著者
ベェチェスラフ カザケヴィッチ
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.29-42, 1999-03-31

プーシキンが国民詩人と呼ばれるのは、彼の詩が、ロシアに存在するすべてのものと調和をもって一体化したからであった。19世紀のロシア詩の関心は、プーシキンに創作の集中した。彼のテーマや手法にならった詩が大量に書かれた。20世紀には、ロシア詩がプーシキン自身の個性やその生涯により強く引きつけられ、人間プーシキンについて、彼の周囲の人々や物についての詩が次々に書かれた。19世紀に実在の人であったプーシキンは、20世紀には、ロシアの詩の登場人物となったのである。彼はいまやロシア文学にただ一人の、完璧な肯定的主人公である。しかし完全無欠のヒーロ-は、お伽噺(民話)の中にしか存在しない。そしてロシア民話は、いまだ彼をなんと呼ぶべきか、決めかねている。なぜなら、詩人プーシキンが依拠し、理想ともしたヨーロッパの高貴な遍歴の騎士イメージは、ロシア民話には異質のものだからである。プーシキンに言葉も行為も、一元的な扱いにはなじまない(例えば彼は幾つかの宗教的な詩行と、その何倍かの涜神的な詩を残した。愛国者であるとともに、世界市民であった、等)。そんな彼の中で、不変のものを求めるとすれば、それは誇り(自尊心)と騎士道精神である。プーシキンの誇りと騎士道精神をみてきた20世紀ロシア詩は、彼の伝統から幾つかのものを借用した。その第一は貴族性と戦闘性であるが、それはしばしば世界制覇への夢につながっている。プーシキンの愛の伝統が失われ、とりわけ最近の10年間に、ロシア詩はプーシキンへの変わらぬ忠誠を誓いながら、じつはプーシキンの理想から急激に離れて行っている。
著者
白村 直也
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.19-44, 2010-03-31

本稿は、帝政ロシア、及びソヴィエト政権初期のろうあ者が抱いた、コミュニケーションツールの選択をめぐる葛藤に、史資料に基づく客観的な考察を通してアプローチすることを目的としている。ろうあ者のコミュニケーションツールとして、手話(Sign Language)や口話(Oral Speech)というものがあることは、よく知られているように思う。帝政ロシア、及びソヴィエト政権初期ろうあ者が、それらをどのように捉えていたかと問うことは、この頃のろうあ者が自身の「障害」をどのように捉えていたかと問うことと密接な関連を持つ。もちろん、「社会」の中に生きるろうあ者にとっては、自身の「障害」を「社会」がどう扱うか(社会保障政策など)という外的な捉えを、(個人差こそあれ)無視することは決して容易なことではなかったに違いない。したがって本稿はそうした問いを、帝政ロシア、及びソヴィエト政権初期という史的な広い文脈に位置づけることによって理解・把握するよう努める。さまざまな対障害者社会政策の中でも、本稿が積極的に取り上げるのは、社会保障政策とろうあ教育政策である。そうした政策の中で「障害」や手話、そして口話はどのように捉えられていたのか。同時にそれら政策に対峙した(触発された)ろうあ者の「(特に手話や口話をめぐる)声」を積極的に取り上げることによって、より社会史的な分野で手話や口話の位置づけをみていく。題目に掲げるように本稿は、ソヴィエト政権初期の状況に、より多くの紙面を割く。帝政ロシア期の「成果」を踏まえ、また十月革命を経て、ソヴィエト政権初期のろうあ者は、手話や口話といったコミュニケーションツールをどのように捉えるに至ったのか。この点をうかがい知る上で本稿は、帝政ロシア期に活動の起源を持つ全ロシアろうあ者連盟(当事者社会団体、VOS:1926年に全ロシアろうあ者協会VOGに改名)を、ろうあ者の「声」を拾い上げるための「フィルター」として取り上げる。資料の面では、協会の機関紙「ろうあ者の暮らし(The Life of the Deaf)」上の記事を多用する。本稿は次の2点を今後の課題として残した。(1)本稿が主に扱う1920年代が、相対的に自由な議論が許された時期であることを思えば、その後の時期の議論とつき合わせることによって、1920年代の議論の特性を振り返る必要がある。(2)ソヴィエトに暮らした諸民族の中にもろうあ者がいたことを思えば、ろうあ者のコミュニケーションツールとしての手話や口話と、当時の言語政策との兼ね合いは非常に気になる点である。そうした点について今後考察を進めることを課題として残したい。
著者
生田 美智子
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.73-96, 1999-03-31

The purpose of this paper is to analyze the relationship between the Russian song, introduced to Japan by Daikokuya Kodayu, and its translation by him. Daikokuya Kodayu was a Japanese sailor who was cast ashore in Russia during the period of Japanese political isolation from the rest of the world. After a decade of wandering around Russia, he and his two compatriots returned to their homeland aboard a Russian embassy ship to Japan. Upon his return, he informed Japan about things he had seen and heard in Russia. Astonished by the abundance of his information, the Japanese government sent to him Katsuragawa Hoshu, a Rangakusha (that is, the representative of the so-called "Dutch Sciences"), in order to obtain more information about Russia. As a result, Hoshu's report "Short news about wandering in the North Seas" (Hokusa Bunryaku) was compiled. Hoshu inserted in this famous report one of the popular Russian songs of those days and the Japanese translation of it by Kodayu. In previous research about this song, scholars' attention usually focused on its authorship, but Kodayu's translation which accompanied it, up to now remained beyond any observation. In this paper we first tried to restore the original Russian text based on Kodayu's transcription, then analyzed divergences between the translation and original text. As a result, we came to the conclusion that in the divergences Kodayu hid asecret message. We also think that the Russian song of Kodayu is a hybrid of individual work and folklore, and the Japanese translation is also a mixture of translation and adaptation. In Russian history this song in turn became lyric, then a soldier's tune, and later on a revolutionary one. For some short period of its rich history, it also happened to become a connecting link between Russian and Japanese cultures.
著者
城野 充
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.41-52, 1996

It was "the public sphere", a space for the formation of public opinion to support Perestroika, that M. Gorbachev tried to create by means of Glasnost. In J. Harbermas' ideal terms, the public sphere is a social space where the circulation of information and views on questions of common concern can take place so that public opinion can be formed. However, in the Soviet Union this social space had been sealed since the 1930s. An open mass media is an essential element for the public sphere, since it permits all sorts of discourses to be freely communicated. Glasnost has opened the Soviet mass media to revive the public sphere. It goes without saying that Perestroika had a demand for the public sphere on a nationwide scale. In this sense it was very important that the television space has been opened by Glasnost. Glasnost in this television space appeared as a change from, in M. McLuhan's terms, "hot media" to "cool media". The Soviet TV program "The 12 floor" and "Vzglyad" have formed the television public sphere, and what these programs had in common was that both were "cool media". There we can recognize the formation of a polyphonic space where an ethos was rehabilitated and where a dialogue began to take place between "noises" that had hitherto been excluded. In other words, this space had the character of a public square. The public sphere in the television space had been formed by change: the "hot media" for monologue of the Communist Party was metamorphosed into a "cool media".
著者
菊池 隆之助
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.109-117, 2001-03-31

欧州環境閣僚会議でスロベニアは大気汚染を最大の環境問題として発言した。とりわけスロベニアでは石炭燃焼によるイオウ酸化物の大気中への排出が深刻化している。日本や欧米ではイオウ酸化物排出対策に脱硫装置が一般的に使用されるが、その対策としてスロベニア環境省は省エネルギーや天然ガスの普及を第一に掲げている。こうした実状を現地調査した結果、環境省発表の対策ではなく、発電所は低品位国産炭の使用を止め、高品位輸入炭に切り替えつつある対策を取っていた。この石炭代替政策はスロべニアの石炭業に影響を与え炭坑労働者から職を奪う可能性を含んでいる。それは15%の失業率をさらに引き上げることになる。またエネルギーの海外依存度も高くなり、外債を抱えるスロベニアにとって国際収支を悪化させることにもなる。環境改善のため、炭坑労働者は犠牲になってよいのか、自国産業を鈍化させてよいのかという命題をスロベニアの本ケースを基に考察し、環境と社会と経済を融合させる糸口を持続保存的開発の理念に立ち模索するものである。
著者
五十嵐 徳子
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.39-58, 159, 2002-03-31

筆者は、旧ソ連の共和国におけるポスト社会主義のジェンダーの状況を明らかにしている。本論において、グルジアにおけるジェンダーの状況ロシアと比較することにより明らかにしている。ロシアにおいては、1997年にペテルブルグ市において502人(男性231人、女性271人)にジェンダーに関する意識調査を実施した。また、グルジアでは、ロシアと同種のアンケート調査をグルジア共和国の首都トビリシの10地区でトビリシ大学文学部社会学科の協力を得て1999年4月に男女700人(男性333人、女性367人)に対してジェンダーに関する意識調査を実施した。このアンケートの質問項目は筆者が1996年1997年にロシアのサンクトペテルブルグで行ったものとほとんど同じものであるが調査項目数は、全部で21ある。なお、グルジアでのアンケートはロシア語版からの翻訳によってグルジア語で行った。本論は、グルジアとロシアのジェンダーに関する統計資料をまず、提示し、ロシアとの統計的な違いあるいは共通点について述べる。そして、次にグルジアにおけるジェンダーに関する意識調査について簡単に述べたのち、ロシアと比較しながら、グルジアのジェンダー意識を分析している。そして、最後に、結びとして全体を総括し、今後の傾向について予測している。なお、旧ソ連全土における意識調査は実施しておらず、最終的な結論を導き出すことができなかったが、これまでの旧ソ連のジェンダー研究にはなかった新しい研究であり、これが、旧ソ連のジェンダー研究に一石を投じるものになれば幸いである。
著者
小林 潔
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.87-102, 2004-03-22

O.O.ローゼンベルク(1888-1919年)は、大正時代に来日し漢字研究および仏教研究に従事したペテルブルク東洋学派の日本学者である。仏教学者シチェルバツコイの高弟で、日本語はペテルブルク大学で黒野義文に、ベルリンで元東京大学教授ランゲおよび辻高衡に学んだ。1912年〔明治45年〕に来日。これは師であるシチェルバツコイの意向であった。シチェルバツコイは当時、日本をも含めた各国の研究者と倶舎論(5世紀の仏教書)研究を推進しており、日本に残る伝統的な教学を学ばせるためにローゼンベルクを東京に派遣したのである。留学時の指導教授は姉崎正治、専門の仏教研究では、シチェルバツコイとともに倶舎論研究グループを形成していた荻原雲来が指導に当たった。日本の同僚とも親しくつきあい、また同時期に留学していた同窓の日本研究者ネフスキーやコンラットとも交流を続けている。また、ドイツ東洋文化研究協会(OAG-Tokyo)で仏教論を発表したほか、日本の学界に向けて倶舎論研究上の問題点について問う文書を公開している仏教研究を続ける一方、彼は、外国人にとっても使いやすい用語辞典と漢字典が無いことを嘆き、これらの制作を決意し、日本人と協力しつつ在日中に2つの辞書を実際に刊行した。1つは、仏教研究に必要な術語、日本史、神道の用語を集めた一種のコンコーダンス『佛教研究名辞集』(1916年〔大正5年〕)である。ここでは術語は漢字毎に排列されており、発音を知らない外国人でも検索しやすいものになっている。また、中国語音、対応する梵語術語を掲げ、語の解説に関しては別の然るべき便覧への参照指示がつけられている。もう1つは、外国人にとって日本語学習のネックとなっている漢字を解説した字典『五段排列漢字典』(1916年〔大正5年〕)である。ここで彼は従来の部首引きを批判し、ペテルブルク中国学の伝統に基づいた新たな漢字分類法を提唱、それに基づいて漢字を排列している。これは漢字の図形的要素に注目した分類であった。1916年〔大正5年〕に帰国。ペテルブルク(ペトロダラート)大学でエリセーエフらと日本研究に従事する中で、1918年、日本・中国の伝続的教学の知見と倶舎論研究に基づいて博士論文『仏教哲学の諸問題』を執筆する。ここで彼は、仏教の基本概念である「法(ダルマ)」について詳細な分析を行った。翌1919年に亡命、31歳でレヴァル(タリン)にて死去した。没後、彼の博士論文は、独訳されて世界の東洋学者に影響を与えることとなった。日本の和辻哲郎もローゼンベルクの独訳論文を活用しつつ仏教研究を行っている。独訳からの重訳で日本語訳も刊行され、ローゼンベルクのこの著作は現在の日本の仏教学界でも基本文献とみなされている。ローゼンベルクが提唱した漢字排列方法は、ソ連・ロシアで刊行される中国語辞書で採用され、今日まで用いられている。また、アメリカでもローゼンベルク方式を採用した漢字字典が刊行されている。ローゼンベルク方式は今なお生きているのである。ローゼンベルクは、仏教学及び漢字研究に於いてアクチュアルな意義を有する業績をあげた。この意味でロシア東洋学史上の重要人物である。また、その業績は、在日中の研鑽の結果であり、日露の学者の協同の成果でもあった。日露文化交流史上でも価値ある存在であり、その生涯と業績について更なる研究が侯たれる。