difficulties did trade unions encounter when they tried to organise a nationwide anti-war strike in 1966? The article concludes with tentative answers to these questions.
著者
李 順徳 崔 明淑 三井 沙織
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.65-86, 2009

1928 年生まれ,「在日2 世」の李順徳(イ・スンドク)さんは,17 歳のとき,広島で被爆している。1987 年に,アメリカでの平和行動に参加したことをきっかけに,学校の生徒たちを相手に「被爆体験」を語る語り部として活動するようになった。「音もない,光もない。ほんとに衝撃も受けてない。ただ〔壊れた〕家の下敷きになった,あらあら,なんじゃろうという感じ」と語る李順徳さんは,爆心地からわずか900 メートルのところで被爆したのだ。彼女が記憶のままに語る原爆投下直後の広島は,まさに「地獄絵」そのものだが,そこに登場する人びとは,文字どおり「素っ裸のひとたち」であり,日本人も朝鮮人もない世界として語られている。李順徳さんの語りが在日韓国人女性のライフストーリーにほかならないことは,彼女が広島で被爆するに至るまでの物語,つまりは植民地支配下に仕事を求めて両親が渡日してきたがゆえに,彼女が〈そのとき,そこに〉存在したのだということと,戦後復興後かなりの日にちが経ってから,やっと,彼女たち在日韓国・朝鮮人被爆者には「被爆者手帳」の取得が可能になったという,日本人被爆者と在日被爆者とのあいだの行政的差別の存在が語られることで,明らかになる。――それだけに,被爆体験自体は,民族を超えたところで記憶され,物語られていることが,いっそう象徴的に際立つ。わたしたちは,李順徳さんのかけがえのない《記憶》が,語りをとおしてひとつの《記録》に転化する場面にたちあえたことをうれしく思う。
著者
金 銀実
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.157-172, 2013

1949 年の中国共産党による「民族識別工作」によって,中国の一少数民族として認定された朝鮮族は,政治的・イデオロギー的問題から43 年もの長きにわたって韓国と往来がなかった。そのかん韓国は1986 年ソウル・アジア競技大会と1988 年ソウル・オリンピック大会を機に高い経済成長を成し遂げた。両大会には当時国交のなかった中国選手が参加したことで両国関係が強化され,中国でも大会の様子がテレビ放映されるようになった。そのテレビ映像は中国朝鮮族に経済成長を成し遂げた豊かな国・韓国の存在をはじめて認識させると同時に,韓国に対するあこがれの気持も植え付けた。そのような背景のもとで1992 年に中韓国交が樹立されると,多くの朝鮮族が「コリアン・ドリーム」の夢を抱いて韓国へ流れ込んだ。中国が現在,世界第2 の経済大国に成長しても,農村と都市の格差が依然として大きい以上,その移動は今後も続くだろう。 私が聞き取りをおこなった朝鮮族夫婦,崔景晃と李玉蓮(いずれも仮名)は,ふたりとも北朝鮮にルーツをもち,祖父の代に中国の東北部へ渡って来た。ふたりは中国で朝鮮族として生まれ育ち,中国の歴史的な出来事を次々と経験する。17 歳のときに文化大革命を経験した崔景晃は,勉学の機会を失い,多くの衝撃的な出来事を目の当たりにしているうちに「これはどうも間違った革命かもしれない」と思いながらも,かかわらないという手段で自分を守る。文革が終わってからは両親を手伝って農作業をする。李玉蓮と結婚してからもずっと農業を営んだが,村に発電所が建設され操業を開始したのをきっかけに,その従業員たちを相手に豆腐商売を始め,金銭的にゆとりをもつようになった。しかし,2001 年の発電所の操業停止により,収入源を失うことになり,韓国への出稼ぎを決め,2003 年に研修ビザで韓国へ入国する。韓国で仕事中に怪我をするなどアクシデントはあったものの,夫妻は6 年間出稼ぎ生活を続け,延辺の都市部で家が買えるぐらいのお金を手にして,2009年に中国に戻った。延辺で家を購入して悠々自適の生活ができるはずだったが,「延辺より北京で家を買ったほうが将来的には儲かる」という娘の助言を受け入れて,北京で高額なマンションを購入した結果,今日の中国社会で広がっている「房奴」(住宅ローン地獄)に陥ってしまったのが,夫妻とその娘の現状である。――夫妻は中国社会の急激な変化に必死に適応しようとしてきたものの,結果的には,その変化に振り回されてしまったのだ。 朝鮮族の人びとの移動にかける思い,急激に変わる社会環境,それを生き抜く朝鮮族の人たちの逞しさと弱さが織り交ざったライフストーリーは,今を生きる朝鮮族の姿をリアルに描いているのではないかと思われる。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.173-190, 2013

ハンセン病療養所のなかで70年を過ごしてきた,ある男性のライフストーリー。 田中民市(たなか・たみいち)さんは1918(大正7)年,宮崎県生まれ。1941(昭和16)年,星塚敬愛園入所。園名「荒田重夫」を名乗る。1968(昭和43)年,1988(昭和63)年~1989(平成元)年には,星塚敬愛園入所者自治会長を務める。1998(平成10)年,第1 次原告団の団長として,熊本地裁に「らい予防法」違憲国賠訴訟を提訴。2001(平成13)年,勝訴判決を勝ち取り,60年ぶりに本名の田中民市にもどる。2010(平成22)年6月の聞き取り時点で,92歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク)。なお,2010(平成22)年7月の補充聞き取りの部分は,注に記載した。 徴兵検査不合格の失意のなか,1941(昭和16)年4月に敬愛園に入所した田中民市さんは,同年7 月に「70人ぐらい一緒に収容列車で」連れてこられた,のちのおつれあいと知り合い,1943(昭和18)年の正月に結婚する。結婚にあたり,彼女には帰省許可がでたが,帰省許可が得られなかった民市さんは無断帰省をして,実家で結婚式を挙げたという。園に戻ってきて,一晩は「監禁室」に入れられたとはいうものの,療養所長の「懲戒検束権」が大手をふるっていた敗戦前の時代に,このように自分の意思を貫いた入所者がいたということは,新鮮な驚きであった。さらには,1,500 円という,当時としては大金をはたいて,園内の6畳2間の一戸建てを購入というか,「死ぬまでの使用権」を獲得したという。栗生楽泉園の「自由地区」に相当するようなことが,たった1つの例外措置であったとはいえ,ここ敬愛園でも実際にあったこともまた,耳新しい情報であった。 このように他の一般的な入所者と比べると相対的に恵まれた処遇を得ていたようにも見える民市さんが,1998(平成10)年の「らい予防法」違憲国賠訴訟の提訴にあたり,「原告番号1番」として,第1次原告団の団長を務めたのは,何故なのか。結婚して受胎した子どもを「堕胎」により奪われた無念さ,絶望の奈落に落とされた妻を案じて病棟に付き添った体験,みずからも「断種」を受け入れざるをえなかった憤り,これらの「悔しさ」を,民市さんはずっと胸に抱え込んだまま生きてきたことがわかる。ほんとの一握りの第1次原告がたちあがったことが,全国の療養所の入所者を巻き込み,2001(平成13)年5月11日の「熊本地裁勝訴判決」に結実したことを,民市さんは,いま,誇りとしている。 この語りをまとめるにあたり,星塚敬愛園に原稿確認に伺い,読み聞かせをしたとき,民市さんは「じっと聞いてると小説のごとあるね。アッハハハ。ほんと,ぼくの生きざまぜんぶ,書いてもらった感じで,ありがとうございます」と喜んでくださった。 民市さんは90代なかばになってもなおご健在で,わたしたちは2012年5月に青森の松丘保養園で開かれた第8回ハンセン病市民学会でも,フロアから元気に発言する民市さんの姿を見かけた。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.119-133, 2012

ハンセン病療養所のなかで50年以上を過ごしてきた、ある男性のライフストーリー。 結城輝夫さんは、1930(昭和5)年、宮崎県生まれ。1955(昭和30)年12月、鹿児島にあるハンセン病療養所「星塚敬愛園」に入所。2008年8月の聞き取り時点で78歳。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、下西名央。 輝夫さんは18歳ごろから、ハンセン病により気管支内に結節ができ、発声がしにくくなった。20歳の秋には、結節が大きく膨らみ、つねに呼吸困難の状態で眠れず、死を意識するほどまで悪化。療養所から医師が自宅へ来て入所をすすめたが、輝夫さんの母親は、「らい患者」との噂が近隣に広まるのを怖れて、いったんこれを拒否。その後、母親が医師へ連絡をとり、輝夫さんは敬愛園に入所した。入所の翌日に気管を切開し、カニューレを装着。声を失うかわりに、息が楽に吸えるようになった。療養所では「不自由舎」へ入寮。医師不足であり、手足の指に傷をつくると、医師の資格をもたない職員によって切断された。1988(昭和63)年、鹿児島大学の医師に勧められ、カニューレをはずす手術を受ける。1990(平成2)年には声を出して喋れるまで回復した。故郷の家族は、輝夫さんの入所を隠すのに苦労を重ねた。ある兄とは43年間、音信不通だった。 結城輝夫さんの事例は、2つの意味で特徴的である。ひとつは、輝夫さんが、療養所入所者の中でも気管切開によるカニューレ装着を体験し、30数年にわたって声を失った人であることだ。職員からの侮蔑や、他の入所者からのぞんざいな扱いがあり、「20年近くは誰も相手にしてくれなかった」という。輝夫さんとコミュニケーションをとろうとする数少ない人の存在がありがたかった、と語る。 ふたつには、化学療法が登場しハンセン病が治せる時代であるにもかかわらず、輝夫さんの病状が、ここまで悪化しなければならなかった事実である。隔離政策下では、ハンセン病治療は、基本的に療養所でしか認められず、一般の病院ではおこなわれなかった。他方、ハンセン病にたいする差別は存在し、輝夫さんの母親は、差別をおそれ、輝夫さんの療養所への入所をぎりぎりまで拒んだのである。「母親が、医者の勧めに早く従っていれば、病状は軽くて済んだ」と輝夫さんは言う。しかし、隔離政策がハンセン病医療を療養所に限定したこと、また、日本の社会の厳しい差別が、その背景にはある。 輝夫さんには、優れた医師たちとの出会いによって命を救われ、声も取り戻したという体験が、決定的なものとしてある。国によって助けられたという強い思いがあり、このため、輝夫さんは、1998年に提訴された「らい予防法」違憲国賠訴訟の原告にはならなかった。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.231-260, 2013

小牧義美(こまき・よしみ)さんは,1930(昭和5)年,兵庫県生まれ。1948(昭和23)年3月,宮崎県から星塚敬愛園に収容。1951(昭和26)年,大阪へ働きに出ることを夢見つつ,長島愛生園に移る。病状が悪化し,社会復帰を断念して,1959(昭和34)年,敬愛園に戻る。その後,1962(昭和37)年から1968(昭和43)年まで,熊本の待労院での6年間の生活も経験。1987(昭和62)年から1990(平成2)年には,多磨全生園内の全患協本部に中央執行委員として詰めた。そして,2003(平成15)年にはじめて中国の回復者村を訪問,2005(平成17)年から2007(平成19)年の2年間は,中国に住み着いてハンセン病回復者の支援に打ち込んだ。2008(平成20)年8月の聞き取り時点で77歳。聞き手は福岡安則,黒坂愛衣,下西名央。2010(平成22)年5月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 小牧義美さんの語りで,あらためて「癩/らい予防法」体制のおぞましさを再認識させられたのが,自分以外のきょうだい,兄1人と妹2人も,おそらくはハンセン病患者ではなかったにもかかわらず,ハンセン病療養所に「入所」しているという事実である。兄は,病気の自分と間違えられて,仕事を失い,行きどころがなくなって,良心的な医師の配慮で「一時救護」の名目で,敬愛園への入所を認められている。上の妹は,義美さんに続いて母親も病気のために入所して,父親は疾うに亡くなっており,社会のなかに居場所もなく,「足がふらついてる」ことでもって,おそらくは「ハンセン病患者」として入所が認められたのだろう。そして,入所者と園内で結婚。下の妹は,敬愛園付属のいわゆる「未感染児童保育所」に預けられたが,中学をおえても行き場所がなく,「おふくろの陰に隠れて敬愛園で暮らしておった」が,やはり,入所者と結婚,という人生経路をたどっている。――義美さんは,きょうだいがハンセン病でもないのに「ハンセン病療養所」の世話になったことに,一言,「恥ずかしい話だけど」という言葉を発しているが,わたしたちには,「癩/らい予防法」体制こそが,義美さんのきょうだいから,社会での生活のチャンスを奪ったのだと思われる。 もうひとつ,小牧義美さんの語りで感動的なのは,当初は,桂林の川下りを楽しむために中国に行っただけと言いながら,いったん,中国の「回復者村」の人びとと出会い,後遺症のケアがなにもされないまま放置されている現実を目にして以降,日本政府からの「補償金」を注ぎ込んで,中国のハンセン病回復者とその子どもたちのための献身的な支援活動に没頭した小牧さんの生きざまであろう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.191-209, 2013-03 (Released:2013-03-15)

ハンセン病療養所のなかで60年ちかくを過ごしてきた,ある女性のライフストーリー。 山口トキさんは,1922(大正11)年,鹿児島県生まれ。1953(昭和28)年,星塚敬愛園に強制収容された。1955(昭和30)年に園内で結婚。その年の大晦日に,舞い上がった火鉢の灰を浴びてしまい,失明。違憲国賠訴訟では第1次原告の一人となって闘った。2010年8月の聞き取り時点で88 歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク),北田有希。2011年1月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 山口トキさんは,19歳のときに症状が出始めた。戦後のある時期から,保健所職員が自宅を訪ねて来るようになる。入所勧奨は,当初は穏やかであったが,執拗で,だんだん威圧的になった。収容を逃れるため,父親に懇願して山の中に小屋をつくってもらい,隠れ住んだ。そこにも巡査がやってきて「療養所に行かないなら,手錠をかけてでも引っ張っていくぞ」と脅した。トキさんはさらに山奥の小屋へと逃げるが,そこにもまた,入所勧奨の追手がやってきて,精神的に追い詰められていったという。それにしても,家族が食べ物を運んでくれたとはいえ,3年もの期間,山小屋でひとり隠れ住んだという彼女の苦労はすさまじい。 トキさんは,入所から2年後,目の見えない夫と結婚。その後,夫は耳も聞こえなくなり,まわりとのコミュニケーションが断たれてしまった。トキさんは,病棟で毎日の世話をするうちに,夫の手で夫の頭にカタカナの文字をなぞることで,言葉を伝える方法を編み出す。会話が成り立つようになったことで,夫が生きる希望をとりもどす物語は,感動的だ。 トキさんは,裁判の第1次原告になったのは,まわりから勧められたからにすぎないと言うけれども,その気持ちの背後には,以上のような体験があったからこそであろう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.173-190, 2013-03 (Released:2013-03-15)

ハンセン病療養所のなかで70年を過ごしてきた,ある男性のライフストーリー。 田中民市(たなか・たみいち)さんは1918(大正7)年,宮崎県生まれ。1941(昭和16)年,星塚敬愛園入所。園名「荒田重夫」を名乗る。1968(昭和43)年,1988(昭和63)年~1989(平成元)年には,星塚敬愛園入所者自治会長を務める。1998(平成10)年,第1 次原告団の団長として,熊本地裁に「らい予防法」違憲国賠訴訟を提訴。2001(平成13)年,勝訴判決を勝ち取り,60年ぶりに本名の田中民市にもどる。2010(平成22)年6月の聞き取り時点で,92歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク)。なお,2010(平成22)年7月の補充聞き取りの部分は,注に記載した。 徴兵検査不合格の失意のなか,1941(昭和16)年4月に敬愛園に入所した田中民市さんは,同年7 月に「70人ぐらい一緒に収容列車で」連れてこられた,のちのおつれあいと知り合い,1943(昭和18)年の正月に結婚する。結婚にあたり,彼女には帰省許可がでたが,帰省許可が得られなかった民市さんは無断帰省をして,実家で結婚式を挙げたという。園に戻ってきて,一晩は「監禁室」に入れられたとはいうものの,療養所長の「懲戒検束権」が大手をふるっていた敗戦前の時代に,このように自分の意思を貫いた入所者がいたということは,新鮮な驚きであった。さらには,1,500 円という,当時としては大金をはたいて,園内の6畳2間の一戸建てを購入というか,「死ぬまでの使用権」を獲得したという。栗生楽泉園の「自由地区」に相当するようなことが,たった1つの例外措置であったとはいえ,ここ敬愛園でも実際にあったこともまた,耳新しい情報であった。 このように他の一般的な入所者と比べると相対的に恵まれた処遇を得ていたようにも見える民市さんが,1998(平成10)年の「らい予防法」違憲国賠訴訟の提訴にあたり,「原告番号1番」として,第1次原告団の団長を務めたのは,何故なのか。結婚して受胎した子どもを「堕胎」により奪われた無念さ,絶望の奈落に落とされた妻を案じて病棟に付き添った体験,みずからも「断種」を受け入れざるをえなかった憤り,これらの「悔しさ」を,民市さんはずっと胸に抱え込んだまま生きてきたことがわかる。ほんとの一握りの第1次原告がたちあがったことが,全国の療養所の入所者を巻き込み,2001(平成13)年5月11日の「熊本地裁勝訴判決」に結実したことを,民市さんは,いま,誇りとしている。 この語りをまとめるにあたり,星塚敬愛園に原稿確認に伺い,読み聞かせをしたとき,民市さんは「じっと聞いてると小説のごとあるね。アッハハハ。ほんと,ぼくの生きざまぜんぶ,書いてもらった感じで,ありがとうございます」と喜んでくださった。 民市さんは90代なかばになってもなおご健在で,わたしたちは2012年5月に青森の松丘保養園で開かれた第8回ハンセン病市民学会でも,フロアから元気に発言する民市さんの姿を見かけた。
著者
高鶴 礼子 福岡 安則
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.173-184, 2012

近現代の川柳は文学としての研究・批評の対象とはなりがたいという認識が、残念なことに現状においては一般的である。が、近現代の川柳の中にそうした対象たりうる作品・作家が見当たらないのかといえば、けっしてそうではない。本稿は、そうした作家のひとりである中山秋夫を取り上げ、その存在を明らかにするとともに、川柳という表現行為の持つ意味と意義について考察しようとするものである。対象とする作家・中山秋夫が現状では無名であり、先行研究もない状態であることから、記述の縦軸にはその境涯を据えた。また、中山がハンセン病患者であったということから、横軸には、わが国におけるハンセン病者を取り巻く通時的状況を置いている。これは、中山の作品や生とは不可分なものである。 川柳の抄出は中山がただ二冊残した川柳集『父子独楽』『一代樹の四季』に拠った。一九二〇から二〇〇七年という中山の生きた時代は、日本という国が激変を内に含んだ時代でもある。家族との別離、瀬戸内の邑久光明園への強制隔離・収容、断種、結婚、療養所内での労働、病状の昂進、失明、ハンセン病違憲国賠訴訟原告団への参加から死にいたるまでの、揺れに揺れた生涯の中で、中山は川柳と出会い、川柳を掴み取り、川柳を携えていった。病により、突然、差別される側に立たされ、死が常態であるという壮絶な状態に置かれ続けた中山が、歩けもせず、見えもせず、鉛筆を手に取ることもできずといった状況の中で、荒れ、笑い、傷つき、怒り、和み、吠えながら刻み続けた川柳の言葉。それらが内包するものについて考えることは、文学の存在理由にも関わる根源的な問いを、考える者ひとりひとりが改めて突きつけられることでもある。人ひとりの人生に関われないで何の文学ぞ、という視点から、中山が積み重ねた自己実現の様相と川柳がそれに対して果たしえた役割を考えるとともに、中山の川柳が、ともすれば鈍感なマジョリティでいることに気づかないでいる私たちに、提起する問題についても考察する。