著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.65-105, 2015

0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられたベトナム侵略戦争反対の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対—―日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ—―ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以上,本誌11号に掲載)4. 承前(1)5. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1960年代初頭~1967年12月5-1. 福岡での反米軍基地運動5-2. 米国のアジア反共産主義軍事戦略と九州北部5-3. 改憲・核武装阻止福岡県会議5-4. 小林栄三郎5-5. 福岡県下米軍基地を通したベトナム戦争への加担への抗議5-6. 福岡県反戦青年委員会の結成5-7. 田川地区反戦青年委員会5-8. 日韓条約闘争後の福岡でのベトナム反戦運動6. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6-1. カリフォルニア大学「ベトナムの日委員会」に署名電報6-2. ベト数懇の発足6-3. 若き数学者たちの運動――東大SSS6-4. 九大数学教室の戦後7. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7-1. 直接のきっかけ7-2. 社会党を良くする会7-3. 渡辺毅,倉田令二朗7-4. 倉田ヒデ子7-5. 山田俊雄7-6. 金原ヒューマニズム7-7. 十の日デモの由来7-8. 東京ベ平連との関わり――意識していたが無関係7-9. 十の日デモは誰が参加して始まり,どのように行なわれていたか7-10. 十の日デモの特色8. 小括(2)(以下,本誌次号に掲載予定)9. 承前(2)10. 東京ベ平連との連携 1966年6月~11. 労働者と学生の参加12. 十の日デモの広がりとその評価13. まとめにかえて 日本各地域に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,息の長い運動を続けたのが福岡市におけるベトナム反戦市民運動であった。その活動のベースとなったのが「十の日デモ」と呼ばれた定例デモで,1965年から1973年までの間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民によって続けられた 。 筆者は,福岡で「十の日デモ」が地道に奮闘していた1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付け,福岡での市民によるベトナム反戦運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにすると同時に,このローカルな運動を全国的なベトナム反戦運動というより広い文脈の中において検討することを目的とした全3部構成の論考を準備した。本号掲載の論考は,その第2部にあたる。 本号では,はじめに,1960年代初頭から67年末までの福岡での既成組織によるベトナム反戦運動の動向を追う。福岡における闘争は,九州北部および沖縄がベトナム戦争の米軍戦略基地地帯となることへの反対というかたちで取り組まれた。ナイキ・ミサイルの配備,射爆場の存在,博多港での弾薬陸揚げ,小倉の山田弾薬庫の強化,そしてなによりも板付基地の活用強化に対する抗議運動が,福岡の既成組織が取り組んだベトナム反戦運動であった。また,既成組織による反戦運動の中でも,既成組織外の市民や,既成組織に所属しながら自主性のある活動を求める若者世代の意向に応えようとする運動形態の模索が試みられていることにも注目した。 続いて本号では,同時期の福岡の市民によるベトナム反戦運動の動向を検討した。既成組織による,あるいは既成組織を基盤にした反戦運動とは異なる特徴を持つ,「市民」中心のベトナム反戦運動が1960年代半ばの福岡には登場している。そうした「市民」は既成組織に所属しないままで,あるいは所属する既成組織を持ちながらも組織の運動とは別に,一個人として自主的に参加することができるベトナム反戦運動の実践に意義を認めて活動を展開しようとした。福岡の場合,そうした運動の場づくりに尽力したのは九州大学の知識人であった。とりわけ重要なのは,九大の数学者と,彼らが属していた学会である日本数学会の動向である。その点をみていく。 そして,本号の最後の節では,1965年10月に始まり,その後7年以上にわたって続けられたベトナム反戦デモを担うことになる「十の日デモの会」発足の経緯と担い手,その特徴について明らかにする。 Amongst many anti-Vietnam War movements in Japan, one of the longest sustained is that of Fukuoka city in Kyusyu. The focus of the movement was Jū-no-hi-demo' or Tō-no-hi-demo, citizen's protest walks in the city centre, organized every 10th day of the month from 1965 to 1973. However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as To-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the second part of that essay and the last part will appear in the next issue of this journal. This article firstly traces the anti-Vietnam War activities inFukuoka coordinated by established organizations such as political parties and trade unions. Those anti-war struggles were struggles against the U.S. military bases existed in Fukuoka and nearby areas, as they were increasingly used as strategic bases for Vietnam War. Kita-Kyusyu region, which includes Fukuoka city, were witnessing the deployment of Nike missiles, establishment of a firing and bombing practice areas, landing of ammunitions at Hakata seaport, reinforcement of Yamada ammunition depot, taking-off and landing practice by jet fighters at Itazuke airport and so on. Left-wing political parties and trade unions opposed these trends. It is noteworthy that those conventional organisations tried to create new forms of anti-war movements which would appeal to those younger generations, who were likely to hate to be organized from above. In the second section, this article examines the origins of citizen's anti-Vietnam War movements in Fukuoka, which emerged in the middle of the 1960s. The movement aimed to accommodate those citizens who wished to express his/her own voice against the Vietnam War without affiliating to any organisations. Behind the citizen's movement in Fukuoka were intellectuals of Kyusyu University, especially, and remarkably, mathematicians. The article also looks at the activities pursued by the members of the Mathematical Society of Japan; they were engaged quite actively in anti-Vietnam War movement. Finally, this article followed up the historical process in which the movement actually formed, focusing on their main activity, Tō-no-hi-demo. This last section discusses the characteristics of the intellectuals behind the scene, in order to make sense of the movement in Fukuoka.
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.11, pp.131-163, 2014

日本全国に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,最も息の長い運動を続けたひとつが福岡市におけるベトナム反戦市民運動であった。1965年から1973年の間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民による反戦デモである「十の日デモ」が続けられたのである。十の日デモは,さまざまな理由から1968年前半に運動上の大きな転換点を迎えている。そこで筆者は,1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付け,福岡での市民によるベトナム反戦運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにすると同時に,このローカルな運動を全国的なベトナム反戦運動というより広い文脈の中において検討することを目的とした論考を準備した。本稿は,その第1部にあたる部分である(第2部以下は次号以降に掲載予定)。本稿ではまず,政党や労働組合といった組織によらない市民のベトナム戦争反対の動きが,福岡市ではどのように始まったのかを明らかにした。あわせて,その動きを起こした九州大学の中心的メンバーのプロフィールを検討し,福岡市におけるベトナム反戦市民運動発足時の運動の性格について論じた。しかし,ローカルなベトナム反戦運動の歴史は,全国的な動きのなかに位置づけて検討される必要がある。そのために本稿の後半では,いったん福岡からは離れ,ベトナム反戦運動の全国的動向の再検討を行なっている。政党や労働組合など既成組織の動向と市民の自発的な反戦運動の動向とを比較しながら,1967年2月の米軍による北ベトナム爆撃(北爆)以降,日本の中でどのようにしてベトナム反戦運動が広まっていったのかをみていく。またその際には,同時期に運動課題となった日韓条約反対闘争との関係,各種マス・メディアが世論や運動に与えた影響,ベトナム反戦運動において注目された自発性および個人性の問題,労働運動が反戦運動に取り組む際に直面した問題などに注目した。それら個別の論点の検討をとおして,日本におけるベトナム反戦運動全般の重要な特質を明らかにするよう努め,最後の小括のなかでその結果の提示を試みた。One of the longest-lasting anti-Vietnam War movements in Japan was that which emerged in the city of Fukuoka in Kyushu in the middle of the 1960s. Its citizens formed a small protest group and carried out regular protest walks for seven and half years between 1965 and 1973. The walk was called the 'tenth day protest walk' (Ju-no-hi-demo or To-no-hi-demo in Japanese), for it took place on the 10th, 20th and 30th of every month.However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as To-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a long draft historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the first part of that essay and the subsequent two parts will appear in the next two issues of this journal.The article firstly looks at the beginning of the citizens' anti-war movement in Fukuoka, exploring the biographical backgrounds and ideas of its core members. In the second part of the article, a number of citizens' anti-Vietnam War movements that emerged in other areas in Japan as well as anti-war protest actions organized by trade unions and political parties are examined. This provides a wider context for the Fukuoka citizens' movement that should give a more balanced view of what happened there.In exploring the very beginning of the history of the anti-Vietnam War movement in Japan, this article pays special attention to the following questions which illuminate the peculiarity of the Japanese ant-Vietnam War movements: How did the Japanese people and society respond to the question of the Treaty on Basic Relations between Japan and the Republic of Korea of 1965, which left-wing intellectuals regarded as a part of the US military strategy in Asia? How did the mass media in Japan, which started to report on the Vietnam War intensely after the US bombing of North Vietnam, influence Japanese society? Why did so many people in Japan feel compelled to raise their voices against Vietnam War by themselves? And, what kinds of difficulties did trade unions encounter when they tried to organise a nationwide anti-war strike in 1966? The article concludes with tentative answers to these questions.0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられた抗議の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対――日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ――ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以下,次号以降に掲載予定)4. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1964年8月~1967年12月5. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7. 東京ベ平連との連携 1966年6月~8. 労働者と学生の参加9. 十の日デモの広がりとその評価
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.15-41, 2016

日本各地域に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,息の長い運動を続けたのが福岡市におけるベトナム反戦市民運動(「福岡ベ平連」)であった。その活動の前身となったのが「十の日デモ」と呼ばれた定例デモで,1965年から1973年までの間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民によって続けられた。本論考は3部構成の第3部に当たり,「福岡ベ平連」が発足する前の1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付けて検討対象とし,福岡におけるベトナム反戦市民運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにするものである。本誌11号および12号掲載の第1部,第2部の論考で明らかにしたように,福岡における十の日デモは九州大学の数学者たちが重要な担い手となって発足したものであった。しかし,1966年6月からは,福岡以外の日本諸地域におけるベトナム反戦市民運動との連携が東京のベ平連を媒介にして始まっている。本稿では,福岡における十の日デモが,そうした全国的なベトナム反戦のための連携ネットワーク形成にどのような経緯で接続,参与していったのかという点をまず検討する。ほぼ同じころ,十の日デモの参加者にも変化が見られるようになる。労働組合に組織された若い世代の労働者たちがデモに参加するようになった。また,九州大学の学生たちの参加も,医学部の学生たちが独自の反戦グループを作って主体的に参加するようになる。また,個人として十の日デモに主体的に参加するようになった九州大学の学生についても,3事例で具体的に検討していく。さらには,九州大学以外の学生の参加も次第にみられるようになる。その事例についても紹介する。1965年2月のベトナム北爆から68年1月の佐世保闘争までの約3年のあいだ,九大学生が大衆的な規模で最もこだわった問題は,ベトナム反戦でも日韓条約闘争でもなく,67年初夏の教養部田島寮の寮祭の樽神輿コースおよび九大学生祭の仮装行列コースの変更問題をめぐるものだった。このいわば「フェスティヴァル」の自治と自由に対する警察の介入に対してみせた九大学生たちの行動には,その後の大学闘争やベトナム反戦運動を予見させるものがあった。その点をみていく。最後に,十の日デモに対する当時の福岡市民の評価と態度を確認しつつ,さまざまな批判に応えつつ,デモ参加者たちがどのように自らのデモを位置づけていたのかを確認してみたい。Amongst many anti-Vietnam War movements in Japan, one of the longest sustained is that of Fukuoka city in Kyusyu. The focus of the movement was Jū-no-hi-demo' or Tō-no-hi-demo, citizen's protest walks in the city centre, organized every 10th day of the month from 1965 to 1973.However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as Tō-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the third, the final part of that essay.As discussed in the previous parts of the essay, Tō-no-hi-demo no kai (Association for the Tenth Day Protest Walk) started with several mathematicians of Kyusyu University as its main membership. But by June 1966, Tō-no-hi-demo no kai began to collaborate with an anti-Vietnam War movement in Tokyo. This, so-called 'Tokyo Beheiren', proposed a nation-wide lecture tour on war on Vietnam, and Tō-no-hi-demo no kai accepted that it would host a public lecture in Fukuoka. This article firstly examines the process in which Tō-no-hi-demo no kai began to make connections with other anti-Vietnam war movements outside Fukuoka.Along the gradual formation of the anti-Vietanm war network with groups of other regions, To-no-hi-demo began to attract participants of more varied backgrounds. Trade union members of younger generations, an anti-war group of medical students, and students from universities other than Kyusyu University joined the demo. The second topic the article examines is the expansion of participants in Tō-no-hi-demo.Thirdly, the article looked at the Kyusyu university student's protest actions against the local police who tried to regulate the student's festival procession on the main city road. The procession had been running annually for many years, and the attempts from the police to limit it gave rise to the massive direct protest action from the students. Although this was not an anti-war protest in any sense, it seems to have revealed the ethos and attitudes of the students at the time.Lastly, the article examined the reaction to Tō-no-hi-demo among the general public in Fukuoka, as well as evaluates the self-awareness of the participants.0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられたベトナム侵略戦争反対の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対—―日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ—―ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以上,本誌11号に掲載)4. 承前(1)5. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1960年代初頭~1967年12月5-1. 福岡での反米軍基地運動5-2. 米国のアジア反共産主義軍事戦略と九州北部5-3. 改憲・核武装阻止福岡県会議5-4. 小林栄三郎5-5. 福岡県下米軍基地を通したベトナム戦争への加担への抗議5-6. 福岡県反戦青年委員会の結成5-7. 田川地区反戦青年委員会5-8. 日韓条約闘争後の福岡でのベトナム反戦運動6. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6-1. カリフォルニア大学「ベトナムの日委員会」に署名電報6-2. ベト数懇の発足6-3. 若き数学者たちの運動――東大SSS6-4. 九大数学教室の戦後7. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7-1. 直接のきっかけ7-2. 社会党を良くする会7-3. 渡辺毅,倉田令二朗7-4. 倉田ヒデ子7-5. 山田俊雄7-6. 金原ヒューマニズム7-7. 十の日デモの由来7-8. 東京ベ平連との関わり――意識していたが無関係7-9. 十の日デモは誰が参加して始まり,どのように行なわれていたか7-10. 十の日デモの特色8. 小括(2)(以上,本誌12号に掲載)9. 承前(2)10. 東京ベ平連との連携 1966年6月~10-1. 福岡での全国縦断日米反戦講演会10-2. 山田俊雄の日米市民会議(東京)への参加11. 労働者と学生の参加11-1. 九大医学部生による「ベトナム戦争反対に起ち上がる会」11-2. 個人として参加した学生たち11-3. 東京ベ平連と連携した講演会を継続開催11-4. 九大以外の学生の参加11-5. 既成組織の行なうベトナム反戦運動との違い12. 安保以来最大の九大生デモ――樽神輿と仮装行列13. 十の日デモの広がりとその評価13-1. 福岡市民の十の日デモ評価13-2. 組織による運動と市民個人による運動14. まとめにかえて
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.12, pp.65-105, 2015

日本各地域に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,息の長い運動を続けたのが福岡市におけるベトナム反戦市民運動であった。その活動のベースとなったのが「十の日デモ」と呼ばれた定例デモで,1965年から1973年までの間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民によって続けられた 。 筆者は,福岡で「十の日デモ」が地道に奮闘していた1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付け,福岡での市民によるベトナム反戦運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにすると同時に,このローカルな運動を全国的なベトナム反戦運動というより広い文脈の中において検討することを目的とした全3部構成の論考を準備した。本号掲載の論考は,その第2部にあたる。 本号では,はじめに,1960年代初頭から67年末までの福岡での既成組織によるベトナム反戦運動の動向を追う。福岡における闘争は,九州北部および沖縄がベトナム戦争の米軍戦略基地地帯となることへの反対というかたちで取り組まれた。ナイキ・ミサイルの配備,射爆場の存在,博多港での弾薬陸揚げ,小倉の山田弾薬庫の強化,そしてなによりも板付基地の活用強化に対する抗議運動が,福岡の既成組織が取り組んだベトナム反戦運動であった。また,既成組織による反戦運動の中でも,既成組織外の市民や,既成組織に所属しながら自主性のある活動を求める若者世代の意向に応えようとする運動形態の模索が試みられていることにも注目した。 続いて本号では,同時期の福岡の市民によるベトナム反戦運動の動向を検討した。既成組織による,あるいは既成組織を基盤にした反戦運動とは異なる特徴を持つ,「市民」中心のベトナム反戦運動が1960年代半ばの福岡には登場している。そうした「市民」は既成組織に所属しないままで,あるいは所属する既成組織を持ちながらも組織の運動とは別に,一個人として自主的に参加することができるベトナム反戦運動の実践に意義を認めて活動を展開しようとした。福岡の場合,そうした運動の場づくりに尽力したのは九州大学の知識人であった。とりわけ重要なのは,九大の数学者と,彼らが属していた学会である日本数学会の動向である。その点をみていく。 そして,本号の最後の節では,1965年10月に始まり,その後7年以上にわたって続けられたベトナム反戦デモを担うことになる「十の日デモの会」発足の経緯と担い手,その特徴について明らかにする。 Amongst many anti-Vietnam War movements in Japan, one of the longest sustained is that of Fukuoka city in Kyusyu. The focus of the movement was Jū-no-hi-demo' or Tō-no-hi-demo, citizen's protest walks in the city centre, organized every 10th day of the month from 1965 to 1973. However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as To-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the second part of that essay and the last part will appear in the next issue of this journal. This article firstly traces the anti-Vietnam War activities inFukuoka coordinated by established organizations such as political parties and trade unions. Those anti-war struggles were struggles against the U.S. military bases existed in Fukuoka and nearby areas, as they were increasingly used as strategic bases for Vietnam War. Kita-Kyusyu region, which includes Fukuoka city, were witnessing the deployment of Nike missiles, establishment of a firing and bombing practice areas, landing of ammunitions at Hakata seaport, reinforcement of Yamada ammunition depot, taking-off and landing practice by jet fighters at Itazuke airport and so on. Left-wing political parties and trade unions opposed these trends. It is noteworthy that those conventional organisations tried to create new forms of anti-war movements which would appeal to those younger generations, who were likely to hate to be organized from above. In the second section, this article examines the origins of citizen's anti-Vietnam War movements in Fukuoka, which emerged in the middle of the 1960s. The movement aimed to accommodate those citizens who wished to express his/her own voice against the Vietnam War without affiliating to any organisations. Behind the citizen's movement in Fukuoka were intellectuals of Kyusyu University, especially, and remarkably, mathematicians. The article also looks at the activities pursued by the members of the Mathematical Society of Japan; they were engaged quite actively in anti-Vietnam War movement. Finally, this article followed up the historical process in which the movement actually formed, focusing on their main activity, Tō-no-hi-demo. This last section discusses the characteristics of the intellectuals behind the scene, in order to make sense of the movement in Fukuoka.0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられたベトナム侵略戦争反対の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対—―日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ—―ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以上,本誌11号に掲載)4. 承前(1)5. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1960年代初頭~1967年12月5-1. 福岡での反米軍基地運動5-2. 米国のアジア反共産主義軍事戦略と九州北部5-3. 改憲・核武装阻止福岡県会議5-4. 小林栄三郎5-5. 福岡県下米軍基地を通したベトナム戦争への加担への抗議5-6. 福岡県反戦青年委員会の結成5-7. 田川地区反戦青年委員会5-8. 日韓条約闘争後の福岡でのベトナム反戦運動6. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6-1. カリフォルニア大学「ベトナムの日委員会」に署名電報6-2. ベト数懇の発足6-3. 若き数学者たちの運動――東大SSS6-4. 九大数学教室の戦後7. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7-1. 直接のきっかけ7-2. 社会党を良くする会7-3. 渡辺毅,倉田令二朗7-4. 倉田ヒデ子7-5. 山田俊雄7-6. 金原ヒューマニズム7-7. 十の日デモの由来7-8. 東京ベ平連との関わり――意識していたが無関係7-9. 十の日デモは誰が参加して始まり,どのように行なわれていたか7-10. 十の日デモの特色8. 小括(2)(以下,本誌次号に掲載予定)9. 承前(2)10. 東京ベ平連との連携 1966年6月~11. 労働者と学生の参加12. 十の日デモの広がりとその評価13. まとめにかえて
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.18, pp.93-146, 2021

本稿は、福岡の「青年労働者」の青年運動組織である社会主義青年同盟福岡地区本部が1968 年に撮影し、集会や学習会などで巡回展示に活用した記録写真について、時代や地理的な文脈とともに紹介・解説するものである。そのうえで、社会運動や労働運動などの史料としての記録写真が持つ意味や、解釈上の問題、ヴィジュアル史料ならではの意義はどういった点に見出せるのかについて、若干のコメントをおこなう。 写真記録の主たる対象は、北九州市方面在住の社青同福岡の同盟員が中心となって結成された北九州反戦青年委員会が1968 年に展開したベトナム反戦の非暴力直接行動である。中心となった行動は、北九州市の中ほどに位置した米軍山田弾薬庫への弾薬輸送阻止闘争である。ただし、写真記録には、北九州反戦青年員会が最初に取り組んだ北九州市「合理化反対闘争」が冒頭に配されているほか、RF-4C ファントムジェット偵察機が九州大学に墜落したあとの現場風景やその直後に板付基地撤去を求めて行なわれた「板付闘争」を記録した写真も含まれている。 日本におけるベトナム反戦運動史研究では、ベ平連や学生運動が展開した活動についてはそれなりの研究蓄積がある。ところが、全国各地で多数の青年労働者が参加した反戦青年委員会によるベトナム反戦運動については、基礎的な研究も皆無といってよく、したがってベトナム反戦運動の通史的研究でも内容ある言及はほとんどなされていない。その結果、地域ごとに大きく異なる方針を持ち各々独自活動を展開していたにもかかわらず、反日共系の学生活動家とともにヘルメットをかぶり角材を振り回す「過激派」という一律な通俗イメージを問い直す作業はなされていないままである。 本稿が取り上げる事例は、北九州におけるベトナム反戦運動のハイライトとなった米軍弾薬輸送阻止闘争が、市民でも学生でもなく、青年労働者が個人で加盟した地域の反戦青年委員会がイニシアティヴを取ったユニークな非暴力直接行動だったことを明らかにしている。日本におけるベトナム反戦運動史研究には、さらなる地域の事例研究の積み上げと、運動主体の多元的な掘り下げが必要である。 This article introduces documentary photographs taken in 1968 by the Fukuoka Area Headquarters of the Socialist Youth League, a youth movement organization of the "young worker" in Fukuoka. Before examining the photos, the article describes the time and geographical context in which the photos were taken. In the final section, some comments will be made on the meaning of documentary photographs, problems in interpretation, and the significance of visual materials, for writing social/labor movement history. The main theme of the photographs introduced here was the nonviolent direct action against the Vietnam War in 1968 conducted by the Kitakyushu Anti-Vietnam War Youth Committee, which was formed mainly by the individual members of Shaseido Fukuoka (Fukuoka Area Division of the Socialist Youth League) who live in the Kitakyushu City area. The main action was to prevent the transport of ammunition to the U.S. Yamada Ammunition Depot, located in the middle of Kitakyushu City. However, the photographs also recorded the worker's "struggle against rationalization" at the Kitakyushu City Council and the struggle for the removal of Itazuke U.S. Air Base immediately after the crash of the RF-4C phantom jet reconnaissance plane to a building under construction at Kyushu University. The latter accident had a significant impact on the U.S. military base realignment policy in the Far East. In the study of the history of the anti-Vietnam war movement in Japan, there has been a considerable accumulation of research on the activities of "Beheiren" movement as well as student movements. However, there is almost no academic research on the anti-Vietnam war movement carried out by the Anti-Vietnam War Youth Committee, in which many young workers participated across the country. Besides, there has been no work to reconsider the uniform image attached to them: "extremists" who was wearing a helmet and swinging a square timber alongside of the "violent" student activists. The case study in this paper reveals that the anti-Vietnam movement in Kitakyushu, which was highlighted by the anti-Vietnam movement to stop the transportation of ammunition by the U.S. military, was a unique nonviolent direct action initiated by the local Anti-Vietnam War Youth Committee, a group of individual young workers of men and women in their teens and twenties. It indicates that the study of the history of the anti-Vietnam war movement in Japan requires the accumulation of local case studies, with an eye for multidimensional analysis of the actors involved in the movement.1.はじめに1-1.「反戦青年委員会」とは?――「北九反戦」の位置づけ1-2.「社会主義青年同盟」とは?――「社青同福岡」の独自性1-3.社青同福岡地本が撮影した記録写真2.弾薬庫輸送阻止闘争の背景2-1.九州北部の米軍基地ネットワークと1968 年2-2.米軍佐世保基地2-3.米軍板付基地2-4.米軍山田弾薬庫と門司港3.社青同福岡が作成した移動展示用写真記録の史料3-1.北九州市合理化反対闘争3-2.第一次弾薬輸送阻止闘争 5 月16 日~26 日3-2-1.北九州市門司区田野浦での米軍チャーター船エクスマウス号からの弾薬陸揚げ3-2-2.5 月19 日3-2-3.全港湾関門支部による米軍物資荷揚げ拒否闘争3-2-4.5 月26 日(日)「歩道デモ」規制を突破3-3.九州大学箱崎キャンパスのファントム機墜落現場3-4.第二次弾薬輸送阻止闘争3-4-1.6 月11 日(火)3-4-2.6 月16 日(日)板付基地撤去闘争3-5.第三次弾薬輸送阻止闘争 7 月17 日~21 日4.山田弾薬庫のその後5.運動史研究と写真史料顔写真(p136, 137)マスキング
著者
市橋 秀夫
出版者
医学書院
雑誌
精神医学 (ISSN:04881281)
巻号頁・発行日
vol.58, no.5, pp.423-430, 2016-05-15

はじめに 自閉スペクトラム症(ASD)の出現頻度は本質的に時代の影響を受けないはずであるが,どの医療機関でも発達障害者の受診が増えているという。その理由は2つあると思われる。 第1に1990年代後半から広まった発達障害の啓蒙活動である2)。それまで仕事ができない,人間関係が築けない,人の話が理解できないのは,自分に問題があるためだと思い込んできたのが,「発達障害のためではないか」と自ら疑い始めた。残念ながら啓蒙活動は精神科医ではなく,一般市民や当事者による外国書物の紹介から始まった。成人精神医学を専門とする精神科医が大多数を占めるわが国では,発達障害の知識はほとんどなかったからである。さらに児童精神科医はわが国では少なくて,これまで発信力も乏しく,成人になると関与しなくなること,児童精神科医と成人精神科医との学術的な交流も乏しかったという背景があった。そのため成人の発達障害の対応は大幅に遅れた。 第2に発達障害の受診者が生きづらい時代に入ったのではないかという実感が治療に当たって感じるようになった。その生きづらさはどのようなものであるのかを明らかにすることが本稿の目的である。 このように増加する発達障害に対して私たちはまだ十分な医療,社会的受け皿,行政,福祉などの用意ができていない。発達障害の本質は生きにくさにある。それは社会・文化的文脈で理解していかなければならないことを意味する。
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.15-41, 2016

0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられたベトナム侵略戦争反対の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対—―日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ—―ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以上,本誌11号に掲載)4. 承前(1)5. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1960年代初頭~1967年12月5-1. 福岡での反米軍基地運動5-2. 米国のアジア反共産主義軍事戦略と九州北部5-3. 改憲・核武装阻止福岡県会議5-4. 小林栄三郎5-5. 福岡県下米軍基地を通したベトナム戦争への加担への抗議5-6. 福岡県反戦青年委員会の結成5-7. 田川地区反戦青年委員会5-8. 日韓条約闘争後の福岡でのベトナム反戦運動6. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6-1. カリフォルニア大学「ベトナムの日委員会」に署名電報6-2. ベト数懇の発足6-3. 若き数学者たちの運動――東大SSS6-4. 九大数学教室の戦後7. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7-1. 直接のきっかけ7-2. 社会党を良くする会7-3. 渡辺毅,倉田令二朗7-4. 倉田ヒデ子7-5. 山田俊雄7-6. 金原ヒューマニズム7-7. 十の日デモの由来7-8. 東京ベ平連との関わり――意識していたが無関係7-9. 十の日デモは誰が参加して始まり,どのように行なわれていたか7-10. 十の日デモの特色8. 小括(2)(以上,本誌12号に掲載)9. 承前(2)10. 東京ベ平連との連携 1966年6月~10-1. 福岡での全国縦断日米反戦講演会10-2. 山田俊雄の日米市民会議(東京)への参加11. 労働者と学生の参加11-1. 九大医学部生による「ベトナム戦争反対に起ち上がる会」11-2. 個人として参加した学生たち11-3. 東京ベ平連と連携した講演会を継続開催11-4. 九大以外の学生の参加11-5. 既成組織の行なうベトナム反戦運動との違い12. 安保以来最大の九大生デモ――樽神輿と仮装行列13. 十の日デモの広がりとその評価13-1. 福岡市民の十の日デモ評価13-2. 組織による運動と市民個人による運動14. まとめにかえて日本各地域に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,息の長い運動を続けたのが福岡市におけるベトナム反戦市民運動(「福岡ベ平連」)であった。その活動の前身となったのが「十の日デモ」と呼ばれた定例デモで,1965年から1973年までの間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民によって続けられた。本論考は3部構成の第3部に当たり,「福岡ベ平連」が発足する前の1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付けて検討対象とし,福岡におけるベトナム反戦市民運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにするものである。本誌11号および12号掲載の第1部,第2部の論考で明らかにしたように,福岡における十の日デモは九州大学の数学者たちが重要な担い手となって発足したものであった。しかし,1966年6月からは,福岡以外の日本諸地域におけるベトナム反戦市民運動との連携が東京のベ平連を媒介にして始まっている。本稿では,福岡における十の日デモが,そうした全国的なベトナム反戦のための連携ネットワーク形成にどのような経緯で接続,参与していったのかという点をまず検討する。ほぼ同じころ,十の日デモの参加者にも変化が見られるようになる。労働組合に組織された若い世代の労働者たちがデモに参加するようになった。また,九州大学の学生たちの参加も,医学部の学生たちが独自の反戦グループを作って主体的に参加するようになる。また,個人として十の日デモに主体的に参加するようになった九州大学の学生についても,3事例で具体的に検討していく。さらには,九州大学以外の学生の参加も次第にみられるようになる。その事例についても紹介する。1965年2月のベトナム北爆から68年1月の佐世保闘争までの約3年のあいだ,九大学生が大衆的な規模で最もこだわった問題は,ベトナム反戦でも日韓条約闘争でもなく,67年初夏の教養部田島寮の寮祭の樽神輿コースおよび九大学生祭の仮装行列コースの変更問題をめぐるものだった。このいわば「フェスティヴァル」の自治と自由に対する警察の介入に対してみせた九大学生たちの行動には,その後の大学闘争やベトナム反戦運動を予見させるものがあった。その点をみていく。最後に,十の日デモに対する当時の福岡市民の評価と態度を確認しつつ,さまざまな批判に応えつつ,デモ参加者たちがどのように自らのデモを位置づけていたのかを確認してみたい。Amongst many anti-Vietnam War movements in Japan, one of the longest sustained is that of Fukuoka city in Kyusyu. The focus of the movement was Jū-no-hi-demo' or Tō-no-hi-demo, citizen's protest walks in the city centre, organized every 10th day of the month from 1965 to 1973.However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as Tō-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the third, the final part of that essay.As discussed in the previous parts of the essay, Tō-no-hi-demo no kai (Association for the Tenth Day Protest Walk) started with several mathematicians of Kyusyu University as its main membership. But by June 1966, Tō-no-hi-demo no kai began to collaborate with an anti-Vietnam War movement in Tokyo. This, so-called 'Tokyo Beheiren', proposed a nation-wide lecture tour on war on Vietnam, and Tō-no-hi-demo no kai accepted that it would host a public lecture in Fukuoka. This article firstly examines the process in which Tō-no-hi-demo no kai began to make connections with other anti-Vietnam war movements outside Fukuoka.Along the gradual formation of the anti-Vietanm war network with groups of other regions, To-no-hi-demo began to attract participants of more varied backgrounds. Trade union members of younger generations, an anti-war group of medical students, and students from universities other than Kyusyu University joined the demo. The second topic the article examines is the expansion of participants in Tō-no-hi-demo.Thirdly, the article looked at the Kyusyu university student's protest actions against the local police who tried to regulate the student's festival procession on the main city road. The procession had been running annually for many years, and the attempts from the police to limit it gave rise to the massive direct protest action from the students. Although this was not an anti-war protest in any sense, it seems to have revealed the ethos and attitudes of the students at the time.Lastly, the article examined the reaction to Tō-no-hi-demo among the general public in Fukuoka, as well as evaluates the self-awareness of the participants.
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.131-163, 2014

0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられた抗議の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対――日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ――ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以下,次号以降に掲載予定)4. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1964年8月~1967年12月5. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7. 東京ベ平連との連携 1966年6月~8. 労働者と学生の参加9. 十の日デモの広がりとその評価日本全国に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,最も息の長い運動を続けたひとつが福岡市におけるベトナム反戦市民運動であった。1965年から1973年の間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民による反戦デモである「十の日デモ」が続けられたのである。十の日デモは,さまざまな理由から1968年前半に運動上の大きな転換点を迎えている。そこで筆者は,1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付け,福岡での市民によるベトナム反戦運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにすると同時に,このローカルな運動を全国的なベトナム反戦運動というより広い文脈の中において検討することを目的とした論考を準備した。本稿は,その第1部にあたる部分である(第2部以下は次号以降に掲載予定)。本稿ではまず,政党や労働組合といった組織によらない市民のベトナム戦争反対の動きが,福岡市ではどのように始まったのかを明らかにした。あわせて,その動きを起こした九州大学の中心的メンバーのプロフィールを検討し,福岡市におけるベトナム反戦市民運動発足時の運動の性格について論じた。しかし,ローカルなベトナム反戦運動の歴史は,全国的な動きのなかに位置づけて検討される必要がある。そのために本稿の後半では,いったん福岡からは離れ,ベトナム反戦運動の全国的動向の再検討を行なっている。政党や労働組合など既成組織の動向と市民の自発的な反戦運動の動向とを比較しながら,1967年2月の米軍による北ベトナム爆撃(北爆)以降,日本の中でどのようにしてベトナム反戦運動が広まっていったのかをみていく。またその際には,同時期に運動課題となった日韓条約反対闘争との関係,各種マス・メディアが世論や運動に与えた影響,ベトナム反戦運動において注目された自発性および個人性の問題,労働運動が反戦運動に取り組む際に直面した問題などに注目した。それら個別の論点の検討をとおして,日本におけるベトナム反戦運動全般の重要な特質を明らかにするよう努め,最後の小括のなかでその結果の提示を試みた。One of the longest-lasting anti-Vietnam War movements in Japan was that which emerged in the city of Fukuoka in Kyushu in the middle of the 1960s. Its citizens formed a small protest group and carried out regular protest walks for seven and half years between 1965 and 1973. The walk was called the 'tenth day protest walk' (Ju-no-hi-demo or To-no-hi-demo in Japanese), for it took place on the 10th, 20th and 30th of every month.However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as To-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a long draft historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the first part of that essay and the subsequent two parts will appear in the next two issues of this journal.The article firstly looks at the beginning of the citizens' anti-war movement in Fukuoka, exploring the biographical backgrounds and ideas of its core members. In the second part of the article, a number of citizens' anti-Vietnam War movements that emerged in other areas in Japan as well as anti-war protest actions organized by trade unions and political parties are examined. This provides a wider context for the Fukuoka citizens' movement that should give a more balanced view of what happened there.In exploring the very beginning of the history of the anti-Vietnam War movement in Japan, this article pays special attention to the following questions which illuminate the peculiarity of the Japanese ant-Vietnam War movements: How did the Japanese people and society respond to the question of the Treaty on Basic Relations between Japan and the Republic of Korea of 1965, which left-wing intellectuals regarded as a part of the US military strategy in Asia? How did the mass media in Japan, which started to report on the Vietnam War intensely after the US bombing of North Vietnam, influence Japanese society? Why did so many people in Japan feel compelled to raise their voices against Vietnam War by themselves? And, what kinds of difficulties did trade unions encounter when they tried to organise a nationwide anti-war strike in 1966? The article concludes with tentative answers to these questions.
著者
長谷川 淳一 市橋 秀夫
出版者
社会経済史学会
雑誌
社會經濟史學 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.67, no.6, pp.689-704, 2002-03-25

Until the late 1980s, the British Labour Party under the leadership of Gaitskell and Wilson was perceived to have been much less successful than the Party had been under Attlee. But in recent years, with the emergence of 'New Labour', more sympathetic analyses have gained ground. This article will reassess the various interpretations through surveying both old and recent writings on the Labour Party of the 1950s and 1960s. In particular, we will look closely at the much questioned attempts by Gaitskell and Wilson to modernise the Party : the removal of Clause IV, the widening of the Party's electoral appeal, and the modernising of Britain through a 'scientific revolution'. Overall, faced by the increased affluence of the 1950s and 1960s, it became more and more difficult for the Labour Party to continue an interventionist stance. On balance, we accept the view that modernising projects were inevitable and necessary. However, Labour revisionists failed to show their own coherent version of a socialist Britain. We also find some difficulty in rehabilitating Wilson and his governments. Although he successfully united the Party traditionalists and modernisers with a new vision of a socialist society, once elected his priority was to remain in office rather than to make and implement policy.