- 著者
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北川 純子
- 出版者
- 大阪教育大学
- 雑誌
- 大阪教育大学紀要. 第Ⅰ部門, 人文科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:03893448)
- 巻号頁・発行日
- vol.63, no.2, pp.25-43, 2015-02
明治大正期に中国革命を支えた運動家・宮崎滔天(本名・寅蔵,1871-1922)は,浪花節語りとしての一面をもつ。彼の生涯に関しては複数の先行文献があるが(たとえば上村 2001,渡辺 2006,榎本 2013),滔天が手がけ,「書かれたもの」の形で残されている浪花節台本の一本『天草四郎』は,ほとんど注目されてこなかった。この台本については,宮崎家に残されていたという自筆原稿の全体が『宮崎滔天全集』(以下,「全集」と表記)第四巻(宮崎;小野川(編)1973)に,また,冒頭「巻一」の部分が雑誌「祖国」第6巻第4号・宮崎兄弟特集号に,それぞれ収録されているが,自筆原稿に記された起稿の日付から約5年後,雑誌『講談倶楽部』に,滔天作「新浪花節 天草四郎」が連載されている。先行研究では連載・公開された『天草四郎』について,全くと言っていいほど触れられてこなかったが,自筆原稿と比較するとそこでは少なからず加筆修正が施されている。筆者は浪花節のSPレコードを調査する過程で,桃中軒一門の浪花節語り・蛟龍斎青雲によって滔天の没後に録音された〈天草四郎と由井正雪〉の詞章が,『講談倶楽部』に連載された『天草四郎』の「巻一」を用いたものであることに気づいた。本稿はこの発見を直接の契機とし,滔天と浪花節とのかかわりを概観した上で,浪花節台本『天草四郎』の検討を試みた小論である。MIYAZAKI Tôten(1871-1922), the Japanese activist supporting the China revolution in Meiji and Taishô era, became a pupil of TÔCHÔKEN Kumoemon(1873-1916), a naniwa-bushi narrator, at the age of 30. While Tôten wrote the naniwabushi-script "AMAKUSA Shirô" in 1910's, the script has attracted almost no attention until now. The author found out that the text of "AMAKUSA Shirô and YUI Shôsetsu", which KÔRYÛSAI Seiun, another pupil of Kumoemon, recorded on SP discs after Tôten's death, used the beginning section of the script "AMAKUSA Shirô" by Tôten. This article tried to examine Tôten's view to naniwabushi through discourse analysis and to consider the characteristics of the script "AMAKUSA Shirô"through the stylistic analysis.