著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.11, pp.131-163, 2014

日本全国に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,最も息の長い運動を続けたひとつが福岡市におけるベトナム反戦市民運動であった。1965年から1973年の間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民による反戦デモである「十の日デモ」が続けられたのである。十の日デモは,さまざまな理由から1968年前半に運動上の大きな転換点を迎えている。そこで筆者は,1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付け,福岡での市民によるベトナム反戦運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにすると同時に,このローカルな運動を全国的なベトナム反戦運動というより広い文脈の中において検討することを目的とした論考を準備した。本稿は,その第1部にあたる部分である(第2部以下は次号以降に掲載予定)。本稿ではまず,政党や労働組合といった組織によらない市民のベトナム戦争反対の動きが,福岡市ではどのように始まったのかを明らかにした。あわせて,その動きを起こした九州大学の中心的メンバーのプロフィールを検討し,福岡市におけるベトナム反戦市民運動発足時の運動の性格について論じた。しかし,ローカルなベトナム反戦運動の歴史は,全国的な動きのなかに位置づけて検討される必要がある。そのために本稿の後半では,いったん福岡からは離れ,ベトナム反戦運動の全国的動向の再検討を行なっている。政党や労働組合など既成組織の動向と市民の自発的な反戦運動の動向とを比較しながら,1967年2月の米軍による北ベトナム爆撃(北爆)以降,日本の中でどのようにしてベトナム反戦運動が広まっていったのかをみていく。またその際には,同時期に運動課題となった日韓条約反対闘争との関係,各種マス・メディアが世論や運動に与えた影響,ベトナム反戦運動において注目された自発性および個人性の問題,労働運動が反戦運動に取り組む際に直面した問題などに注目した。それら個別の論点の検討をとおして,日本におけるベトナム反戦運動全般の重要な特質を明らかにするよう努め,最後の小括のなかでその結果の提示を試みた。One of the longest-lasting anti-Vietnam War movements in Japan was that which emerged in the city of Fukuoka in Kyushu in the middle of the 1960s. Its citizens formed a small protest group and carried out regular protest walks for seven and half years between 1965 and 1973. The walk was called the 'tenth day protest walk' (Ju-no-hi-demo or To-no-hi-demo in Japanese), for it took place on the 10th, 20th and 30th of every month.However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as To-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a long draft historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the first part of that essay and the subsequent two parts will appear in the next two issues of this journal.The article firstly looks at the beginning of the citizens' anti-war movement in Fukuoka, exploring the biographical backgrounds and ideas of its core members. In the second part of the article, a number of citizens' anti-Vietnam War movements that emerged in other areas in Japan as well as anti-war protest actions organized by trade unions and political parties are examined. This provides a wider context for the Fukuoka citizens' movement that should give a more balanced view of what happened there.In exploring the very beginning of the history of the anti-Vietnam War movement in Japan, this article pays special attention to the following questions which illuminate the peculiarity of the Japanese ant-Vietnam War movements: How did the Japanese people and society respond to the question of the Treaty on Basic Relations between Japan and the Republic of Korea of 1965, which left-wing intellectuals regarded as a part of the US military strategy in Asia? How did the mass media in Japan, which started to report on the Vietnam War intensely after the US bombing of North Vietnam, influence Japanese society? Why did so many people in Japan feel compelled to raise their voices against Vietnam War by themselves? And, what kinds of difficulties did trade unions encounter when they tried to organise a nationwide anti-war strike in 1966? The article concludes with tentative answers to these questions.0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられた抗議の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対――日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ――ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以下,次号以降に掲載予定)4. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1964年8月~1967年12月5. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7. 東京ベ平連との連携 1966年6月~8. 労働者と学生の参加9. 十の日デモの広がりとその評価
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.12, pp.65-105, 2015

日本各地域に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,息の長い運動を続けたのが福岡市におけるベトナム反戦市民運動であった。その活動のベースとなったのが「十の日デモ」と呼ばれた定例デモで,1965年から1973年までの間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民によって続けられた 。 筆者は,福岡で「十の日デモ」が地道に奮闘していた1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付け,福岡での市民によるベトナム反戦運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにすると同時に,このローカルな運動を全国的なベトナム反戦運動というより広い文脈の中において検討することを目的とした全3部構成の論考を準備した。本号掲載の論考は,その第2部にあたる。 本号では,はじめに,1960年代初頭から67年末までの福岡での既成組織によるベトナム反戦運動の動向を追う。福岡における闘争は,九州北部および沖縄がベトナム戦争の米軍戦略基地地帯となることへの反対というかたちで取り組まれた。ナイキ・ミサイルの配備,射爆場の存在,博多港での弾薬陸揚げ,小倉の山田弾薬庫の強化,そしてなによりも板付基地の活用強化に対する抗議運動が,福岡の既成組織が取り組んだベトナム反戦運動であった。また,既成組織による反戦運動の中でも,既成組織外の市民や,既成組織に所属しながら自主性のある活動を求める若者世代の意向に応えようとする運動形態の模索が試みられていることにも注目した。 続いて本号では,同時期の福岡の市民によるベトナム反戦運動の動向を検討した。既成組織による,あるいは既成組織を基盤にした反戦運動とは異なる特徴を持つ,「市民」中心のベトナム反戦運動が1960年代半ばの福岡には登場している。そうした「市民」は既成組織に所属しないままで,あるいは所属する既成組織を持ちながらも組織の運動とは別に,一個人として自主的に参加することができるベトナム反戦運動の実践に意義を認めて活動を展開しようとした。福岡の場合,そうした運動の場づくりに尽力したのは九州大学の知識人であった。とりわけ重要なのは,九大の数学者と,彼らが属していた学会である日本数学会の動向である。その点をみていく。 そして,本号の最後の節では,1965年10月に始まり,その後7年以上にわたって続けられたベトナム反戦デモを担うことになる「十の日デモの会」発足の経緯と担い手,その特徴について明らかにする。 Amongst many anti-Vietnam War movements in Japan, one of the longest sustained is that of Fukuoka city in Kyusyu. The focus of the movement was Jū-no-hi-demo' or Tō-no-hi-demo, citizen's protest walks in the city centre, organized every 10th day of the month from 1965 to 1973. However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as To-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the second part of that essay and the last part will appear in the next issue of this journal. This article firstly traces the anti-Vietnam War activities inFukuoka coordinated by established organizations such as political parties and trade unions. Those anti-war struggles were struggles against the U.S. military bases existed in Fukuoka and nearby areas, as they were increasingly used as strategic bases for Vietnam War. Kita-Kyusyu region, which includes Fukuoka city, were witnessing the deployment of Nike missiles, establishment of a firing and bombing practice areas, landing of ammunitions at Hakata seaport, reinforcement of Yamada ammunition depot, taking-off and landing practice by jet fighters at Itazuke airport and so on. Left-wing political parties and trade unions opposed these trends. It is noteworthy that those conventional organisations tried to create new forms of anti-war movements which would appeal to those younger generations, who were likely to hate to be organized from above. In the second section, this article examines the origins of citizen's anti-Vietnam War movements in Fukuoka, which emerged in the middle of the 1960s. The movement aimed to accommodate those citizens who wished to express his/her own voice against the Vietnam War without affiliating to any organisations. Behind the citizen's movement in Fukuoka were intellectuals of Kyusyu University, especially, and remarkably, mathematicians. The article also looks at the activities pursued by the members of the Mathematical Society of Japan; they were engaged quite actively in anti-Vietnam War movement. Finally, this article followed up the historical process in which the movement actually formed, focusing on their main activity, Tō-no-hi-demo. This last section discusses the characteristics of the intellectuals behind the scene, in order to make sense of the movement in Fukuoka.0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられたベトナム侵略戦争反対の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対—―日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ—―ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以上,本誌11号に掲載)4. 承前(1)5. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1960年代初頭~1967年12月5-1. 福岡での反米軍基地運動5-2. 米国のアジア反共産主義軍事戦略と九州北部5-3. 改憲・核武装阻止福岡県会議5-4. 小林栄三郎5-5. 福岡県下米軍基地を通したベトナム戦争への加担への抗議5-6. 福岡県反戦青年委員会の結成5-7. 田川地区反戦青年委員会5-8. 日韓条約闘争後の福岡でのベトナム反戦運動6. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6-1. カリフォルニア大学「ベトナムの日委員会」に署名電報6-2. ベト数懇の発足6-3. 若き数学者たちの運動――東大SSS6-4. 九大数学教室の戦後7. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7-1. 直接のきっかけ7-2. 社会党を良くする会7-3. 渡辺毅,倉田令二朗7-4. 倉田ヒデ子7-5. 山田俊雄7-6. 金原ヒューマニズム7-7. 十の日デモの由来7-8. 東京ベ平連との関わり――意識していたが無関係7-9. 十の日デモは誰が参加して始まり,どのように行なわれていたか7-10. 十の日デモの特色8. 小括(2)(以下,本誌次号に掲載予定)9. 承前(2)10. 東京ベ平連との連携 1966年6月~11. 労働者と学生の参加12. 十の日デモの広がりとその評価13. まとめにかえて
著者
李 順徳 崔 明淑 三井 沙織
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.65-86, 2009

1928 年生まれ,「在日2 世」の李順徳(イ・スンドク)さんは,17 歳のとき,広島で被爆している。1987 年に,アメリカでの平和行動に参加したことをきっかけに,学校の生徒たちを相手に「被爆体験」を語る語り部として活動するようになった。「音もない,光もない。ほんとに衝撃も受けてない。ただ〔壊れた〕家の下敷きになった,あらあら,なんじゃろうという感じ」と語る李順徳さんは,爆心地からわずか900 メートルのところで被爆したのだ。彼女が記憶のままに語る原爆投下直後の広島は,まさに「地獄絵」そのものだが,そこに登場する人びとは,文字どおり「素っ裸のひとたち」であり,日本人も朝鮮人もない世界として語られている。李順徳さんの語りが在日韓国人女性のライフストーリーにほかならないことは,彼女が広島で被爆するに至るまでの物語,つまりは植民地支配下に仕事を求めて両親が渡日してきたがゆえに,彼女が〈そのとき,そこに〉存在したのだということと,戦後復興後かなりの日にちが経ってから,やっと,彼女たち在日韓国・朝鮮人被爆者には「被爆者手帳」の取得が可能になったという,日本人被爆者と在日被爆者とのあいだの行政的差別の存在が語られることで,明らかになる。――それだけに,被爆体験自体は,民族を超えたところで記憶され,物語られていることが,いっそう象徴的に際立つ。わたしたちは,李順徳さんのかけがえのない《記憶》が,語りをとおしてひとつの《記録》に転化する場面にたちあえたことをうれしく思う。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.11, pp.221-248, 2014

ハンセン病療養所「星塚敬愛園」に暮らす90歳代男性のライフストーリー。坂口守義(さかぐち・もりよし)さんは,1916(大正5)年,熊本県生まれ。出征中の中国でハンセン病を発症し,内地に送り返されて,1941(昭和16)年7月,星塚敬愛園に入所。2010年6月20日の聞き取り時点で,93歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク)。2011年1月23日と4月22日に,語り手本人を前にして原稿を読み上げながらの,原稿確認と補充聞き取りをさせていただいた。補充聞き取りでの語りは《 》で示す。坂口さんの語りからは,「反骨精神を貫いた人生!」との矜持が伺われる。徴兵検査甲種合格で,1937(昭和12)年1月に「入営」後,村の娘から手紙が来ると,班長が「その女に手紙を出すな,と言え」と命じるのに,「わたしにはそのひとにそんなことを言う権利はありません」と,軍隊での「成績」への悪影響をもかまわずに,抵抗。ハンセン病が発症して,内地に送り返された1940(昭和15)年11月,門司港上陸直前に,伸び放題になった髪の毛を刈りにきた看護婦が,完全防護の着衣等に身をくるんでいるのを見て,髪の毛を刈ることを拒否。けっきょく,看護婦長に普段のままの着衣での散髪をさせている。1944(昭和19)年,まだ戦時中に,「外出禁止」の療養所を抜け出して,監視員に見つかり,「監禁」の処分を受ける。監禁が解けた彼に,事務部長が「始末書を書け」と要求するも,すでにいちばん重い監禁の処分を受けただけで十分と,拒否。同じく1944(昭和19)年,園内結婚をした彼は,園側からも自治会からも「断種」を求められるが,拒否。断種しなければ「夫婦舎」に入れないというのに対して,園を抜け出して,故郷の役場で婚姻届を出し,それをもって正式な夫婦であることを園長に認めさせて,「断種」を拒否したまま,1950(昭和25)年時点で「夫婦舎」に入居している。妻が妊娠し,敗血症のため「流産」したときには,胎児を自分で始末し,「妊娠」を疑う女医をやりこめている。さらに,戦後になって,入所者自治会が一定の権限をもつようになり,自治会の主導権争いが激化したなかで,代議士や警察署長を相手にしても,抵抗の姿勢を崩さなかったという。あるいは,金員でもってまるめこもうとする園長に,そのカネを突き返すなど,坂口さんが「敬愛園での生活は抵抗の生活だった」と,みずから評しているのも頷ける。原稿確認の作業が一段落したあと,それまでは言葉少なかった「戦争体験」について,あらためてうかがったところ,じつは,自身の「戦歴」の克明な記録を残している,という。坂口さんは,「兵隊としての体験」を語りたくなかったわけではなく,おそらくは,わたしたちが「ハンセン病者としての体験」を聞きたがっていると判断して,ほとんどもっぱら,ハンセン病体験を語ってくれたものと思われる。一連の追加の語りのなかで,初年兵に「生きた捕虜」を銃剣で刺し殺させる「訓練」にあたったことなども語ってくれた。「いま考えれば,身震いするようなことが,当時は平気でできてしまった」と。こうして,貴重な語りを聞き逃すことを避けられて,聞き手としては,遠慮せずにお聞きしてよかったと思う。なお,語り手が「ふくししつ」と発音していても,時代状況からして,療養所が実質的に「収容所」にほかならず,管理が厳しかった時代の「事務別館」をさす場合には,「事務別館(ふくししつ)」と記載することで,意味と発語の双方を記録できるように工夫した箇所もあることをお断りしておく。また,〔 〕は文意を明確にするための聞き手による補足である。This is the life story of a man living in Hoshizuka-Keiaien, a Hansen's disease facility.Moriyoshi Sakaguchi was born in Kumamoto prefecture in 1916. He was discovered to exhibit symptoms of Hansen's disease while he was fighting in the battlefield in China and as a result, was sent back to Japan. He entered Hoshizuka-Keiaien in July 1941. He was 93 years old at the time of the interview on June 20, 2010. Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka, and Sajik Kim acted as interviewers for this study. The interviewers read the script in front of the interviewee twice on January 23 and April 22, 2011 for revision and approval.When we learned of his life story, we found that he possessed much pride for living a life of resistance.He passed the health check for the military draft and joined the army in January 1937. When he received a letter from a girl in his village, the squad leader said to him, "Order the girl to stop sending letters to the camp." However, he replied, "I do not have the right to order her to do that." This kind of resistance would negatively affect his career in the army but he was not concerned about it.On November 1940, when he was sent back to Japan for having symptoms of Hansen's disease, a nurse visited him to cut his long hair before he landed on Moji but he was offended because she insisted on wearing a fully protective suit out of fear of contracting the disease and refused to let her to cut his hair. In the end, the head nurse cut his hair without the suit.In 1944, during the war, when patients were forbidden from leaving the sanatorium, he went out of the facility without permission. He was caught by the guard of the facility and was subjected to solitary confinement as a penalty. After he was released from confinement, the office head tried to force him to write a formal apology but he refused because he believed that the penalty he had endured was more than enough.In the same year, he got married in the facility. Both the authorities and the self-governing body of the facility recommended him to undergo sterilization but he refused. The officials at the sanatorium would not allow him to live with his wife in the room designated for a married couple within the facility. He sneaked out of the facility and went to his hometown to officially register his marriage. He persuaded the head of the facility that he had the right to live with his wife in the room for a married couple because he was legally married. Ultimately, six years later, the facility allowed him to live in the room without undergoing sterilization. His wife became pregnant but miscarried the baby due to septicemia, so he buried the dead body of the fetus by himself, hiding evidence of his wife's pregnancy.After the war ended, patients within the facility were able to obtain increased rights from officials within the facility. Subsequently, the patients were further factionalized due to an ensuing power struggle from within the group. In order to assuage the intensifying power struggle, a congressman and police chief were brought into the sanatorium to intervene. Sakaguchi did not change his attitude of resistance even toward the congressman and police chief. The head of the facility once tried to bribe him into cooperating but he refused, throwing money in his face. He considered his life in the facility to be a life of resistance.After receiving approval of the interview transcript from Sakaguchi, we asked some questions about his experience during the war that he had barely talked about during the interview. In response, he showed us personal records of various events that had taken place during the war. We learned that he did not intentionally hide what he had experienced during the war, and shared only his experience as a Hansen's disease ex-patient because he thought we were only interested in that part of his life. He did share an additional story about wartime experiences, however. When he was a lance corporal in the army, he trained young soldiers to stab live prisoners of war with a bayonet and kill them. He said that now he realizes it was a horrifying experience but he did it with nonchalance at the time. As interviewers, we thought it would be valuable to ask about his experiences as a soldier to provide a more comprehensive account of his life.
著者
金 沙織 福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.8, pp.171-202, 2011

朝鮮半島文化のシャーマンである巫堂(ムーダン)を生業として母親をもつ、ある在日コリアン2世の女性からの聞き取り。語り手のライフストーリーのうち、本稿では、娘の立場から見た「巫堂の世界」に焦点をあてる。中村幸子さん(仮名)は、1935年大阪生まれ、聞き取り時点では日本国籍を取得している。母親は、遠方からも客が訪ねてくるほどの有名な巫堂だった。語り手は、子どものころから、乳飲み子の弟妹たちの子守り役として、頻繁に、母親の祭儀についてまわり、その仕事を間近に見てきた。また、母親に巫堂の力を与えた「神さん」の世界のありようや、祭儀の手続きがもつ意味、「神さん」と人間のあいだに立つ巫堂の役割などについて、語り手は、成育の過程で繰り返し、母親からの説明を聞いている。さらに、語り手自身、「神の使いが降りてきて造花がしゃべった」「息子の交通事故を母親が事前に教えてくれた」不思議の体験をしている。その意味で、母親だけでなく、語り手本人もまた、巫堂の世界観を生きてきた一人である。本稿は、亡くなるときまで「巫堂」をまっとうした母親の姿を、まさに巫堂の世界観に基づいて伝える、娘による物語りである。数々の不思議の出来事が語られるが、語り手のストーリーテリングの能力は高く、ひとつひとつのエピソードの情景が、まるで昨日の出来事のように鮮やかだ。そのなかで、巫堂の「拝み」は、けっして人間の思いどおりに現実を動かすようなものではなく、あくまでも、「神さん」の声を聞き、「神さん」を怒らせている原因を取り除くことで、人間世界に起きている障りを小さくしようとするものだとされる。母親から伝えられた知識や解釈が随所に散りばめられているこの物語りは、その受け手(聞き手/読者)がたとえ巫堂の世界観を共有していなくとも、その世界観を生きる人々がたしかにいる(いた)ことを、了解させる力をもっている。巫堂の世界観を伝える口承伝承ともいえるだろう。なお、「ある在日コリアン2世ハルモニの語り(下)」では、「帰化しても気持ちは朝鮮人」と題して、語り手自身の生の軌跡に焦点をあてて報告する予定である。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.135-152, 2012

鹿児島県にある国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」で暮らす、70代男性のライフストーリー。 語り手のKKさんは、1934(昭和9)年、宮崎県生まれ。1955(昭和30)年12月、21歳のとき、敬愛園に収容される。「ここへは治療しに来たんだ」と、園内での患者作業を一貫して拒否。園内での結婚もしなかった。1998年に提訴された「らい予防法」違憲国賠訴訟では、早い時点で原告になって闘った。2010年7月の聞き取り時点で76歳。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、金沙織(キムサジク)、北田有希。2010年10月と2011年6月には、補充聞き取りをおこなった。 KKさんがハンセン病の症状に気付いたのは、14、5歳のとき、右手の小指が曲がるなどの、ごく軽い症状だった。ある時期から、保健所職員が療養所入所を勧めに、KKさんの自宅へ来るようになる。21歳のとき、同じ村のYTさんが、ハンセン病の症状が重くなり、敬愛園に入所することになった。KKさんも「家族に迷惑がかかる」と入所を決意。YTさんと一緒の収容バスに乗った。 KKさんは、敬愛園に入所してまもなく、すでに自然治癒し、無菌であることが判明。「無菌なら、なぜ収容したのか。家へ帰せ!」と医者に訴えたが、「予防法があるから」と退所を認められなかった。KKさんは入所後、ハンセン病治療を受けたことは一度もない。手の指に傷ができると、医局では「落としたほうが治りが早い」と切断された。さらに、若いインターンの医者の「実験台」にされて、神経が切られ、顔が歪んでしまった。 KKさんは、国賠裁判の原告に立った思いを「カネじゃない。人間がほしかった」と語る。熊本地裁勝訴後の控訴阻止の闘いの局面では、ひとり、ハンガーストライキをして頑張りぬいた。
著者
角山 朋子
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
博士論文(埼玉大学大学院文化科学研究科(博士後期課程)
巻号頁・発行日
2016

【序論】1. 研究の目的と背景 1.1. 研究目的・・・・・1 1.2. 研究背景・・・・・22. 研究の意義・・・・・33. 先行研究の問題点 3.1. ウィーン工房研究・・・・・4 3.2. オーストリア工作連盟研究・・・・・6 3.3. 「世紀末ウィーン」後の研究・・・・・7 3.4. 日本におけるオーストリア・デザイン史研究・・・・・7 3.5. 先行研究の課題・・・・・84. 研究の方法、構成 4.1. 研究の方法・・・・・9 4.2. 考察対象 4.2.1. 用語について・・・・・9 4.2.2. 考察対象・・・・・10 4.3. 研究の構成・・・・・13【本論】1. オーストリア近代デザイン運動の胎動 1.1. 英国アーツ・アンド・クラフツ運動:20世紀初頭までの変遷・・・・・16 1.2. ウィーンへのアーツ・アンド・クラフツ運動の伝播 1.2.1. ヨーロッパ対六の装飾芸術運動:アール・ヌーヴォー、ユーゲントシュティール・・・・・24 1.2.2. ウィーンのける諸外国の動向の欠落・・・・・26 1.2.3. アルトゥール・スカラによるイギリス工芸の導入・・・・・28 1.2.4. ウィーン美術工芸協会の反発・・・・・32 1.3 第一期デザイン改革:アイテルベルガ―と帝国立オーストリア芸術産業博物館 1.3.1. ハプスブルク君主国の工業化と経済成長・・・・・36 1.3.2. アイデルベルガ―による芸術産業博物館設立の献言・・・・・38 1.3.3. 帝国立オーストリア芸術産業博物館の開館・・・・・40 1.4 第二期デザイン改革:ウィーン分離派による芸術刷新 1.4.1. 「7人クラブ」:近代芸術運動の萌芽・・・・・48 1.4.2. ウィーン造形芸術家協会の内部抗争:ウィーン分離派結成の経緯・・・・・51 1.4.3. ウィーン分離派の芸術理念・・・・・56 1.4.4. 「一つのオーストリア」を目指して・・・・・592. ウィーン工房誕生の布石:ウィーン分離派によるクンストゲヴェルベシューレ改革・・・・・67 2.1. 1900年以前のクンストゲヴェルベシューレにおける工芸教育の変遷 2.1.1. 1867年制定の学校規則・・・・・68 2.1.2. 1872年の改訂版学校規程及び教育計画:予備課程の強化・・・・・69 2.1.3. 1877年の再改定版学校規程及び教育計画:芸術教育の重視・・・・・71 2.1.4. 1888年の改訂版学校規則:模写と様式学習の継続・・・・・73 2.2. 芸術産業博物館の近代化:クンストゲヴェルベシューレ改革の素地 2.2.1. スカラとウィーン美術工芸協会の主導権争い・・・・・75 2.2.2. 1898年制定の芸術産業博物館規約:創造的工芸家の養成・・・・・76 2.2.3. 文化教育省の文化政策:「芸術評議会」の開設・・・・・78 2.2.4. 博物館理事会でのオットー・ヴァグナーの学校改革に関わる提言・・・・・79 2.2.5. スカラの現実的構想・・・・・82 2.3. ウィーン分離派によるクンストゲヴェルベシューレ改革 2.3.1. 教師陣の交替・・・・・85 2.3.2. 授業の課題と改善・・・・・863. ウィーン工房の設立構想とその初期理念:1990-1906年 3.1. 設立までの出来事 3.1.1. ヘルマン・バールによる「芸術と工芸を結ぶ組織」の提案・・・・・89 3.1.2. 第8回ウィーン分離派展(1990)の成果 3.1.2.1. 幾何学的ユーゲントシュティールの確立と成功・・・・・90 3.1.2.2. アシュビーとギルド・オブ・ハンディクラフトからの影響・・・・・94 3.1.2.3. マッキントッシュとの関係・・・・・96 3.1.3. 設立前年の動き:ヴェルンドルファーの貢献・・・・・99 3.2. 組織形態 3.2.1. 1903年5月の設立規約、登記簿登録、及び最初の営業許可書・・・・・104 3.2.2. 『ウィーン工房作業綱領』(1905)に書かれた理念と理想・・・・・105 3.2.3. 「協同組合」という選択・・・・・108 3.3. 幾何学的ユーゲントシュティール 3.3.1. 装飾の抑制・・・・・112 3.3.2. ビーダマイヤー・・・・・115 3.3.3. 高級工芸品としてのウィーン工房製品・・・・・1164. 理想と経営のはざまで:1907年以降とウィーン工房の企業化とデザイン特性の変化 4.1. ウィーン工房の経営体質(1903-1932) 4.1.1. アーツ・アンド・クラフツ運動と経済性:イギリス、ドイツにおける実践・・・・・118 4.1.2. 資金提供者兼経営責任者の変遷・・・・・120 4.1.3. 企業形態の変遷 4.1.3.1. 子会社、合名会社の設立・・・・・121 4.1.3.2. 「有限会社ウィーン工房」への移行(1914):有限会社化とヴェルンドルファーの離脱・・・・・122 4.1.3.3. 庇護から合理化へ(1914-1932):プリマヴェーシ、グノーマンの経営時代・・・・・125 4.2. 1907年の経営危機とモーザーの離脱 4.2.1. ヴェルンドルファーへの資金依存・・・・・128 4.2.2. ディータ・モーザーへの援助要請をめぐるモーザーとヴェルンドルファーの対立・・・・・130 4.2.3. モーザーの主張 4.2.3.1. 個人資産に依拠する経営への批判・・・・・132 4.2.3.2. 方針転換の提言・・・・・132 4.2.3.3. 顧客側の問題・・・・・133 4.2.3.4. ホフマンとの関係・・・・・134 4.3. 1907年の大転換:デザインにみる経営戦略 4.3.1. 中心デザイナーの変化:ホフマン=モーザー体制から複数メンバーの活躍へ・・・・・135 4.3.2. 新たなデザイン様式:装飾の復活 4.3.2.1. 背景・・・・・137 4.3.2.2. 金属工芸・・・・・139 4.3.2.3. グラフィック作品・・・・・141 4.3.3. 事業の拡大 4.3.3.1. 販売店、支店・・・・・142 4.3.3.2. 外部企業との連携:製陶会社「ウィーン陶器」・・・・・145 4.3.3.3. 「キャバレー・フレーダーマウス」(1907):新設部門への活力・・・・・1465. 「ウィーン工房」のブランド確立へ:帝都の美術工芸を担う 5.1. ウィーン分離派の決裂(1905):芸術様式と商業性をめぐる立場の相違 5.1.1. クリムト・グループの離脱・・・・・150 5.1.2. 対立要因:ギャラリー・ミートケ、ウィーン工房への批判・・・・・152 5.1.3. 妥協案の頓挫とクリムト・グループの声明・・・・・153 5.2. <クンストシャウ1908>にみる「総合芸術」の新たな展開 5.2.1. 展覧会の構想・・・・・155 5.2.2. 公的支援の獲得・・・・・157 5.2.3. 希薄な政治性・・・・・158 5.2.4. ウィーン工房展示室に現れた商業的要素 5.2.4.1. 展覧会の会場構成・・・・・161 5.2.4.2. クリムトの作品販売意欲・・・・・163 5.2.4.3. ウィーン工房展示室・・・・・165 5.3. 「国家的理由から」:オーストリア工作連盟の設立(1912) 5.3.1. ウィーンの産業振興部局:工作連盟以前の産業促進会議・・・・・170 5.3.2. ドイツ工作連盟(1907)への参加・・・・・171 5.3.3. オーストリア・グループの独立 5.3.3.1. 活動概要・・・・・174 5.3.3.2. 多民族国家のアイデンティティ・・・・・175 5.3.3.3. 春季オーストリア工芸展(1912)にみるオーストリア工芸の多様性・・・・・178 5.3.3.4. 大規模な出発・・・・・181 5.4. 「ウィーンらしさ」への立脚:1910年代前半の産業活性化の理想と現実 5.4.1. オーストリア工作連盟の活動目的・地域・・・・・184 5.4.2. 国民経済への視点・・・・・185 5.4.3. 理想からの乖離・・・・・187 5.4.4. アドルフ・ロースの工作連盟批判・・・・・190 5.5 オーストリアのアイデンティティとは:ケルンでの工作連盟展(1914) 5.5.1. オーストリア・グループの団結・・・・・193 5.5.2. オーストリア・パヴィリオンの独自性 5.5.2.1. 一般展示室、ウィーン工房展示室、オーストリアの装飾文化の披露・・・・・195 5.5.2.2. オーストリア・パヴィリオンの建築的特徴・・・・・197 5.5.3. オーストリア・パヴィリオンの成果・・・・・1996. 第一次世界大戦下のウィーン工房:女性メンバーの躍進と国家協力 6.1. 「芸術家工房」(1916)における美的工芸品製作 6.1.1. 工作連盟運動の失速:ウィーン工房の主導的立場の継続・・・・・201 6.1.2. 「芸術家工房」開設:低迷する生産と経営の救済策・・・・・202 6.1.3. 芸術家工房の主要女性メンバー 6.1.3.1. フェリーツェ・リックス・・・・・205 6.1.3.2. マリア・リカルツ・・・・・208 6.1.3.3. マティルデ・フレーグル・・・・・209 6.1.3.4. ヒルデ・イェッサー・・・・・210 6.1.4. 陶器作品の新傾向 6.2. モード領域の成長:テキスタイル部門、モード部門での女性メンバーの活動 6.2.1. 1900年代のテキスタイル生産・・・・・214 6.2.2. 1910年代の女性メンバーによるテキスタイルデザインとポール・ポワレへの影響・・・・・215 6.2.3. モード部門の女性メンバーの製作領域、作風 6.2.3.1. マリア・リカルツによるモード画・・・・・219 6.2.3.2. 戦時下のモード画集:『モード・ウィーン』(1914-1915)、『婦人の生活』(1916)・・・・・221 6.3. 女性デザイナー養成拠点:ホフマンとチゼックによるデザイン教育の意義 6.3.1. 応用芸術教育と女性・・・・・224 6.3.2. ヨーゼフ・ホフマンの建築専門クラス:他領域の工芸制作の実践・・・・・225 6.3.3. フランツ・チゼックの装飾形態学クラス:「感覚のリズム化の訓練」 6.3.3.1. 女性メンバーの作風とペッヒェ、ホフマンの作風の関係・・・・・228 6.3.3.2. チゼックの独自性と世紀転換期デザイン教育の継承・・・・・229 6.3.3.3. 教育成果:自由な感性の発露・・・・・231 6.4. 国家協力と経営努力 6.4.1. 中立国での販売促進運動・・・・・234 6.4.2. 「オーストリア的」工芸における民族的表現の欠如・・・・・237 6.4.3. ウィーン工房側の利点・・・・・2397. 1920年代から終焉まで:装飾的デザインと変貌する国家、社会との距離 7.1. 新共和国のデザインの方向性をめぐる混乱と対立 7.1.1. オーストリア工作連盟の再出発:工芸活動の継続・・・・・241 7.1.2. <クンストシャウ1920>展の審美的世界・・・・・242 7.1.3. ホフマンとウィーン工房のオーストリア工作連盟脱退・・・・・247 7.2. 終戦直後のウィーン工房再建過程:ドイツへの接近と企業的性格の強化 7.3. 現代産業装飾芸術国際博覧会(1925)への参加 7.3.1. パリの「アール・デコ」・・・・・254 7.3.2. オーストリアの出展作品 7.3.2.1. オーストリア・パヴィリオン・・・・・255 7.3.2.2. グラン・パレ・・・・・257 7.3.3. ホフマンとウィーン工房に対する批判 7.3.3.1. ウィーン工房の展示状況・・・・・258 7.3.3.2. 商業面、芸術面での不首尾・・・・・259 7.3.4. 博覧会に見るオーストリアのアール・デコの特徴とウィーン工房の出展意義・・・・・262 7.4. ブランド・イメージとしての装飾 7.4.1. 1926年移行の提携企業の拡大:統一的企業イメージの必要性・・・・・264 7.4.2. 装飾的デザイン対する批判の高まり・・・・・265 7.4.3. 根本的な議論の不在・・・・・268 7.5. 最後の5年間:芸術性の維持と経営合理化 7.5.1. ウィーン工房設立25周年(1928)・・・・・271 7.5.2. 1928-1929年の経営業績の回復 7.5.2.1. 組織の中央集権化・・・・・273 7.5.2.2. 外国企業及び外国市場の重要性・・・・・274 7.5.3. ウィーン工房の終焉・・・・・276【結論】1. オーストリア近代デザイン運動の基盤:産業・芸術・国家の近代化・・・・・2782. デザイン企業への転換:デザインの商品価値・・・・・2803. 近代デザイン運動団体のブランドへの変容・・・・・2814. ウィーン工房と「装飾」・・・・・2835. ウィーン工房のデザイン史上の意義と今日性・・・・・283【資料編】図版図版出典年表文献目録
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.191-209, 2013

ハンセン病療養所のなかで60年ちかくを過ごしてきた,ある女性のライフストーリー。 山口トキさんは,1922(大正11)年,鹿児島県生まれ。1953(昭和28)年,星塚敬愛園に強制収容された。1955(昭和30)年に園内で結婚。その年の大晦日に,舞い上がった火鉢の灰を浴びてしまい,失明。違憲国賠訴訟では第1次原告の一人となって闘った。2010年8月の聞き取り時点で88 歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク),北田有希。2011年1月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 山口トキさんは,19歳のときに症状が出始めた。戦後のある時期から,保健所職員が自宅を訪ねて来るようになる。入所勧奨は,当初は穏やかであったが,執拗で,だんだん威圧的になった。収容を逃れるため,父親に懇願して山の中に小屋をつくってもらい,隠れ住んだ。そこにも巡査がやってきて「療養所に行かないなら,手錠をかけてでも引っ張っていくぞ」と脅した。トキさんはさらに山奥の小屋へと逃げるが,そこにもまた,入所勧奨の追手がやってきて,精神的に追い詰められていったという。それにしても,家族が食べ物を運んでくれたとはいえ,3年もの期間,山小屋でひとり隠れ住んだという彼女の苦労はすさまじい。 トキさんは,入所から2年後,目の見えない夫と結婚。その後,夫は耳も聞こえなくなり,まわりとのコミュニケーションが断たれてしまった。トキさんは,病棟で毎日の世話をするうちに,夫の手で夫の頭にカタカナの文字をなぞることで,言葉を伝える方法を編み出す。会話が成り立つようになったことで,夫が生きる希望をとりもどす物語は,感動的だ。 トキさんは,裁判の第1次原告になったのは,まわりから勧められたからにすぎないと言うけれども,その気持ちの背後には,以上のような体験があったからこそであろう。
著者
金 銀実
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.63-73, 2012

私は1985年に中国吉林省延辺朝鮮族自治州にある朝鮮族と漢族が共存して暮らしている発電所村で生まれた。特殊な生活環境の影響で、私は小学校に入る前から、自分の民族について知っていた。民族について知っていながらも、小学校の高学年になるまで韓国の存在を知らないまま暮らしてきた。そんなある日、叔父が韓国へ出稼ぎに行くようになり、それをきっかけに韓国に興味をもつようになる。それ以外にも、私のまわりでは、家族を含む多くの親戚たちが、延辺を離れて、中国の都市部へ、韓国へ、と移動をする人たちが多く、それを当たり前のように受け止めながら、暮らしてきた。 しかし、大きくなるにつれて、それは決して普通のことではない、朝鮮族に特有のことであるのに気付き、大学院で研究することにした。そのなかでも、特に朝鮮族の移動が目立つ韓国への移動をめぐって、修士論文を書こうと思い、埼玉大学から韓国の高麗大学に交換留学をした。しかし、当初、まわりの朝鮮族の友達に「韓国人の朝鮮族に対する差別はもうあまりないと思うし、それを研究テーマにして意味あるの?せっかく日本に留学しているんだから、日本でできる研究テーマを選んで研究した方がいいんじゃない」と反対されたこともあった。 韓国では、朝鮮族教会、城南教会などを訪れて、フィールドワークをおこなうと同時に、在韓国中国朝鮮族18人に聞き取り調査もおこなった。半年間のフィールドワークと聞き取りを通じて、「中国が影響力を持つようになってきたから、韓国人が朝鮮族を差別しなくなった」と一言では言いきれない、在韓国朝鮮族の人々がおかれた状況は十人十色、百人百様だということを知った。また、在韓国中国朝鮮族の各人がもっている資源、置かれた境遇、制度的なものなどによって、その人たちの韓国での生活体験への意味づけ、アイデンティティ構築(変容)が違ってくることもわかった。 今回の調査ノートは主に、私の身のまわりで起きたことと在韓国中国朝鮮族18人からの聞き取り事例だけに基づいて書いたもので、全体状況の把握に欠けているのは事実である。だから、今回の調査ノートは、今後より多くの韓国在住中国朝鮮族に聞き取り調査を実施し、彼ら/彼女らの存在のありようについて、多様性を描出しつつ、全体状況の把握に努める入口にしたいと考えている。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.75-118, 2012

ある〈ハンセン病家族〉のライフストーリー。奥晴海(おく・はるみ)さんは、1946年、福岡県生まれ。彼女の母親と母方の祖母がハンセン病だった。 晴海さんの母親は、1943年に鹿児島県にあるハンセン病療養所「星塚敬愛園」へ入所。婚約者であった父親の手引きで園を脱走、そののち晴海さんが生まれている。1950年、母親が熊本県にある「菊池恵楓園」へ再収用され、このとき、ハンセン病ではなかった父親も一緒に入所させられている。4歳の晴海さんは、恵楓園入所者の子どもたちが預けられる未感染児童保育所「龍田寮」に入れられた。1954年春、龍田寮の新1年生になる子どもたちが、寮内の分校ではなく、市内の小学校への通学を希望したのにたいして、近隣住民から反対され阻止される事件が起きる(黒髪校事件)。このとき晴海さんは小学校2年生だった。 まもなく、晴海さんは、父母の故郷である奄美大島へと帰されるが、そこでの生活は苦しいものとなった。この病気にたいする差別は奄美大島でも厳しく、母親の妹は、身内にハンセン病者がいることを理由に離縁させられ、2人の子どもを抱えていた。その叔母のもとに、晴海さんは預けられたのである。貧しさの苦労、親族からの辛い仕打ち、「ガシュンチューヌ、クワンキャーヌ(患者の子どものくせに)」と蔑まれる扱いに、晴海さんは耐えなければならなかった。 晴海さんは、「らい予防法」違憲国賠訴訟の原告勝訴(2001年5月)につらなる流れのなかで、母親の遺族としての提訴をしている。その準備の過程で、母親の入所歴を調べたり、龍田寮時代の保母と面会したり、母親の寮友たちと思い出話をしたり、自分以外の〈ハンセン病家族〉たちと出会ったりするなかで、幼少期の、奄美大島へ帰される以前のおぼろげとなった記憶を取り戻したという。本稿は、隔離政策によって奪われた肉親との関係や記憶を、晴海さんがふたたび取り戻していった物語である。 聞き取りは2010年7月、奄美市(旧名瀬市)内の「名瀬港湾センター宿泊所にておこなわれた。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、金沙織(キムサジク)。晴海さんは、聞き取り時点で63歳。また、2010年10月と2011年11月にも、奄美和光園内で補充聞き取りをおこなった。このときの語りは注に〈〉で記す。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.119-133, 2012

ハンセン病療養所のなかで50年以上を過ごしてきた、ある男性のライフストーリー。 結城輝夫さんは、1930(昭和5)年、宮崎県生まれ。1955(昭和30)年12月、鹿児島にあるハンセン病療養所「星塚敬愛園」に入所。2008年8月の聞き取り時点で78歳。聞き手は、福岡安則、黒坂愛衣、下西名央。 輝夫さんは18歳ごろから、ハンセン病により気管支内に結節ができ、発声がしにくくなった。20歳の秋には、結節が大きく膨らみ、つねに呼吸困難の状態で眠れず、死を意識するほどまで悪化。療養所から医師が自宅へ来て入所をすすめたが、輝夫さんの母親は、「らい患者」との噂が近隣に広まるのを怖れて、いったんこれを拒否。その後、母親が医師へ連絡をとり、輝夫さんは敬愛園に入所した。入所の翌日に気管を切開し、カニューレを装着。声を失うかわりに、息が楽に吸えるようになった。療養所では「不自由舎」へ入寮。医師不足であり、手足の指に傷をつくると、医師の資格をもたない職員によって切断された。1988(昭和63)年、鹿児島大学の医師に勧められ、カニューレをはずす手術を受ける。1990(平成2)年には声を出して喋れるまで回復した。故郷の家族は、輝夫さんの入所を隠すのに苦労を重ねた。ある兄とは43年間、音信不通だった。 結城輝夫さんの事例は、2つの意味で特徴的である。ひとつは、輝夫さんが、療養所入所者の中でも気管切開によるカニューレ装着を体験し、30数年にわたって声を失った人であることだ。職員からの侮蔑や、他の入所者からのぞんざいな扱いがあり、「20年近くは誰も相手にしてくれなかった」という。輝夫さんとコミュニケーションをとろうとする数少ない人の存在がありがたかった、と語る。 ふたつには、化学療法が登場しハンセン病が治せる時代であるにもかかわらず、輝夫さんの病状が、ここまで悪化しなければならなかった事実である。隔離政策下では、ハンセン病治療は、基本的に療養所でしか認められず、一般の病院ではおこなわれなかった。他方、ハンセン病にたいする差別は存在し、輝夫さんの母親は、差別をおそれ、輝夫さんの療養所への入所をぎりぎりまで拒んだのである。「母親が、医者の勧めに早く従っていれば、病状は軽くて済んだ」と輝夫さんは言う。しかし、隔離政策がハンセン病医療を療養所に限定したこと、また、日本の社会の厳しい差別が、その背景にはある。 輝夫さんには、優れた医師たちとの出会いによって命を救われ、声も取り戻したという体験が、決定的なものとしてある。国によって助けられたという強い思いがあり、このため、輝夫さんは、1998年に提訴された「らい予防法」違憲国賠訴訟の原告にはならなかった。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.127-146, 2015

ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす80 歳代男性のライフストーリー。 杉野芳武(すぎの・よしたけ)さんは,1931 年3 月,熊本県生まれ。1942 年9月27 日,菊池恵楓園に入所。この11 歳で母に連れられて恵楓園にやって来たとき,彼は子どもながらに入所を拒否して"脱走"している。ところが,再度母親に連れられて「門をくぐった」彼は「もう外に出るのが怖くなった」と語る。彼が生家の敷居を再び跨いだのは,母危篤の連絡を受けた1979 年のことであった。37 年間も彼の生家への帰省を阻む目に見えない力が,「癩/らい予防法」下のハンセン病療養所には作動していたということであろう。 2001 年のハンセン病違憲国賠訴訟の熊本地裁での原告勝訴のあと,2003 年になって,熊本県内の黒川温泉で恵楓園入所者への宿泊拒否事件が発生。その町は杉野さんの生まれ故郷であった。自治会役員としてこの問題に対処した当事者の視点から,事件の顛末を詳しく語っていただけた。――恵楓園にやって来たホテルの総支配人の"謝罪文"の受取りを入所者自治会が拒否する場面が全国放送で流され,その後,入所者たちに対する誹謗中傷の手紙や電話が殺到した。杉野さんの語りによれば,ホテルに総支配人を訪ねたときは,宿泊拒否は「本社の社長の判断だ」と言い張っていたのが,恵楓園に来たときは「お断りしたのはすべて自分の判断」で押し通したのだという。心からの反省,謝罪を微塵も感じ取れなかったがゆえの,入所者たちの反応だったのだ。 聞き取りは,2011 年3 月15 日,菊池恵楓園の自治会室にて。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,足立香織。聞き取り時点で,杉野芳武さんは,80 歳。2010年,杉野かほるの筆名でおつれあいの杉野桂子さんと『エッセー集 連理の枝』を上梓。囲碁はアマ6 段の腕前で,赤旗主催の棋戦では熊本県代表となって全国大会に出場したこともある。短歌を詠み,随筆も書き,アマチュア無線も楽しむという多才のひとである。 2012 年12 月8 日,原稿確認。2014 年7 月に恵楓園を再訪したとき,白板の7 月の予定表には,入所者自治会の志村康会長,稲葉正彦副会長とならんで,恵楓園を訪ねてくる小中学生相手の説明役として杉野芳武さんの名前も書かれていた。ハンセン病に対する偏見差別をなんとしてでもなくしたいという強靱な意志が,かれらの活動を支えているのであろう。 なお,〔 〕は聞き手による補筆である。 This is the life story of a man in his 80s living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen's disease facility. Mr. Yoshitake Sugino was born in March 1931 in Kumamoto prefecture and sent to Kikuchi-Keifūen on 27th September 1942. He was 11 years old and refused to enter the facility when his mother brought him to Kikuchi-Keifūen. He ran away but came to the facility with his mother again to 'enter the gate.' He said that he was scared to go out. He revisited home after hearing the news that his mother was in a critical condition in 1979. It was the first time for him to return home since entering the facility. There was invisible power to disturb him to visit home for 37 years. It must be the Segregation Policy which affected Hansen's disease patients' lives in the leprosy facilities. Even after the unconstitutionality lawsuit against the Segregation Policy was decided in favor of the plaintiffs by the Kumamoto district court in 2001, there was an incident at a hotel in Kurokawa hot springs in which people from Kikuchi-Keifūen were refused entry, in 2003. The town was Mr. Sugino's home. We were able to hear the details because he was involved in the arbitration for this event as an executive member of the resident association of Kikuchi-Keifūen. The general manager of the hotel visited Kikuchi-Keifūen to submit the 'apology statement' but the resident association refused to accept it. This scene was aired by the national broadcasting network. Subsequently, masses of letters and phone calls criticizing the people in Kikuchi-Keifūen rushed in. According to Mr. Sugino, the general manager had claimed that rejecting the Kikuchi-Keifūen people was the hotel president's decision when Mr. Sugino and his colleague visited the general manager at the hotel. However, the manager changed her word when she came to the facility, saying that the manager herself decided to reject the people. All members in Kikuchi-Keifūen could not see even a tiny piece of sincerity from the 'apology.' This interview was conducted at the resident association office of Kikuchi-Keifūen on 15th March 2011. Interviewers were Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka and Kaori Adachi. Mr. Yoshitake Sugino was 80 years old at the time of the interview. Mr. Sugino published the essay book Renri no Eda with his wife Keiko Sugino. He is a skillful 'Go' player with a rank of amateur six-dan, and joined the national Go tournament hosted by Akahata as the representative of Kumamoto prefecture. He is also a man of other talents who enjoys composing thirty-one syllabled verses, writing essays, and operating a ham radio. The interview script was approved by him on 8th December 2012. When we revisited Kikuchi-Keifūen in July 2014, the schedule board in the resident association office displayed that Mr. Sugino worked as the speaker of the explanation of Hansen's disease for young students as Mr. Masahiko Inaba, the vice president of the resident association. The strong determination to abolish the discrimination on Hansen's disease motivates their activities.
著者
金 沙織 福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.153-172, 2012

ある在日コリアン2世ハルモニのライフストーリーの続編。 語り手の中村幸子(さちこ)さん(仮名)は、1935年大阪生まれ(初回の聞き取り時点で74歳)。9人きょうだいの5番目。戦時下で空襲がひどくなり、それなりに安定した暮らしをしていた大阪から、一家で姫路へ疎開。疎開後は、父親は失業対策事業で働き、家計を支えたのはむしろ、朝鮮半島文化のシャーマンである巫堂(ムーダン)となった母親だった。 幸子さんは、学齢期になると、日本の公立学校である国民学校へ通った。日本人の同級生たちから侮蔑語を投げつけられ、よく喧嘩をした。10歳のときに終戦、「民族解放」を迎える。日本の小学校をやめ、3歳上の兄とともに、同胞たちの始めた民族学校に通った。幸子さんの家は貧しかった。中学3年上のとき、両親に「女は勉強せんでもええ」と言われ学校をやめさせられ、かわりに、近所で洋裁を習った。姉3人はみな19歳で結婚して、家を出た。長男である兄は、日本の高校を出て、日本の大学に進学。幸子さんは、「女は役に立たない」と言う親の言葉に、反発を感じていた。母親は巫堂の仕事で忙しく、幸子さんは、兄が結婚するまでのあいだ、兄の身のまわりの世話をしなければならなかった。それでも、親の目を盗んで映画館やダンスホールへ行くなど、青春時代を楽しむこともあった。なお、幸子さんの3番目の姉は、婚家の家族とともに「北朝鮮への帰国」をしている。 幸子さんは、21歳のとき、親が決めた同胞男性と見合い結婚。夫は、古鉄屋や土建屋などの仕事を始めるが、いずれも長続きしなかった。けっきょく、幸子さんが娘と弁当屋を始めることで、暮らしが安定した。2005年に、帰化により日本国籍を取得。 このライフストーリーでは、戦時中から戦後にかけて、日本社会の在日朝鮮人差別、そして在日朝鮮人社会の「男尊女卑」に抗ってきた生きざまが、豊かに語られている。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.231-260, 2013

小牧義美(こまき・よしみ)さんは,1930(昭和5)年,兵庫県生まれ。1948(昭和23)年3月,宮崎県から星塚敬愛園に収容。1951(昭和26)年,大阪へ働きに出ることを夢見つつ,長島愛生園に移る。病状が悪化し,社会復帰を断念して,1959(昭和34)年,敬愛園に戻る。その後,1962(昭和37)年から1968(昭和43)年まで,熊本の待労院での6年間の生活も経験。1987(昭和62)年から1990(平成2)年には,多磨全生園内の全患協本部に中央執行委員として詰めた。そして,2003(平成15)年にはじめて中国の回復者村を訪問,2005(平成17)年から2007(平成19)年の2年間は,中国に住み着いてハンセン病回復者の支援に打ち込んだ。2008(平成20)年8月の聞き取り時点で77歳。聞き手は福岡安則,黒坂愛衣,下西名央。2010(平成22)年5月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 小牧義美さんの語りで,あらためて「癩/らい予防法」体制のおぞましさを再認識させられたのが,自分以外のきょうだい,兄1人と妹2人も,おそらくはハンセン病患者ではなかったにもかかわらず,ハンセン病療養所に「入所」しているという事実である。兄は,病気の自分と間違えられて,仕事を失い,行きどころがなくなって,良心的な医師の配慮で「一時救護」の名目で,敬愛園への入所を認められている。上の妹は,義美さんに続いて母親も病気のために入所して,父親は疾うに亡くなっており,社会のなかに居場所もなく,「足がふらついてる」ことでもって,おそらくは「ハンセン病患者」として入所が認められたのだろう。そして,入所者と園内で結婚。下の妹は,敬愛園付属のいわゆる「未感染児童保育所」に預けられたが,中学をおえても行き場所がなく,「おふくろの陰に隠れて敬愛園で暮らしておった」が,やはり,入所者と結婚,という人生経路をたどっている。――義美さんは,きょうだいがハンセン病でもないのに「ハンセン病療養所」の世話になったことに,一言,「恥ずかしい話だけど」という言葉を発しているが,わたしたちには,「癩/らい予防法」体制こそが,義美さんのきょうだいから,社会での生活のチャンスを奪ったのだと思われる。 もうひとつ,小牧義美さんの語りで感動的なのは,当初は,桂林の川下りを楽しむために中国に行っただけと言いながら,いったん,中国の「回復者村」の人びとと出会い,後遺症のケアがなにもされないまま放置されている現実を目にして以降,日本政府からの「補償金」を注ぎ込んで,中国のハンセン病回復者とその子どもたちのための献身的な支援活動に没頭した小牧さんの生きざまであろう。
著者
蔡 梅花
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.183-199, 2014

本稿では,形容詞的用法にもアスペクト的用法にもなれる動詞を対象に,「変化の結果継続」の意味に注目し,これらの動詞が共通して持っている特徴を探ることを目的とする。対象にした動詞を「非典型的な形容詞的動詞」と名付け,〈主体動作・客体変化動詞〉〈主体変化動詞〉〈主体動作動詞〉に分類した。それから,〈主体動作・客体変化動詞〉の考察を通して立てられた「形容詞的用法になりうる動詞は,主体もしくは客体に結果を残す動詞でなければならない」という仮説が,〈主体変化動詞〉と〈主体動作動詞〉にも当てはまるのかを検証した。結果,次のようなことが明らかになった。1. 〈主体動作・客体変化動詞〉と〈主体変化動詞〉は形容詞的用法になりやすい。これは,主体の変化であれ客体の変化であれ,変化を含意する動詞は,「変化の結果継続」という〈2次的状態〉を表すことができることから,形容詞的用法になりやすいと考えられる。2. 〈主体動作動詞〉は形容詞的用法になりにくいが,「押す」のような結果が主体に認識されやすい形で残る動詞は形容詞的用法になりうる。3. 「非典型的な形容詞的動詞」の形容詞的用法は「タ」形と「テイル」形両形式が使われる。同じ事態を2つの異なる形式で表すことは,主体が客観的事態のどの部分を焦点化して捉えているかという認識が関わってくると考えられる。Several Japanese verbs have both adjectival and aspectual uses. The purpose of the present paper is to identify some properties shared by these verbs, focusing on their remaining results of change. I named these verbs atypical adjectival verbs, and classified them into three types: (I) verbs of subject's action and change in object, (II) verbs of change in subject, and (III) verbs of subject's action. I observed I-verbs, and made a hypothesis on them that each II-verb having an adjectival use must be the one leaving some effect of the action it denotes on its subject or its object. Then I verified my hypothesis by applying it to I- and II-verbs. The result I achieved is the following:1. I- and II-verbs are allowed to be used as adjectives. This is due to the fact that each verb implying “change” is able to express a secondary “state” as the remaining result of change, whether it is effected on its subject or object.2. III-verbs are not readily allowed to be used as adjectives. It should, however, be noticed that verbs such as “osu” (push), the result of whose action remains as recognizable to its subject are allowed as adjectives.3. The adjectival uses of the atypical adjectival verbs are allowed both in ta- and teiru-forms. These two different forms are supposed to depend on which part between subject and object is to be brought in focus.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.191-209, 2013

ハンセン病療養所のなかで60年ちかくを過ごしてきた,ある女性のライフストーリー。 山口トキさんは,1922(大正11)年,鹿児島県生まれ。1953(昭和28)年,星塚敬愛園に強制収容された。1955(昭和30)年に園内で結婚。その年の大晦日に,舞い上がった火鉢の灰を浴びてしまい,失明。違憲国賠訴訟では第1次原告の一人となって闘った。2010年8月の聞き取り時点で88 歳。聞き手は,福岡安則,黒坂愛衣,金沙織(キム・サジク),北田有希。2011年1月,お部屋をお訪ねして,原稿の確認をさせていただいた。そのときの補充の語りは,注に記載するほか,本文中には〈 〉で示す。 山口トキさんは,19歳のときに症状が出始めた。戦後のある時期から,保健所職員が自宅を訪ねて来るようになる。入所勧奨は,当初は穏やかであったが,執拗で,だんだん威圧的になった。収容を逃れるため,父親に懇願して山の中に小屋をつくってもらい,隠れ住んだ。そこにも巡査がやってきて「療養所に行かないなら,手錠をかけてでも引っ張っていくぞ」と脅した。トキさんはさらに山奥の小屋へと逃げるが,そこにもまた,入所勧奨の追手がやってきて,精神的に追い詰められていったという。それにしても,家族が食べ物を運んでくれたとはいえ,3年もの期間,山小屋でひとり隠れ住んだという彼女の苦労はすさまじい。 トキさんは,入所から2年後,目の見えない夫と結婚。その後,夫は耳も聞こえなくなり,まわりとのコミュニケーションが断たれてしまった。トキさんは,病棟で毎日の世話をするうちに,夫の手で夫の頭にカタカナの文字をなぞることで,言葉を伝える方法を編み出す。会話が成り立つようになったことで,夫が生きる希望をとりもどす物語は,感動的だ。 トキさんは,裁判の第1次原告になったのは,まわりから勧められたからにすぎないと言うけれども,その気持ちの背後には,以上のような体験があったからこそであろう。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.121-152, 2011

中村秀子さん(仮名)と村田直子さん(仮名)は、大阪府で生まれ育った姉妹である。秀子さんは1934(昭和9)年生まれ。直子さんは1937(昭和12)年生まれ。聞き取りは、2006(平成18)年3月、秀子さんの自宅でおこなわれた。聞き取り時点で、秀子さんが72歳、直子さんが68歳。聞き手は、福岡安則と黒坂愛衣。この姉妹の語りは、父と兄という男の働き手がハンセン病療養所に「強制収容」されたあとの、悲惨な暮らしぶりをあますところなく証言している。食べるに事欠いた話。遊び相手は誰もいなくなった話。そして、姉は小学校4年で学校へ行くのを止めて、近くの被差別部落の零歳な工場に働きに行った。誰も相手にしてくれない状況のなかでも、近所の素麺屋のおばさんひとりが、素麺の切れ端をこっそりと取っておいてくれたおかげで、生きながらえたという。また、部落のひとたちも、温かかったという。絶望のなかでの一縷の救い、というべきか。戦後まもなく父は邑久光明園で死亡し、ほどなく母も体を壊して死ぬ。姉妹は、「絶対に、こっから動くもんか」と、開き直って生地で生活しつづける。しかし、それは、もとは人の住むところではない「納屋」での暮らしであった。妹は、ひとの勧めで結婚するが、父や兄のことが「バレはしないか」と怯えて暮らす毎日だったと語る。姉妹ふたちの語りは、<意地>と<怯え>という主題を繰り返しくりかえし述べるものとなっている。――ロンド形式の音楽のように、繰り返し同じ主題に立ち返っていく。それだけ、<意地>と<怯え>の想いは、積もり積もったものとなっていて、この聞き取りで噴き出してきたのではないかと思われる。それゆえ、強引な編集によって、時系列にそって筋の通った物語に編み直してしまうことは避け、つねに過去に立ち戻りつつ語られていくという、ふたりの語りの原型をできるだけ保つように留意したことをお断りしておきたい。そしてまた、邑久光明園から多摩全生園に移った兄へのいたわりの話がつづく。それは、兄のどんな我が儘をも受容してきた妹たちの気持ちのあらわれとして語られている。最後は、やっとハンセン病遺族・家族の会である「れんげ草の会」の人たちと出会えたことの喜びが語られる。同時に、家族の立場で国の「隔離政策」に苦しめられてきたことへのお詫びとして、わたしたちの老後を「ハンセン病療養所」で面倒みてくれても当然ではないか、という要望も吐露される。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣 下西 名央
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.153-169, 2011

匿名希望Aさん(女性)は、1915(大正4)年、奄美大島生まれ。国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」が開園したのが1935(昭和10)年秋であるが、彼女は早くも1937(昭和12)年に入所している。1年後、同じ病気の男性と星塚敬愛園から逃走。1943(昭和18)年、外の社会で産んだ子どもを連れて再入所。親許から引き離されて「未感染児童保育所」に入れられた子どもは、1年後に死亡。2009(平成21)年10月の聞き取り時点で94歳。Aさんの語りから、いくつも大事なことがわかる。第1に、星塚敬愛園が開園される以前、奄美大島には「らい病」の治療にあたる医師が1人いて、そのひと自身が「らい病者」であり、大風子の実を取り寄せて、入院患者さんたち自身に製薬させていた、ということ。第2に、やはり、星塚敬愛園が開園される以前から、天理教が、宗教による精神修養という面で、「らい病者」を含むさまざまな病者の救済活動に従事していた、ということ。第3に、「無癩県運動」が展開されていたはずの昭和10年代であっても、星塚敬愛園からの「逃走」は存外、容易だったようであること。第4に、1943(昭和18)年に子連れで再入所したとき、ただちに、子どもはいわゆる「未感染児童保育所」に有無をいわせず入所させられた。語りから推測されるかぎりでは、保育所での粗末な食事ゆえの栄養失調が子どもの死の遠因になったと思われる。療養所側に、「逃走」してまでふたりのあいだにできた子どもの命を、もっと大事にする態勢が用意できなかったのかと、悔やまれる。いや、もっと言えば、ハンセン病者にたいする「隔離政策」がなければこうはならなかったはず、という思いを抑えることはできない。
著者
松浦 智子
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 = Journal of Japanese & Asian Studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.95-109, 2011

明代に出現した二つの楊家将小説『北宋志伝』と『楊家府演義』には、楊業の第五子である楊五郎が契丹軍の囲みを抜け出し、五台山で出家する情節が見える。一方、宋代に編纂された複数の史書には楊業の息子が僧侶となる記述が見えない。では、史書には見えない「楊家将」の一員が「僧侶」となる故事は、どのような過程を経て出現したのだろうか。最初に「楊家将」と「僧侶」が結びついた例が見えるのは、南宋の話本「五郎為僧」であるが、注目されるのは、その後の元雑劇などに見える楊五郎が、五台山と深い関係を持っていることである。五台山は、仏教の霊場であるとともに、北辺に位置するという地理的条件から、古来、軍事的要衝でもあった。そのため、南北宋交替期の靖康の変の際には、五台山の僧兵たちが、抗金勢力となって金軍と戦った例が宋代の史書に複数みえる。こうした北敵の金と戦った山西五台山の僧兵の姿は、もともと西北系の軍人のために創設された南宋の瓦舎において芸能化されてゆき、それによって、同じく北敵の契丹と戦った山西の英雄「楊家将」の芸能と融合していったと推測される。その結果、五台山に出家し、対契丹戦で活躍する楊五郎の故事が出現したと考えられるのである。