著者
鈴木 隆泰
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.1143-1150, 2013-03-25

筆者はこれまで,『金光明経(Suvarna[-pra-]bhasottamasutrendraraja)』の制作意図に関して以下の<仮説>を提示してきた.・大乗仏教出家者の生き残り策としての経典:『金光明経』に見られる,従来の仏典では余り一般的ではなかった諸特徴は,仏教に比べてヒンドゥーの勢力がますます強くなるグプタ期以降のインドの社会状況の中で,余所ですでに説かれている様々な教説を集め,仏教の価値や有用性や完備性をアピールすることで,インド宗教界に生き残ってブッダに由来する法を伝えながら自らの修行を続けていこうとした,大乗仏教出家者の生き残り策のあらわれである.・一貫した編集意図,方針:『金光明経』の制作意図の一つが上記の「試み」にあるとするならば,多段階に渡る発展を通して『金光明経』制作者の意図は一貫していた.・蒐集の理由,意味:『金光明経』は様々な教義や儀礼の雑多な寄せ集めなどではなく,『金光明経』では様々な教義や儀礼に関する記述・情報を蒐集すること自体に意味があった.本稿では第4章「蓮華喩讃品(Kamalakara-parivarta)」に焦点を当て,<仮説>の検証を続けた.その結果,「仏教がかつての勢いを失いつつある中,仏教の存続に危機感を抱いた一部の出家者たちは,在家者から経済的支援を得てインド宗教界に踏みとどまり,仏教の伝承と実践という義務を果たすため,『金光明経』を制作した.『金光明経』の功徳や価値や有用性や完備性をアピールするため,適宜『金光明経』を増広発展させていったが,「蓮華喩讃品」においては他の多くの諸品とは異なり,世間的利益を説かず出世間的利益のみが求められている.これは,「蓮華喩讃品」に表れる祈願・誓願が,聞く側(在家者)ではなく説く側(出家者)のもののみであることに基づいていると考えられる.この「出家者の祈願・誓願は全て出世間的利益を求めるもの」ということに,『金光明経』が全篇に渡ってどれほど世間的利益を説こうとも,『金光明経』制作者の出家者としての「本義」「面目」があったものと判断される.同時に,『金光明経』が世間的利益を強調したのは,そこに魅力を感じる在家者を惹きつけ彼らから財政支援を受けることを目的としたからであって,出家者自身が出世間的利益を放棄したのではないことも確認される.」という結論を得たことで,所期の目的を達成した.『金光明経』から見る限りにおいても,インド仏教は第一義的には出家者のための宗教であったといえる.
著者
鈴木 隆泰
出版者
山口県立大学
雑誌
山口県立大学國際文化學部紀要 (ISSN:13427148)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.21-31, 2004-03-25

Sho-gyo-mu-jo (諸行無常. sarvasamskara anityah in orignal Sanskrit) is one of the most fundamental ideas of Buddhism. It has been generally regarded as "everything is evanescent" in Japan, but this interpretation represents only a small part of the idea since the word sarvasamskara means not only "everything" but also "mental conformation or creation of the mind (such as that of the external world, regarded by it as real, though actually non-existerit) ," and the word anitya means not only "evanescent" but "coming into existence." The purpose of this paper is to re-examine the idea Sho-gyo-mu-jo by referring to the usage in the context of Indian Buddhism and to show its proper meaning.
著者
安溪 遊地 井竿 富雄 鈴木 隆泰 岩田 真美
出版者
山口県立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2012-04-01

幕末の長州藩士や奇兵隊等の緒隊の活躍に比べて明治維新につながる動きの精神的な支柱や政治的な影響、さらには具体的な軍事行動において仏教僧の果たした役割についての解明は研究の蓄積が少なかった。この研究では、真宗僧の活躍に注目して、その史料や口承を集めることに集中した。その結果、長州4傑と呼ばれながらほとんど史料がなかった香川葆晃について、その辞令や新潟での現地調査を踏まえて、四境戦争の前夜に長州藩の密偵として活躍したことを明らかにした。精力的な社会改革運動をおこなった島地黙雷の日記のデジタル化に着手し、吉田松陰の倒幕思想に大きな影響を与えた呉の僧宇都宮黙霖の残した膨大な手稿のデジタル化を完了した。
著者
鈴木 隆泰
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.1154-1162, 2006-03-25

「吉祥天女品」は『金光明経』の中で,呪句の使用や世間的利益を求める儀礼の執行が最初に表明された章である.そこに見られる儀礼は,「仏教儀礼を応用したもの」と「ヒンドゥー儀礼を導入・受容したもの」の二種に大別され,どちらの場合も,『金光明経』の編纂者や護持者たちが従来実践していた諸儀礼を,攘災招福を目的として応用,あるいは導入・受容したものとなっている.防護呪パリッタを発達させた南伝仏教との比較や「吉祥天女品」に見られる在家者への意識,そして「この『金光明経』には世・出世間,仏教・非仏教を問わず,様々な教義や儀礼があり,しかもこの『金光明経』が一番勝れている」という『金光明経』「四天王品」の記述等も考慮に入れた結果,これまで便宜的に「〔大乗〕仏教の自立の模索の表れ」と仮定しておいた『金光明経』の持つ諸特徴を,「〔大乗〕仏教の生き残り策」と想定することが本研究を通して可能となった.『金光明経』の編纂者たちは,仏教に比べてヒンドゥーの勢力がますます強くなるグプタ期以降のインドの社会状況の中で,インド宗教界に生き残ってブッダに由来する法を伝えながら自らの修行を続けていくために,仏教,特に大乗仏教の価値や有用性や完備性を,在家者を含む支持者たちに強調しようとしたのである.覚りの伝承を旨とする出家者であっても,支持者たちの支援,特に在家者の経済的支援がなければ,修行を継続したり,伝法の使命を果たすことはできない.このように,『金光明経』をはじめとする種々の儀礼を説く経典は,律文献と同様,インド仏教の実像に迫るための有用な資料ともなりうるのである.
著者
鈴木 隆泰
出版者
山口県立大学社会福祉学部
雑誌
山口県立大学社会福祉学部紀要 (ISSN:13448587)
巻号頁・発行日
no.12, pp.29-36, 2006-03

While moral education intends to bring us to maturity in a particular society, religious education teaches us our everlasting immaturity and thus admonishes us to forgive other's faults. The confusion of these two different types of education seems to have brought about the deficiency for both morals and religion to carry out their indispensable functions to all of us. This paper attempts to elucidate the difference between morals and religion, and to help those two types of education to recover their proper functions.
著者
鈴木 隆泰
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.63, no.3, pp.1263-1270, 2015-03-25 (Released:2017-09-01)

『法華経』の「法華七喩」の中に,有名な長者窮子喩がある.一方,『法華経』や『涅槃経』等の影響下に作成された,如来蔵系経典である『大法鼓経』にも長者窮子喩が説かれている.両者には共通点も多い反面,最大の相違点として,『法華経』の長者窮子喩では,貧者は長者の家で仕事をしつつも財産を望まず,長者から真実を告げられ,思いもかけずに相続者となるのに対し,『大法鼓経』では,長者から真実を聞かされる前であったにもかかわらず,貧者は自発的に財産の相続者となることを望み,そして長者から真実を告げられ,望み通りに相続者となる,という点が挙げられる.この『大法鼓経』の長者窮子喩は,実子で〔あると〕は〔まだ知らされてい〕ない者が相続者になりたいと自ら望むという点において,血統・家柄を重んじるインド社会の価値観から見て非常に不自然であるとの指摘もなされてきた.本研究では長者窮子喩のみに限らず,両経典の一乗や解脱を巡る教説を辿ることによって,両者の異同の理由を探った.以下に結論を提示する.『法華経』は,一乗・一切皆成の根拠を衆生の外側(諸仏の誓願)に見出している.そのため衆生は,一切皆成であると「諸仏に教えてもらわなければならない」.これが,貧者が長者から教えられて,自分が息子・財産の継承者であったことがはじめて分かるという構図に連なっている.なお,一乗を主張するためには,すでに解脱を得ている阿羅漢の成仏も保証しなければならない.そのため『法華経』は,"解脱した者はもう二度と解脱できない"という従来の理解に挑戦することとなり,結果,それまでの「常識,前提」を覆し,「輪廻からの離脱は真の解脱ではない」「三界を離脱しても不死ではなく再生する」という驚くべき説を提唱するに至った.一方の『大法鼓経』は,『法華経』の提唱した「成仏するまでは複数回解脱できる」という説を継承しながらも,一乗・一切皆成の根拠については『法華経』とは異なり,「衆生の内側に実在する如来蔵・仏性」に見出している.そのため,「教えられずとも衆生(貧者)の側から成仏(財産)を求める」という構図を描くことが可能となった.さらには,如来蔵・仏性思想の一大特徴として,そもそもこの思想自体が「如来目線の教え」であることも関係していると思われる.如来であれば,他より教えられずとも一切皆成を最初から知っているからである.『法華経』とは異なり,『大法鼓経』の長者窮子喩が仏弟子ではなく釈尊の所説となっていることも,この仮説を支えるものと判断される.たしかに『大法鼓経』の長者窮子喩には,血統主義に立脚するインド社会・世間的価値からは「非常識」とも見なされる面がある.しかしインド仏教には,「如来=父,仏弟子=実子」という,世俗の親子関係を超えた「出世間の親子関係」という考え方が伝統的に存在していた.この伝統に照らし合わせるとき,『法華経』よりもむしろ『大法鼓経』の長者窮子喩の方が,出家主義・行為主義を標榜するインド仏教の文脈により沿うものといえる.
著者
鈴木 隆泰
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.65, no.3, pp.1147-1155, 2017

<p>『法華経』の「常不軽菩薩品」に登場する常不軽という名の出家菩薩は,増上慢の四衆にひたすら成仏の授記をし続け,そのことで彼らから誹謗,迫害を受けた.増上慢の四衆は常不軽を誹謗・迫害した罪で死後無間地獄に堕ちたが,自ら罪を畢え已わった後に常不軽と再会し,彼から『法華経』を教示され(=成仏の授記を受け),無上菩提へ向かう者となったとされる.ところが羅什訳の『妙法華』のみ,死時に臨んで常不軽が「其の罪,畢え已わって」(其罪畢已)としている.しかし,なぜ彼に罪があるのか,あるとすれば何の罪なのかが解明されないまま,今日に至っていた.</p><p>従来看過されていた事実として,Suzuki Takayasuは「常不軽菩薩品」に二種類の誹謗者が表されていることを明らかにした.二種類とは "『法華経』に出会う前の,『法華経』という仏語なしに無効な授記をしていた常不軽"(常不軽 ①)を誹謗した者たち(誹謗者 ①)と,"『法華経』に出会った後の,『法華経』という仏語をもって有効な授記をしていた常不軽"(常不軽 ②)を誹謗した者たち(誹謗者 ②)であり,後者の誹謗者 ② のみが,『法華経』説示者を誹謗した罪で堕地獄する.ところが『妙法華』のみ,常不軽 ② が『法華経』を説示していたという記述を欠いており,常不軽 ①と常不軽 ② との差違が判別しがたくなっている.</p><p>『法華経』の主張(『法華経』抜きに如来滅後に一切皆成の授記はできない.だからこそ,如来滅後にはこの『法華経』を説いて如来の名代として授記をせよ.如来のハタラキを肩代わりせよ)から判断して,常不軽 ① と常不軽 ② の差違は『法華経』にとって本質的であり,原典レベルで「其罪畢已」に相当する記述があったとは考えられない.羅什の参照した「亀茲(クチャ)の文」が特殊であったため,常不軽 ① と常不軽 ② との差違が判別しがたく,誹謗者 ① と誹謗者 ② を分ける必要が,漢訳段階で生じたものと考えるのが妥当である.しかし,そのために「其罪畢已」という文章を編み出したのは,羅什が『妙法華』訳出以前に『金剛般若経』を知っていたためと考えられる.</p><p>この「其罪畢已」という一節が,日本の日蓮に絶大な影響を与えた.日蓮宗の開祖である日蓮は,以前に念仏者・真言者であったため,「其罪畢已」の「罪」を過去の謗法罪と理解した上で,自らを常不軽と重ね合わせ,〈法華経の行者〉としての自覚を確立し,深めていった.</p><p>もし『妙法華』に「其罪畢已」の一節がなかったとしたら,日蓮は〈法華経の行者〉としての自覚を確立できず,その結果,『法華経』に向き合う姿勢を変えた可能性が高い.あるいは『法華経』信仰を捨てていた可能性まで考えられる.『開目抄』に見られる,「なぜ自分には諸天善神の加護がないのか」「自分は〈法華経の行者〉ではないのか」の解答の源は,「其罪畢已」以外には見出せないからである.</p><p>もし『妙法華』に「其罪畢已」の一節がなかったとしたら,中世以降今日に至る日本仏教は,現在とは大きく違った姿をしていたであろう.まさに,「大乗経典が外的世界を創出」(下田正弘)した好例である.『妙法華』に存するたった一個のフレーズ「其罪畢已」が,今日の日本の宗教界のみならず,社会の一側面を創出したのである.</p>
著者
鈴木 隆泰
出版者
山口県立大学
雑誌
山口県立大学國際文化學部紀要 (ISSN:13427148)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.31-44, 2005-03-25

Modern Buddhist Studies based on the methodology of Indo-European philology has estimated that 'Original Indian Buddhism' is philosophical, rational, reasonable, non-ritualistic and non-magical. This image of Indian Buddhism often deprives a sincere Japanese Buddhist who has been engaged in rites and performing magic of his self-confidence. However, is it really true that there are essential differences between Japanese Buddhism and Indian Buddhism? This question still remains unsettled. This paper attempts to resolve this estrangement established between Japanese and Indian Buddhism by primarily examining some ritual aspects of Indian Buddhism, and moreover proposes clues for reevaluating modern Japanese Buddhism.
著者
鈴木 隆泰
出版者
山口県立大学
雑誌
山口県立大学大学院論集
巻号頁・発行日
vol.7, pp.A1-A18, 2006-03-22

In a grove of sal trees in Kusinagara, the Buddha Sakyamuni entered into his perfect peacefulness (parinirvana; final extinction) leaving the following short words: vayadhamma samkhara appamadena sampadetha (DN ii. 156.1-2) The meaning of these, the Buddha's last words, has been often offered in such arbitrary and tentative interpretations as "All phenomena are constantly changing. Therefore always remain assiduous," or "All things change and time flies like an arrow, so you must carry out your practice as hard as possible." As has already been shown, however, samkhara (samskdra in Sanskrit) primarily means subconscious force or function which builds up the self, and "the mutableness of samskdra (Sho-gyo-mu-jo)" is one of the most fundamental and essential ideas for understanding Buddhism. This paper attempts to present a more proper interpretation of the Buddha's last words paying special attention to Sho-gyo-mu-jo, and to make a contribution toward deepening our understanding of Buddhism.
著者
鈴木 隆泰
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:18840051)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.1185-1193, 2014-03-25

かつて論じたように,『法華経』は仏舎利塔(ストゥーパ)と仏舎利なしの塔(チャイトヤ)を明確に区別した上で,『法華経』実践の場にストゥーパではなくチャイトヤを起てよと繰り返し命じている.『法華経』の実践とチャイトヤ建立によって,その場に如来の全身が実現されるため,仏舎利を納めたストゥーパの建立は不要であり,むしろ,『法華経』実践の場に建立されたチャイトヤこそが真のストゥーパであると主張しており,ここにわれわれは,「『法華経』の実践+チャイトヤ建立=真のストゥーパ建立=如来の実現」という<『法華経』のブッダ観>を確認することができる.実現される如来は,「如来寿量品」を受け継ぐ「分別功徳品」においては一人称視点で「私」(=話者である釈尊)と記され,『法華経』の実践とチャイトヤ建立を通して実現し感得される如来が,他ならぬ釈尊その人であることが表明されている.『法華経』においては,「『法華経』の実践」と「チャイトヤ建立」は不可分に結びつきながら,永遠の釈尊を感得するための手段,方法ともなっていたのである.ところが「薬王品」は,仏滅後にチャイトヤの前で焼身することと,『法華経』を受持することを勧奨している.もしこれが「ストゥーパ」であったとしたら,"仏滅後にストゥーパを供養したいなら焼身しなさい.でも,『法華経』を受持すればその必要はない"という,「ストゥーパ崇拝から経典受持へ」という,初期大乗経典に共通する文脈の上に置くことができるが,チャイトヤを使用する「薬王品」はその文脈からも,また,『法華経』の中心テーマの一つである永遠の釈尊を巡る文脈からも逸脱していることになる.以上の点に鑑み,『法華経』同時成立説という想定は困難だと思われる.また,現在までに『法華経』の教説に基づいて起てられたチャイトヤは,インドでは一つも確認されていない.過去には存在していたが残らなかったのだ,と想定することも不可能ではないが,「薬王品」の制作者たちですら,『法華経』の教説に基づいて起てられたチャイトヤを見ていなかった可能性が非常に高い以上,「『法華経』実践の場に起てられたチャイトヤなど,インドにはそもそも存在しなかった」と考えた方が自然である.「薬王品」における「チャイトヤ」の記述は,「『法華経』同時成立説」に対する反証の一つとなるのみならず,インドにおいては,『法華経』の教説に基づいた修行実践は実質的には「書写行」のみに限られ,『法華経』はテクストとしてのみ存在していたことの傍証とも考えられる.
著者
鈴木 隆泰
出版者
山口県立大学
雑誌
山口県立大学大学院論集
巻号頁・発行日
vol.8, pp.a1-a15, 2007-03-22

It has been generally accepted that Buddhism is the teachings of Buddha by which all sentient beings can become buddhas. This general understanding among the Buddhists led to the continual compilation of the Buddhist scriptures called sutras even after the Buddha Sakyamuni had entered into his perfect peacefulness (parinirvrta), and at length gave rise to Mahayana Buddhism, great teaching of Buddha that can convey all sentient beings from the world of suffering to the sphere of supreme enlightenment. This paper takes up several typical and famous examples from among Mahayana Sutra Literature and attempts to elucidate how the followers of Buddha have interpreted "the Buddha's real intention" in relation to the difference of time, place, and the people concerned.
著者
永崎 研宣 鈴木 隆泰 下田 正弘
出版者
一般社団法人情報処理学会
雑誌
情報処理学会研究報告人文科学とコンピュータ(CH) (ISSN:09196072)
巻号頁・発行日
vol.2006, no.57, pp.33-40, 2006-05-26
参考文献数
9
被引用文献数
2

大正新脩大蔵經テキストデータベースは、すでにすぺてのテキストの入力を終了し、その正確性を高めるという次の段階に入っている。これを効率的に行っていくためには、より効率的かつユーザフレンドリーなコラボレーションシステムの開発が有効である。コラボレーションシステムは、それまでの作業のルーティンを損なうことなく、その問題点を解消できるものでなければならない。そのため、Webベースのシステムを基本としつつ、コア部分では、作業者のスキルの格差を考慮し、ローカル側での作業に比重を置くインターフェイスと、Web上ですべての作業を行うインターフェイスの二種類を併用する形とした。The text-database of the Taisho Tripitaka has entered a correction phase since inputting of all texts has been finished. It is useful to develop a more efficient and user-friendly collaboration system to solve previously experienced problems without disturbing the routine of the work. Therefore,we developed a Web-based collaboration system which has two interfaces accomodating the differences of workers,skill levels. One is based on the work done on the local computers and the other is carried out entirely on the Web.
著者
鈴木 隆泰
出版者
東京大学東洋文化研究所
雑誌
東洋文化研究所紀要 (ISSN:05638089)
巻号頁・発行日
vol.152, pp.320-285, 2007-12-19

The tathāgatadharmakāya (如來法身) called tathāgatagarbha (如來藏) or buddhadhātu (佛性) within all sentient beings is considered to be covered with and corrupted by numerous thousands of millions of afflictions, and therefore cannot demonstrate fully the act of blessing to be granted by the Tathāgata to all sentient beings. Tathāgatagarbha is, however, recognized as nothing other than the perfect Tathāgata himself on the grounds that both tathāgatagarbha and the Tathāgata are essentially dharmakāya and tathatā (眞如). And this understanding of tathāgatagarbha has given rise to two serious problems in this theory: the first is the problem why the eternally pure tathāgatadharmakāya (i.e. the Tathāgata) becomes corrupted by afflictions, and the second is the problem why sentient beings are required to perform religious practice in order to attain supreme enlightenment since all of them have already attained the perfect Tathāgata within themselves. Though some of the scriptures of this theory such as the Śrī-mālādevīsimhanādasūtra (勝鬘經) and the Mahāparinirvānasūtra (・槃經) tried to answer these questions, reasonable resolution has seemed almost impossible since these two problems originate from the fundamental understanding of this theory that by the blessing of the Tathāgata all sentient beings have tathāgatadharmakāya within themselves which ensures them the attainment of supreme enlightenment.There finally appeared one sūtra, the Mahābherīsūtra (大法鼓經, MBhS), that resolved these problems at one stroke. This paper attempts to examine and elucidate precisely the process of resolution of the problems proposed by the MBhS based on the eternity of the Tathāgata. Through this examination the paper also illustrates how one idea of Buddhism develops in the Buddhist history.