著者
水野 善文
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.1, pp.382-375,1271, 2005-12-20 (Released:2010-03-09)
参考文献数
17

The aim of this paper is to contribute to the knowledge of the development of literacy in ancient India by researching the custom of writing epistles found in the Pall Jataka. Because this text contains many descriptions of epistles, some of which were written by townsmen and a merchant's wife, we can assume that the custom of writing epistles was more widespread than our current estimate. We can also find some indication regarding the types of materials that were used for writing epistles. Since we are aware of only two examples in canonical verses (gatha) and others in later commentaries (Jatakatthavannana, etc.), we cannot definitely ascertain the inception and duration of the custom of writing epistles in India. However, this research can help us acquire other information on this phase of development of literacy in ancient India.
著者
吉水 千鶴子
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.64, no.3, pp.1246-1254, 2016-03-25 (Released:2017-09-01)
被引用文献数
1

ダルマキールティはその著書『プラマーナヴィニシュチャヤ』第3章「他者のための推論」の中で,帰謬論証の例をあげる.帰謬(プラサンガ)論証は対論者の主張を論駁するためのものであり,相手の主張から主題とその属性を借用し,それを前提条件として,そこから相手にとって不合理な結論を導き,相手の主張の矛盾を指摘することにより論駁する仮言論証である.ダルマキールティも帰謬論証が対論者によって構想された属性にもとづくことは認めているが,彼が提示する論証式は以下の点で,それまでの帰謬論証とは大きく性格を異にする.(1)論証因を用いること,(2)仮言的表現を用いないこと,(3)遍充関係に相当する論証因と帰結の二つの属性の必然的関係が肯定的否定的遍充の両方で示されること,(4)その必然的関係は実在にもとづくこと.さらに,ダルマキールティが考える「論証因」は,借り物の主題の属性にはなり得ないが,そのような主題を離れれば,正しい認識(プラマーナ)によって成立し,対論者立論者両方によって認められるものである.その「論証因」から必然的に導き出される帰結は論理的帰結であり,誰もが認めざるを得ないものである.このような論証因の導入は革新的なことであったが,これなくして説得力をもった対論者の論駁はなしえないとダルマキールティは考えたのであろう.本論文は,このような彼の意図を明らかにすると同時に,彼が用いる「本性」(svabhava)という語は自らの存在そのものを指すのではないか,また「本来的論証因」(maulahetu)は「自らの理解,認識に根ざした論証因」すなわち他者のための推論にいうところの「自ら認めたもの」(svadrstartha)を指すのではないか,という解釈を提示した.
著者
鈴木 隆泰
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.1263-1270, 2015-03-25 (Released:2017-09-01)

『法華経』の「法華七喩」の中に,有名な長者窮子喩がある.一方,『法華経』や『涅槃経』等の影響下に作成された,如来蔵系経典である『大法鼓経』にも長者窮子喩が説かれている.両者には共通点も多い反面,最大の相違点として,『法華経』の長者窮子喩では,貧者は長者の家で仕事をしつつも財産を望まず,長者から真実を告げられ,思いもかけずに相続者となるのに対し,『大法鼓経』では,長者から真実を聞かされる前であったにもかかわらず,貧者は自発的に財産の相続者となることを望み,そして長者から真実を告げられ,望み通りに相続者となる,という点が挙げられる.この『大法鼓経』の長者窮子喩は,実子で〔あると〕は〔まだ知らされてい〕ない者が相続者になりたいと自ら望むという点において,血統・家柄を重んじるインド社会の価値観から見て非常に不自然であるとの指摘もなされてきた.本研究では長者窮子喩のみに限らず,両経典の一乗や解脱を巡る教説を辿ることによって,両者の異同の理由を探った.以下に結論を提示する.『法華経』は,一乗・一切皆成の根拠を衆生の外側(諸仏の誓願)に見出している.そのため衆生は,一切皆成であると「諸仏に教えてもらわなければならない」.これが,貧者が長者から教えられて,自分が息子・財産の継承者であったことがはじめて分かるという構図に連なっている.なお,一乗を主張するためには,すでに解脱を得ている阿羅漢の成仏も保証しなければならない.そのため『法華経』は,"解脱した者はもう二度と解脱できない"という従来の理解に挑戦することとなり,結果,それまでの「常識,前提」を覆し,「輪廻からの離脱は真の解脱ではない」「三界を離脱しても不死ではなく再生する」という驚くべき説を提唱するに至った.一方の『大法鼓経』は,『法華経』の提唱した「成仏するまでは複数回解脱できる」という説を継承しながらも,一乗・一切皆成の根拠については『法華経』とは異なり,「衆生の内側に実在する如来蔵・仏性」に見出している.そのため,「教えられずとも衆生(貧者)の側から成仏(財産)を求める」という構図を描くことが可能となった.さらには,如来蔵・仏性思想の一大特徴として,そもそもこの思想自体が「如来目線の教え」であることも関係していると思われる.如来であれば,他より教えられずとも一切皆成を最初から知っているからである.『法華経』とは異なり,『大法鼓経』の長者窮子喩が仏弟子ではなく釈尊の所説となっていることも,この仮説を支えるものと判断される.たしかに『大法鼓経』の長者窮子喩には,血統主義に立脚するインド社会・世間的価値からは「非常識」とも見なされる面がある.しかしインド仏教には,「如来=父,仏弟子=実子」という,世俗の親子関係を超えた「出世間の親子関係」という考え方が伝統的に存在していた.この伝統に照らし合わせるとき,『法華経』よりもむしろ『大法鼓経』の長者窮子喩の方が,出家主義・行為主義を標榜するインド仏教の文脈により沿うものといえる.
著者
阪本(後藤) 純子
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.59, no.3, pp.1075-1083, 2011-03-25 (Released:2017-09-01)

ヴェーダ文献(紀元前1200-500年頃)に残る太陰太陽暦では,月の形態および月と白道近辺の恒星の位置関係により月日が決定される.祭式の日時を決定するために月の朔望と運動が注意深く観察され,naksatra-「月宿」の概念が成立する.月は朔から朔の間(1朔望月:約29.53日),白道近辺にほぼ等間隔に位置する恒星(群)に順次近づき,朔の夜(amavasya-)には太陽と合一して姿を消す.これらの恒星(群)(RVでは太陽を含む)はnaksatra-「(月が)到達する所」「月宿」と呼ばれ,月と恒星との位置関係を示す指標となる.krttikas(Pleiades昴)を起点とするこれらの恒星(群)は,ヨーロッパ青銅器時代の考古学遺品(Nebra Sky Disk)が示唆するように,ヴェーダ期を遙かに遡る古代に起源を持つ可能性がある.Naksatra崇拝や婚姻・戦闘等のために吉祥なNaksatraを選ぶ風習は,光(太陽・火)を崇め闇・夜を避ける傾向の強いヴェーダ祭式よりも,むしろ民間儀礼において発達し,部分的にシュラウタ祭式に取り入れられた形跡が伺える.Naksatraの列挙はAtharvaveda XIX 7,Yajurveda-Samhitaマントラ(Agnicayana火壇第五層のNaksatra煉瓦:Maitrayani Samhita II 13,20,Kathaka-Samhita XXXIX 13,Taittiriya-Samhita IV 4,10),Taittiriya-Brahmanaマントラ(15,1:Naksatra祭?),マントラと散文(III 1:Naksatra献供)に見られ,さらに部分的にTB散文(I 5,2-3:Naksatra解説)にも残るが,いずれも後代の補遺部分とみなされる.これらのNaksatraの列挙は,朔望月に基づく28 Naksatra方式と恒星月に基づく27 Naksatra方式に分類されるが,前者は月と恒星の位置を正確に反映せず,後者は朔望月の日付と対応しない.この矛盾を解決するために,上記Agnicayanaのマントラおよびシュラウタ・スートラでは,本来は次元の異なる概念である満月・朔の夜を27 Naksatraに付け加えるなどの工夫が試みられる.より平易な28方式は一般大衆の民間儀礼に好まれ,より正確な27方式は祭官学者間に普及したことが上記文献から推測される.(後者はJyotisa以降の天文学において黄道の均等な27区分に変質する.)
著者
Elizabeth N. TINSLEY
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.1284-1287, 2010-03-25 (Released:2017-09-01)

この論文において,『遍明院大師明神御託宣記』(以下『託宣記』と称す)の制作過程を検討する.同テキストは,建長3年(1251年)にあった託宣の記録として,高野山中院流道範(1184年-1252年)によって記されたと伝えられる.道範は1249年に配所から帰山した.現存する写本には,託宣自体とともに仁治3年(1242年)に起きた金剛峯寺と大伝法院の間の紛争と,仁治4年(1243年)にあった道範を含めて金剛峯寺僧侶の配流についての叙述の部分もある.『託宣記』が作成された時期は,仁治3年の紛争の時期に近く,事件についての情報源も詳しく,貴重な史料であるにもかかわらず,この事件に関する先行研究では『託宣記』との関係については,ほとんど無視されていた.道範が高野山へ帰山が許されたのは1249年であり,大伝法院の再建を条件とするものであったと史料上に示唆されている.しかしながら,『託宣記』には,大伝法院の再建・僧侶の帰山にたいする記述が見られない.それどころか,配流のすぐ後に著されたテキストのように見える.高野山中院流学侶宥快(1345-1416)の著書(『阿互川草薬中記』(1413頃著)など)によると,この託宣自体は,配流以前に下されたものとして理解されている.この宥快による理解は,従来考えられていた『託宣記』の作成時期,作成背景,構造と著者について再考を提示するものであり,テキストの解釈を見直す必要があると思われる.
著者
古賀 克彦
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.55, no.2, pp.761-767,1260, 2007-03-20 (Released:2010-07-01)

In recent years, there has been extensive publication of reprints of historical records pertaining to Modern-Period temples. They are published in various forms, such as as supplementary materials for the official history of local communities and reports of the study of old manuscripts carried out by groups of citizens and scholars. This paper proposes an investigation of how to utilize these book-format historical materials with such titles as ‘daily record’ and ‘diary.’ As is well known, previous studies have limited their scope either to one Buddhist sect or one temple. And although the shortcomings of such a practice have been pointed out, there do not seem to be any deviations from this practice. It should be made clear that these materials contain not only the records of annual events and private life but also those of an official nature pertaining to the Government, Imperial Court and Head Temple. As such, it is proposed that they may be used to provide a synchronic record of Modern Period Japanese history.