著者
ミヒェル ヴォルフガング
出版者
社団法人 全日本鍼灸学会
雑誌
全日本鍼灸学会雑誌 (ISSN:02859955)
巻号頁・発行日
vol.61, no.2, pp.150-163, 2011 (Released:2011-08-11)
参考文献数
59
被引用文献数
1

現代では東洋医学と西洋医学を対立するものと見る研究者は少なくないが、 近世に遡ると、 互いに理解しにくいものに対する拒絶反応はあるものの、 有用と判断された医薬品や治療法は選択的に受容されていた。 16世紀中頃から東アジアに進出した西洋勢力に対し、 中国と朝鮮が反発の姿勢を見せる一方で、 日本はいわゆる 「鎖国政策」 以降も一定の交流を保ち続けた。 19世紀初頭まで 「東洋医学」 に関する情報の大半は中国からではなく、 長崎のオランダ商館を通じて西洋に伝わり、 中国の伝統医学のほか、 管鍼法、 打鍼法など日本独特のものも日中共有の治療法として紹介された。 鍼術と灸術の観察と受容は基本的に別々に進められた。 「火のボタン」 として16世紀に紹介された灸は、 1675年に刊行されたバタビアの牧師の著書により足痛風の治療薬Moxaとして注目され、 日本での研究成果も踏まえつつ、 西洋の医学界において本格的に議論されるようになった。 ケンペルが持ち帰った 「灸所鑑」 とその詳細な説明でさらに関心が高まり、 古代ギリシャやエジプトにも類似の治療法があったことから、 医術としての灸は比較的好意的に受容された。 灸術と同様に鍼術に関する最古の記述は日葡交流時代に遡るが、 ヨーロッパでの専門家による議論は、 出島商館医テン・ライネ博士が1682年に発表した論文集から始まる。 テン・ライネは鍼術を 「acupunctura」 と名づけ、 出島の阿蘭陀通詞に説明を受けた資料を紹介したが、 「気」、 「経絡」、 「陰陽」 などの理解に至らず読者を困惑させた。 その後商館医ケンペルが疝気を 「疝痛」 (colica) と見なし、 その治療法を詳細に記したが、 西洋の医学界で 「日本人と中国人は、 胃腸に溜ったガスを抜くために腹部に針を刺す」 という誤った解釈が広まり、 18世紀末までは来日した医師達も西洋の読者も、 鍼術に対する疑問を払拭できず、 有用性を認めることに極めて消極的だった。
著者
青木 歳幸 大島 明秀 ミヒェル ヴォルフガング 相川 忠臣 今城 正広 海原 亮 小川 亜弥子 金子 信二 田村 省三 保利 亞夏里 山内 勇輝 吉田 洋一 鷲﨑 有紀
出版者
佐賀大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2015-04-01

3年間の種痘伝来科研において、1849年8月11日(嘉永2年6月23日)に到来した牛痘接種が九州各地へ伝播した様子が明らかになった。たとえば、佐賀藩では全額藩費による組織的な種痘を実施した。大村藩では、牛痘種子継料を全村から徴収し種痘を維持していた。中津藩では長崎から痘苗を得た民間医辛島正庵らが文久元年(1861)医学館を創設した。福岡藩領では、武谷祐之が、嘉永2年の末から種痘を始めた。小倉藩では、安政5年(1858)に再帰牛痘法を試みていた。九州諸藩における種痘普及により、洋式医学校の設立など地域医療の近代化をめぐる在村蘭方医の人的ネットワークが主要な役割を果たしていた実態が判明した。
著者
ミヒェル ヴォルフガング
出版者
九州大学
雑誌
言語文化論究 (ISSN:13410032)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.83-95, 1996
被引用文献数
1

Eine Reihe japanischer Handschriften nennen als Quelle einen holländischen Chirurgen namens "Asu Yorean", dessen Identität bislang ungeklärt war. Die vorliegende Arbeit beschreibt den Japanaufenthalt dieses Hans Juriaen Hancko, der aus Breslau stammte, 1646 im Dienste der Verenigden Oostindischen Compagnie nach Ostasien ging und während vom Oktober 1655 bis Oktober 1657 in Japan arbeitete. Im einzelnen werden beschrieben: * Die Reise nach Edo Ende 1655, wo Hancko viele hochgestellte Persönlichkeiten als Patienten kennenlernte. * Die medizinischen Instruktionen in Nagasaki, die der vom Reichskommissar Inoue beauftragte Hancko ab Juni 1656 dem berühmten Konfuzianer und Arzt MUKAI Gensho- gab. * Die widerwillig vorgenommene Behandlung einer Hündin und eines Affen des japanischen Nagasaki-Gouverneurs. * Die Hofreise Anfang 1657 mit dem neuen Faktoreileiter Zacharias Wagener und der Edosche Großbrand, den die Europäer mit knapper Not überlebten. * Die letzten Monate in Nagasaki bis zur Abreise nach Batavia. * Einige Spuren Hans Juriaen Hanckos in japanischen Handschriften jener Zeit.
著者
ミヒェル ヴォルフガング
出版者
長崎シーボルト博物館
雑誌
シーボルト記念館鳴滝紀要 (ISSN:09180087)
巻号頁・発行日
no.17, pp.9-38, 2007-03

On the "llustrated Mirror of Dutch Plants" and its Background. In 1667 the Japanese government turned its attention to the cultivation of imported plants as well as the investigation of local botanical resources and the destillation of pharmaceutical oils. The Dutch East India Company was requested to provide with plants, seeds and had to send an experienced specialist to Japan. The scroll "Illustrated Mirror of Dutch Plants" (28 x 1337cm, 81 illustrations, dated 1679) is the only Japanese source showing the name of Frans Braun, the second of two pharmacists dispatched to Nagasaki. An analysis of Dutch and Japanese sources revealed that this scroll goes back to reports on field work conducted by Braun and his predecessor Gottfried Haeck in the vicinity of Nagasaki during the late 1660s and early 1670s. Obviously the Japanese, while using Chinese books for their description of plants, had already become aware of the specific properties of their own flora. Thus the emancipaction of Japanese botany from its Chinese model began much earlier than presumed by previous researchers.シーボルト記念館所蔵の「阿蘭陀草花鏡図」とその背景について 1667年に幕府は薬草の輸入、国内植物資源の開発と製薬技術の移転に目をむけるようになった。延宝7(1679)年に成立した「阿蘭陀草花鏡図」は東インド会社の薬剤師ヘックとブラウンが長崎付近で行われた薬草調査に遡っているが、「阿蘭陀本草図経」等々の周囲資料との比較分析により、阿蘭陀通詞でない著者は通詞の報告や中国本草学の資料を利用しながら日本植物の特集性を認識していたことが浮き彫りにされた。日本の独自の本草学への動きは、すでに1660年代に始まったようだ。
著者
ミヒェル ヴォルフガング
出版者
九州大学
雑誌
独仏文學研究 (ISSN:04178890)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.59-88, 1996
被引用文献数
1

オランダ国立文書館での綿密な調査研究により、従来一般に認められてきた17世紀の出島商館医のリストは、いまだ不完全なものであることが判明した。新たに見つかった人物の一人に、1655年から1657年まで日本で波瀾万丈の2年間を送ったドイツ人外科医ハンス・ユリアーン・ハンコがいる。本論文ではさまざまな未公開の資料をもとに、ハンコの活動の全貌を明らかにし、彼を取り巻く主要人物の実像に迫る。各章のテーマは以下の通りである。 日本におけるヨーロッパ人外科医の地位や状況 ハンコの経歴と東アジアへの渡航 1656年(明暦元年)の江戸参府旅行 「似日本人、南蛮人味方、勿油断 吉利支丹奉行井上筑後守」 江戸での治療活動 長崎への帰途 長崎の儒医学者向井元升への「授業」 出島勤務の延長 長崎の「弟子」波多野玄洞 長崎奉行の猿、犬と、西洋人外科医の誇り 薬草狩と、1657年(明暦2年)の江戸参府のための準備 日本初の義眼とその他の珍品 明暦の大火の地獄図 出島での最後の数ヶ月 離日
著者
ミヒェル ヴォルフガング
出版者
日本医史学会
雑誌
日本医史学雑誌 (ISSN:05493323)
巻号頁・発行日
vol.37, no.4, pp.143-151, 1991-12

説教、略歴、様々な挨拶を含むカスパル・シャムベルゲルの「弔辞」の全体像及びそれぞれのテキストの主な内容を紹介しながら、シャムベルゲルの生涯に関する新しい事実を整理している。Zu dem aus Leipzig stammenden Vater der Caspar-Chirurgie fand ich in der der Herzog August Bibliothek Wolfenbüttel eine Leichenpredigt samt "Lebens=Lauff" und diversen Nachrufen mit neuen biographischen Details. So ist nunmehr gesichert, daß Schamberger nur ein Barbierchirurg war, der nach dreijähriger Lehre bei dem Leipziger Barbier Christoph Bachert als Sechzehnjähriger loszieht. Zwei Jahre in Halle und Naumburg, dann nach Hamburg, Lübeck, Königsberg, Danzig, Schweden, Dänemark und Amsterdam. 1643 wird er von der VOC eingestellt, läuft am 24. Oktober auf dem Admiralsschiff "Mauritius Eyland" aus und erreicht nach einer abenteuerlichen neunmonatigen Fahrt am 31. Juli 1644 Batavia. Schon am 8. August segelt er auf einem Kriegsschiff nach Goa, dann Ceylon, Surata, Persien, später nach den Molukken, bis er am 5. Januar 1646 nach Batavia zurückkehrt. Am 23. August bekommt er die "Order", nach Formosa, sowie China und Japan abzureisen. Der Lebenslauf erwähnt eine 'Examinierung' durch vier japanische Ärzte und den langen, erfolgreichen Aufenthalt in Edo, wo sein Rat vom kaiserlichen Hof und hochgestellten Personen geschätzt wurde. Für die Zeit danach werden weitere Fahrten nach Japan, Siam, Tongkin, Cochin und den Molukken genannt. Nach zwölf Jahren, in denen er rund 20000 Meilen und dreizehn Äquatorüberquerungen hinter sich bringt, trifft er im September 1655 kehrt Schamberger wohlbehalten in die Heimat zurück als erfahrender und wohlhabender Mann. Die Beschreibung seiner körperlichen Verfassung im hohen Alter und der Alltagsbeschäftigung leitet zu den letzten Stunden über, als ihn ein Hirnschlag trifft und er im Alter von knapp 83 Jahren starb.