著者
浅野 二郎 仲 隆裕 藤井 英二郎
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学園芸学部学術報告 (ISSN:00693227)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.75-83, 1988-03-18
被引用文献数
1

本論文では初期書院造が成立したとされる室町・永禄年間における三好筑前邸の庭について,三好筑前守義長朝臣亭江御成之記を中心にその成り立ちについて考察した.その結果,その構成の基本については特に上杉家蔵洛中洛外屏風に描かれる細川典廐邸がもつ外部空間の構成に通じるものの多いことが指摘された.また,この三好邸の庭としての外部空間の在り方は,書院造の典型のひとつとされる西本願寺対面所にみる外部空間の在り方と極めてよく通じるもののあることが指摘できる.このことから,三好亭のそれが西本願寺対面所の庭がもつ構成原理の祖型をなすものと推定した.また,これらの,いわば観る庭の庭づくりに先行するものとして,会所・泉殿の庭をとりあげた.ここでは,この庭づくりに深く関与したとされる庭者についても触れた.足利将軍に仕えた同朋たちが多くの唐絵・唐物を使って会所の飾り付けを担当し,やがてその飾り付けの手法が後世,書院造の住宅における座敷飾りに大きな役割を果していったように,これら庭者たちも,やがて成立する書院造庭園において,そのもてる技能を展開するとした.即ち,会所・泉殿の庭づくりの場で,彼らが育て,そしてそれを受け継ぎ,さらに磨き抜いてきた造庭の手法を書院造庭園の場においてもさまざまに活かし,鑑賞に耐える庭としてこれをつくりあげてきたものと推定した.
著者
浅野 二郎 仲 隆裕 藤井 英二郎
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.50, no.5, pp.7-12, 1987-03-31

わが国の住宅建築の重要な様式の一つとして「書院造り」がある。この書院造りの住宅に対応する庭園として書院庭園がある。本論文は法然上人絵伝、獅引絵などの絵巻物類あるいは町田家旧蔵本・上杉家蔵本洛中洛外屏風などの諸史料を主な検討素材とし、また寺院における庭空間の取り扱いなどをも併せ考えつつ、書院庭園の成立にかかわるさまさまな要素を検討,考察したものである。
著者
浅野 二郎 仲 隆裕 藤井 英二郎
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学園芸学部学術報告 (ISSN:00693227)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.157-164, 1993-03-25
被引用文献数
1

明暦2年(1656),良尚法親王の創建に係る曼殊院小書院の一畳台目と,小書院に北接して営まれた三畳台目の茶室・八窓軒について論じた.小書院二の間(富士の間)の西に接して設けられた一畳台目の茶室については,小書院の部屋割りから,これがかつて東山殿にみられた茶立所に通じる茶礼が成立していたこと,この場合,台天目がその中心作法とされていたであろうことを推測した.また,この小間は,一面において極めてくつろいだ茶の湯の場として利用されることもあったとみた.茶室・八窓軒については,主に地下の者や町衆を客としての茶の湯の場として用いられたものと推測した.近衛邸の表向茶室については,指図によって,応山時代に「数奇屋」と書き込まれた一室が認められるが,これはいわゆる草庵茶室のそれではなく,茶立所としての機能を果たすものであったとした.しかし,孫の予楽院の時代に至っては,四畳半の囲居が「白木書院」に接して設けられ,そこでは草庵茶室,即ち,武家・町衆の茶に一歩の歩み寄りを感じさせるものがあるとした.曼殊院創建の翌年,即ち,明暦3年には良如法主が西本願寺黒書院を営む.黒書院には一の間に付属して七畳の茶室が設けられた.曼殊院小書院と,この西本願寺黒書院の創建には,その計画について良尚法親王にとっては兄,良知法主にとっては義兄に当たる八条宮智忠親王の存在が考えられ,兄宮の建築に対するすぐれた造詣と,茶に対する深い理解に基づく指導,即ち,両者の日常生活の在り方,茶に対する対応のちがいをふまえた適切な指導が,それぞれの場に相応しい茶の湯の空間の創成を成し遂げさせたとした.
著者
浅野 二郎 仲 隆裕 藤井 英二郎
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学園芸学部学術報告 (ISSN:00693227)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.67-74, 1988-03-18
被引用文献数
1

紹鴎・利休以前,茶会の場における庭は,例えば喫茶往来に記される喫茶の亭における庭,あるいは尊教院の茶座敷に対する茶の庭としての「堀庭」にみる如く,書院造庭園の系譜に属する庭,いわばそれは観る庭,楽しみの庭ともいえる庭園であった.紹鴎・利休において,茶はそれまでの茶から離れ,わび茶の確立に向う.その中で茶の湯の場はわび茶のための場としての草庵茶室の創出へと展開する.それとともに,この茶室のための外部空間としての庭は,わび茶の理念をふまえる庭,即ちそれまでの庭とはその造庭理念のうえで全く道を異にする,いわば新しい庭,「坪の内」が茶の庭として創り出される.紹鴎・利休が求めた草庵わびの茶は,しかし,やがて武家の茶・大名茶と呼ばれる茶,即ち「客をもてなす道理を本位とする」茶を生み出し,それがひとつの大きな流れとなる時期を迎える.この新しい茶の流れにとって織部・遠州が果した役割は極めて大きい.而して,織部・遠州の茶会において,すでにあった鎖の間をひとつの茶会の流れの中で,真に活かしきり,用いきる時期を迎える.さらに,この鎖の間の活用のなかから露地(茶庭)と書院造庭園とが相互に響き合う見事な,そして新しい庭づくりが創まる時期を迎える.つまり,二つの庭の有機的一体化の時期を迎えることになるとみる.それは,わび茶に対する新しいとらえ方がこのような造形の実現を可能にしたとみてよいであろう.また,これを形而下のこととしてみれば,織部・遠州における鎖の間にかかわるさまざまな面での造形が,その大きな契機として働いたといってよいのではないかと考える.このようにして到達した新しいわび茶の造形のひとつの到達点に孤篷庵・忘筌の露地があるとした.また,さらにこの忘筌の露地の造形の発展・展開のなかに石州の慈光院の庭があり,松平不昧の向月亭の前庭と菅田庵の露地とのつらなりがあるとみる.
著者
白 志星 藤井 英二郎 仲 隆裕 浅野 二郎
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学園芸学部学術報告 (ISSN:00693227)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.203-213, 1992-03-25
被引用文献数
2

李朝における宮闕は中国周代からの宮闕制度に従うかたちをとりながら,一方では周りの地勢を重視する風水地理の思想が加わったかたちで構成されている.この宮闕に見られる宮苑における植栽は象徴性と装飾性,それから実用性を念頭に置きながら配植されている.外朝は宮闕のアプローチの空間であり,重要な見せ場として扱われ,ここでは多彩な植栽がなされている.治朝では行事に伴う機能的な面が重視された空間造りがなされ,植栽が排除される.
著者
村上 朝子 仲 隆裕 藤井 英二郎
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.56, no.5, pp.97-102, 1993-03-24
被引用文献数
1 1

本研究は,いけばなと盆栽の取り扱いについて,庭園植栽意匠との関係に注目し,考察した。いけばなの取り扱いについて中世の絵巻物や花伝書等を用いて検討した結果,「真の花」であり,座敷の押板飾りに欠かせない「三具足の花」が仏前の供花から派生し成立する過程が推察された。また,花伝書の記述から,特に「草の花」は自然の美を表現しようとするもので,このとき,当時の庭園植栽の姿が想定されていたことが指摘された。一方,盆栽については絵巻物から,縁や庭先に置かれる盆栽は庭の景を構成する一要素となり,これを考慮した植栽意匠がなされた場合があったこと,また,盆栽が植栽の整姿に影響した可能性について考察された。
著者
浅野 二郎 仲 隆裕 藤井 英二郎
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学園芸学部学術報告 (ISSN:00693227)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.69-78, 1986-03-30
被引用文献数
1

わび茶が創始され,多くの人たちがそれを継承するなかで,わび茶は大きく発展する.わび茶が発展するなかで,やがて,遊芸の茶ともいえる贅と華美に流れる茶が流行する時期を迎える.この時流のなかで,わび茶本来の姿へ立ち戻るべし,とする人達があらわれる.本報告では,このような人達の中から,資料によってその事績を比較的明確にとらえることのできる藤村庸軒と井伊直弼の茶と茶庭について取り上げ,検討した.特に茶庭については現存する西翁院・澱看席と,埋木舎・〓露軒および茶湯一会集を中心にして考察を加えた.そこでは,いずれも,わび茶の原点への回帰を希う真摯な姿勢が,具体的な作例あるいは著書・諸記録を通してうかがい知ることができる.
著者
浅野 二郎 仲 隆裕 藤井 英二郎
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学園芸学部学術報告 (ISSN:00693227)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.109-122, 1987-03-30
被引用文献数
1

紹鴎から利休へとつづくわび茶の草創の時期において,わび茶の先達たちが求めた世界は,一座建立の世界であり,それは,茶の場において亭主の座と客の座がもつ格差の否定につながるものであった.而して,利休が求めるものは,四畳半,三畳あるいは二畳といった,いわゆる小間の茶に佗びすますところのものであった.しかし,うき世の外の道を目指したこのわび茶も,終いにうき世の外のものではあり得ず,やがて,それは客のための茶へ,さらに客のもてなしのひとつとしてとらえる茶へと変容する.わび茶に対する意識のこのような転換に伴って,茶室の空間構成にも,新たな展開が起る.この際立ったひとつとして茶室における台目構があげられる.一方,露地についてみるとき,露地もまたおそらく茶室のたどった道筋と無縁のものではあり得なかった筈である.つまり,台目構の茶室に対応する露地は,台目構を構想する意識と深くかかわりつつ造形されていったものとみてよいのではあるまいか.本論文では,特に台目構の茶室をとらえながら,それに対応する露地の形態がどのように展開したかを,指図(平面図)が確認できる史料を手がかりとして,検討を加えた.即ち,織部がかかわった松屋久好の露地,細川三斎の露地および金森宗和の露地を事例的にとりあげ,関連資料を活用しつつ,これらの露地が辿った道程を見極め,それぞれの茶匠たちが求めた造形をとおして,わび茶における伝統の継承と創造の問題について論じた.