著者
ドル クレメンス 山﨑 みのり
出版者
武蔵野音楽大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2013-04-01

かつて広く使用された5弦チェロの衰退は、音楽史の推移からチェロに求められる音量と音質の変化が最大の理由と推察されるが、その詳細な資料は少ない。本研究は「多弦隆盛時の名工の5弦チェロ製作値をもとに現代の良質な素材で5弦チェロを製作、音響特性を試奏し、4、5弦楽器の為の多様な楽曲を5弦チェロで演奏する可能性の追求」を目的としたものである。結果、その音響特性は想定を下回るもので、一部例外を除き、5弦チェロは4弦チェロに比肩する楽器たり得ないことが判明した。しかしながら、本研究で得た楽曲製作や試奏結果などの詳細なデータは、多弦楽器の使用を試みる奏者、製作者の考察の一助となったこともまた明らかである。
著者
クレメンス メンツェ
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1980, no.42, pp.73-93, 1980-11-25 (Released:2009-09-04)
参考文献数
11

伝統的なドイツの陶冶思想 (Bildungsdenken) と現代の教育学の大勢との間には、種々の著しい食い違い (beträchtliche Verschiedenheiten) があって、それは教育思想のあらゆる領域に及んでいる。第二次大戦後、教育学は、さまざまな伝統的教育観・陶冶観と批判的な対決を行なうことによってみずからの資格をあかししようと努め、耐久性があり、しかもそれまでに蒙った数々の経験を考慮に入れた新しい出発点を探し求めたのであるが、現在では教育上のことがらを、従来とは異なったいろいろな前提から考え始めている。伝統的な種々の立場に対する批判は、今やただ事のついでにのみなされており、それも、異議を唱えるという形の批判であれ、否定するという形の批判であれ、もはや建設的な意味を何ひとつ持っていない。このような発展状況は、見受けるところ、伝統的な教育思想を等閑視しているように思われる (Die Entwicklung, so scheint es, ist über dieses Denken hinweggegangen.)。だから、この伝統的な考え方は、現代と全く関連のない、ただ歴史的なものを過度に重視する考察のなかでのみ (nur noch in rein historisierenden Betrachtungen) 思い浮かべることの可能な、いわば歴史のファイルに整理され収められたもののひとつ、と見なされている。しかしながら、明らさまにであれ、またそれを明言しないままであれ-後者の場合には、なおさらそうであるが-、そのように伝統的なドイツ教育学と絶縁してしまう場合、そこでは、すでに片づいた無用のものとして簡単に脇へ押しやることのできないさまざまの問題が、生き埋めにされている (Gleichwohl liegen in der direkten und mehr noch in der indirekten Absage an die überlieferte deutsche Pädagogik Probleme verschüttet, die nicht einfach als abgetan beiseitegeschoben werden können.) 。ひとりひとりの人間の個性、規範性、人間の意味と使命への問と結びついた陶冶、古典的立場からみた人間学と人間像、これらについての従来の説明は、合理性が新しく捉え直され、科学の概念が以前とは大きく異なって規定され (ein vielfach anders bestimmter Wissenschaftsbegriff)、根本的な哲学的立場が変わってしまい、教育思想にとっての政治的・社会的状況がかつてより強く強調される (eine nachdrücklichere Betonung politischer und gesellschaftlicher Umstande für pädagogisches Denken) ようになって、もはや最近の学問観に適合しない、と言われるからといって、すでに時代遅れになってしまったわけではない。なるほど伝統的な答は、以前と違った風に立てられた問にふさわしく答えてはくれない。しかし、昨今世上を賑わしている答もまた、かつての問に適切に答えはしない。察するところ、教育上のことがら全般の概念規定に、ある根本的変化が起ったのであり、そのために「古い立場」と「新しい立場」とを一致させることがもはや不可能に思われるのだ。だからこそ、一方が他の立場に対して持つ種々の不足についても、もはや有意義に語ることができないし、まして、両者の基本的立場を相互に対決させ、その決済ができるなどとは、思いもよらないのだ。このような現在も進行中の変化は、教育関係をどう評価するか、を軸にして探ってみると、範例的に明らかにすることができる (Exemplarisch lassen sich die eingetretenen Voränderungen an der Einschätzung des pädagogischen Bezugs verdeutlichen.)。以下、これを実際に展開する場合にふむべき順序としては、まず、ある特定の教育学が持つ個々の特殊性には留意せずに、教育関係の伝統的な基本構造を描出する。次いで、教育関係にはもはや如何なる地位をもあてがわない、現下のいろいろな教育学の思想傾向について論究する。そして最後に重要なのは、このような教育思想の状況から生じざるをえない諸々の帰結に、注意を喚起することである (schließlich gilt es, auf Konsequenzen zu Verweisen, die sich aus einer solchen Situation des Pädagogischen Denken sauhdrängen.)。
著者
ポッペ クレメンス
出版者
The Linguistic Society of Japan
雑誌
言語研究 (ISSN:00243914)
巻号頁・発行日
vol.150, pp.117-135, 2016 (Released:2016-11-17)
参考文献数
35

本論文では,舞阪方言のアクセント体系を妥当に記述するために弱強格と強弱格という二種類のフットが必要であることを指摘する。フットを仮定せずに名詞のアクセント体系における体系的空白と,名詞・動詞ともに見られるアクセント交替を説明することはできない。興味深いことに,舞阪方言においては,東京方言と違い,強弱格より弱強格が優先される。強弱格も現れ得るが,語末モーラへのアクセント付与を回避するためだけであり,これ以外の場合は弱強格が選ばれる。これは,二種類のフットが同一言語のアクセント体系の中に共存し得ることを示す。
著者
ポッペ クレメンス
出版者
日本言語学会
雑誌
言語研究 (ISSN:00243914)
巻号頁・発行日
vol.150, pp.117-135, 2016

<p>本論文では,舞阪方言のアクセント体系を妥当に記述するために弱強格と強弱格という二種類のフットが必要であることを指摘する。フットを仮定せずに名詞のアクセント体系における体系的空白と,名詞・動詞ともに見られるアクセント交替を説明することはできない。興味深いことに,舞阪方言においては,東京方言と違い,強弱格より弱強格が優先される。強弱格も現れ得るが,語末モーラへのアクセント付与を回避するためだけであり,これ以外の場合は弱強格が選ばれる。これは,二種類のフットが同一言語のアクセント体系の中に共存し得ることを示す。</p>