著者
沼崎 一郎
出版者
The Japanese Association of Sociology of Law
雑誌
法社会学 (ISSN:04376161)
巻号頁・発行日
vol.2004, no.60, pp.101-116,235, 2004-03-30 (Released:2010-04-15)
参考文献数
8

This article argues that the concept of sexual harassment poses a radical challenge to the principles of objectivity and universality that underlie modern law by putting the emotional state of the alleged victim (his/her feeling of "not wanting" or "unwelcoming" the sexual advance of the alleged offender) as the sole criterion of whether the victim's right to sexual freedom is violated or not and thereby "subjectifies" the right claims. This article also argues that the concept of domestic violence poses exactly the same challenge to modern law by defining violence as a means used by one spouse for generating fear in the other in order to dominate her/him. Here again, subjective state of mind-fear-is postulated as the criterion of whether an act of violence is committed or not. By "subjectifying" the right claims, the two concepts of sexual harassment and domestic violence radically individualizes and particularizes the criteria of wrongness of conduct. Ostensibly same conduct may or may not be judged as harassment or violence by the alleged victim depending on his/her subjective assessment of the act. The two concepts challenge the basic presupposition underlying modern law, namely, universal application of objective and conduct-based standards in deciding on the criminality or tort damages. The two concepts call for a new radically victim-centered standard of misconduct that places the victim's sense of repulsion and fear as the sole criterion of harassment and violence. This article finally argues that in the context of a relationship of unequal power the stronger party is held liable for extra care not to offend or threaten the weaker party.
著者
沼崎 一郎
出版者
The Japanese Association of Sociology of Law
雑誌
法社会学 (ISSN:04376161)
巻号頁・発行日
vol.2004, no.60, pp.101-116,235, 2004

This article argues that the concept of sexual harassment poses a radical challenge to the principles of objectivity and universality that underlie modern law by putting the emotional state of the alleged victim (his/her feeling of "not wanting" or "unwelcoming" the sexual advance of the alleged offender) as the sole criterion of whether the victim's right to sexual freedom is violated or not and thereby "subjectifies" the right claims. This article also argues that the concept of domestic violence poses exactly the same challenge to modern law by defining violence as a means used by one spouse for generating fear in the other in order to dominate her/him. Here again, subjective state of mind-fear-is postulated as the criterion of whether an act of violence is committed or not. By "subjectifying" the right claims, the two concepts of sexual harassment and domestic violence radically individualizes and particularizes the criteria of wrongness of conduct. Ostensibly same conduct may or may not be judged as harassment or violence by the alleged victim depending on his/her subjective assessment of the act. The two concepts challenge the basic presupposition underlying modern law, namely, universal application of objective and conduct-based standards in deciding on the criminality or tort damages. The two concepts call for a new radically victim-centered standard of misconduct that places the victim's sense of repulsion and fear as the sole criterion of harassment and violence. This article finally argues that in the context of a relationship of unequal power the stronger party is held liable for extra care not to offend or threaten the weaker party.
著者
沼崎 一郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第52回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.90, 2018 (Released:2018-05-22)

本分科会の目的は、研究技法としてだけではなく、生活技法として、特に「多文化」を生きる技法としてのオートエスノグラフィーの可能性を探ることである。オートエスノグラフィーは、語る主体としての自己を顕在化させつつ、主観と客観、自己と他者、パーソナルなものとポリティカルなものの交差する民族誌的状況を描き出すことによって、再帰的/反省的に人類学的な考察をを展開しようとする試みである。それは、いわゆる「『文化を書く』ショック」以後の人類学における「再帰的/反省的転回」の提起する諸問題を、最もラディカルかつパーソナルに受け止めようとする試みの一つである。本分科会では、各発表者が、それぞれの人生と人類学的営為とを往復しつつ、研究技法としてのみならず、生活技法として、とりわけ「多文化」を生きる技法としてのオートエスノグラフィーの可能性を探る。
著者
沼崎 一郎
出版者
東北大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1996

本研究の目的は、日本人男性とフィリピン人女性との国際結婚家庭を研究対象として、異なる文化を持つ夫婦が、それぞれの生まれ育った文化を持寄り、組み合わせて、どのような新しい日常生活文化(食生活、年中行事、親族関係など)を生み出しているのか、それをどのように子供たちに伝えているか、さらに、どのような影響を地域社会に与えているといった問題について、「モザイク文化」という視点から記述分析することである。本研究では、仙台在住のフィリピン人妻の会の女性たちが中心となって、仙台七夕祭「動く七夕」パレードに参加して演じている「フィリピン・ダンス」に注目し、これは、それ自体が複数の異なる文化要素を組み合わせた「モザイク文化」であると同時に、一つの新たなモザイク片として、仙台七夕祭を「モザイク化」し、さらに仙台と故郷とを結ぶフィリピン人親族ネットワーク文化をも「モザイク化」していることが明らかとなった。仙台という枠組のなかだけで考えるならば、「フィリピン・ダンス」は、フィリピン人妻たちにとってフィリピン人アイデンティティーの確認とフィリピン文化の呈示という目的のエスニシティの表出と捕らえることもできよう。しかし、それは一面的な把握に留まる。なぜならば、フィリピンと仙台とを結ぶ親族ネットワークの文脈においては、「同じ」ものが、国際結婚家庭というアイデンティティーの表示や日本文化の呈示という目的の二文化性・多文化性の表出でもあるからだ。「同じ」モザイク片が、異なる次元では、異なる意味を持ち、異なる役割を果たしているのである。
著者
沼崎 一郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

本発表の目的は、幼少時の交叉文化体験、青年期の留学体験、帰国後の教員体験を「ものがたる」ことを通して、生活と人類学の間で発表者のアイデンティティとポジショナリティが如何に揺れ動いてきたか、そしてその揺らぎは報告者の生活と人類学的態度とに如何なる影響を与えてきたかを考察することである。特に、人類学と日本研究に対する発表者の態度の揺らぎについて、反省的に検討を加えてみたい。
著者
沼崎 一郎
出版者
東北大学
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1993

本研究では、植民地期から戦後にいたるまでの日本と台湾との企業間関係のエスノヒストリーを再構成することを目的とし、文献調査と聞き取り調査を組み合わせて、日台企業文化交流史の基礎資料の収集を行った。植民地期の台湾における日本人企業家と台湾人企業家の交流については、自伝や回顧録、社史やパンフレットを収集した。戦後の日台企業関係については、台湾駐在経験のある日本人ビジネスマン数名を対象にインタビューを実施した。戦前の台湾で企業活動を行っていた日本人に対する聞き取りは実施できなかった。これは今後の課題として残る。ただし、戦前台湾に居住していた大学教授夫人にインタビューし、女性の立場から見た当時の日本人と台湾人との関係についての体験を聞くことができた。植民地期の台湾では、多くの台湾人が日本人経営の商店で丁稚奉公をしており、そのような体験を通して、日本的な商業慣行や文化を学習した。これに対して、日本人の側は、日本語を解し、日本的行動様式を学習した台湾人とのみ交流した結果、台湾商人固有の商業文化を学という姿勢は見られなかった。ここで、台湾では「日本式」企業文化が通用するという「誤解」が形成され、この「誤解」は現在まで継承されている。この「誤解」の中核にあるのが、台湾側が個人と個人の関係とみなす関係を、日本側が組織と組織の関係と誤認することである。しかし、この文化的「誤解」は、日本と台湾の企業間関係を損なうこともあったが、新たな展開を生むこともあった。台湾人社員を日本的な組織人と「誤解」した日本企業が技術研修を与え、退社して独立した台湾人が本社の下請け企業となり、結果として意図せざる技術移転が行われた事例が多々ある。このようにして、日本的に社会組織に台湾的な個人企業を結び付くという、新しい形態の異文化間ビジネス・ネットワークが形成されてきたことが明らかとなった。