著者
山沢 和子 加藤 宏治 上野 良光
出版者
東海学院大学・東海女子短期大学
雑誌
東海女子短期大学紀要 (ISSN:02863170)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.31-35, 1986-03-31

クワイ脂質から苦味成分を分離し,その性状について検討した。(1)クワイの総脂質は生クワイの0.28%を占め総脂質中の中性脂質,糖脂質およびリン脂質の組成は38 : 24 : 39であった。このうち,中性脂質画分で強い苦味が認められた。(2)中性脂質画分からの苦味成分の分離法としては,展開溶媒にヘキサンーエチルエーテルー酢酸の溶媒系を用いるシリカゲル薄層クロマトグラフィーが有効であった。(3)クワイの中性脂質は,シリカゲル薄層クロマトグラフィーで10個の化合物に分離された。そのうち3化合物(苦味A,BおよびC)に苦味が認められ,最も苦味の強かった苦味Bがクワイの主たる苦味成分と考えられた。さらに,苦味Bは,本実験で用いた標品(トリグリセリド,ジグリセリド,モノグリセリドおよび遊離脂肪酸)とは異なる化合物であった。(4)シリカゲル薄層クロマトグラフィーで分離した苦味A,BおよびCは,温度および酸素の影響を強く受け,大気中・25℃の保存で1週間後にすでに苦味を消失していた。
著者
生田 純子
出版者
東海学院大学・東海女子短期大学
雑誌
東海女子大学紀要 (ISSN:02870525)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.89-103, 2000

学校教育相談の進め方として、今年度はスクールカウンセラーの活動を中心にまとめてみた。文部省派遣のスクールカウンセラーとして、二つの高校へ2年問ずつ関わったが、この2校はかなり異なったタイプの高校であって、一つは普通科の学校で、もう一つは職業高校で生徒のレベルも高く、学校規模も大きかった。また、教員の組織も教育相談を校内の組織の中にどう位置付けるかも異なっていた。普通科の方はカウンセラーが派遣されても受け入れの態勢として、カウンセラーをどう位置付けるかの配慮がなされていなかったので、カウンセラーは学校の教育相談係の手伝いのような形で存在するより他なかった。職業高校の方は、初めからスクールカウンセラー連絡会議を設けて、定期的に開かれており、生徒指導係との連絡もスムーズであった。また校内の相談の窓口の養護教諭と密接に連絡を取っていたので、情報の入手も早かった。週2回、1回4時間という制限の中で、カウンセラーが不在の時の相談の受け入れ態勢が大きく問題になる。窓口となる教員の教育相談に関する力や、その係に対して割くことのできる、時間の問題、場所、などによって、カウンセラーの活動は左右される。たえず活動している学校は、問題もたえず発生していると考えられる。どこまでを問題と考え、どれをチェックするかは、窓口となる係の能力に大きく関わっていた。カウンセラー側としても係の力を高めることから始め、学校内に教育相談の初歩的な知識や対処法についてのノウハウを理解してもらうために力を注がねばならなかった。そのためカウンセラーの責任で受付、治療していくという通常の臨床的な手法だけでは通用せず、もどかしさを感じた。カウンセラーが学校にいる時だけのカウンセリングでは、カウンセラーを置く2年間の期間を終了した時、学校は独り立ちできないということになる。やはりカウンセラーがいなくても何とかこなしていける実力の養成が急務であった。高校生の問題として、思春期特有の対人関係の難しさに加え、現在の高校生の精神的な未熟さが目だった。特に他の人を思いやるとか、自分のために誰がどうやってくれているのかという事については無知としか言い様がない場面があった。女子のいじめや、男子の無気力さも同じ路線上にあるのであろうが、自己中心的な考え方が、高校生活で拭い去られるとは考えにくいので、社会に出てからの社会不適応が心配される。高校生の中途退学が問題にされているが、そもそも中学生の高校全員入学という考えが無理なのではないかと実感した。本人たちも高校へ行かず就職すれば良かった、皆がいくのでつい釣られて、と述べているように、自分の適性や将来の希望など、もっとはっきりさせた.止二での高校入学がなされていれば、初めから高校に入るべきではなかった生徒達がもっとあるということになる。学習についていけなかったり、嫌いだったり、将来の目的もはっきりしないままに高校へ入学してきたというのがまず問題である。親や周囲の人々がすすめるままに、自主性のない進路決定が考え直されねばならない。次に教育研究所のコンサルテーションについてであるが、この研究所は適応教室を持っていて、その生徒や管轄の11の小中学校の教員に対するコンサルタントであった。適応指導教室の運営や指導方法については特に問題はなかったが、そこに通う生徒達への対応について教育相談員と話し合う事は効果的であった。特に、不登校に対する「登校刺激」については「与えない」という立場を強調されれば適応指導教室そのものの存在意義がなくなってしまうところであった。学校にも「与えない」という事に疑問を持ちながらも、医師や相談機関でそう言われたという親に対しての遠慮から、手を束ねているようなところがあった。明確に登校刺激を「与えよう」とその理由も示し、学校側を励ました事は、教員にも意欲を持たせ、〔、1信を持って生徒に'i1たることが出来て効果も上がった。カウンセラーがコンサルテーションに行くことで、前もって研究所側が学校と連絡を取り、子どもや教師の問題についての理解を得ていったことが、学校と研究所との関係をよりスムーズにし、その後の経過もオープンに伝わってくることになった。このことはコンサルテーションそのものの効果というよりは、それを受けることで改善が自然に行われていったということになろう。臨床心理士としてコンサルテーションを行う場合、カウンセリングとは異なって、1回限りで何らかの方針を打ち出さなくてはならないという問題があった。そのために相談する人の問題を理解し、何をここで話し合うかを決め、H標を定め、自分は何が出来るかを考える。その際、すでになされていることは何かに気付き、認めること。そして目的に関しての具体的な手順を話し合うことである。その際、必ずコンサルティのよい面を認め、元気になって帰ってもらうことが必要である。ピア・サポートとは子どもたちが何か悩みを抱えたり、困った時、自分の友達に相談することが最も多いという事実に基づいて考え出された方法である。そして子どもたちが他の人を思いやることを学ぶための一つの方法である。また、ピア・サポートは、コミュニケーション・スキルに拠るところが大きい。ピア・サポートは、子どもたちが他の生徒を助ける人的資源となれるように支援することである。彼らを支援することで、仲問をケアーすることの模範を他の子に対して示すことにもなり、やがては、思いやりあふれる学校環境を作り出すことにも繋がる。
著者
生田 純子
出版者
東海学院大学・東海女子短期大学
雑誌
東海女子大学紀要 (ISSN:02870525)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.233-249, 1991

三女の登校拒否に悩むCIは自分自身孤児で、養父母に育てられた。最初の夫との間にできた長女もかつて登校拒否をして、中学校をやっと卒業させてもらっている。三女は小学校の5年生から登校拒否があり、その間施設へ入所して治療をしたり、やせ症になって病院に入院したりするが、欠席のまま中学校へ進む。中学校では1年の1学期のみ登校しまた欠席が始まる。治療は、2年の2学期の11月から中学校の卒業まで続けられた。問題は、母親(CI)の母性の未発達にあった。孤児であったClを育ててくれた養父が、絶大な権力を振るい、αは何ごとも養父の言うままに行動し、かつ常に叱られ、けなされて成長した。自分の子供の教育もできない母親であると思いこまされ、夫と共に親らしい役割を果たせない状態であった。三女はその養父に可愛がられて、Clの悪口を聞かされてきたので、思春期を迎えて母親であるClの状態を見るにつけ、その生き方を否定してきた。やせ症はその状態で起きたものであった。その養父が死んで、半年後からこの治療が行なわれた。Clは養父の指図に口を挟むことができなかったので、自分の気持ちに自分で気付くことがなかった。面接が進む中で、やがて、このClは自分で考え、その気持ちを治療者に語ることで、内なる母性性を取り戻し、家の中でも母親としての役割を十分果たすことができるようになってきた。それと共に、三女も学校の協力を得て、授業後の学校へ行き、担任の指導を受けたり、テストを受けたりできるようになり、ついには希望の高校の入試を受けられるまでになった。母親の成長と共に、三女も登校拒否から立ち直ったのである。