- 著者
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大沼 義彦
- 出版者
- 日本スポーツ社会学会
- 雑誌
- スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
- 巻号頁・発行日
- vol.26, no.2, pp.55-65, 2018-09-30 (Released:2019-09-30)
- 参考文献数
- 9
本稿は、自らが参加したマラソン大会の事例に基づき、ランナーが利用する自己モニタリング装置とそれがもたらす自己の変化、及び現代マラソン大会が提供する情報サービスから、スポーツにおけるモニタリングの意義と限界について考察するものである。
まず、初心者ランナーのトレーニング期におけるモニタリング装置の利用を分析する。初心者ランナーがフルマラソン完走を果たす上で重要な役割を果たしたものにGPS付きランニングウォッチがある。これにより、走行ペース、運動負荷を内観できるようになり、フルマラソンは「配分のゲーム」と認識され、ゴール時刻の計算可能性が高まった。同時に疲労回復という観点から、サプリメントの摂取、トレーニング時刻の設定等、自身の生活全般を反省的にモニタリングし再編していくことになった。
第二に、現代のマラソン大会そのものが巨大なモニタリング装置であることを分析する。ランナーは大会においてICチップを装着する。このICチップによる記録測定システムは、大会の規模拡大を可能にし、さらにはランナーだけでなく観客といった他者に対しても情報を提供するようになった。このことは、ランナーの大会記録とその共有など、新たな二次利用の可能性を開いている。
最後に、こうしたランナーと大会そのもののモニタリングとの関係について検討する。ランナーは、ランニングウォッチが提供する情報をリアルタイムで活用するが、大会というモニタリング装置からの情報は受け取ることがない。ランナーにとってこれらは、全て事後的である。大会の間、鳥瞰図的にランナーたちをモニタリングできるのは応援者や運営者といった外部の誰かである。経過時刻により再構成されたランナーをモニタリングする他者と実際のランナーとの間にはタイムラグと意味内容のズレを生じさせる。ここにスポーツにおけるモニタリングの限界がある。