著者
やまだ あつし
雑誌
人間文化研究 = Studies in Humanities and Cultures (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
no.38, pp.149-166, 2022-07-31

台湾大学にある田代安定の蔵書と手書き資料は現在、田代安定文庫として外部公開されており、手書き資料はWEB 上の画像として閲覧することができる。しかしながら田代の筆跡は読み辛く、従来の研究は手書き資料群をまとまって読み解いてはいない。本論は、田代の台湾総督府民政局殖産部拓殖課での活動でも、特に『台東殖民地予察報文』と関係の深い台東について記載された、19 世紀末作成の手書き資料群をまとまって読み解く試みである。それによって、田代の調査と報告書編集の過程、そして成果物である『台東殖民地予察報文』の問題点を明らかにする。本論に関係する田代の手書き資料群は、フィールドノートと収集文書に分かれていた。フィールドノートは、台東に居住するピュマ族やアミ族等の言語に関する語彙ノートの系統と、調査日誌の系統とに分かれる。収集文書は、当時の台東の民政機構が収集した資料を田代らが書き写したメモと、田代自ら収集し分析した調査データ、および報告書類がある。収集文書のデータは後に報告書類とともに『台東殖民地予察報文』としてまとめられたが、当初の調査の重要部分であった「原野」の記述が『台東殖民地予察報文』ではばっさり削られるなど、手書き資料群が『台東殖民地予察報文』にまとめられるまでに大幅な改編があった。『台東殖民地予察報文』で述べられた構想に限らず、田代の構想が当時の台湾総督府首脳部に取り上げられることは少なかった。『北海道殖民地撰定報文』など同種目的の報告書と『台東殖民地予察報文』の細部とを読み比べると、田代の計画の細部は、現実の殖民地開拓では成功し得ない構想が多い。それが恐らくは田代の構想が首脳部に取り上げられなかった理由であろう。
著者
やまだ あつし
出版者
名古屋市立大学大学院人間文化研究科
雑誌
名古屋市立大学大学院人間文化研究科人間文化研究 = Studies in humanities and cultures (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
no.19, pp.91-98, 2013-06

1945年に一度断絶した日本と旧植民地台湾との貿易関係は、1950年にGHQと中華民国間の協定によって、バーター貿易をドルに換算し清算決済する制度(オープンアカウント制度)で正式に復活した。この決済制度と毎年の貿易計画は1961年に通常の現金取引に移行するまで、11年間にわたって日台貿易関係を規定し続けた枠組みであった。従来の日台貿易についての研究は、1950年になぜこの枠組みをGHQと中華民国が導入したのかを国際政治の変化から解説したもの、そしてこの枠組みにより台湾の米や砂糖がどのように日本に輸出されたのかを台湾側資料によって分析したものであった。日本側がこの枠組みをどう運用することで台湾へ再進出を遂げていったのかは、日本側資料がなく分析されなかった。本論は、去年(2012年)公開された『日華貿易及び支払取極関係一件』および『日華貿易及び支払取極関係一件会議議事録』を利用し、日本国がどう中華民国と交渉し台湾へ経済再進出を遂げようとしたのかについて、『会議議事録』第1巻の1955年第2回会議を事例に分析するものである。この第2回会議は貿易交渉の性格を、1950年代前半の貿易計画会議から、1950年代後半の価格会議へと変えたいわば分水嶺にあたる会議である。日本側はどんな論理を展開したのかを明らかにする。