著者
オーリ リチャ
出版者
言語文化教育研究学会
雑誌
言語文化教育研究
巻号頁・発行日
vol.14, pp.55-67, 2016

<p>本稿は日本における多文化共生と向き合うべく,ある異文化交流の場に焦点を当て,そこであたりまえのように行われている「◯◯国」を紹介する活動に対し持っている違和感を明らかにすることを目的としている。Hall(1997)が提唱する表象の概念を用い,「◯◯国」を表象する行為は必ずしも「無害」ではなく,(1) 差異の強化,(2) 二項対立の構図の構築,(3) ステレオタイプ構築に繋がる行為であることが記述できた。その背景には常識の支配力やヘゲモニーの維持に関連するイデオロギーが見え隠れしていることも明らかになった。また,日本社会の構成人である母語話者・非母語話者一人一人が「市民」になるためには,(1) 批判的意識,(2) 有標質問・有標イメージに対する認識,(3) 文化の再考,(4) 「わたし」という存在に対する認識が必要であることが示唆できた。</p>
著者
中川 康弘
出版者
言語文化教育研究学会
雑誌
言語文化教育研究
巻号頁・発行日
vol.16, pp.84-95, 2018

<p>語り手の多くが日本語非母語話者である日本語教育のナラティブ研究には,語り手に対する「虫のよさ」がつきまとう。本稿では好井裕明が『語りが拓く地平』(2013)において示した「虫のよさ」を再定義し,規範を批判的に問い直す運動過程を「生成変化」としたドゥルーズ/ガタリ(2010)の『千のプラトー』を手掛かりに,留学生 1名へのインタビューから聞き手である私の「構え」の省察を試みた。それにより,語り手に対峙する日本語教育研究者に,自らの立ち位置の再考の契機を与えるナラティブの可能性を示すことを目的とした。結果,留学生の語りに表れた葛藤をかわし,「構え」に固執することで,私自身が相手から気づきを得る生成変化の機会を逸していた。ここから,日本語教育研究者が陥りやすい「虫のよさ」の問題には,語り手の葛藤や疑問に自己を投影しながら共に解決に向かう過程に,生成変化をもたらす可能性を秘めていることがわかり,そこにナラティブ研究,実践の意義が導き出された。</p>
著者
サトウ タツヤ
出版者
言語文化教育研究学会
雑誌
言語文化教育研究
巻号頁・発行日
vol.16, pp.2-11, 2018

<p>ナラティブという概念の起源や,主として心理学においてナラティブという概念がどのように注目を浴びたのかについて概説する。また,ナラティブモードがもつ論理科学的モードとは異なる機能やこれら2つのモードの相補性について注意を促し,あわせて TEA(複線径路等至性アプローチ)を用いた研究の可能性についても論じていく。</p>
著者
瀬尾 匡輝 瀬尾 悠希子 米本 和弘
出版者
言語文化教育研究学会
雑誌
言語文化教育研究 (ISSN:21889600)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.83-96, 2015-12-30 (Released:2016-03-21)

近年,各教育機関が日本語・日本語学習の魅力を高め「商品化」に努めたり,学習が商品として「消費」される傾向が強まっている。本稿では,日本語教育の商品化が顕著な香港の語学学校で働く池田さん(仮名)の意識を中心に,教師がどのように教育の商品化を経験しているのかを探った。非常勤講師である池田さんは,自分の雇用を守るために,学習者の満足度を重視し,商品化を試みる教育機関の方針に従わざるを得ず,目指したい教育実践・学習者が求めるもの・教育機関の方針の間で葛藤を抱いていた。そして,学習者の満足度を高めることが最優先され,学習者の表面的/一時的な興味・関心に偏った教育実践が生み出される構造が教育の商品化にはあることが浮き彫りとなった。今後は,商品化の利点と弊害について教師の視点も含めて議論を深め,どのように日本語教育の商品化と消費に対峙していくかを考えなければならない。
著者
瀬尾 匡輝 瀬尾 悠希子 米本 和弘
出版者
言語文化教育研究学会
雑誌
言語文化教育研究 (ISSN:21889600)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.83-96, 2015

近年,各教育機関が日本語・日本語学習の魅力を高め「商品化」に努めたり,学習が商品として「消費」される傾向が強まっている。本稿では,日本語教育の商品化が顕著な香港の語学学校で働く池田さん(仮名)の意識を中心に,教師がどのように教育の商品化を経験しているのかを探った。非常勤講師である池田さんは,自分の雇用を守るために,学習者の満足度を重視し,商品化を試みる教育機関の方針に従わざるを得ず,目指したい教育実践・学習者が求めるもの・教育機関の方針の間で葛藤を抱いていた。そして,学習者の満足度を高めることが最優先され,学習者の表面的/一時的な興味・関心に偏った教育実践が生み出される構造が教育の商品化にはあることが浮き彫りとなった。今後は,商品化の利点と弊害について教師の視点も含めて議論を深め,どのように日本語教育の商品化と消費に対峙していくかを考えなければならない。
著者
牛窪 隆太
出版者
言語文化教育研究学会
雑誌
言語文化教育研究 (ISSN:21889600)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.13-26, 2015-12-30 (Released:2016-03-21)

近年,「日本語教育学」をめぐって,従来の日本語教育のあり方を批判的にとらえ,日本社会に位置づけ直そうとする議論が盛んになっている。国内大学のグローバル化戦略にともない,日本語教育に期待される役割も,今後拡大していくことが予想される。日本語教育を日々実践しているのが,現場の教師であることを考えれば,従来の日本語教育のとらえ直しとは,現場の教師それぞれが,自身の教師としての役割を再考しなければ,達成されないものである。本稿では,研究者であり教師でもある筆者の立場から,現場の日本語教師がおかれた教師環境を検討し,その問題点を指摘する。そのうえで,日本語教育で主張された「自己成長」論を批判的に検討することから,現場の教師が,「フリーランス」の専門家であろうとすることによって生まれる拘束性から,お互いを逸脱させていくための「同僚性」構築を,日本語教育において構想する必要性を主張する。
著者
福元 美和子
出版者
言語文化教育研究学会
雑誌
言語文化教育研究
巻号頁・発行日
vol.14, pp.162-173, 2016

<p>明治期は近代日本語の歴史においてもっとも変化と躍動が起きた時期である。鎌倉室町期以降,さまざまなお国ことばが混在した話し言葉と書き言葉が大きく乖離した状態で受け継がれてきた日本の言葉を,全国で統一した話し言葉,さらに言文一致が求められるようになっていった。その先駆けとして森有礼は「日本語廃止論・英語採用論」を唱えたとされている。本稿では,後世に渡って批判の的とされてきたその原点ともいえるアメリカの言語学者ホイットニーとの書簡のやりとりの一部分を中心に,森有礼は本当に「日本語廃止論・英語採用論」を提唱したのか考察を試みる。</p>