著者
飛田 範夫
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.52, no.5, pp.7-12, 1989-03-31
被引用文献数
1 1

日本の伝統的スポーツの1種である蹴鞠は,中国から7世紀頃に日本に伝来したものと考えられる。当初邸内の庭で鞠を蹴り合うだけであったが,次第に本格化して「鞠の庭」が定められ,4隅に懸(かかり)と呼ばれる桜柳楓松などの樹木を植えるに至つている。造園的に見ると,懸の仕立には庭園の剪定技法が応用され,鞠の庭の舗装に関しては,土と砂あるいは塩を含ませたものをつき固めるなどの工夫がなされていることがわかる。
著者
俵 浩三
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.57, no.1, pp.1-15, 1993-08-27 (Released:2011-07-19)
参考文献数
12
被引用文献数
1

植物への理解を深めることは造園学の重要な基礎となるが, 植物情報源として大きな役割をはたす植物図鑑の発達史は, 造園史, 植物学史, 理科教育史の分野を含めて十分に研究されていない。そこで,(1) 明治以降に出版された一般野生植物を対象とする植物図鑑の発達史を展望して時代区分を行い, その特徴を明らかにするとともに,(2) とくに明治40年ころに近代的, 啓蒙的植物図鑑を出現させた原因には, 当時の初等理科教育における博物重視と, 画一的ではない「身近な自然」を教科書とする教育の方針があったこと,(3) さらに「牧野植物図鑑」の成立には, 牧野を敬愛す人々によってつくられた英雄伝説的な “誤伝” があること, を明らかにした。
著者
高橋 理喜男
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.27, no.2, pp.10-17,21, 1963-01-30 (Released:2011-07-19)
被引用文献数
1 2

The 5th Industrial Exhibition of Japan was held in Osaka city in 1903. The City Government, that was obliged to prepare a large site for the Exhibiton, acquired an of about 30 ha. at a great cost, partly by means of compulsive purchase-the application of Land Expropriation Law-on condition that a large city park should be established there after its closing. That is the origin of Tennoji Park of today. Of course all the site was not used for a park area. It was decided to rent its western part (some 10 ha.) in 1911, in order to have the financial basis indispensable to maintenance and management of established parks.The area let out on lease was generally called “Sakugaichi”i. e. “the Outside Area of Tennoji Park” for the reason of being separated with a fence from the inside area-the actual park area. Soon thereafter Sakugaichi and its vicinities were developed as a kind of amusement centre, and became famous by the name of “Shinsekai”, literally “New World”.At the ending of Taisho era was completed the first and most ambitious Park Planning Scheme, which was involved in the 2nd Town Planning of Osaka a few years later. So the Government tried to sell the rented area to tenants in 1937, for getting a financial source available for execution of proposed parks and playgrounds. Their opposition against disposal, however, was so violent that the accumulation of the park constrution fund got deadlocked.In the meantime the fund problem was fortunate enough to be solved in the form of adding a item of “Park Working” to “Working Expenses for Town Plahning, Special Account”. Because, by all means, the Government had to promote the park planning in memory of the year 2600 of Imperial era, that had been agreed in the Osaka City Council. Consequently the leased area still remains unsettled in the middst of Osaka City. It is very regrettable, for the above mentioned policy has already finished its historical role, which might have been inevitable and important before.
著者
若生 謙二
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.46, no.1, pp.1-12, 1982-07-31 (Released:2011-07-19)
参考文献数
43
被引用文献数
1 1

本研究では, 最初に動物園史の時代区分を行い, 各時代の特性を個別に論及した。次に各時代の相互の関連性を動物園観を媒介としてとらえ, 歴史的全体像と動物園観の形成過程について論述した。その結果, 動物園の歴史的展開過程は遊園地型動物園の系譜と近代動物園を指向する系譜の2軸型の発展構造としてとらえられ, 従来の研究において欠落していた花鳥茶屋などの見世物園地と電鉄系の遊園地型動物園は前] 者の系譜に位置つくという歴史的な全体像を明らかにした。動物園を娯楽的施設とみる動物園観の形成過程は, このような2つの系譜を軸とする発展構造のなかから生み出されたものと考察された。
著者
槇村 久子
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.55, no.5, pp.121-126, 1991-03-31 (Released:2011-07-19)
参考文献数
25
被引用文献数
4

現在, 墓地として供給されているのは「公園墓地」と呼ばれる様式である。これが日本でどのように成立, 展開したか, その意図したものと, 現在に至っての限界と矛盾点を明らかにする。明治初年に神葬墓地として東京市や大阪市に新墓地が都心遠隔地に形成されるが都市人口集中で都市計画上から必要に迫られ, 井下清により計画された多磨墓地をもって始まる。その後同様式の墓地が全国に造成された。しかし, 形式として欧米自然風景式, 習俗として日本の埋葬, 家族制度を理念としたために, 限界にある。問題はハード面での公園様式と近代化の中で変化していった習俗, 家族の構造変化に対応せず重ね合わせた中にミスマッチを起していることがわかる。
著者
白井 彦衛
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.39, no.3, pp.34-45, 1976-01-24 (Released:2011-07-19)
参考文献数
53
被引用文献数
2 1

Three streams of idears on“green space conservation” were appeared during the period 1915-1919. The first one is a series of tendancy originated by construction of Nleiji shrine. That is, T. Hongo completed planting method based on ecological aspects, and applied it for planting inside the forest of the Shrine. Then landscape architecture were lectured in Faculty of Agriculture of University of Tokyo.The second one was represented by Histric Spot, Beauty Spot and Natural Monument Conservation Law for which M. Miyoshi made a great effort in its establishment. Around that time Musashino Sociaty was estabtiished contributing to preservation of Metropolitan surburbs.The third one was seen in City Planning Law. That is, parks were not only regarded as one of the facilities in a city, but also regulated as scenic zones backed up by the idea on green space conservation. It was City Research Committee chaired by S. Goto that made an effort to establish the above Laws and promote the green space theory. During the period H. Ikeda's “Free Space Theory” was appeared in the technical magagin Toshi koron and its theory by T. Tamura, R. Ohya and K. Takei was also appeared in it. Moreover, K. Ohta and T. Kitamura were the first persons to use the term.“Green Space.”In Sept. of 1923, terriblily big earthquake destroyed the Kanto area resulting in burned out of 380, 000 houses and 80, 000 dead victims of it. For restoration of the Tokyo City, Research Committee submitted the large scaled reconstruction plan, however the plan was reduced in scale because of financial difficulty. Therefore, the chance to improve city circumstance by the introduction of green space was lost in spite of the social recognition concerning the effect of green space in term of prevention of disnster
著者
田畑 貞寿 宮城 俊作 内田 和伸
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.53, no.5, pp.169-174, 1989-03-30 (Released:2011-07-19)
参考文献数
8
被引用文献数
7

本研究では, わが国の近世城郭跡の保存と活用を目的とした公園化による環境整備がどのようにすすめられているのかを明らかにし, 史跡保存のため新たな史跡公園化の方途を探ることを目的とした。国内90ケ所の城址公園を対象として行った調査により, 多くの事例において史跡指定→指定地内の土地公有化→施設の移転→遺構の発掘調査→復元整備→史跡公園化といった事業のプロセスが確認された。
著者
姜 信龍
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.56, no.5, pp.61-66, 1992-03-31 (Released:2011-07-19)
参考文献数
43
被引用文献数
1

407年開設された釜山倭館は, 龍頭山を中心とした地域一帯に1677年4月に移館・新築された。この草梁倭館が日本専管居留地に開放され, この時すでに龍頭山上には彼らによって神社が営まれていた。総督政治になると, 神社参拝強要に代表される皇民化政策によって, 神社境内外は拡張され神域化されていく。神社と公園の併立といった考え方は変わり,「神社と公園の並立は不可」となった。そのためか, 神社創建と並行して造成された公園のすべてが, 特に都心に位置する公園としての機能を失い, 韓国人には嫌われるものとなった。公園内の神社建築の殆どが, 韓国独立と同時期に, 市民の手によって破壊されていったのは当然なことと言える。
著者
金 龍洙
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.42, no.3, pp.10-17, 1979-02-15

古代ギリシャでは,マテネでアドニス祝祭が女性により壮厳に行なわれた。それが,いまもギリシャの所々でアドニス・ガーデンの風習として生き続け,とくにセェレェー村では復活祭にこの行事が盛んである。 本研究は,アドニス庭の形成と推移を歴史的に考察し,現代のギリシャ庭園に及ぼした影響を検討したものである。 文献によればアドニス祝祭は紀元前5世紀に遡る。美男アドニス神の若い逝去を悼んで,若い女性らが,こわれたエムプラ (ギリシャの壷) を逆にして,なかに土を埋め草花を栽培した。草花の枯死はアドニス神の死と復活を象徴するもので,植物の再生と成長を促進する呪術的な行為とされた。とくに注目すべきことは,こわれたエムプラの残りを逆さにして,それを鉢として使用した点である。 この風習はギリシャ人の生活に深くしみ込み,形こそ変わったが,いまでもいたるところでアドニス・ガーデンがみられるし,ポット・ガーデンのオリジンとみることもできる。 なおアドニス・ガーデンは豪華な造園ではなく,庶民の情緒的な小庭園であるところに,大きな意味があると思われる。
著者
長山 宗美
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.51, no.5, pp.222-227, 1987-03-31 (Released:2011-07-19)
参考文献数
6
被引用文献数
2 5

現在, 子供達のまわりから多様な遊び場が消えて児童公園だけが残りつつあるが, 公園が遊び場として十分た機能を持つかどうかを探るために, 京都ただすの森 (下鴨神社) とその近隣の一児童公園で利用状況を調べ, 訪れた子供達に聞取調査を行った。その結果, 子供達が遊んでおもしろいと感じる要因は, 遊び相手, 遊具, 自然, オープンスベースの存在であり, 必要とする遊び場は年令, 性別によって多少の違いがあることがわかった。
著者
小野 佐和子
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.55, no.5, pp.43-48, 1992-03-31
被引用文献数
1

江戸時代後期に越後柏崎で行なわれた茸狩を例に,近世地方都市の行楽のありようを考察する。近世の中小の都市ではわらび取りや鮎すくいといった採取形態の行楽が広く行なわれたが,茸狩もその一つである。茸狩の場所は町周辺の丘陵地帯で春の野遊びの場であることが多い。茸の季節には家族や友人が連れだって茸狩に出かけ,子供も参加した。とった茸は食料であるばかりでなく,贈答品となり,またゲームの戦利品ともみなされた。このゲームとしてのおもしろさが人々を茸狩にかりたてたと考えられる。また茸狩は時として遊宴をともない,都市と農村との交流の機会になることもあった。
著者
永松 義博
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.49, no.5, pp.191-196, 1986-03-31
被引用文献数
3

視覚障害者の公園利用について、具体的構想から、検討した。公園計画に当っては、視覚以外の「聴覚」「嗅覚」「触覚」「味覚」の感覚器官を総合的に活用すること。歩行の手がかり、空間理解の手がかりを多く与えること。盲人の特徴に配慮を加えた遊具の開発、又はスポーツ、レクリエーション施設の導入といった点を基本に、考えてみたものである。
著者
土肥 真人
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.56, no.5, pp.31-36, 1992-03-31 (Released:2011-07-19)
参考文献数
42
被引用文献数
1 4

本論は, 明治6年の太政官布告による公園設置を地租改正による東京の都市オープンスペースの変化の中に位置づけて考察することを目的とする。江戸の往還, 広小路, 河岸, 寺社境内などは賤視された人々の居住地でもあったが, 地租改正事業によりその多くから排除される。しかし公園とされた社寺境内からの排除はみられず, 明治7年の地所名称区分による官有地第3種の規定により借地料を収める公園出稼人として扱われることになる。一方で道路からは居住者の断固たる排除がみられる。本論における考察の結果, 明治初期にみられる都市オープンスペースからの居住者排除に関する扱いの相違から, 公園と道路が明治初期に果たした役割が明らかにされた。
著者
三島 孔明 藤井 英二郎
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.54, no.5, pp.108-113, 1990-03-30 (Released:2011-07-19)
参考文献数
3
被引用文献数
1

色彩と脳波の関係について分析した。視覚対象として色布を用い, 黄, 緑白, 青, 黒赤, 紫, 灰の順に被験者に呈示し, それぞれの対象物をみているときのα波, β 波, θ 波の出現量を比較検討した。その結果, 黄ではα波, β 波, θ 波のいずれも多くなる人が他の色よりも多く, それらのほとんどが女性であった。一方, 青や黒ではそれらの出現量がともに少ない人が多く, 黄とは対照的であった。これらに対して緑は, α 波, β 波, θ 波のいずれも高くなる被験者と低くなる被験者が混在することから, それらの色に比べて多様な反応をもたらす色と言えよう。
著者
土肥 真人
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.57, no.5, pp.55-60, 1993-03-31 (Released:2011-07-19)
参考文献数
53
被引用文献数
1 3

本論は, 江戸から東京への変動期にみられる都市オープンスペースの形態的変化と社会的諸制度の変化との相関を検討することを目的とする。江戸の貧民対策は, 基底的社会制度である身分制度により, 各身分内で行われるのが原則であった。路上の貧民は, 路上を活動の舞台とする諸身分に組み込まれた。明治初期の身分制度廃止により, 浮浪者および路上を活動の舞台としていた身分の人々は道路上から排除され, 空間的に収容される。明治初期公園は, この空間的貧民収容という側面からも捉えられる。本論の考察の結果, 身分的収容から空間的収容への貧民収容制度の変化は, 都市オープンスペースの形態的変化と密接に関わっていることが明らかにされた。
著者
若生 謙二
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.55, no.5, pp.31-36, 1991-03-31 (Released:2011-07-19)
参考文献数
14
被引用文献数
1

アメリカの動物園で生態的展示が発達してきた経緯を明らかにするために, アメリカの動物園史の時代区分を行い, その史的全体像の把握を試みた。 ハーゲンベックのパノラマ様式をとりいれることにより発達した生態的展示は, その後, 動物地理学的配列の制約と近代主義の影響をうけたが, バイオームの概念をとりいれることにより, 生息地別配列にもとづく生態主義の時代をむかえた。 その起源は, アメリカ自然史博物館のジオラマ展示にみることができた。またアメリカでは, 初期に移動動物園をともなったサーカスが人気を博していたため, 動物園をショーの世界と同一視する動物園観が永く定着していた。
著者
温井 亨
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.56, no.5, pp.79-84, 1992
被引用文献数
5 7 3

5年にイタリアで制定されたガラッツ法は, 国土の風景の荒廃を防ぐため, 海岸線から300m以内の国土の全域等を風景規制下に置くと同時に, 州に風景計画の策定を義務づけ, 策定までのあいだの暫定措置として, さらに規制地域内等に建築禁止区域を設けた。本研究では, こうした極めて大胆な内容を持っガラッツ法の背景を, 州制度導入による地方分権, 保全対象の拡大過程, 風景の公共性と私権制限の関係という3つの側面から歴史的に考察し, 同法の法的性格を明らかにした。
著者
岩河 信文
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.48, no.5, pp.91-96, 1984-03-30 (Released:2011-07-19)
参考文献数
7
被引用文献数
1 2

熱気流による樹木の発火危険を探るため, 発火時の葉温を既往の実験成果から整理するとともに, その検証のための実験を行った。既往の実験姓として空気温度の測定であったため藻内への熱の貯留から発火に至る経過がつかみ得なかった。本実験では藻の麺が発火する時点で近傍の遮敝板内の測点の値を記録することにより, 輻射熱の影響のない適正な葉温 (発火限界温度) を把握することができた。
著者
飛田 範夫
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.53, no.5, pp.43-48, 1990-03-30

京都市の青蓮院は,火災や移転などによって大きく変化している。しかし,青蓮院の記録をまとめた『門葉記』と『華頂要略』によって,その変遷をたどることができる。13世紀前半頃の「三条房指図」を見ると建物も庭園も寝殿造の形態になっている。14世紀前半の「十楽院差図」の時代には,園池は建物に近接するなど書院造の邸宅の影響が見られる。19世紀中頃の「御本坊総図」からは,書院造の建築に付随した庭園の状態がうかがえる。