著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 : Sapporo Gakuin University Review of Economics (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.7, pp.41-83, 2014-03-10

本稿(スコットランド王国の周辺国のノーザンブリア)では,5世紀から11世後半までのノーザンブリア研究ノート
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.6, pp.1-24, 2013-10

本稿は,ローマ帝国がブリティン島から撤退した5世紀はじめから8世紀末のヴァイキングの襲来までのスコットランドにおいて,ピクト人の活動,ピクト人によって形成されたアルバ王国,ならびに,中世中期の中央集権的なアサル王朝の成立の一翼を担ったキリスト教についての一考察である。第1節では,6世紀から8世紀前半のピクト王国を,ブリィディ1世から7世紀初めのネフタン2世,次に,タロルガン1世とブリィディ3世によるノーザンブリア王国との連携から対立,そしてピクト王国の独立をブリィディ4世とネフタン4世兄弟の治世によって概観する。第2節では,オエンガス1世とコンスタンティン王,およびオエンガス2世の治世からピクト王国を概観する。論文Article
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 = Sapporo Gakuin University Review of Economics (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.9, pp.1-25, 2015-03-10

本稿では,9世紀から10世紀にかけてのスコットランドがピクト王国からアルバ王国への発展・移行したこと,ならびに,その同時期におけるその周辺国の事情を概観する。特に,ピクト王国が後世になって“Viking”と呼ばれている人々(民族)の侵攻に対峙し,その戦いの結果,スコットランドの統一王国であるアルバ王国が形成された。また,ヴァイキングとの戦いから,スコットランドと同時に,イングランドにおいては,ウェセックス王国がイングランド全体を治めるようになり,イングランド統一王国が形成された。さらに,周辺国の事情では,特に,ヴァイキングとアイルランド王(上王:high king)との敵対,あるいは,両者の共闘を通じて,ヴァイキングの果たした歴史的役割の一端を考察する。本稿は,3節から構成され,第1節では,ピクト王国からアルバ王国への移行期となる9世紀中旬から9世紀末までの時代を概観する。その時代は,スコットランド王のケニス1世からドナルド2世までの治世に対応する。第2節では,スコットランド王のコンスタンティン22世の治世とその周辺国の事情を概観する。同時に,特に,アイルランド王国の上王とヴァイキングの対立あるいは共闘についても概観する。第3節では,資料を通して,ピクト王国からアルバ王国に移行する時代は,コンスタンティン2世の治世に対応していることを概観し,併せて,それを検証する。
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 : Sapporo Gakuin University Review of Economics (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.7, pp.1-27, 2014-03-10

スコットランド王国とイングランド王国の同君連合王国が成立し,前者の国王ジェイムズ6世がイングランド王ジェイムズ1世として戴冠することにカトリック教徒は反発した。本稿では,彼の統治政策に対するカトリック教徒の陰謀計画を概観する。彼は,エリザベス1世(Elizabeth I)(在位1558年-1603年)の宗教政策を継承し,国家(国王)に対する教会の従属の立場を堅持しつつ,カトリック教会の組織形態を温存する政策をとった。1559年にエリザベス1世のもとでイングランド王国においてカトリック教が禁止され,イングランド国教を忌避するカトリック教徒には罰金刑や死に至る反逆罪が科された。カトリック教徒は,ヨーロッパ大陸に逃亡し,スペイン王国やフランス王国の神学校でカトリック教の教育を受けた。カトリック教徒の勢力が,分裂し,新しい宗教勢力に押しつぶされようとしていたときに,エリザベス1世が1603年3月に崩御した。ジェイムズ6世がイングランド王ジェイムズ1世としての戴冠式を挙行する1603年7月までの間に,カトリック教徒によってメイン陰謀(Main Plot)(1603年7月)とバイ陰謀(Bye Plot)(1603年6月)が計画された。これも国教会の礼拝に参加しないカトリック教徒に課されていた重い罰金刑に対する不満から生じ,カトリック教徒による国教忌避者に対し課される罰金刑の緩和・廃止を求め,国王ジェイムズ1世をアラベール・ステュワートと据え替えることが計画された。しかし,カトリック聖職者の密告によってその計画の実行は阻止された。イエズス会の聖職者が,治安と制裁の恐怖のために,当局に密告したと思われる。ジェイムズ国王は,彼自身がカトリックに改宗したという噂をかき消すために,カトリック教徒に対する罰金刑の適用を強化した。これに対しカトリック教徒の中には,1605年11月の議会招集に合わせて,ウェストミンスターの議事堂を爆破し,国王を議員共々爆死させることを計画する者がいた。その政治的目的は,イングランドにカトリック国王による支配を再現することであった。実際,ジェイムズ国王に替わってその娘のエリザベス王女(Elizabeth Stewart)(1596年生-1662年没)を国王に据えることが彼等の計画であった。この計画の中心人物は,首領のロバート・ケイツビー,トマス・ウィンター,ジョン・ライトならびにガイ・フォークスなどであった。この火薬爆発未遂陰謀計画(1605年11月5日)は,ジェイムズ国王による国教徒優遇政策に対するカトリック教徒の反発にすぎないという印象を拭いきれない。その少数のカトリック教徒の運動は,イングランドの庶民全体を巻き込んだ運動には展開しなかった。その陰謀計画は,ジェイムズ1世の宗教政策に対する反抗に過ぎなく,イングランド王国を一層主教制の国に傾かせることになったと理解される。論文
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.5, pp.1-20, 2013-03

15世紀末から16世紀前半のイングランド王国やフランス王国の対立する国際情勢の中で,スコットランド王国のアイデンティティを模索した国王ジェイムズ4は,イングランド王国の支配や征服を回避したが,徐々にイングランド王国との一体化政策に飲み込まれていった。本稿では,宗教改革前夜のスコットランド王国の歴史的出来事からそのことを検証する。イングランド王国によるスコットランド王国の征服・併合策謀は,エドワード1世(在位1272年-1307年)やエドワード3世(在位1327年-1377年)時代からすでに現れていたが,しかし,スコットランド王国のイングランド王国からの第1次独立戦争(1306年から1328年まで)や第2次独立戦争(1329年から1377年ごろまで)でのスコットランドの勝利によって回避された。その両イングランド国王は,スコットランド王国に臣従を迫り,スコットランドを直接的に支配しようとした。テューダ朝においては,ヘンリー7世の治世下での経済力伸展に基づいて,ヘンリー8世のフランス侵攻戦略と呼応させ,イングランド王国による一体化攻勢がスコットランドに向けられた。1603年のジェイムズ6世(在位1567年-1625年)による同君連合や1707年のイングランドとスコットランドの議会連合によるイングランド王国とスコットランド王国の併合・一体化に到る萌芽がすでにヘンリー8世の永久平和条約とジェイムズ4世とマーガレット・テューダの結婚(1503年)に始まっていたことを提示する。国際情勢下におけるスコットランド王国とウォーベック問題に対するジェイムズ4世の外交政策とその後のジェイムズ4世のイングランドとの対応とフロドゥンの戦いについて概観する。最後に,ジェイムズ5世の政治体制の特徴を概説する。論文
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.8, pp.1-25, 2014-10

本稿では,イングランドとスコットランドの同君連合後のイングランドにおいてのジェイムズ1世の内政および外交政策の遂行で議会との対立・闘争を通じて如何に自身の政策を実行したのかをみる。特に,王家の財政収入の調達と,スペイン戦争の遂行のための資金調達で彼と議会との対立を概観する。また,彼の宗教政策では,エリザベス1世の宗教政策を継承したことを説明する。さらに,彼の枯渇する国庫を救済するための勅許会社の拡張と植民政策の推進を概観する。後者の植民政策の成功例としてのジェイムズ・タウンを取り上げる。本稿の構成は,第1節でジェイムズ1世とイングランド議会:王の国庫窮状の打開をめぐる闘い,第2節で,ジェイムズ1世の外交政策,第3節で,ジェイムズ1世の宗教政策,第4節で,ジェイムズ1世の植民政策,ジェイムズ1世の即位以前の勅許会社,ジェイムズ1世の勅許会社と植民政策について説明する。特に,ヴァージニア会社の設立,植民地ジェイムズ・タウンとその窮乏化,そしてジェイムズ・タウンの放棄とその救済,そして,植民地の払い下げとその成長について説明する。論文Article
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.8, pp.41-67, 2014-10

本稿では,初めに,5世紀から7世紀前半のブリトン人のアルト・カルト王国の成立・勃興からその衰退までを概観する。次に,本稿では,8世紀後半には,アルト・カルト王国はピクト王国の属領になり,また,ヴァイキングの侵攻後の10世紀初めに建国されたストラスクライド王国とその衰退を概観する。その侵攻後に,周辺国のピクト王国は,アルバ王国とその国土を拡張させ,その侵攻の衝撃を発展的に解消し,またウェセックス王国は,ブリテン島で覇権を掌握し,10世紀後半には全イングランドを統一した。その中で,強力な王権を持たないストラスクライド王国は,ヴァイキング侵攻で荒廃し,その侵攻後に強力な王のもとで統治されたピクト王国の属国とされ,11世紀にはピクト王国に併合されていたと推測される。本稿の最後に,アルト・カルト王国とストラスクライド王国におけるキリスト教の働きを一瞥する。本稿の第1節の第1項では,古代カレドニア地域の民族や7つのピクト国と伝説上のヘン・オグレット(Hen Ogledd)そして,ストラスクライド地域のブリトン人のアルト・カルト王国の勃興を概観する。5世紀頃まで,4民族がそれぞれの部族王国を形成し,現在のスコットランドを割拠していたと考えられる。アルト・カルト王国は,ストラスクライド地域のケルト系ブリトン人によって形成された王国であった。5世紀から6世紀かけて,現在のスコットランドの南西部(ダンバートンシャー,グラスゴー,レンフルシャー,スターリング,フォルクカーク,エイシャー,ラナークシャー)のストラスクライド地域にブリトン人がアルト・カルト王国(Kingdom of Alt Clut)を形成し,その中心地をダンバートンの高台(Dumbarton Rock;Alt Clut)に置いたと思われるが,しかし,このことに関する明確な記録は発見されていない。本稿の第1節の第2項の前半では,アルト・カルト王国の発生とその展開を概観する。5世紀から7世紀の前半までは,その王国の西側にScottiのダル・リアダ王国,その北側にピクト人のピクト王国,その東側にアングル人のベルニシア(ノーザンブリア)王国,その南側に他のブリテン人の王国(グウィネッズ王国,レゲット王国,あるいはエルメ王国などの王国)が活動していたと考えられる。アルト・カルト王国の第9代目エウゲン1世(在位不詳;7世紀中頃))までの国王は,その在位期間が確定しない王であり,伝説上の,あるいは,半歴史上の人物であると考えられる。特に,その関係がその王系図からブリテン人のアルト・カルト王国とダル・リアダ王国の関係,同時に,そのピクト王国との入り込んだ関係からぼんやりと見えてくるにすぎない。例えば,ダリ・リアダ王国のアイダーン王の西方への侵略を反映してアルト・カルト王国の王系図にダル・リアダの血が流れて来たと考えられる。本稿の第1節の第2項の後半では,アルト・カルト王国がピクト王国の属領にされ,それに併合される過程を概観する。アルト・カルト王国は,8世紀中頃ごろまではその勢力を保ったと思われるが,しかし,8世紀後半には,その勢力が削がれることとなった。『Annals of Ulster』には,780年に〝アルト・カルトが燃える" と記録されている。また,『Symeon of Durham』によると,ピクト王国の王オエンガス1世(在位732年-761年)がノーザンブリアの王エズバートと連合し,アルト・カルトを包囲し,攻撃した(756年8月1日)と考えられる。ストラスクライド王国はピクト王国に臣従礼をした。アルト・カルト王国がピクト王国の属国であったことは資料からも推測される。その第17代目エウゲン2世(在位不詳;8世紀後半)ならびに第18代目リデルホ(在位不詳;9世紀初め)の在位期間が不定で,2人の活躍を知らせる直接的な資料も見つかっていないこと,さらに,その第19代目ドゥムナグゥアル4世(在位不詳)が王であったことは『Harleian genealogies』のみで伝えられ他の資料にはないこと,また,『Chronicle of the King of Alba』には849年にブリトン人によってダンブレーン(Dunblane)が燃やされたことの記録から,アルト・カルト王国が1世紀以上の間にわたってピクト王国の属領であったこと考えられる。その第20代目アルトガル・マック・ドゥムナグゥアル(在位不詳;872年没)は,捕虜としてヴァイキングによってダブリンに連行され,872年にピクト王コンスタンティン1世(コンスタンティン・マック・キナエダ)(在位862年-877年)の扇動あるいは同意によってその地で殺害された。アルト・カルト王国は,確かに,870年にノルウェイ人でダブリン王国の指導者(王)のアヴラブ・コング(875年没)とイヴァール(873年没)に包囲され,掠奪されていた。『Annals of Ulster』では,第20代王アルトガル・マック・ドゥムナグゥアルの資格としてストラスクライド王を用い,〝rex Britanorum, Strata Claude(ストラスクライドのブリテン王)"と記録されている。彼は,ストラスクライド王と呼ばれた最初の王であった。国名が変更されていること,また政治の中心がダンバートンからゴーヴァンに移されていることから,ストラスクライド王国もピクト王国の属国になったと考えられる。本稿の第2節の前半では,ストラスクライド王国がアルバ王国を従属されることを概観する。『Chronicle of the Kings of Alba』によると,ストラスクライド王国の初代王ディフンヴァル1世あるいはドムナル1世(在位不詳;908年から916年の間に没)がアルバ王国の王コンスタンティン2世(在位900年-943年)の治世下で死んだという報告から,ストラスクライド王国はコンスタンティヌス2世の治世下でもアルバ王国に従属していたと推測される。その第4代目王ディフンヴァル3世あるいはドムナル・マック・オーゲン(在位941年-973年)は,『Annals of Ulster』では,〝Domnall m.Eogain,ri Bretan(オーゲンの息子ドムナル,ブリテンの王)" と呼ばれ,975年のローマへの巡礼の途上で死亡したと記録されている。『Anglo-Saxon Chronicle』には,945年にイングランドの国王エドモンド1世(在位939年-946年)が全カンブリアを占領し,それをアルバ王国のマルコム1世(在位943年-954年)に両国の陸海軍での連帯を条件として貸し与えると記録され,945年にカンブリア王国はイングランドの領土で,スコット王(多分,アルバ王マルコム1世)に貸し与えられたと理解される。しかし,ドムナル・マック・オーゲンが最後の王であると決めることはできない。というのは,その第5代目マエル・コルム1世(在位973年-997年)がアルバ王国の王と共にイングランド王エドガー(在位959年-975年)と会った8人の王に中の1人であったことから,ストラスクライド王国は,独立した国であったと理解することができる。その第6代目はオーエン2世あるいはオーガン2世(在位不詳;11世紀初めに活動)であった。第2節の第2項の末では,ストラスクライド王国がアルバ王国への併合を概観する。『Symeon Durham』によると,オーエン2世あるいはオーガン2世は1018年のカラム(あるいはコールズストリーム)の戦い(Battle of Carham(Coldstream))に参加した。ウェールズの年代記には,彼は1018年に死亡したと記録され,この戦いで彼が死んだかどうかは明らかではないが,しかし,1018年には,独立国としてのストラスクライド王国は彼の代で消滅したと考えられる。ストラスクライド王国は,スコットランド王ディヴィド1世(在位1124年-1153年)の治世まで存続したと考えられる。彼の治世時に,ストラスクライド王国がアルバ王国の属領であったか,あるいは,独立した国であったかどうかは不明であるが,多分,アルバ王国の属領で併合されていたと推測される。第3節では,アルト・カルトならびにストラスクライド両王国におけるキリスト教について概観する。本稿で取り上げるアルト・カルト王国ならびにストラスクライド王国は,その地理的立地からも推察されるように,その周辺王国の侵攻に悩まされたと考えられる。これが,その王権の伸張を阻害した大きな要因であったと推測される。また,その他の要因として,この王国にはダル・リアダ王国のアイダーン王(在位574年?-609年),ノーザンブリア王国のアシルフリス(在位593年-616年),エドウィン(在位616年-633年)ならびにオズワルド王(在位634年-642年)などの王,あるいはピクト王国のオエンガス1世などのような強い統率力のある国王(支配者)が出現しなかったこともあげられる。このこともアルト・カルト王国およびストラスクライド王国が早い段階で歴史から消える要因であったと思われる。それでも,この王国は,同様の地理的条件にあったと思われるレゲット王国やエルメト王国などのブリテンの王国よりも他の王国による支配下に入るのは遅かった。その要因はよく分からない。それは,現時点では,ミッシング・リンクである。研究ノートNote
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所 = Research Institute of Sapporo Gakuin University
雑誌
札幌学院大学経済論集 = Sapporo Gakuin University Review of Economics (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.16, pp.1-121, 2020-02-29

本稿では,正義を実現する国家とはどのような国家像であるのかを考察する。その際,プラトンが対話編『国家』で展開する正義論ならびに国制(政治体制)を手がかりにしてその国家像について検討する。 本稿の第2章では,第1章のプラトンの哲学あるいは哲学者についての現実認識を踏えて,国制の混乱・崩壊の原因が支配者層を構成する人々の間の支配権を巡る抗争にあるというプラトンの想定を基盤とし,支配者間の団結・連帯を実現するための要件を前提にし,プラトンが最も強く押し出している理知的な支配者とその支配者を社会において育成するための教育プログラムについて考察する。プラトンの成長段階に応じた教育プログラムの特徴は,次の6段階の成長段階(1)幼児から10歳頃(教養教育ならびに体育教育(健康管理教育))(2)10歳頃から20歳頃(学術教育)(3)20歳頃から30歳頃(研修教育(予選された者の教育))(4)30歳から35歳頃(哲学的問答法の教育(言論修練教育))(5)35歳頃から50歳頃(体験教育)(6)50歳以後(支配者として活躍あるいは哲学に専念)に分けて,支配者(守護者)を踏まえた教育プログラムで,育成される支配者は,理知的で,かつ守護者(軍人)としての体験教育を受けた支配者である。政務を審議し計画する支配者(政治家)の職位につく年齢の50歳超まで,支配者としての教育を受けた人間である。これがプラトンの理想とした国制,すなわち哲人王制のもとでの支配者・統治者である。このプラトンの支配者養成の教育プログラムを検討する。 本稿の第3章では,正義について,様々な観点から考察する。ギリシャ人の正義,正義の社会的有用性,正義と知者,正義と支配者,正義と利益,正義と分を守る,正義と国家,正義と善,正義と幸福などについて考察し,その中でも,正義と国制(最優秀支配制,寡頭制,民主制,ならびに僭主独裁制)の関係を検討し,特に,ソフィストと知られるトラシュマコスの正義論(強者の利益が正しい)を巡って,正義が支配者(現実の国制)にとって何であったのかについてに認識を深める。 本稿の第4章では,プラトンが正義とは何かを明らかにするために,新たに建設された国家を取り上げ,その国家は,金儲けする階層(農民や,鍛冶職人,織物職人など),支配者層(政策を計画し審議する人々),そして支配者を補助する階層(軍人)から構成されるが,それぞれの階層が自身の職務に専念し,他の階層の職務(仕事)を侵さないことが正義であり,そして,プラトンが新たに建設する国家では,知恵,勇気,節制,そして正義が実現し,さらにその国家で生活する各個人おいても4つの徳が実現することを説明する。論文
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 = Sapporo Gakuin University Review of Economics (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.6, pp.59-82, 2013-10

本稿で取りあげる北部アイルランドとスコットランド北西部で活動したダル・リアダ王国は,6世紀の初めに建国し,アイダーン王(Áedán mac Gabráin)(在位574年?-608年)の支配下のときに,その周辺国との戦いによる勝利によって,その領土を発展・拡充し,その最盛期に至した。しかし,603年頃のDegsastanの戦いにおいて,その王はノーサンブリア王国のエゼルフリス王(AEthelfrith)(在位593年-616年)に敗れ,その後,彼の勢力は衰え,同時にダル・リアダ王国の力も衰えた。さらに,彼の後継者は,周辺国との戦いに敗北するのみならず,内部抗争(ケネル・ガブラーン家とケネル・コンガル家の王家の抗争)を繰り返し,その勢力は一層衰退した。また,637年のMag Rath(ダウン州のMoira)の戦いの後,北アイルランドのダル・リアダ王国は滅ぼされ,同時に,スコットランドのダル・リアダ王国はその政情も不安定化し,ノーザンブリア王国に従属し,さらに,685年にノーザンブリア王国がピクト王国の王ブリィディ(ブルード)3世(在位671年-693年)に敗北し,730年頃にはその王国は,オエンガス1世のピクト王国の支配下に入り(従属し),その王国の上王(大君子権)がピクト王に支配に入った。最後に,ピクトとダル・リアダの融和に果たしたキリスト教の役割を調べる。第1節では,伝説のダル・リアダ王国と実在のダル・リアダ王国について,伝説のファーガス・モーによるダル・リアダ王国の建国とケネル・ガブラーンとケネル・コンガルそして,アイダーン王の全盛期その後のその勢力の陰りとその衰退,第2節では,ダル・リアダ王国の内部抗争とノーザンブリアおよびピクト王国への従属を概観し,第3節ではダル・リアダ王国とキリスト教の関係を説明する。
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所 = Research Institute of Sapporo Gakuin University
雑誌
札幌学院大学経済論集 = Sapporo Gakuin University Review of Economics (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.15, pp.73-103, 2019-11-30

本稿では,プラトン(Πλάτων, Plátōn)(前427 年-前347 年)の『饗宴』を通して,個別のものの観察から始め,ことの本質(ものの本性)を見極める認識論について考察する。すなわち,彼は,個別・具体的な美しいものから美そのもの(すなわち,美の本性,あるいは美の本質)を認識する手順について考察している。この手順は,プラトンの『饗宴』において示された,愛することから認識することに到る手順として与えられる。本稿では,個別・具体的な美しい肉体から美そのものの認識に到るための手順が考察される。それは,個別・具体的な肉体的美しさを求める者(愛する者)は,(1)はじめに,この世(地上)の個々の美しいものに心を引かれる(愛する),つまり ある人の顔や手とかその他肉体(身体)に属するものの美しさにひかれ,(2)次に,最高美を目指し,梯子の階段を昇るように,絶えず高く昇っていく,すなわ ち, 一つ一つの美しい肉体的な美しさから二つへ,二つからあらゆる美しき肉体(身 体)へと進み,そして,あらゆる肉体(身体)の美が同一不二であると看取し,一人 に対する熱烈な情熱が取るに足らぬものと見て,その熱を冷まし,その愛をあらゆる 肉体(身体)に及ぼし,(3)そして,美しき肉体(身体)から美しき心霊に進み,肉体的美しさより心霊上の美 しさに高い価値を置き,(4)その上で,美しき職業活動へと進み,たとえば,最高で最美な国家と家の統制に関 することへと進み,(5)美しさ(エロス)を語るには,美しさの真実を究める必要があるので,美しき職業 活動から美しき学問に進み,その学問から美そのものの学問に到達し,(6)最終的には,美のそのもの(美の本質)を認識する。 ここに到って美そのものを觀得する(認識する)ことになる。プラトンは,肉体的な愛欲者から愛智者に到って,ものの本性・本質を見極めることができると言う。また,そこにおいて人生は生き甲斐があると言う。プラトンの『饗宴』において,肉体的な愛欲者が,愛智者となり,美そのものを(ものの本性)認識することに到ることを,本稿では考察する。論文
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所 = Research Institute of Sapporo Gakuin University
雑誌
札幌学院大学経済論集 = Sapporo Gakuin University Review of Economics (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.16, pp.123-161, 2020-02-29

本稿では,プラトンの対話編『パイドロス』においてソクラテス(すなわちプラトン)によって繰りひろげられたエロス論の特質について考察する。すなわち,パイドロスが朗読した弁論家リュシアスのエロス論と対比してソクラテス(すなわちプラトン)のエロス論を検討し,両者の違いも考察する。その対比を通して,ソクラテス(プラトン)のエロス論の特質を鮮明にされる。対話においてソクラテスは二つのエロス論を提示しているが,それぞれは,まったく異なった二つの立場からのエロス論である。その一つは,リュシアスと同様に恋する人ではなく,恋してはいない人を愛するエロス論であり,他は,恋している人の方を愛するエロス論であった。 本稿では,現世の美しい人を目にし,そこから美の真実在から現実(この世)の美を認識する認識論としてのイディア説が示される。その認識論は,プラトンの対話編『饗宴』で検討した認識論の拡張,深化あるいはその延長線上にあるものであるが,プラトンは,神(あるいはデーモン)の存在を強調し,真実在の認識には神あるいはデーモンの働きを欠くことができないと主張している。プラトンのように,ある実体を認識するには,神の存在を持ち出す必要があるのかどうかは,疑問であると考えられている。そのため,今日の科学の時代において,これがプラトンの認識論を積極的に評価されない一面である。 本稿では,また,弁論術についても紹介される。その真実在を伝え教える方法として,プラトン自身によって開発されたディアレクティケー(哲学的問答法)を説明する。その方法と,プラトンが活躍していた当時の弁論術(言論の技術)あるいはソフィストの詭弁術との違いを示す。ソフィストは,事柄の真実在ではなく,世間の人達に受け入れられること,あるいは受け入れられるであろうと思われることが真実であると考え,その事柄を理路整然と語るひとが知恵者であると言うが,プラトンはその立場には与せず,彼の言論の術を展開する。その言論の術は,彼のイディア説に裏打ちされた言論の術(弁論術)である。論文
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 : Sapporo Gakuin University Review of Economics (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.7, pp.41-83, 2014-03-10

本稿(スコットランド王国の周辺国のノーザンブリア)では,5世紀から11世後半までのノーザンブリア
著者
久保田 義弘
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学経済論集 = Sapporo Gakuin University Review of Economics (ISSN:18848974)
巻号頁・発行日
no.5, pp.41-62, 2013-03

本稿では,16世紀中期のスコットランドの宗教改革前夜の国際情勢の中で,スコットランド王国がイングランド王国とフランス王国に翻弄されながらも,自国のアイデンティティを模索し,スコットランドの自律あるいは自立に政治生命を賭けた国王メアリー女王の時代を調べる。イングランド王国によるスコットランド王国の征服・併合の策謀は,エドワード1世(在位1272年-1307年)やエドワード3世(在位1327年-1377年)に見られるたが,しかし,第1次独立戦争(1306年から1328年まで)や第2次独立戦争(1329年から1377年ごろまで)におけるスコットランドの勝利によって回避された。テューダ朝ヘンリー7世の治世下での経済力の伸展をベースにして,ヘンリー8世のフランス侵攻戦略によってイングランド王国による一体化攻勢が再開された。本稿の最初の節ではメアリー女王がフランスへの脱出し,フランス王妃になり,そして帰国したメアリー女王と王母マリー・ドゥ・ロレーヌの宗教政策と会衆指導層の戦いを概観する。次節では,メアリー女王の再婚と私設秘書ダヴィッド・リッチオならびにダーンリー卿ヘンリー・ステュワートの暗殺と,メアリー女王のイングランドでの陰謀の失敗とメアリーの死を概観する。それと同時に,1560年2月27日にイングランドとの間で結んだベリク協定(Treaty of Berwick)とエディンバラ条約(Treaty of Edinburgh)によって,スコットランドとイングランドの絆が強くなり,フランスとの古い同盟は反古にされ,両国の合同が間近にせまっていた。