著者
下沢 敦
出版者
共栄学園短期大学
雑誌
共栄学園短期大学研究紀要 (ISSN:1348060X)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.13-45, 2003

南北朝期に至り、京都大番役が廃れたことから、旧来の大犯三ヶ条に大きな異動が生じ、解釈方法が変更され、大犯三ヶ条は、謀叛人、殺害人、夜討強盗山賊海賊、の3大検断項目だけに限定されることになり、体系的整合性を向上させた。夜討強盗山賊海賊の類である悪党は、大犯三ヶ条中の1条項として、明確な法的位置付けを獲得するに至った。謀叛人、殺害人、悪党は、何れも死罪や流刑に相当する大犯であるが、悪党の処断には幅があった。しかし、(1) 現行犯、(2) 犯行の露見、(3) 証拠分明、(4)悪党との評判などにより、悪党であることが判明している場合には、速やかに死罪に処すべきとされた上、悪党を見付け次第、その場で打ち果たすことさえ、法的に容認されるに至っていた。秋霜烈日の如き悪党処断法が厳然と存在していたにも拘らず、悪党は、依然として全国で猛威を振るい続け、倭寇に進化を遂げ、海外に進出し、被害を一層拡大させる者すら、一部には出現していた。
著者
下沢 敦
出版者
共栄学園短期大学
雑誌
共栄学園短期大学研究紀要 (ISSN:1348060X)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.207-223, 2009-03-31

室町期の興福寺においては、職務怠慢や職責懈怠などの軽度の義務違反や些細な注意義務違反(過失)を犯した本人に一度は科した罪科(刑罰・処罰)を後から免除するという奇妙な法的慣行が相当の頻度で行われていた形跡がある。この慣行では、義務違反行為者本人が義務を遂行すると確約するか、二度と再び同じ義務違反を繰り返さぬ旨誓約すると、罪科が免除された。筆者は、この確約または誓約を本人の態度における一種の改善と捉えて、本人の態度の上に改善の跡が認められれば、罪科の主要な目的が達せられたことになり、その時点で罪科を免除することが可能になると理解する。この種の罪科免除を伴う罪科の本質は、近代刑法で言う「特別予防」を目的とする刑罰の一種と見られるが、日本中世社会の一面で「見懲らし」による犯罪の一般予防が追求されていたのに対し、他面では、軽度の義務違反行為につき特別予防目的の処罰が追求されていた事情を推察するに足る。
著者
下沢 敦
出版者
共栄学園短期大学
雑誌
共栄学園短期大学研究紀要 (ISSN:1348060X)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.143-161, 2010-03-31

室町時代中期以後の室町幕府奉行人が幕府に訴えを持ち込まれる諸々の不法案件の問題解決を図るべく当該不法案件の根本の原因を成した不法行為の処置方針を示す目的で作成し、発した奉行人奉書を見ると、「向後」発生する懸念のある同様の不法行為の行為者を「罪科」に処する旨を宣言して予告している事例が相当数見受けられる。しかし、中世前期まで主に訴状の上に書き表されていた「向後傍輩」または「傍輩向後」を見懲らす趣旨の見懲らし文言を載せている奉行人奉書の残存例は、一つも見当たらない。室町幕府が常に当該不法案件に関する終局的な判断を公権的に表示していたと考えられる奉行人奉書の上に見懲らし文言が一度も書き表されることがなかったと言う顕著な特徴点を考慮すると、恐らく当該時期の室町幕府は、不法案件の処理を図る上で中世前期的な見懲らし型刑罰観や中世前期的一般予防観念ひいては一般予防思想に立脚して判断を行ったことが一度もなかったのではないかと考えられる。
著者
下沢 敦
出版者
共栄学園短期大学
雑誌
共栄学園短期大学研究紀要 (ISSN:1348060X)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.123-144, 2008-03-31

南北朝内乱期以後の中世中期には、前代末期以来の〈為向後傍輩〉または〈為傍輩向後〉と定型的に表現される見懲らし文言は、急速に訴状その他の書面から姿を消して行くが、室町時代に入っても、完全に跡を絶つには至らなかった。見懲らし文言の訴状記載の激減の原因には、(1) 鎌倉末期以来の見懲らし文言の訴状記載による見懲らし効果の減退、(2) 訴状の請求内容の著しい現実主義化、(3) 中世中期以降の悪党所見の激減との相関、(4) 傍輩の信頼性の一段の低下などが考えられ、これらが複合的に作用したと推測される。また、(5) 見懲らし文言の訴状記載の必要性の欠如も考えられ、一般予防目的を明示する見懲らし文言の機能は、訴状その他の書面の上には活用の場を失い、中世中期には、専ら検断権者による罪科の一般予防目的の公示及び検断権発動の根拠付けの目的で、検断権者によって言明される言語表現形式としての役割を果たすのみになって行ったと思われる。
著者
下沢 敦
出版者
共栄学園短期大学
雑誌
共栄学園短期大学研究紀要 (ISSN:1348060X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-26, 2006

鎌倉時代の前半、鎌倉幕府は、武家の基本法典とされた「御成敗式目」以下の追加法令の中で、「傍輩」の語を幾度も使用していた。武家法の中に現われる傍輩の語は、主に〈共に主君の鎌倉殿(鎌倉幕府将軍)に仕える同僚の御家人〉の意味を持っていた。しかし、例外もあり、必ずしも常にこの意味で傍輩の語が使用された訳ではなかった。元寇の時期以後の鎌倉時代後半期に大量に書かれた悪党や悪行人の罪科請求文書を検討すると、傍輩の語には、特に鎌倉幕府の御家人に限定された意味はなく、筆者が以前推測した「悪党仲間」に限定された意味も持たず、広く同僚や同輩の意味で使用されたに過ぎなかった。これらの文書中に多く現われる「為傍輩向後」または「為向後傍輩」の語句を検討すると、傍輩が現実に悪行を働いた悪党または悪行人である公算が非常に小さいことが判明したので、傍輩を「悪党仲間」と捉えた筆者の以前の解釈は、修正する必要が生じたと考える。
著者
下沢 敦
出版者
共栄学園短期大学
雑誌
共栄学園短期大学研究紀要 (ISSN:1348060X)
巻号頁・発行日
no.27, pp.125-144, 2011-03-31

初期の室町幕府が自ら発した法令の中で使用していた大犯三箇条の語は、大番催促・謀叛・殺害人の合計三項目から成る鎌倉時代の守護の職権事項全三箇条を表す一個独立の法令用語であったと考えられる。しかし、鎌倉時代の守護の職権事項全三箇条の全てを重大な犯罪行為の意味を持つ大犯の語によって矛盾なく統一的に捉えるのは、困難である。小稿では、既に鎌倉時代前期に謀叛・殺害の二種類の犯罪行為を犯過として一括りに捉える見方が存在していた事実に着目し、それを拠り所として、大番催促・謀叛・殺害人の合計三項目から成る大犯三箇条を大番催促・犯過人三箇条として捉え返した。その上で、大犯三箇条の中の大犯の語を分解し、大を大番催促の冒頭の一字を取った略号、犯を犯過人の冒頭の一字を取った略号と見て、大犯の語をそれらの略号の連記として捉え直し、結局、大犯三箇条とは、大番催促・犯過人三箇条の表現を短縮した単なる便宜上の略称に過ぎなかったと結論した。更に、単なる便宜上の略称としての大犯三箇条の語は、少なくとも大番催促が廃絶された南北朝時代以後には成立し得ないことをも推定した。
著者
下沢 敦
出版者
共栄学園短期大学
雑誌
共栄学園短期大学研究紀要 (ISSN:1348060X)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.127-152, 2007

拙稿「鎌倉期悪党禁令中に現われる「傍輩」の語義の再検討」では、「向後」・「傍輩」の「懲粛」は、「向後」・「傍輩」の〈見懲らし〉に他ならなかったとする見通しを立てておいた。小稿は、十四世紀段階に入った鎌倉時代末期における関連資料の検討を通じて、それを確認しようと試みたものである。小稿において、所期の目的は、概ね達せられたと考える。鎌倉時代の最末期に至ると、専ら武家側の怠慢から、悪党逮捕の実が上がらなくなるに伴い、悪党処罰の実も上がらなくなった結果、「向後」・「傍輩」の〈見懲らし〉の一般予防の効果が著しく低減したが、時代が南北朝期に移り変わっても、悪党が多数残存していたことから、「向後」・「傍輩」の〈見懲らし〉は続行されていた。のみならず、「向後」・「傍輩」の〈見懲らし〉は、悪党が記録上から姿を消したとされる南北朝期後半以後にもなお存続し、十五世紀中葉の室町時代中期に至った所までは確認できた。
著者
下沢 敦
出版者
共栄学園短期大学
雑誌
共栄学園短期大学研究紀要 (ISSN:1348060X)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.15-40, 2004

『北条五代記』「関東の乱波智略の事」に登場する容貌魁偉な風摩が率いた一党の性格如何の考察。先ず、原典を引用し、現代語訳文を付した。記事中の「悪盗」の語と、室町時代後期の辞典『節用集』の「悪党」の項から、風摩一党を悪党集団と推定したが、当時乱波と呼ばれた風摩一党を旧来の悪党の語で括るのは疑問である。そこで、検討を加えた結果、当時の乱波と透波は、同一・共通の実体を指し示す語であり、その実体とは悪党であったことなどを推定できた。風摩一党は、戦国大名後北条氏に扶持され、夜間奇襲攻撃中心のゲリラや間諜として、戦国末期社会に文字通り暗躍していたが、風摩一党の智略に関する挿話が、実は、『太平記』にそのまま出ている所から、旧来の悪党集団と本質的に異ならないことを指摘し、風摩一党が夜討に伴う分補・乱補等の略奪行為を本領とした点で、山賊・海賊・強盗と同様の略奪者集団であり、悪党に他ならなかったと結論した。