著者
平山 賢一
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
博士論文(埼玉大学大学院人文社会科学研究科(博士後期課程))
巻号頁・発行日
2018

本研究の課題は、戦前・戦時期の国債・株式市場の利回り・価格データを整理した上で、現代のポートフォリオ理論に基づく国債・株式パフォーマンスインデックスを算出し、当時の金融市場を再評価することである。このインデックスは、国債市場のリターン・リスク等(月次)を明らかするGovernment Bond Performance Index(GBPI)と、同じく株式市場についてのEquity Performance Index(EQPI)から構成されており、戦前・戦時期の投資成果を示すものである。算出にあたっては、戦前・戦時期特有の金融制度や仕組みを反映しなければならないため、原データに各種の修正を施す必要がある。 近年、金融史・経済史研究やファイナンス理論研究において、戦後だけではなく戦前・戦時期の国債・株式市場全体の動向を定量的に把握する重要性が指摘されている。だが、現代とは明らかに異なる戦前の金融市場構造を、市場データに反映させる困難性が伴うため、国債・株式の投資成果についての探求は進んでこなかった。確かに、一部の個別銘柄データを用いた戦前期の市場動向把握は試みられてきたものの、市場全体の動向が反映できないという問題点が残されたままであった。たとえば、三分半利債が大量発行された戦時期には、それまで売買が活発に行われていた甲号五分利公債や第一四分利債が国債市場の指標として適さなくなった。また、株式市場の指標とされてきた東京株式取引所の株価は、1930年代から重化学工業の比率が高まる株式市場の動向を代表しなくなったのである。 特に、国債市場では、低利借り換え懸念などの要因から、利率の違いによるイールドスプレッドが存在しており、1936年には利率の違いによる利回り逆行現象が発生していることから、特定の個別銘柄ではなく、広く国債全銘柄を対象とした指標が構築されるべきである。さらに、株式市場では、わが国特有の株式分割払込制度による新株権利落ちや払込修正についての検討が置き去りにされるとともに、投資成果にとって重要な配当によるリターンが無視されてきたことを不問に付すことはできないだろう。これらの問題点を解消するために算出したのがGBPI、EQPIであり、戦前・戦時期の国債および株式市場の投資成果を代表する指標として精度の向上と、当時の市場構造と市場参加者の行動とを再評価する際に相応しい指標になることが期待される。 GBPI、EQPIにより算出された戦前・戦時期(1924年6月から44年11月まで)の市場リターン(年率換算)は、国債5.71%に対して株式6.92%となり、リスク(年間)は、国債2.04%に対して株式16.39%であった。現代ポートフォリオ理論に示されるリスクとリターンのトレードオフ関係に沿った結果となったが、 30年代前半までの市場リターンは、国債が株式を上回ったものの、30年代後半以降は株式が国債を上回ったことが明らかになった。そのため、リターン水準という側面からは、戦時期の株式市場は低迷したと言い切ることは難しいと言えよう。一方、主たる先行研究では、「戦時期の株式市場は低迷した」としているが、この「低迷」という言葉の意図する領域が必ずしも明瞭ではないことから混乱を招いている。戦時期の企業の資金調達手段は融資が中心となり、配当も抑制されたという視点からは、株式市場は低迷したと言えるかもしれないが、投資成果(リターン)という点では相対的な優位性があったといい直すことができよう。 わが国の場合、EQPIによれば、戦時期であっても概ね企業業績(一株当たり利益)に応じた株価形成がされており、米国対比でのイールドスプレッド(株式益回りと国債利回りの格差)も著しい格差があったわけではなかった。そのため、株式市場の本格的な機能低下は、各種政府系機関による株価維持政策が実施され、クロスセクションで見た銘柄間のリターン格差が縮小し、そしてリスクも急低下した 1943年などに限定されると考え得るだろう。 一方、国債のリスク水準は、1942年以降0.10%を下回り、ほぼ短期金融市場(東京コール)と同水準になったことから、戦後を待たずに国債は、価格決定機能が消失し規制金利化した可能性があると言える。主な国債保有者は市中金融機関や政府であり、株式保有者は個人や法人であったことから、政府の指示による価格統制が国債市場で浸透し易かったという背景も手伝い、政府の価格統制強化は、株式市場よりも国債市場で徹底されていたと言えよう。そのため、40年代の国債利回りは約3.7%で固定化されたが、同時にインフレ率は上昇したことから、実質マイナス金利状態に陥っていた点は再認識すべきであろう。 ところで、戦前・戦時期の国債及び株式の投資成果を把握することは、国債と株式の関係を明らかにするだけではなく、特殊な金融構造下での市場参加者の行動(資産配分)を再評価することにも貢献するだろう。マイナス実質金利状態にもかかわらず、五大銀行等が国債割当や軍需産業への融資を拡大させたのは、政府の金融統制により、金利変動が抑制され利鞘が確保されたことで業績が安定的に成長したこと、そして自己資本比率低下による財務リスク耐性の悪化を損金参入可能な有価証券価額償却による「含み益」温存により緩和したことなどが影響していたと考えられる。 民間金融機関の財務リスク耐性を確保する政策は、国債消化策などの各種政策により確認することが可能だが、1931年下期の国債暴落により民間金融機関の有価証券評価損失が巨額な規模に膨らんだことを端に採用されるようになったと推察される(特に、五大銀行の有価証券評価損益は、GBPIを算出することで推計が可能となった)。つまり、政府による国債投資・融資拡大という資金統制も、民間金融機関の業績悪化を回避する政策と共に強化されており、政府による公益追求が、民間金融機関による私益追求放棄という犠牲の下に成立していたわけではないことを指摘できうるのである。 戦前・戦時期の国債・株式パフォーマンスインデックス算出による投資成果の検証は、金融市場の構造や市場参加者の行動を再評価するための有力な手段になりうるであろう。また、戦前・戦時期における金融市場の解明は、現在の金融市場との比較を通して、今後の政策運営にも意義あるインプリケーションを与える可能性も否定できない。そのため、わが国の金融史研究とファイナンス理論研究の間に拡がる「戦前日本の金融市場マイクロストラクチャー研究」の沃野は、道半ばであるだけに研究の深耕が期待できると言えよう。
著者
中村 秀臣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
博士論文(埼玉大学大学院人文社会科学研究科(博士後期課程))
巻号頁・発行日
2017

序論 11.研究テーマの背景・目的 12.先行研究を踏まえた本研究の新規性と達成目標 43.論文の構成 11Ⅰ部 電化の進展過程 141章 電燈・電力需要の変遷 17 1.1 電燈需要の変遷 20 1.2 電力需要(電動機、電力応用機器等)の変遷 43 1.3 需要特性の変遷 61 1.4 需要想定の変遷 772章 電力供給システムの変遷 82 2.1 発電用資源の潜在資源量 83 2.2 分散型石炭火力の変遷 90 2.3 水力発電の変遷(水主火従の定着) 99 2.4 水火併用の台頭と本格化 111 2.5 広域連系構想の台頭 1863章 電力需給バランスと料金水準 234 3.1 電力需給バランスと対応状況 234 3.2 料金水準と対応状況 2714章 小括 307Ⅱ部 公益事業化の進展と変転過程 3165章 電化の進展と公益事業規制の変遷 319 5.1 公益事業の概念形成と変転 319 5.2 公益事業規制の変遷 3706章 公益性を巡る議論と事業者行動の変遷 410 6.1 1910 年代の電灯競争(「三電競争」) 410 6.2 1920 年代~1930 年代前半の「電力競争」と合同構想 419 6.3 1930 年代後半以降の「電力国家管理」論争 4467章 小括 483結論 結果の総括、現代への教訓、今後の課題 489参照番号注記リスト 512参考文献等リスト 610
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.137-168, 2016

国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす80代男性のライフストーリー。長州次郎さん(筆名)は,1927(昭和2)年,山口県生まれ。旧制の商業学校4 年のときにハンセン病を発症。1943年8月13日,父方・母方のオジ2人に付き添われて,菊池恵楓園に入所。――聞き取りは,語り手の寮舎にて,2011年7月9日の午前と夕方,計4時間半の長時間に及んだ。聞き手は福岡安則と黒坂愛衣。聞き取り時点で長州次郎さんは84歳。長州さんの語りは,大きく3つの物語からなる。1つは,母親とふるさとへの想いの発露。長州さんは,幼くして父親と死別しているせいか,母親への想いが人一倍強い。その彼が,小郡駅に見送りに来た母親との別れの場面で,もはや使わない通学定期券を母に渡したとき,母は「ハンカチで」受け取ったという。その悲しみを語るとき,長州さんは涙声になっていた。そして,家の跡を継ぐ妹の結婚に際しては,妹の婿に彼がハンセン病患者であることを隠すために,「父親が芸者に産ませた子」との作り話がなされたという。九大病院で「らい病」の診断を下された途端,オジたちに生家へ帰ることを禁じられた体験からか,長州さんはたった一度,1947年にしか「一時帰省」をしていない。それも,人目につかないように夜の闇に紛れての帰省であった。1996(平成8)年の「らい予防法」廃止により,県の事業としての「里帰り」が始まるが,その最初の「里帰り」でも,長州さんが母親と再会したのは,とある公園においてであって,実家の敷居を跨いではいない。翌1997年2月に母親は100歳で死亡。その訃報は初七日が過ぎてからであったという。その後も,毎年「里帰り」には参加しているものの,100 メートル先のタクシーのなかから実家を望むだけである。2つは,恵楓園の治療の至らなさへの批判の物語。戦時中の1943年に入所した彼は,敗戦までのまる2 年間,陸軍から治験薬として委託された「虹波」の実験台にされ,月に1 回は「七転八倒」するほどの胃痙攣に悩まされたという。また,戦後,特効薬として多くの病者に歓喜をもって迎えられたプロミン治療で,「だるい神経痛」症状を来たし,手の下垂などの後遺障害をもつに至った。さらに,恵楓園に眼科医不在の時代にハンセン病特有の虹彩炎を患い,まともな治療を受けられなかった。そのため,白内障を患い,いまでは恵楓園の「白内障友の会」の会長をつとめているという。それと,1948年に園内で結婚したあと,妻が妊娠。当然のこととして,妻は堕胎,そして彼は断種手術を受けさせられた。この体験を語るとき,長州さんは,ふたたび涙声になっていた。3つは,いまだに革新の旗を下ろさない,「最古参」の,社会党の老闘士の相貌である。長州さんの語りによれば,1926(大正15)年に発足した菊池恵園(当時は「九州癩療養所」)の自治会は,当初,園の御用をつとめる側面と入所者の相互扶助に貢献する側面の両面をもっていたが,戦後,軍人軍属の体験をもつ入所者が傷痍軍人としての恩給を給付されるようになると,かれらを中心に保守的な勢力が自治会役員を占めるようになる。それに対して,増重文(ます・しげふみ)らの指導のもと,長州さんたち若手が「革新」の旗を掲げて,園内に社会党支部を結成,多いときには100 人以上の党員・党友を結集していたという。自用費獲得闘争,「医者よこせ,看護婦よこせ」闘争などでは,まだ飛行場も新幹線もない時代に,長時間汽車に揺られて東京まで陳情に出かけた話が思い出ぶかく語られる。長州さんは,聞き取りの時点で,入所者自治会の執行部の成立が危うくなっていて,自身1961年から途切れることなくなんらかの役員として尽力してきた自治会が「休会」に追い込まれはしないかと心配されていたが,その後も,会長職を工藤雅敏さん,そして志村康さんが引き継いで,恵楓園自治会は,満身創痍の役員たちの頑張りによって,2015 年2月1日に恵楓園を訪問した時点では存続している。2015年2月1日,2日に,読み上げによる原稿確認と補充の聞き取りをおこなった。This is the life story of a man in his 80s who is living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen’s disease facility.Mr. Jiro Choshu (his pen name in the Hansen’s disease facility) was born in Yamaguchi Prefecture in 1927. His Hansen’s disease symptom began when he was 4th grade of a commercial school. On August 13, 1943, his two uncles (one was the father side and the other was mother side) brought him to Kikuchi-Keifūen in Kumamoto Prefecture.The interview was held in the interviewee’s dormitory room on July 9, 2011. It was a long interview which took 4 and a half hours. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Ai Kurosaka. The interviewee was 84 years old at the moment of the interview.His life story can be categorized by 3 big themes. The first one is the memory with his mother and hometown. Since Mr. Choshu lost his father when he was young, he has had a strong bond with his mother. In the moment of farewell at Ogori station, Mr. Choshu handed his student commuter pass that he would not use any longer to his mother, and she carefully received it with her handkerchief. He reminded that sad moment with tearful voice. His relatives made up the story of Mr. Choshu’s birth that he was the child born outside of marriage, the affair between his father and a show girl, because his sister was about to marry a man who would succeed Mr. Choshu’s household. They fabricated this story to hide family history of Hansen’s disease and banned Mr. Choshu to visit hometown. In fact, Mr. Choshu had visited hometown only one time in 1947 even in the nighttime not to be seen by other people. After the Segregation Policy was abolished in 1996, the Yamaguchi Prefecture helped the Hansen’s disease ex-patients come back home and Mr. Choshu had a chance to visit his mother. However it was at a public park, not his family house. Next year, his mother passed away at the age of 100, but Mr. Choshu received the notice 7 days later. Every year, he visits the hometown and always looks over his family house from 100 meters away in a taxi.The second theme of his life story is his criticism on the poor treatment at Kikuchi-Keifūen. He entered the facility in 1943 when the war was going on. Until Japan was defeated 2 years later, he became the subject of the clinical test for the medicine Koha that the Japanese imperial army requested to the facility. This medicine caused a deadly gastro spasm once a month. Promin, developed as the wonder-drug for Hansen’s disease after the war, also gave him several aftereffects. He got heavy neuralgia and hand descensus. Even more, he did not have proper treatment for iris inflammation, one of the characteristic complications of Hansen’s disease, because Kikuchi-Keifūen did not have an ophthalmologist. Consequently, his iris inflammation was developed to cataract. Currently he is serving as the representative of the Cataract Patients Group in Kikuchi-Keifūen. In 1948, he got married to a woman whom he met in the facility. His wife got pregnant and was forced to have an abortion. Mr. Choshu also had a sterilization surgery. He told these experiences in tearful voice.The last theme is his face as the oldest champion of Social Democratic Party of Japan, still raising the flag of anti-conservatism. According to his mention, the residents’ association of Kikuchi-Keifūen had two characters: a company union and a mutual aid for the residents. However, it became conservative as the residents with military service experience and benefits for disabled soldiers increased. Against this tendency, Mr. Choshu and other young people raised the flag of anti-conservatism under the leadership of Shigefumi Masu, and built the Kikuchi-Keifūen branch of the Social Democratic Party of Japan. At the maximum, this branch once had over 100 members. They participated in fighting for necessity allowance and also in the ‘Sending Doctors and Nurses to Us’ movement, visiting Tokyo to appeal to the Government. At that time there was no airport or Shinkansen, so they had to endure long distance train trips. At the time of this interview, Mr. Choshu worried about the future of the administration of the residents’ association. He had kept his service as the board member and devoted himself to the administration since 1961. Fortunately, the association is still functioning properly thanks to the effort of senior board members.On February 1 and 2, 2015, the interviewers read the interview script in front of Mr. Choshu to get his affirmation. We practiced the follow-up interview as well.
著者
福岡 安則 菊池 結
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.89-103, 2016

ハンセン病回復者,A さん(本人が匿名を希望)とは,2015年1月12日「あおばの会(東日本退所者の会)」の新年会で知り合った。そのときのちょっとした会話では,「飼い犬を連れて多磨全生園に入所したいんだけど,犬はダメだと言われて困っている」とのことであった。聞き取りをお願いし,2015年2月16日,関東地方の某県にお住まいのご自宅を訪ねた。聞き手は,福岡安則,菊池結。同席者が「ハート相談センター」の内藤とし子。聞き取りのあいだじゅう,Aの全生園入所の阻害要因となっている愛犬のダックスフントが,わたしたちにじゃれついていた。聞き取りの場での A の第一声は,「わたしは,全生園には入ってないんです。入院だけ。『そんなとこ入るんだったら,おれ,死んじまう』って言ったら,『いま,いい薬ができたから,ちゃんと約束を守ってきちんと薬を服用するんならば,療養所に入らなくていい』って,東大病院の先生に言われた。そして,うんと悪いときだけ全生園に入院してたんですよ」というものであった。A によれば"入所"ではなく"入院"だから,園内の寮舎に自分の部屋をあてがわれることはなかったし,病棟での治療がすめば速やかに娑婆に戻り,東大での通院治療を続けたというのだ。A の戸籍上の生年は 1934(昭和 9)年1月。2015年の聞き取り時点で81歳の男性。京都府北部の山村の貧しい農家に生まれ育つ。13歳で大工の住込み小僧となる。東京へ出てきて大工をしている22歳のときにハンセン病を発症。近くの病院で診察を受けるが,2ヵ月後,東大病院へ送られる。そこで東大の医師とのあいだで,上述のやりとりがあり,1956年の時点で「ハンセン病の通院治療」を受ける身となった。――そしていまでは「退所者給与金」をもらっている。この「非入所のような,そうでないような」の語り手,A と対照的な体験をしたのは,「『1日おきに薬を取りに来い』では勤めが続かず」(本誌第12号)の語り手,稲葉正彦(園名)であろう。稲葉は1934年生まれで, A と同い年である。稲葉が菊池恵楓園に収容されたのは1965年であり,A が東大病院に通院を始めたのが1956年だから,9年も後のことである。かたや,阪大で「1日おきに薬を取りに来い」と言われて,勤めの継続の断念,療養所収容,離婚,終生の療養所暮らしに追い込まれたのにたいして,かたや,それより早く9年も前に東大で「1週間に一度,薬を取りに来い」と言われ,ハンセン病関連の外科治療を要するときに「全生園に入院」しただけの「通院治療」を全うし,娑婆での大工職人としての仕事を最後までやり遂げ,「内縁」関係の妻とも添い遂げた。――A の事例は,「らい予防法」による「強制隔離政策」の過誤をあますところなく実証している実例であろう。わたしは,稲葉正彦の聞き取り事例だけを見ていたときには,彼に対する阪大の医師の対応は時代的制約ゆえのやむをえざる儀と判断していた。 だが,A の語りと突き合わせるとき,必ずしもそうは言えまい。9年も前に大工仕事を継続しながらの通院治療を認めた医師がいたのだ。医師「個人の資質」の違いが,きわめて大きい。同時に,そのような個人的資質が発動しうる環境いかんは,個々の医師が属する「教室・医局の意識構造」の 問題でもあったであろう。それにしても,A は幸運だった。しかしその A にして,「らい予防法」 にもとづく「強制隔離政策」「無らい県運動」が張り巡らしていた,いわば"蜘蛛の巣"から自由であったか/あるかというと,残念ながら「否」である。ひとつには,ハンセン病に罹った者は子どもをつくってはならないと思い込んでいて,内縁関係の女性が妊娠したにもかかわらず,「泣く泣く」堕胎してしまったことを,いま悔やんでいる。また,年齢を重ね身体が不自由になり,自分で自分のことができなくなったとき,ハンセン病の病歴が周囲の人にバレることへの,限りない恐怖に囚われている。We met Mr. A who was recovered from Hansen's disease at the New Year meeting of Aoba no Kai (Kanto Area Association of the Released from Hansen's Disease Facility) in January 12, 2015 for the first time. At that time, we had a brief talk and he told us that he recently tried to enter Tama-Zenshōen, Hansen's disease sanatorium in Tokyo with his dog but was told that he couldn't have a dog in the facility.We visited his home and had an interview in February 16, 2015. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Yui Kikuchi. Ms. Toshiko Naito who came from Heart Counseling Center seated in the interview. While interviewing, his dog, a dachshund, which caused the trouble between him and the facility played around us.Mr. A's first word at the interview was, "Actually I had never entered Zenshōen. I was only hospitalized there. I said to a doctor of the University of Tokyo Hospital, 'I'll kill myself if you send me to that kind of Hansen's disease facility.' Then, the doctor told me, 'Currently good medicine of the disease is released and you don't need to enter the facility if you regularly have medicine on time.' Thus I used to be hospitalized in Zenshōen only when my health condition was really down." He also added that he did not have a room in the facility dormitory because he was released from the facility as soon as he got recovered and attended the University of Tokyo Hospital to continue to take care of his symptoms.Mr. A's birth date on his family registration record is in January, 1934. He was 81 years old at the moment of the interview. He was born to a poor family living in a mountain village in the north side of Kyoto Prefecture. He became apprentice of a carpenter when he was 13 years old. He got the Hansen's disease symptom when he was 22 years old as working as a carpenter in Tokyo. At the beginning, he got diagnose at a neighbor clinic but 2 months later was sent to the University of Tokyo Hospital. Then he began to regularly attend the hospital to take care of the symptom from 1956. And now, he is receiving the allowance from the Ministry of Health, Labor and Welfare for those who are released from Hansen's disease facility.Mr. A's experience of "Like a Non-Internee, or Somewhat Like That" is a contrast from the story of Mr. Masahiko Inaba (his alias in the Hansen's disease facility), "I Could Not Work Because the Doctor Told Me that I Need to Attend the Hospital Every Second Day for Medicines" (Vol. 12 of this journal).Mr. Inaba was born in 1934, the same age of Mr. A. Mr. Inaba was sent to Kikuchi-Keifūen, Hansen's disease Sanatorium in Kumamoto in 1965 even 9 years later than Mr. A's experience. Mr. Inaba was told that he had to attend the hospital for medicines every second day by Osaka University Hospital. Consequently, he lost his job and got divorced. Then, he was sent to the facility to live there in his life time. However, 9 years earlier, the University of Tokyo Hospital told Mr. A that he only needed to attend the hospital once in a week to receive medicines. Thus he could keep his job as a carpenter and the relationship with his common-law wife.Mr. A's case fully reveals the irrationalities of the Segregation Policy.I once judged that the doctor's decision at Osaka University Hospital was somewhat inevitable due to the restrictions of the times when I first heard Mr. Inaba's story. However, after I compared Mr. Inaba's case with Mr. A's, I realized that my judgment on the decision of the doctor in Osaka University Hospital would be wrong because there was the doctor who let Mr. A keep his job while attending the hospital even 9 years earlier.Mr. A was lucky. However, Mr. A could not avoid the wave of Segregation Policy and the Movement of Hansen's Disease Free Prefecture. That is to say, he was not fully free from the spider web of the discrimination on Hansen's disease. He had to ask his common-law wife to have abortion because he believed that Hansen's disease was hereditary. Even more he is deeply scared of the possibility that his neighbor would be aware of Mr. A's Hansen's disease history when he could not take care of himself for his age.
著者
福岡 安則
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.15, pp.47-66, 2018

未成年でありながら,裁判手続きなしに,栗生楽泉園の「重監房」に長期間拘留され"獄死"した人がいたことは,2003 年からハンセン病問題にかかわるようになってすぐ,沢田五郎の『とがなくてしす』(皓星社,2002)に目を通すなりして,知ってはいた。しかし,社会学者の至らぬところ,関心の向かうのは,いま生きている人が体験してきたことが中心となる。みずから深く追究してみようと思うことなく,放置していたのが実情であった。ところが,思いもがけず,その「重監房」にて"獄死"させられた人の弟さんと出会うことになった。ハンセン病療養所「多磨全生園」の入所者の鈴村清さん(1939 年生)である。黒坂愛衣とわたしは全生園に鈴村さんを訪ね,お話を聞かせてもらった。さらに,これまでにおこなってきたハンセン病回復者のみなさんの聞き取りのなかに,「重監房」の屎尿汲み取りや飯運びの体験を語ってくれているものがあったことを思い出した。栗生楽泉園の入所者の関一郎さん,鈴木幸次さん,そして,栗生楽泉園から多磨全生園に転園された佐川修さんである。谺雄二さんが聞いた高田孝さんの語り,支援者たちが聞いた沢田五郎さんの語りも参照しつつ,ここに「裁判抜きの『重監房』」という一文にまとめた次第である。サブタイトルに「『ハンセン病と裁判』覚書(その1)」と付したのは,じつは,ハンセン病罹患者たちが《裁判を受ける権利》をまっとうに保障されていなかったのは,1947 年までであったのではなく,新しい「日本国憲法」の下でも,最高裁判所みずからがお付きを与えた「特別法廷」(実質的には"隔離法廷")という差別制度によって,沖縄返還の1972 年まで続けられていたこともあって,いちど,「ハンセン病と裁判」について,通史的に論じておきたいと思うからである。その後の「ハンセン病国賠訴訟」(2001 年一審勝訴,国の控訴断念により確定)「多磨全生園医療過誤訴訟」(2005 年一審勝訴,控訴審で和解)「ハンセン病死後認知訴訟」(2005 年一審敗訴,上告棄却で確定)「韓国ソロクト・台湾楽生院訴訟」(2005 年一審判決は敗訴と勝訴に分かれる,のち「ハンセン病補償法」の改正により解決)「ハンセン病非入所者家族単独訴訟」(2015 年一審敗訴,控訴中)「ハンセン病家族集団訴訟」(2016 年提訴,係争中)という一連の流れも振り返ってみたい。わたしたち(福岡と黒坂)自身,とくに《ハンセン病家族訴訟》に深くかかわることをとおして,これまで見えなかった多くのことが見えてきたこともある。Since 2003 when I initially got involved with the Hansen's disease problems I have noticed the fact that there was a minor patient who was detained for a long time in Jū-Kanbō (the worst condition prison jail) of Kuriu-Rakusenen sanatorium without trial to die there after all, through Mr. Goro Sawada's Death Penalty on an Innocent Person (2002). Meanwhile sociologists' regards mainly pursue the living problems and memories, thus I did not pay attention to the minor's death in the prison that much.However, the encounter with the minor's younger brother changed my interest. It is Mr. Kiyoshi Suzumura (born in 1939) who has lived in Tama-Zenshōen sanatorium. I and Ai Kurosaka visited Zenshōen to interview Mr. Suzumura. While practicing this interview I reminded that other testimonies of several Hansen's disease ex-patients, such as Mr. Ichiro Seki and Mr. Koji Suzuki in Kuriu-Rakusenen, and Mr. Osamu Sagawa who was transferred from Kuriu-Rakusenen to Tama-Zenshōen, talked about dipping up of excretions from vault toilets and distributing food in Jū-Kanbō. I referred to Mr. Takashi Takada's life story that Mr. Yuji Kodama interviewed and Mr. Goro Sawada's life story that other supporters heard, to write this essay "Detained in Jū-Kanbō without Trial".In order to reveal the fact that it was not until 1947 when Hansen's disease patients had been deprived of the legal right to have trial, I put "Notes on 'Trials and Lawsuits on Hansen's Disease Issues' (Part 1)" as the subtitle of this article. As a matter of fact, even Japanese Supreme Court under the new Japanese Constitution discriminated Hansen's disease people by operating so-called "special courts" which actually meant "segregated courts" until 1972, the year of Okinawa's reversion to Japan. Thus I want to give an overview of the history about the Hansen's disease issues and trials.Later I will try to review the court actions, such as the Unconstitutionality of the Leprosy Prevention Law's State Compensation (in 2001 the plaintiffs won the first trial and the judgement was confirmed by the government's waiver of the right to appeal), Tama-Zenshōen Medical Malpractice Lawsuit (in 2005 the plaintiff won the first trial and agreed settlement with the government at the appeal court), Paternity Suit by the Daughter of a Dead Hansen's Disease Patient (the plaintiff lost the first trial in 2005 and finally lost her case at the court of final appeal), Korean Sorok Island Sanatorium and Taiwanese Losheng Sanatorium Lawsuits (in 2005, at the first trial the Korean plaintiffs lost and the Taiwanese plaintiffs won. Later, both could receive the compensation by the revision of Hansen's Disease Compensation Law), Compensation Lawsuit by a Son of Non-sanatorium-residential Hansen's Disease Patient (the plaintiff lost the first trail in 2015 and is now under dispute at the appeal court), and Class Action Lawsuit by Hansen's Disease Patients' Families (in 2016 this case was filed by 568 plaintiffs and is now under trial). We had a chance to learn more information of these court actions because we are especially involved in the Class Action Lawsuit.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.167-184, 2021

2012 年6 月18 日,福岡安則と黒坂愛衣は,熊本県合志市にある国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」の面会人宿泊所「渓楓荘」に,地元合志市在住の木村チズエさん(1932 年9 月13 日生,聞き取り時点で79 歳)と森三代子さん(1934 年4 月1 日生,聞き取り時点で78 歳)にご足労ねがって,聞き取りをさせていただいた。 おふたりは,菊池恵楓園附属保育所「龍田寮」の最後の保母である。 二人とも,昭和一桁の年代に農村部に生まれた女性にもかかわらず,親の理解と本人の向学心により,家庭がさほど裕福でもなかったのに,戦後の学制が旧制から新制に切り替わる時期に,高等学校を卒業している。そして,木村は 1952 年 12 月に,森は 1953 年4 月に「龍田寮」に勤める。この時期は戦後の「無癩県運動」が渦巻いていた。にもかかわらず,二人の親は〝結核は怖いが,ハンセン病はそうそうウツルものではない〟と娘の就職を歓迎している。そのような認識が,ハンセン病療養所の地元住民の一部とはいえ,明確にあったことは興味深い事実である。 龍田寮には,親がハンセン病を発症して恵楓園に収容されて,引き取り手のない,ゼロ歳児から中学生までの子ども約 70 人が暮らしていた。1953 年の終わりに,恵楓園の宮崎松記園長が,龍田寮の小学生たちが地域の黒髪小学校への通学を認められず,龍田寮内の分教場に押し込められていることを不当とし,新 1 年生から本校への通学を求めたことから,「黒髪校事件」とも「龍田寮事件」とも呼ばれる騒ぎが勃発する。地元住民の多数派が通学拒否の反対運動を組織し,さらには龍田寮自体の閉鎖を求める排斥運動を強力に展開したのだ。 お二人の語りからは,多数派住民の偏見差別から子どもたちを守ろうとし,龍田寮が閉鎖になったあとも,恵楓園の事務官として勤務し続け,あてがわれた官舎を,龍田寮出身の子どもたちが盆や正月に〝里帰り〟できる場として維持し続けた生涯がうかがわれる。かつて〝未感染児童〟とラベル貼りされた子どもたちに対して,献身的な姿勢を揺るがせることなく,最後まで寄り添い続けたお二人の生きざまには,頭がさがる。 On June 18, 2012, Yasunori Fukuoka and Ai Kurosaka visited Keifu-So, the visitors' lodge in Kikuchi Keifuen, a national Hansen's disease sanatorium in Koshi City, Kumamoto Prefecture to meet Ms. Chizue Kimura (born September 13, 1932, 79 years old at the time of hearing) and Ms. Miyoko Mori (born April 1, 1934, 78 years old at the time of hearing). These two are the last nursery teachers at Tatsuta Dormitory, the orphanage attached to Kikuchi Keifuen. Despite being women born in a rural area in the early Showa era, both of them graduated from senior high school which was changed from the old system to the new one after the Second World War. Although their families were not so wealthy, their parents' support and their willingness to study made this possible. Kimura worked at Tatsuta Dormitory in December 1952 and Mori in April 1953. During this period, "Leprosy-Free Campaign" was swirling. But their parents supported their daughters' job, saying that tuberculosis is scary, but leprosy is not contagious. It is interesting that they had such recognition even though they were towners near the leprosy sanatorium. In Tatsuta Dormitory, about 70 children from zero-year-olds to junior high school students, whose parents had Hansen's disease and were admitted to Keifuen, lived in the dormitory. At the end of 1953, the director of Keifuen, Dr. Matsuki Miyazaki, appealed that it was unfair that elementary school students in Tatsuta Dormitory were not allowed to attend the local Kurokami Elementary School, and demanded new first graders' enrolment to the local school, and then so-called "Kurokami School Incident" or "Tatsuta Dormitory Incident" broke out. The majority of local residents organized a movement to refuse Tatsuta Dormitory members' enrolment to the school, and also strongly demanded the shutdown of Tatsuta Dormitory itself. From the story of the two, we learned that they tried to protect the children from the prejudice and discrimination of the majority residents, and even after the Tatsuta Dormitory was closed, they continued to work as the clerk of Keifuen and keep their official residence as the home where the children from Tatsuta Dormitory can come back during the Bon Festival or New Year holidays. For the children who were labeled as "Uninfected Children", the two dedicated their whole lives without shaking their devotion to the children.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.137-168, 2016

国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」に暮らす80代男性のライフストーリー。長州次郎さん(筆名)は,1927(昭和2)年,山口県生まれ。旧制の商業学校4 年のときにハンセン病を発症。1943年8月13日,父方・母方のオジ2人に付き添われて,菊池恵楓園に入所。――聞き取りは,語り手の寮舎にて,2011年7月9日の午前と夕方,計4時間半の長時間に及んだ。聞き手は福岡安則と黒坂愛衣。聞き取り時点で長州次郎さんは84歳。長州さんの語りは,大きく3つの物語からなる。1つは,母親とふるさとへの想いの発露。長州さんは,幼くして父親と死別しているせいか,母親への想いが人一倍強い。その彼が,小郡駅に見送りに来た母親との別れの場面で,もはや使わない通学定期券を母に渡したとき,母は「ハンカチで」受け取ったという。その悲しみを語るとき,長州さんは涙声になっていた。そして,家の跡を継ぐ妹の結婚に際しては,妹の婿に彼がハンセン病患者であることを隠すために,「父親が芸者に産ませた子」との作り話がなされたという。九大病院で「らい病」の診断を下された途端,オジたちに生家へ帰ることを禁じられた体験からか,長州さんはたった一度,1947年にしか「一時帰省」をしていない。それも,人目につかないように夜の闇に紛れての帰省であった。1996(平成8)年の「らい予防法」廃止により,県の事業としての「里帰り」が始まるが,その最初の「里帰り」でも,長州さんが母親と再会したのは,とある公園においてであって,実家の敷居を跨いではいない。翌1997年2月に母親は100歳で死亡。その訃報は初七日が過ぎてからであったという。その後も,毎年「里帰り」には参加しているものの,100 メートル先のタクシーのなかから実家を望むだけである。2つは,恵楓園の治療の至らなさへの批判の物語。戦時中の1943年に入所した彼は,敗戦までのまる2 年間,陸軍から治験薬として委託された「虹波」の実験台にされ,月に1 回は「七転八倒」するほどの胃痙攣に悩まされたという。また,戦後,特効薬として多くの病者に歓喜をもって迎えられたプロミン治療で,「だるい神経痛」症状を来たし,手の下垂などの後遺障害をもつに至った。さらに,恵楓園に眼科医不在の時代にハンセン病特有の虹彩炎を患い,まともな治療を受けられなかった。そのため,白内障を患い,いまでは恵楓園の「白内障友の会」の会長をつとめているという。それと,1948年に園内で結婚したあと,妻が妊娠。当然のこととして,妻は堕胎,そして彼は断種手術を受けさせられた。この体験を語るとき,長州さんは,ふたたび涙声になっていた。3つは,いまだに革新の旗を下ろさない,「最古参」の,社会党の老闘士の相貌である。長州さんの語りによれば,1926(大正15)年に発足した菊池恵園(当時は「九州癩療養所」)の自治会は,当初,園の御用をつとめる側面と入所者の相互扶助に貢献する側面の両面をもっていたが,戦後,軍人軍属の体験をもつ入所者が傷痍軍人としての恩給を給付されるようになると,かれらを中心に保守的な勢力が自治会役員を占めるようになる。それに対して,増重文(ます・しげふみ)らの指導のもと,長州さんたち若手が「革新」の旗を掲げて,園内に社会党支部を結成,多いときには100 人以上の党員・党友を結集していたという。自用費獲得闘争,「医者よこせ,看護婦よこせ」闘争などでは,まだ飛行場も新幹線もない時代に,長時間汽車に揺られて東京まで陳情に出かけた話が思い出ぶかく語られる。長州さんは,聞き取りの時点で,入所者自治会の執行部の成立が危うくなっていて,自身1961年から途切れることなくなんらかの役員として尽力してきた自治会が「休会」に追い込まれはしないかと心配されていたが,その後も,会長職を工藤雅敏さん,そして志村康さんが引き継いで,恵楓園自治会は,満身創痍の役員たちの頑張りによって,2015 年2月1日に恵楓園を訪問した時点では存続している。2015年2月1日,2日に,読み上げによる原稿確認と補充の聞き取りをおこなった。This is the life story of a man in his 80s who is living in Kikuchi-Keifūen, a Hansen's disease facility.Mr. Jiro Choshu (his pen name in the Hansen's disease facility) was born in Yamaguchi Prefecture in 1927. His Hansen's disease symptom began when he was 4th grade of a commercial school. On August 13, 1943, his two uncles (one was the father side and the other was mother side) brought him to Kikuchi-Keifūen in Kumamoto Prefecture.The interview was held in the interviewee's dormitory room on July 9, 2011. It was a long interview which took 4 and a half hours. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Ai Kurosaka. The interviewee was 84 years old at the moment of the interview.His life story can be categorized by 3 big themes. The first one is the memory with his mother and hometown. Since Mr. Choshu lost his father when he was young, he has had a strong bond with his mother. In the moment of farewell at Ogori station, Mr. Choshu handed his student commuter pass that he would not use any longer to his mother, and she carefully received it with her handkerchief. He reminded that sad moment with tearful voice. His relatives made up the story of Mr. Choshu's birth that he was the child born outside of marriage, the affair between his father and a show girl, because his sister was about to marry a man who would succeed Mr. Choshu's household. They fabricated this story to hide family history of Hansen's disease and banned Mr. Choshu to visit hometown. In fact, Mr. Choshu had visited hometown only one time in 1947 even in the nighttime not to be seen by other people. After the Segregation Policy was abolished in 1996, the Yamaguchi Prefecture helped the Hansen's disease ex-patients come back home and Mr. Choshu had a chance to visit his mother. However it was at a public park, not his family house. Next year, his mother passed away at the age of 100, but Mr. Choshu received the notice 7 days later. Every year, he visits the hometown and always looks over his family house from 100 meters away in a taxi.The second theme of his life story is his criticism on the poor treatment at Kikuchi-Keifūen. He entered the facility in 1943 when the war was going on. Until Japan was defeated 2 years later, he became the subject of the clinical test for the medicine Koha that the Japanese imperial army requested to the facility. This medicine caused a deadly gastro spasm once a month. Promin, developed as the wonder-drug for Hansen's disease after the war, also gave him several aftereffects. He got heavy neuralgia and hand descensus. Even more, he did not have proper treatment for iris inflammation, one of the characteristic complications of Hansen's disease, because Kikuchi-Keifūen did not have an ophthalmologist. Consequently, his iris inflammation was developed to cataract. Currently he is serving as the representative of the Cataract Patients Group in Kikuchi-Keifūen. In 1948, he got married to a woman whom he met in the facility. His wife got pregnant and was forced to have an abortion. Mr. Choshu also had a sterilization surgery. He told these experiences in tearful voice.The last theme is his face as the oldest champion of Social Democratic Party of Japan, still raising the flag of anti-conservatism. According to his mention, the residents' association of Kikuchi-Keifūen had two characters: a company union and a mutual aid for the residents. However, it became conservative as the residents with military service experience and benefits for disabled soldiers increased. Against this tendency, Mr. Choshu and other young people raised the flag of anti-conservatism under the leadership of Shigefumi Masu, and built the Kikuchi-Keifūen branch of the Social Democratic Party of Japan. At the maximum, this branch once had over 100 members. They participated in fighting for necessity allowance and also in the 'Sending Doctors and Nurses to Us' movement, visiting Tokyo to appeal to the Government. At that time there was no airport or Shinkansen, so they had to endure long distance train trips. At the time of this interview, Mr. Choshu worried about the future of the administration of the residents' association. He had kept his service as the board member and devoted himself to the administration since 1961. Fortunately, the association is still functioning properly thanks to the effort of senior board members.On February 1 and 2, 2015, the interviewers read the interview script in front of Mr. Choshu to get his affirmation. We practiced the follow-up interview as well.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.49-65, 2020

山川エイさんは,1950 年12 月,福島県生まれの女性。私たちが彼女に初めて会ったのは,2005 年9 月6 日,東京高等裁判所813 号法廷で「父子関係死後認知請求訴訟」の控訴審の弁論が開かれたときであった。"山川エイ"というのは,この死後認知訴訟上の仮名である。傍聴に出かけたのは,ハンセン病退所者の川島光夫(仮名)の誘いに応じたものと記憶する。このとき,私(福岡)は拙著『在日韓国・朝鮮人』(中公新書)を彼女にプレゼントしている。その後,私たちは,ゼミの学生たちも伴って,12 月6 日の期日にも,2006 年1 月17 日の期日にも,傍聴に出かけた。2006 年2 月28 日の判決期日には,大学院の博論合否判定会議と重なったため不参加。控訴棄却の報を受けた。東京高裁でお会いした3 回のうちのどこかで,私たちは彼女に聞き取りを申し込んだ。返答は「先生に聞き取りされたら,弁護士さんにも内緒にしていることまで喋っちゃうから,私,嫌だ」というものであった。福岡としては,フィールドワーカーとしての力量を褒められたものと思って,全然腹が立たなかったのを記憶している。2016 年はじめに「ハンセン病家族集団訴訟」が提訴され,弁護団から山川エイも原告の一人となっていることを聞き,担当の赤沼康弘弁護士のご好意で,2018 年8 月3 日,立川市の赤沼法律事務所で2 時間半の聞き取りを実施できた。開口一番,彼女が言ったのは「〔以前,話を聞かせてほしいと言われて〕私が断った理由,すっごい印象があるのは,催眠術をかけて,ちっちゃいときの思い出をぜんぶ思い出させるっていうのが,頭から離れなくって。自分はちっちゃいときのことを〔せっかく〕忘れてるのに,なんで〔それを思い出させて〕言わせるんだ,と思って」というものであった。同席した赤沼弁護士も,彼女は「忘れたい,話したくない,という思いがものすごく強い」人だという。にもかかわらず,よく語ってくれたと思う。けっして雄弁に語るというわけではなく,質問に短い応答が返ってくるという語りであった。かつ,語りのトピックが繰り返し巡ってきたときに,前に語られたことの真意が掘り下げて語られるという語り口であった。彼女の語りのまとめにあたっては,できるだけ,そのような語り口をも再現したいと思う。読者は,多少もどかしさを感じるかもしれないが,語りのスタイルの再現も,大事なことだと思う。Ms. Ei Yamakawa is a woman born in Fukushima Prefecture in December 1950. We initially met her in September 6, 2005 when the plead on the appeal of the Postmortem Paternity Lawsuit was held at the Tokyo High Court. "Ei Yamakawa" is the pseudonym used in this lawsuit.We attended the trial in response to the invitation of Mitsuo Kawashima (a pseudonym), Hansen's disease ex-patient. At that time, I (Fukuoka) presented her a copy of my book Zainichi Kankoku-Chosenjin, since I already knew that her father was a zainichi Korean. After that, we attended later trials with Fukuoka's seminar students in December 6 and January 17, 2006. We missed the sentence in February 28 because I had to attend the doctoral dissertation examination committee, and we heard that the court dismissed Yamakawa's appeal.Somewhere in the three times we met her at the Tokyo High Court, we applied for an interview with her. The answer was, "I don't want to do because I likely would confess everything even I did not tell my lawyer, if I get an interview by you." We were not disappointed because we accepted it as her praise for our field worker skill.At the beginning of 2016, the Compensation Lawsuit against the Government by the Family Members of Hansen's Disease Ex-patients was filed, we heard that Yamakawa was one of the plaintiffs and were able to conduct an interview with her in the support from her lawyer, Mr. Yasuhiro Akanuma. The interview was practiced for 2 and a half hours at Mr. Akanuma's law office.Her first words were, "I clearly remember the reason why I turned down your interview proposal last time. I thought that you would use hypnosis to urge me to tell you even the memory I did not want to remember. I hate to remember my youth memory. I was barely able to forget that memory. Why should I remember and tell my bothering memory for you?" Mr. Akanuma said, "Ms. Yamakawa is a person who wants to forget her old memory and does not want to tell her story to others, I think."We are grateful that she willingly shared her story with us, eventually. She was not eloquent and she made short answers to our questions. Only after repeating same question in a similar way, we were able to grasp her real intention. We tried to revive her original telling style when we organize her interview. Some readers may feel rather irritating with her storytelling style, but we believe that it is important to understand interviewee's original style.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.15, pp.67-98, 2018

この聞き取りの記録は,国立ハンセン病療養所「星塚敬愛園」に暮らす90代男性のライフストーリーである。語り手の上田正幸さん(園名)は,1923(大正12)年,長崎県の佐世保生まれ。5 歳以降,郷里の鹿児島県で育つ。尋常小学校5 年で発病,学校で除け者にされるようになり,高等科には進まず,うちの百姓仕事を手伝っていたが,18 歳のとき,1941(昭和16)年7 月の「大収容」で星塚敬愛園に入所。以来,70 数年を療養所で暮らしている。彼の語りは,海軍を退役して,故郷に戻って農業をしながら町会議員をつとめていた父親の思い出から始まる。父への想いをとおして,ふるさとへの想いが語られている。同時に,園内の浄土真宗の信者たちの世話役である「真宗同愛会」の会長をつとめたこともある正幸さんは,師と仰ぐ先輩入園者,山中五郎師が全国に浄財を募って園内に「星塚寺院」を建立した話を,短歌に託して思い出深く語る。彼は,まさに篤信の真宗信徒なのである。「ハンセン病問題に関する検証会議」の『最終報告書』(2005)では,宗教は入所者たちから「らい予防法」体制下での強制隔離政策への批判精神を奪うものとして機能したという側面が強調されたけれども,この語りの標題を「篤信の仏教徒が国賠訴訟の先頭に立つ」としたように,正幸さんは,1998 年に熊本地裁に提訴された「らい予防法違憲国賠訴訟」の第一次原告13 名の一人であった。ハンセン病療養所のなかでの信仰心のもつ意味について,いま一度,実情に即して見つめなおす必要があろう。彼をして原告に立つことを決断させたものは,社会に残された妹さんの「あんちゃんも苦労したんだね」の一言であった。じつに,彼の妹も2 人の弟も,結婚差別の被害に遇っている。聞き取りは,2010 年6 月20 日,午前と午後,あわせて4 時間半に及んだ。聞き手は福岡安則,黒坂愛衣,金沙織。2014 年6 月28 日に補充の聞き取りをおこなったが,紙幅の関係で基本的に割愛。2015 年2 月24 日,読み上げのかたちで原稿確認をおこなった。発表までに時間がかかってしまったが,正幸さんがお元気なうちに活字にできて,ホッとしている。2017 年10 月末に最終稿を星塚敬愛園の上田正幸さんにお送りしたところ,近侍の方から,「上田正幸さんより依頼を受けて校正のお手伝いをいたしました。2 日間にわたり読みあげをして,原稿の確認を行いました。……『自分を残すことができた。自分のほとんどが書いてある。生涯だ。私の物語だ』『縁があれば,またお会いいたしましょう』との言付けでした」との丁寧な手紙が添えられて,数ヵ所,朱の入った原稿を送り返していただいた。語り手と近侍の方に感謝申し上げる。This interview is the life story of a man in his 90s living in Hoshizuka-Keiaien, the national sanatorium. Mr. Shoukou Ueda, the interviewee was born in Sasebo, Nagasaki in 1923 and grew up in Kaghoshima prefecture after he became 5 years old. He got Hansen's disease when he was in the fifth grade of elementary school and had been an outcast. He was graduated from only elementary school and helped farming work of his family. He was sent to Hoshizuka-Keiaien when he was 18 years old through so-called the Grand Confinement in July, 1941. Since that time he has lived in the sanatorium for over 70 years.His life story begins with the memory of his father who had served as a town assemblyman of his hometown after retiring from the navy. He talked about his hometown memory through the memory of his father.At the same time, Mr. Ueda who had served as the president of Shinshu-Doaikai, the society supporting believers of the Jodo-Shinshu sect was telling the story through the tanka (Japanese poem of thirty-one syllables) that Mr. Goro Yamanaka, a senior resident of the sanatorium built Hoshizuka-Temple in the sanatorium with the donation from all over the country. Mr. Ueda is a devout Buddhist believer.The final report of the Investigation Conference of the Problems of Hansen's Disease (2005) emphasizing the part of the religion's function as the tool to undermine the sanatorium residents' criticism on the Segregation Policy under the Leprosy Prevention Law. However, as the title of this research note, "A Devout Buddhist Led the Van in the Compensation Lawsuit against the Government" tells, Mr. Ueda was one of the 13 members of the plaintiffs in the first lawsuit against the Unconstitutionality of the Leprosy Prevention Law at the Kumamoto local court in 1998. We believe it is essential to review the meaning and function of religion in the Hansen's disease sanatoriums.Mr. Ueda said that his younger sister's word saying, "You my brother had a hard time, too" made him stand as the plaintiff of the lawsuit. As a matter of fact, his sister and two brothers received marriage discrimination just because they were the family of a Hansen's disease patient.This interview was practiced in June 20th in 2010. It took four and a half hours through the before noon and the afternoon. Interviewers were Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka and Sajik Kim. Although a follow-up interview was practiced in June 28th in 2014, we have to omit the interview due to the lack of space. We finally verified the contents of the interview with Mr. Ueda by the format of reading and listening in February 24th 2015. We are happy that we can publish this interview with Mr. Ueda while he is still in good health.
著者
福岡 安則 菊池 結
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.89-103, 2016

ハンセン病回復者,A さん(本人が匿名を希望)とは,2015年1月12日「あおばの会(東日本退所者の会)」の新年会で知り合った。そのときのちょっとした会話では,「飼い犬を連れて多磨全生園に入所したいんだけど,犬はダメだと言われて困っている」とのことであった。聞き取りをお願いし,2015年2月16日,関東地方の某県にお住まいのご自宅を訪ねた。聞き手は,福岡安則,菊池結。同席者が「ハート相談センター」の内藤とし子。聞き取りのあいだじゅう,Aの全生園入所の阻害要因となっている愛犬のダックスフントが,わたしたちにじゃれついていた。聞き取りの場での A の第一声は,「わたしは,全生園には入ってないんです。入院だけ。『そんなとこ入るんだったら,おれ,死んじまう』って言ったら,『いま,いい薬ができたから,ちゃんと約束を守ってきちんと薬を服用するんならば,療養所に入らなくていい』って,東大病院の先生に言われた。そして,うんと悪いときだけ全生園に入院してたんですよ」というものであった。A によれば"入所"ではなく"入院"だから,園内の寮舎に自分の部屋をあてがわれることはなかったし,病棟での治療がすめば速やかに娑婆に戻り,東大での通院治療を続けたというのだ。A の戸籍上の生年は 1934(昭和 9)年1月。2015年の聞き取り時点で81歳の男性。京都府北部の山村の貧しい農家に生まれ育つ。13歳で大工の住込み小僧となる。東京へ出てきて大工をしている22歳のときにハンセン病を発症。近くの病院で診察を受けるが,2ヵ月後,東大病院へ送られる。そこで東大の医師とのあいだで,上述のやりとりがあり,1956年の時点で「ハンセン病の通院治療」を受ける身となった。――そしていまでは「退所者給与金」をもらっている。この「非入所のような,そうでないような」の語り手,A と対照的な体験をしたのは,「『1日おきに薬を取りに来い』では勤めが続かず」(本誌第12号)の語り手,稲葉正彦(園名)であろう。稲葉は1934年生まれで, A と同い年である。稲葉が菊池恵楓園に収容されたのは1965年であり,A が東大病院に通院を始めたのが1956年だから,9年も後のことである。かたや,阪大で「1日おきに薬を取りに来い」と言われて,勤めの継続の断念,療養所収容,離婚,終生の療養所暮らしに追い込まれたのにたいして,かたや,それより早く9年も前に東大で「1週間に一度,薬を取りに来い」と言われ,ハンセン病関連の外科治療を要するときに「全生園に入院」しただけの「通院治療」を全うし,娑婆での大工職人としての仕事を最後までやり遂げ,「内縁」関係の妻とも添い遂げた。――A の事例は,「らい予防法」による「強制隔離政策」の過誤をあますところなく実証している実例であろう。わたしは,稲葉正彦の聞き取り事例だけを見ていたときには,彼に対する阪大の医師の対応は時代的制約ゆえのやむをえざる儀と判断していた。 だが,A の語りと突き合わせるとき,必ずしもそうは言えまい。9年も前に大工仕事を継続しながらの通院治療を認めた医師がいたのだ。医師「個人の資質」の違いが,きわめて大きい。同時に,そのような個人的資質が発動しうる環境いかんは,個々の医師が属する「教室・医局の意識構造」の 問題でもあったであろう。それにしても,A は幸運だった。しかしその A にして,「らい予防法」 にもとづく「強制隔離政策」「無らい県運動」が張り巡らしていた,いわば"蜘蛛の巣"から自由であったか/あるかというと,残念ながら「否」である。ひとつには,ハンセン病に罹った者は子どもをつくってはならないと思い込んでいて,内縁関係の女性が妊娠したにもかかわらず,「泣く泣く」堕胎してしまったことを,いま悔やんでいる。また,年齢を重ね身体が不自由になり,自分で自分のことができなくなったとき,ハンセン病の病歴が周囲の人にバレることへの,限りない恐怖に囚われている。We met Mr. A who was recovered from Hansen's disease at the New Year meeting of Aoba no Kai (Kanto Area Association of the Released from Hansen's Disease Facility) in January 12, 2015 for the first time. At that time, we had a brief talk and he told us that he recently tried to enter Tama-Zenshōen, Hansen's disease sanatorium in Tokyo with his dog but was told that he couldn't have a dog in the facility.We visited his home and had an interview in February 16, 2015. Interviewers were Yasunori Fukuoka and Yui Kikuchi. Ms. Toshiko Naito who came from Heart Counseling Center seated in the interview. While interviewing, his dog, a dachshund, which caused the trouble between him and the facility played around us.Mr. A's first word at the interview was, "Actually I had never entered Zenshōen. I was only hospitalized there. I said to a doctor of the University of Tokyo Hospital, 'I'll kill myself if you send me to that kind of Hansen's disease facility.' Then, the doctor told me, 'Currently good medicine of the disease is released and you don't need to enter the facility if you regularly have medicine on time.' Thus I used to be hospitalized in Zenshōen only when my health condition was really down." He also added that he did not have a room in the facility dormitory because he was released from the facility as soon as he got recovered and attended the University of Tokyo Hospital to continue to take care of his symptoms.Mr. A's birth date on his family registration record is in January, 1934. He was 81 years old at the moment of the interview. He was born to a poor family living in a mountain village in the north side of Kyoto Prefecture. He became apprentice of a carpenter when he was 13 years old. He got the Hansen's disease symptom when he was 22 years old as working as a carpenter in Tokyo. At the beginning, he got diagnose at a neighbor clinic but 2 months later was sent to the University of Tokyo Hospital. Then he began to regularly attend the hospital to take care of the symptom from 1956. And now, he is receiving the allowance from the Ministry of Health, Labor and Welfare for those who are released from Hansen's disease facility.Mr. A's experience of "Like a Non-Internee, or Somewhat Like That" is a contrast from the story of Mr. Masahiko Inaba (his alias in the Hansen's disease facility), "I Could Not Work Because the Doctor Told Me that I Need to Attend the Hospital Every Second Day for Medicines" (Vol. 12 of this journal).Mr. Inaba was born in 1934, the same age of Mr. A. Mr. Inaba was sent to Kikuchi-Keifūen, Hansen's disease Sanatorium in Kumamoto in 1965 even 9 years later than Mr. A's experience. Mr. Inaba was told that he had to attend the hospital for medicines every second day by Osaka University Hospital. Consequently, he lost his job and got divorced. Then, he was sent to the facility to live there in his life time. However, 9 years earlier, the University of Tokyo Hospital told Mr. A that he only needed to attend the hospital once in a week to receive medicines. Thus he could keep his job as a carpenter and the relationship with his common-law wife.Mr. A's case fully reveals the irrationalities of the Segregation Policy.I once judged that the doctor's decision at Osaka University Hospital was somewhat inevitable due to the restrictions of the times when I first heard Mr. Inaba's story. However, after I compared Mr. Inaba's case with Mr. A's, I realized that my judgment on the decision of the doctor in Osaka University Hospital would be wrong because there was the doctor who let Mr. A keep his job while attending the hospital even 9 years earlier.Mr. A was lucky. However, Mr. A could not avoid the wave of Segregation Policy and the Movement of Hansen's Disease Free Prefecture. That is to say, he was not fully free from the spider web of the discrimination on Hansen's disease. He had to ask his common-law wife to have abortion because he believed that Hansen's disease was hereditary. Even more he is deeply scared of the possibility that his neighbor would be aware of Mr. A's Hansen's disease history when he could not take care of himself for his age.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.16, pp.79-98, 2019

黒坂愛衣『ハンセン病家族たちの物語』(世織書房,2015)の出版がひとつの大きな梃子となって,2016年2月に熊本地裁に対して「ハンセン病家族集団訴訟」が提訴された。そして,2016年12月26日の第2回弁論のときに「原告番号188番」の女性が意見陳述をした。「私は,昭和33年8月4日,宮古島にあるハンセン病療養所,宮古南静園で生まれました。(中略)実は,母は,私を妊娠していることが分かり,南静園の職員に堕胎させるための注射をうたれたのですが,その注射が失敗したおかげで,私は生まれることができました。」その瞬間,この話,私たちは聞いたことがあると思った。宮古南静園からの退所者,知念正勝氏からの聞き取りでだ。知念氏からの聞き取りは,2008年2月19日,宮古南静園の面会人宿泊所「南楓荘」にて実施している(本誌本号に「隔離政策と優生政策と――あるハンセン病療養所退所者の聞き取り」と題して収録)。この女性原告は,知念正勝氏の娘さん,Mさんであった。私たちは2017年5月4日~7日の日程で,原告団副団長の黄光男(ファン・グァンナム)氏を誘って宮古島へ。5月4日午後には園内フィールドワーク,夜は,宮古の家族原告の会「ティダの会」のみなさん,退所者,入所者のみなさんに集まってもらって懇親会(総勢25人)。翌日,ご自宅にてMさんから聞き取り。「ハンセン病家族集団訴訟」における被告国の主張は"政府の隔離政策は,患者を対象としたもので,家族までも対象とするものではなかった。国の政策の被害が家族にまで及んだとは認められない"というものだ。国の代理人は,本気でそう考えているのだろうか。妊娠中に両親がハンセン病療養所から脱走することで命が守られ,いま,この裁判の原告となっている人と,私たちは何人も出会っている。そして,Mさんは,療養所内で妊娠中の母親が堕胎のための注射を打たれたが,幸いにも注射がはずれたために,命を拾った人だ。あきらかに国は"終生隔離絶滅政策"のなかで,患者たちのみならず,その子孫の抹殺をも企図していたのだ。ただ,それが完璧には遂行しえなかっただけなのだ。――とは言いつつも,その背後には,膨大な数の,堕胎によって抹殺された嬰児の命がある。今回の家族訴訟でも"自分のきょうだいが堕胎された"と語る原告が何人もいる。The publication of Ai Kurosaka's Japanese original version (Seori Shobo, 2015) of Fighting Prejudice in Japan: The Families of Hansen's Disease Patients Speak Out (Melbourne: Trans Pacific Press, 2018) functioned as the leverage for the lawsuit of class action of Hansen's disease patients' families at Kumamoto District Court in February 2016.In December 26th, 2016, at the second pleading of the trial, a female plaintiff whose number is 188 stated her opinion as follows."I was born in National Sanatorium Miyako Nanseien at Miyakojima Island in August 4th, 1958. To tell the truth, my mother was forced to get the abortion injection by the staff of the sanatorium when she was pregnant with me, but fortunately the injection did not work and I was able to be born to my mother."When we heard her statement, we immediately reminded that we are already familiar with this story from the interview with Mr. Masakatsu Chinen who once lived in Miyako Nanseien. The interview with Mr. Chinen was practiced at Nanpu Hall, the visitors' lodge of Miyako Nanseien in February 19th, 2008. (This interview is published with the title of "Segregation Policy and Eugenic Policy: An interview with a Former Resident of a Hansen's Disease Sanatorium" on the same issue of this journal as well.)This female plaintiff is surely Mr. Chinen's daughter. (We call her Ms. M in this paper.) We visited Miyakojima Island with Mr. Gwangnam Hwang, the vice representative of the plaintiffs group during May 4th and 7th, 2017. On May 4th we spent afternoon time to practice the field work in the sanatorium, and had a convivial gathering with the members of Tida-no-Kai (Society of Sun), that is, the group of the plaintiffs in Miyakojima, and former and current residents of the sanatorium (25 people in total). On the next day, we held an interview with Ms. M at her place.The government of Japan, the defendant of the lawsuit stated that the Segregation Policy only targeted Hansen's disease patients themselves, thus they would not accept the claim that this policy negatively affected the patients' family lives. I wonder if the legal representatives of the government honestly agree with this statement or not. We have met several plaintiffs who could live thanks to the fact that their parents ran away from the sanatorium while they were in pregnancy. Even Ms. M is the survivor from the abortion injection that the sanatorium staff forcedly gave to her pregnant mother. Certainly, the government attempted to annihilate not only Hansen's disease patients but also their descendants through the Segregation and Extermination Policy and they just failed to achieve it perfectly. However, we should not forget there had been enormous unborn lives due to this policy. In the lawsuit of class action of Hansen's disease patients' families, many plaintiffs say that their unborn brothers and sisters were aborted by the government policy.
著者
福岡 安則
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.27-115, 2017

2015年9月9日,鳥取地方裁判所にて,ある判決が下された。ハンセン病に罹患しながらも,生涯療養所に入所することのなかった母親をもつ1945年生まれの男性(非入所者家族)が単独で国家賠償を求めていた裁判の判決であった。この日,わたしは,植民地支配下で台湾総督府によってハンセン病患者隔離施設として造られた台北市郊外の「楽生療養院」を調査で訪れていたので,そこで判決内容を知ることとなった。判決は,総論としては,ハンセン病家族に固有の被害とそれに対する政府の責任を判示するものであったが,この原告個人に即しては,メチャクチャな論理とデタラメな事実認定によって,原告に被害実態なしとする不当判決であった。じつは,この原告男性TMからは,わたしは,2006年12月に鳥取県北栄町の自宅を訪ねて,2日間にわたってライフストーリーの聞き取りをしており,本誌第7号(2010)に「『らい予防法』体制下の『非入所者』家族――ハンセン病問題聞き取り」と題する調査ノートを寄稿している。この調査ノートは,原告代理人の手によって「甲第30号証」として裁判所に提出されていたこともあって,この裁判の動向にわたしはひとかたならぬ関心を寄せていた。判決文を入手して精読したところ,長年にわたって差別問題,人権問題の研究に携わってきた社会学者として看過できない論理破綻が目についたので,批判の骨子を簡潔に述べた文書を弁護士に送付したところ,あらためて弁護士から,控訴審がおこなわれる広島高等裁判所松江支部に「意見書」をしたためて提出することを求められた。さらに,1人でも多くの市民に,この訴訟について知ってもらうために,「意見書」の公表を促されたので,本誌に寄稿させていただく次第となった。ただし,あまりにも自由奔放に書きすぎた。弁護士たちからは,このままではそもそも裁判官に読んでもらえない,とのコメントを頂戴し,話し合った結果を踏まえて,かなり大幅な書き換えをおこなったうえで,2016年10月,広島高裁松江支部に提出の運びとなった。でも,わたしとしては,原審裁判官に対する憤りの感覚,呆れ返った感じ,馬鹿にしたくさえなる思いが,そのまま溢れ出ている草稿のほうが愛着があるので,草稿に必要最小限の加筆をするに留めたものを,ここに寄稿した次第である。In 9th September 2015, there was a judgement at Tottori District Court. It was the ruling for a man born in 1945 to a woman who had Hansen's disease but did not enter a sanatorium for her life time. He solely filed the case against the Government to demand the compensation. That day, I stayed for the research at Losheng Sanatorium in the suburban area of Taipei and heard the news of the judgement there.The court ruled that in general the Government is responsible for the distinct loss of the families of those affected by Hansen's disease patients. However, it did not recognize the plaintiff's individual loss as the family of a Hansen's disease patient. It was an unfair judgement lack of rational and acceptable logics.As a matter of fact, we have interviewed Mr. T.M., the plaintiff of this case for two days to hear his life story at his home in Hokuei Town in Tottori Prefecture in December 2006. The research note, "A Son of an Uninstitutionalized Patient during the Era of the Leprosy Prevention Law: An Interview Concerning Issues over Hansen's Disease" published on the Vol.7 (March, 2010) of this bulletin deals with his story. The lawyer advocating Mr. T.M. submitted this research note as the evidence No. 30 for the plaintiff. Thus, it was natural for me to be interested in the result of this lawsuit.I carefully read the decision and found, as a sociologist who has researched discrimination and human rights issues, several logical collapses which cannot be ignored. After I sent the document of my critical opinion on the decision to the lawyer, he asked me another request to write an opinion letter for the appellate court which will be held at the Matsue Branch of Hiroshima High Court.In addition, I decided to publish my opinion letter on this bulletin to inform the people about this lawsuit as many as possible.I had to revise the style of the letter when I submitted it to the Matsue Branch of Hiroshima High Court in October 2016, since the lawyer told me that my original letter was quite informal and emotional, and that it was not suitable for court reading.However, I feel attachment to the original version of the letter because it shows my rage, criticism, and satire on the judge of the original trial quite well. Thus, the manuscript for the bulletin is based on the original version with minimum revise.
著者
軍司 裕吾
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.19, pp.55-81, 2022

本稿は、1970 年代の「アンノン族」とその旅の文化について論じたものである。アンノン族とは、1970 年に平凡出版社から創刊されたファッション雑誌『anan』と、次いで1971 年に集英社から創刊された『non-no』から生まれたおしゃれな服を着て旅をする若い女性たちのことである。この二誌では日本全国を旅する特集が組まれ、その特集された場所を一人ないしは数名で旅をしたのがアンノン族である。1970 年代、アンノン族は一つのユニークな旅文化をかたちづくり、観光産業や若い女性の旅のあり方に一定の影響を与えた。 本稿では若い女性の旅という主題が、一貫して両誌の誌面構成の主要要素のひとつであったことを示す。次に、具体的事例として『anan』が特集として取り扱った全国の観光地を整理して分析し、誌面の表象の中心に置かれていたのは、いわゆる観光地ではなく、東京を中心とした都会生活と都会性にあったことを指摘した。さらには、流行としてのアンノン族の盛衰をたどり、その背景には、高度経済成長から低成長への転換という1970 年代の時代の推移があることを指摘した。最後に、アンノン族が、日本における女性の旅のあり方にどのような影響を与えたと考えうるかについて述べた。 This paper discusses the ‘Annon-zoku’ and their travel culture in the 1970s. The ‘Annon-zoku’ is a name labelled at young Japanese women who travelled alone or with friends in fashionable clothes. Those trendy young women were created and fostered by two distinctive fashion magazines, An-an and Non-no, respectively published in 1970 and 1971. The ‘Annon-zoku’ promoted a fashionable travel culture for young women, encouraging them to enjoy their women only tourism. Tourist industry also began to pay attention to these young women customers who would constitute a larger asset in their trade. This article shows that young women's travel was one of the main features in the women’s magazines. Analyzing the Japanese tourist destination featured in An-an, the article points out that the focus of the magazine was not the distant tourist spots, but the urban life and its associated urbanity: Tokyo metropolitan area was the most featured tourist destination in the magazines. This article also charts the up and down of the ‘Annon-zoku’ in the 1970s, indicating that behind the scenes a downward change in Japanese economy existed. In the concluding comment, I also make a comment on the way the ‘Annon-zoku’ influenced women's travel culture in Japan.
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.18, pp.167-184, 2021

2012 年6 月18 日,福岡安則と黒坂愛衣は,熊本県合志市にある国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」の面会人宿泊所「渓楓荘」に,地元合志市在住の木村チズエさん(1932 年9 月13 日生,聞き取り時点で79 歳)と森三代子さん(1934 年4 月1 日生,聞き取り時点で78 歳)にご足労ねがって,聞き取りをさせていただいた。 おふたりは,菊池恵楓園附属保育所「龍田寮」の最後の保母である。 二人とも,昭和一桁の年代に農村部に生まれた女性にもかかわらず,親の理解と本人の向学心により,家庭がさほど裕福でもなかったのに,戦後の学制が旧制から新制に切り替わる時期に,高等学校を卒業している。そして,木村は 1952 年 12 月に,森は 1953 年4 月に「龍田寮」に勤める。この時期は戦後の「無癩県運動」が渦巻いていた。にもかかわらず,二人の親は〝結核は怖いが,ハンセン病はそうそうウツルものではない〟と娘の就職を歓迎している。そのような認識が,ハンセン病療養所の地元住民の一部とはいえ,明確にあったことは興味深い事実である。 龍田寮には,親がハンセン病を発症して恵楓園に収容されて,引き取り手のない,ゼロ歳児から中学生までの子ども約 70 人が暮らしていた。1953 年の終わりに,恵楓園の宮崎松記園長が,龍田寮の小学生たちが地域の黒髪小学校への通学を認められず,龍田寮内の分教場に押し込められていることを不当とし,新 1 年生から本校への通学を求めたことから,「黒髪校事件」とも「龍田寮事件」とも呼ばれる騒ぎが勃発する。地元住民の多数派が通学拒否の反対運動を組織し,さらには龍田寮自体の閉鎖を求める排斥運動を強力に展開したのだ。 お二人の語りからは,多数派住民の偏見差別から子どもたちを守ろうとし,龍田寮が閉鎖になったあとも,恵楓園の事務官として勤務し続け,あてがわれた官舎を,龍田寮出身の子どもたちが盆や正月に〝里帰り〟できる場として維持し続けた生涯がうかがわれる。かつて〝未感染児童〟とラベル貼りされた子どもたちに対して,献身的な姿勢を揺るがせることなく,最後まで寄り添い続けたお二人の生きざまには,頭がさがる。 On June 18, 2012, Yasunori Fukuoka and Ai Kurosaka visited Keifu-So, the visitors’ lodge in Kikuchi Keifuen, a national Hansen’s disease sanatorium in Koshi City, Kumamoto Prefecture to meet Ms. Chizue Kimura (born September 13, 1932, 79 years old at the time of hearing) and Ms. Miyoko Mori (born April 1, 1934, 78 years old at the time of hearing). These two are the last nursery teachers at Tatsuta Dormitory, the orphanage attached to Kikuchi Keifuen. Despite being women born in a rural area in the early Showa era, both of them graduated from senior high school which was changed from the old system to the new one after the Second World War. Although their families were not so wealthy, their parents’ support and their willingness to study made this possible. Kimura worked at Tatsuta Dormitory in December 1952 and Mori in April 1953. During this period, “Leprosy-Free Campaign” was swirling. But their parents supported their daughters’ job, saying that tuberculosis is scary, but leprosy is not contagious. It is interesting that they had such recognition even though they were towners near the leprosy sanatorium. In Tatsuta Dormitory, about 70 children from zero-year-olds to junior high school students, whose parents had Hansen’s disease and were admitted to Keifuen, lived in the dormitory. At the end of 1953, the director of Keifuen, Dr. Matsuki Miyazaki, appealed that it was unfair that elementary school students in Tatsuta Dormitory were not allowed to attend the local Kurokami Elementary School, and demanded new first graders’ enrolment to the local school, and then so-called “Kurokami School Incident” or “Tatsuta Dormitory Incident” broke out. The majority of local residents organized a movement to refuse Tatsuta Dormitory members’ enrolment to the school, and also strongly demanded the shutdown of Tatsuta Dormitory itself. From the story of the two, we learned that they tried to protect the children from the prejudice and discrimination of the majority residents, and even after the Tatsuta Dormitory was closed, they continued to work as the clerk of Keifuen and keep their official residence as the home where the children from Tatsuta Dormitory can come back during the Bon Festival or New Year holidays. For the children who were labeled as “Uninfected Children”, the two dedicated their whole lives without shaking their devotion to the children.
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.15-41, 2016

日本各地域に存在したベトナム戦争反対運動のなかでも,息の長い運動を続けたのが福岡市におけるベトナム反戦市民運動(「福岡ベ平連」)であった。その活動の前身となったのが「十の日デモ」と呼ばれた定例デモで,1965年から1973年までの間のおよそ7年半,ほぼ休みなく月3回,市民によって続けられた。本論考は3部構成の第3部に当たり,「福岡ベ平連」が発足する前の1965年4月から1967年末までのおよそ3年間を「十の日デモの時代」と名付けて検討対象とし,福岡におけるベトナム反戦市民運動の発足の経緯と運動の展開過程を明らかにするものである。本誌11号および12号掲載の第1部,第2部の論考で明らかにしたように,福岡における十の日デモは九州大学の数学者たちが重要な担い手となって発足したものであった。しかし,1966年6月からは,福岡以外の日本諸地域におけるベトナム反戦市民運動との連携が東京のベ平連を媒介にして始まっている。本稿では,福岡における十の日デモが,そうした全国的なベトナム反戦のための連携ネットワーク形成にどのような経緯で接続,参与していったのかという点をまず検討する。ほぼ同じころ,十の日デモの参加者にも変化が見られるようになる。労働組合に組織された若い世代の労働者たちがデモに参加するようになった。また,九州大学の学生たちの参加も,医学部の学生たちが独自の反戦グループを作って主体的に参加するようになる。また,個人として十の日デモに主体的に参加するようになった九州大学の学生についても,3事例で具体的に検討していく。さらには,九州大学以外の学生の参加も次第にみられるようになる。その事例についても紹介する。1965年2月のベトナム北爆から68年1月の佐世保闘争までの約3年のあいだ,九大学生が大衆的な規模で最もこだわった問題は,ベトナム反戦でも日韓条約闘争でもなく,67年初夏の教養部田島寮の寮祭の樽神輿コースおよび九大学生祭の仮装行列コースの変更問題をめぐるものだった。このいわば「フェスティヴァル」の自治と自由に対する警察の介入に対してみせた九大学生たちの行動には,その後の大学闘争やベトナム反戦運動を予見させるものがあった。その点をみていく。最後に,十の日デモに対する当時の福岡市民の評価と態度を確認しつつ,さまざまな批判に応えつつ,デモ参加者たちがどのように自らのデモを位置づけていたのかを確認してみたい。Amongst many anti-Vietnam War movements in Japan, one of the longest sustained is that of Fukuoka city in Kyusyu. The focus of the movement was Jū-no-hi-demo' or Tō-no-hi-demo, citizen's protest walks in the city centre, organized every 10th day of the month from 1965 to 1973.However, its characteristics and membership changed substantially in the first half of 1968. The author of this article thus named the first three years before 1968 as Tō-no-hi-demo no Jidai ('the years of the tenth day protest walk'), and wrote a historical essay focusing on the period. This examined the birth and development of the Fukuoka citizens' protest movement against the Vietnam War as well as placing it in the much wider national context of the anti-Vietnam War movement across Japan. This article is the third, the final part of that essay.As discussed in the previous parts of the essay, Tō-no-hi-demo no kai (Association for the Tenth Day Protest Walk) started with several mathematicians of Kyusyu University as its main membership. But by June 1966, Tō-no-hi-demo no kai began to collaborate with an anti-Vietnam War movement in Tokyo. This, so-called 'Tokyo Beheiren', proposed a nation-wide lecture tour on war on Vietnam, and Tō-no-hi-demo no kai accepted that it would host a public lecture in Fukuoka. This article firstly examines the process in which Tō-no-hi-demo no kai began to make connections with other anti-Vietnam war movements outside Fukuoka.Along the gradual formation of the anti-Vietanm war network with groups of other regions, To-no-hi-demo began to attract participants of more varied backgrounds. Trade union members of younger generations, an anti-war group of medical students, and students from universities other than Kyusyu University joined the demo. The second topic the article examines is the expansion of participants in Tō-no-hi-demo.Thirdly, the article looked at the Kyusyu university student's protest actions against the local police who tried to regulate the student's festival procession on the main city road. The procession had been running annually for many years, and the attempts from the police to limit it gave rise to the massive direct protest action from the students. Although this was not an anti-war protest in any sense, it seems to have revealed the ethos and attitudes of the students at the time.Lastly, the article examined the reaction to Tō-no-hi-demo among the general public in Fukuoka, as well as evaluates the self-awareness of the participants.0.はじめに1. ベトナム侵略戦争に抗議する九大研究者たち 1965年4月1-1. 九大教授団,安保以来の抗議声明とデモ1-2. 青山道夫1-3. 具島兼三郎1-4. 都留大治郎1-5. 福岡安保問題懇話会2.全国各地でみられたベトナム侵略戦争反対の意思表示 1965年2月~1966年6月2-1. 全国各地で知識人たちが抗議声明2-2. 市民の自発的なベトナム反戦行動2-3. 政党や労働組合など既成組織によるベトナム反戦運動と日韓条約反対運動2-4. マス・メディアによって喚起された市民によるベトナム侵略反対2-5. ベトナム侵略反対と日韓条約反対—―日韓条約反対運動の難しさ2-6. 自発性と個人性を求める流れ—―ベ平連と反戦青年委員会2-7. 労働運動における反戦ストライキの困難3.小括(以上,本誌11号に掲載)4. 承前(1)5. 福岡での既成組織によるベトナム反戦運動 1960年代初頭~1967年12月5-1. 福岡での反米軍基地運動5-2. 米国のアジア反共産主義軍事戦略と九州北部5-3. 改憲・核武装阻止福岡県会議5-4. 小林栄三郎5-5. 福岡県下米軍基地を通したベトナム戦争への加担への抗議5-6. 福岡県反戦青年委員会の結成5-7. 田川地区反戦青年委員会5-8. 日韓条約闘争後の福岡でのベトナム反戦運動6. 数学者のベトナム反戦活動とその背景――若手数学者たちの戦後経験6-1. カリフォルニア大学「ベトナムの日委員会」に署名電報6-2. ベト数懇の発足6-3. 若き数学者たちの運動――東大SSS6-4. 九大数学教室の戦後7. 九大十の日デモの会の発足 1965年10月~7-1. 直接のきっかけ7-2. 社会党を良くする会7-3. 渡辺毅,倉田令二朗7-4. 倉田ヒデ子7-5. 山田俊雄7-6. 金原ヒューマニズム7-7. 十の日デモの由来7-8. 東京ベ平連との関わり――意識していたが無関係7-9. 十の日デモは誰が参加して始まり,どのように行なわれていたか7-10. 十の日デモの特色8. 小括(2)(以上,本誌12号に掲載)9. 承前(2)10. 東京ベ平連との連携 1966年6月~10-1. 福岡での全国縦断日米反戦講演会10-2. 山田俊雄の日米市民会議(東京)への参加11. 労働者と学生の参加11-1. 九大医学部生による「ベトナム戦争反対に起ち上がる会」11-2. 個人として参加した学生たち11-3. 東京ベ平連と連携した講演会を継続開催11-4. 九大以外の学生の参加11-5. 既成組織の行なうベトナム反戦運動との違い12. 安保以来最大の九大生デモ――樽神輿と仮装行列13. 十の日デモの広がりとその評価13-1. 福岡市民の十の日デモ評価13-2. 組織による運動と市民個人による運動14. まとめにかえて
著者
市橋 秀夫
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.18, pp.93-146, 2021

本稿は、福岡の「青年労働者」の青年運動組織である社会主義青年同盟福岡地区本部が1968 年に撮影し、集会や学習会などで巡回展示に活用した記録写真について、時代や地理的な文脈とともに紹介・解説するものである。そのうえで、社会運動や労働運動などの史料としての記録写真が持つ意味や、解釈上の問題、ヴィジュアル史料ならではの意義はどういった点に見出せるのかについて、若干のコメントをおこなう。 写真記録の主たる対象は、北九州市方面在住の社青同福岡の同盟員が中心となって結成された北九州反戦青年委員会が1968 年に展開したベトナム反戦の非暴力直接行動である。中心となった行動は、北九州市の中ほどに位置した米軍山田弾薬庫への弾薬輸送阻止闘争である。ただし、写真記録には、北九州反戦青年員会が最初に取り組んだ北九州市「合理化反対闘争」が冒頭に配されているほか、RF-4C ファントムジェット偵察機が九州大学に墜落したあとの現場風景やその直後に板付基地撤去を求めて行なわれた「板付闘争」を記録した写真も含まれている。 日本におけるベトナム反戦運動史研究では、ベ平連や学生運動が展開した活動についてはそれなりの研究蓄積がある。ところが、全国各地で多数の青年労働者が参加した反戦青年委員会によるベトナム反戦運動については、基礎的な研究も皆無といってよく、したがってベトナム反戦運動の通史的研究でも内容ある言及はほとんどなされていない。その結果、地域ごとに大きく異なる方針を持ち各々独自活動を展開していたにもかかわらず、反日共系の学生活動家とともにヘルメットをかぶり角材を振り回す「過激派」という一律な通俗イメージを問い直す作業はなされていないままである。 本稿が取り上げる事例は、北九州におけるベトナム反戦運動のハイライトとなった米軍弾薬輸送阻止闘争が、市民でも学生でもなく、青年労働者が個人で加盟した地域の反戦青年委員会がイニシアティヴを取ったユニークな非暴力直接行動だったことを明らかにしている。日本におけるベトナム反戦運動史研究には、さらなる地域の事例研究の積み上げと、運動主体の多元的な掘り下げが必要である。 This article introduces documentary photographs taken in 1968 by the Fukuoka Area Headquarters of the Socialist Youth League, a youth movement organization of the "young worker" in Fukuoka. Before examining the photos, the article describes the time and geographical context in which the photos were taken. In the final section, some comments will be made on the meaning of documentary photographs, problems in interpretation, and the significance of visual materials, for writing social/labor movement history. The main theme of the photographs introduced here was the nonviolent direct action against the Vietnam War in 1968 conducted by the Kitakyushu Anti-Vietnam War Youth Committee, which was formed mainly by the individual members of Shaseido Fukuoka (Fukuoka Area Division of the Socialist Youth League) who live in the Kitakyushu City area. The main action was to prevent the transport of ammunition to the U.S. Yamada Ammunition Depot, located in the middle of Kitakyushu City. However, the photographs also recorded the worker's "struggle against rationalization" at the Kitakyushu City Council and the struggle for the removal of Itazuke U.S. Air Base immediately after the crash of the RF-4C phantom jet reconnaissance plane to a building under construction at Kyushu University. The latter accident had a significant impact on the U.S. military base realignment policy in the Far East. In the study of the history of the anti-Vietnam war movement in Japan, there has been a considerable accumulation of research on the activities of "Beheiren" movement as well as student movements. However, there is almost no academic research on the anti-Vietnam war movement carried out by the Anti-Vietnam War Youth Committee, in which many young workers participated across the country. Besides, there has been no work to reconsider the uniform image attached to them: "extremists" who was wearing a helmet and swinging a square timber alongside of the "violent" student activists. The case study in this paper reveals that the anti-Vietnam movement in Kitakyushu, which was highlighted by the anti-Vietnam movement to stop the transportation of ammunition by the U.S. military, was a unique nonviolent direct action initiated by the local Anti-Vietnam War Youth Committee, a group of individual young workers of men and women in their teens and twenties. It indicates that the study of the history of the anti-Vietnam war movement in Japan requires the accumulation of local case studies, with an eye for multidimensional analysis of the actors involved in the movement.1.はじめに1-1.「反戦青年委員会」とは?――「北九反戦」の位置づけ1-2.「社会主義青年同盟」とは?――「社青同福岡」の独自性1-3.社青同福岡地本が撮影した記録写真2.弾薬庫輸送阻止闘争の背景2-1.九州北部の米軍基地ネットワークと1968 年2-2.米軍佐世保基地2-3.米軍板付基地2-4.米軍山田弾薬庫と門司港3.社青同福岡が作成した移動展示用写真記録の史料3-1.北九州市合理化反対闘争3-2.第一次弾薬輸送阻止闘争 5 月16 日~26 日3-2-1.北九州市門司区田野浦での米軍チャーター船エクスマウス号からの弾薬陸揚げ3-2-2.5 月19 日3-2-3.全港湾関門支部による米軍物資荷揚げ拒否闘争3-2-4.5 月26 日(日)「歩道デモ」規制を突破3-3.九州大学箱崎キャンパスのファントム機墜落現場3-4.第二次弾薬輸送阻止闘争3-4-1.6 月11 日(火)3-4-2.6 月16 日(日)板付基地撤去闘争3-5.第三次弾薬輸送阻止闘争 7 月17 日~21 日4.山田弾薬庫のその後5.運動史研究と写真史料顔写真(p136, 137)マスキング
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.147-165, 2021

2019 年 9 月1 日,私たちは,東海地方のある海辺の 90 軒ほどからなる集落内のご自宅に,中田トヨさん,エツさん,カズエさんを訪ねた(本稿の人名はすべて仮名,以下敬称略)。 トヨは,1923(大正 12)年 7 月生まれ,聞き取り時点で 96 歳。エツは,1928(昭和 3)年 12 月生まれ,聞き取り時点で 90 歳。二人は 5 人姉妹の四女と五女であった。父親の富三郎は,1888(明治 21)年生まれ。富三郎は戦時中にハンセン病療養所「多磨全生園」に収容され,1944(昭和 19)年,脱走。1948(昭和 23)年,再収容。1953(昭和 28)年,全生園にて死亡。 エツは,戦後,近隣の村の青年と婿取りのかたちで結婚,1950(昭和 25)年,1951(昭和 26)年と娘 2 人を産むが,集落内の店屋のおかみの告げ口で,富三郎がハンセン病で療養所に収容されていることを知った夫が「親父は変な病気だっていうじゃないか」との捨て科白を吐いて家を出てしまい,結婚生活は破綻。エツの姉のトヨは,女ばかりとなった一家を支えるため,生涯独身で過ごす。 1951(昭和 26)年 12 月生まれのカズエ(聞き取り時点で 67 歳)は,エツの下の娘である。カズエも近隣の村の青年と婿取りのかたちで結婚するが,1972(昭和 47)年に娘を出産したあと,やはり,店屋のおかみの告げ口で,祖父がハンセン病だったことを夫の一族が知るところとなり,「あんたらの一家皆殺しにしても,べつに罪にならんのだぞ」とまで言われて,結婚生活は破局。 中田家にお邪魔し,冒頭の挨拶で「いろいろご苦労されましたね」と申し上げたところ,エツさんは「いまが,いちばん幸せ」と言葉を返された。 聞き取りの翌日,ちょうど早稲田大学で開かれた「第 35 回日本解放社会学会大会」に参加している最中に,カズエの娘さん(40 代)からメールが届いた。「はじめまして。昨日はお忙しい中ありがとうございました。母が携帯が苦手なので代わりに送らせて頂きました。/わたしは,曾祖父には会ったことはありませんが,お墓に報告に行ってきました。祖母も今までは他の人には話せなかったことが話せてとてもすっきりした表情だったと,母から聞きました。本当にありがとうございました。」 On September 1, 2019, we visited a house in a seaside village which had 90 households in the Tokai region of Honshu to meet Toyo Nakata, Etsu Nakata, and Kazue Nakata (all the names in this paper are pseudonyms). Toyo was born in July 1923 and was 96 years old at the time of hearing. Etsu was born in December 1928 and was 90 years old at the time of hearing. The two were the fourth and fifth daughters of five sisters. Their father, Tomisaburo, was born in 1888. Tomisaburo was sent to the Hansen's disease sanatorium, Tama Zenshoen during the war and escaped in 1944 but confined again in 1948. In 1953, he died at Zenshoen. After the war, Etsu married a young man in a neighbor village in the form of the marriage that a husband becomes a member of a wife's family, and in 1950 and 1951 he gave birth to two daughters. However, the female shop owner in the village revealed to her husband that her father Tomisaburo was confined in a 'leprosarium', and he left her to finish the marriage life by saying, "People say that your father has strange disease." Etsu's elder sister, Toyo, spent her entire life as a single to support her family which had only female members. Born in December 1951, Kazue (67 years old at the time of hearing) is Etsu's younger daughter. Kazue also married a young man in another neighboring village in the same form that Etsu did. But after giving birth to her daughter in 1972, her husband's family learned that her grandfather had 'leprosy' by the same shop owner who had revealed it before. Her husband family even said, "Even if we kill your whole family, we wouldn't be guilty of it," and her marriage life collapsed. When we visited the Nakata family and said "You went through a lot of hardship," Etsu replied, "Now is the happiest time in my life." The day after the interview, we received an email from Kazue's daughter (40s) while participating in the "35th Japanese Association of Sociology for Human Liberation Convention" held at Waseda University. She said in the mail, "How do you do? Thank you for your visit in spite of busy schedule yesterday. My mother is not good at using cellphone so I am sending this email on behalf of her. I have never met my great-grandfather, but I visited his grave to report yesterday thing. My mother told me that my grandmother had never shared her story with other people so far but she feels so good after she told her story to you. Thank you very much."
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 = Journal of Japanese & Asian studies : 埼玉大学大学院文化科学研究科博士後期課程紀要 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-19, 2020

福岡が2003 年に「ハンセン病問題に関する検証会議」の検討会委員を委嘱されて以降,黒坂とともに,ハンセン病回復者,その家族からの聞き取りを精力的に実施してきた。国の誤った政策により苦難の人生を歩んだ人たちの語りを記録に残すことは,社会学者のなすべき仕事の一つと考えたからだ。一定の問題事象をめぐって聞き取りを積み重ねていけば,ある段階で,あらたに得られる新しい情報はなくなり,「知識の飽和」状態に達すると思われがちであるが,「ハンセン病問題」での当事者の聞き取りが500 人を超えて,なお,まったく新しいライフストーリーに出くわす。本稿で紹介する2 人の女性は,2016 年に始まった「ハンセン病家族集団訴訟」の原告となった人たちである。2018 年12 月,大阪市内の弁護士事務所でNA(女性,1934 年10 月生まれ,聞き取り時点で84 歳)から話を聞いた。彼女は,1940 年7 月9 日,熊本の「本妙寺部落」が官憲によって狩込みを受けたとき,そこに5 歳の女の子としていた人である。ハンセン病罹患者であった両親とともに,群馬県草津の栗生楽泉園に送られ,そこの附属保育所に収容された。2019 年4 月,関西のある駅近くのカラオケボックスでKS(女性,聞き取り時点で79 歳)から話を聞いた。彼女は,群馬県草津の「湯之沢部落」で1940 年3 月に生まれている。両親がハンセン病罹患者であった。1941 年5月18 日に「湯之沢部落解散式」が挙行された半年後,両親とともに瀬戸内海の長島愛生園に移り住み,KS は愛生園の附属保育所に入れられた。1 歳半のときであった。この二人は,ハンセン病罹患者ではないが,ハンセン病療養所附属保育所に収容されるという《もう一つの隔離》の体験者である。それだけではない。この二人の語りは,熊本の「本妙寺部落」にしても草津の「湯之沢部落」にしても,ハンセン病罹患者とその家族たちが助け合ってコミュニティを形成し,そこで自分たちの意志で子産み子育てをするという《リプロダクティブ・ライツ》を実践していた空間であったことを如実に示している。国の強制隔離政策は,単に患者を《隔離収容》しただけではなく,かれらから《リプロダクティブ・ライツ》を剥奪する企てとしてあったことが了解されよう。Since I (Fukuoka) was commissioned as a member of the working group of the Verification Committee Concerning the Hansen's Disease Problem in 2003, I and Kurosaka have been energetically conducting interviews with recovered Hansen's disease patients and their families. We thought that it was one of the sociologists' tasks to record the interviews with the people who had gone through hardships due to the wrong policies of the government. They may think that newer information would not come when the interviews are repeatedly practiced on same issue and it will reach the stage of "saturation of knowledge." However, we still encounter a completely new life story after having interviews with more than 500 people on the Hansen's disease problems.The two women introduced in this research note are those who became plaintiffs of the Compensation Lawsuit against the Government by the Family Members of Hansen's Disease Ex-patients that began in 2016.In December 2018, we interviewed NA (female, born in October 1934, 84 years old at the time of the interview) at a law firm in Osaka. She was a 5-year-old girl on July 9, 1940 when the government arrested the people in Honmyoji Hamlet in Kumamoto. Together with her parents who were suffering from Hansen's disease, she was sent to National Sanatorium Kuriu-Rakusenen in Kusatsu, Gunma Prefecture, where she was housed in an attached nursing home.In April 2019, we had an interview with KS (female, 79 years old at the time of the interview) at a karaoke box near a station in the Kansai region. She was born in March 1940 in Yunosawa Hamlet in Kusatsu, Gunma Prefecture. Her parents were Hansen's disease patients. Half a year later after the "Yunosawa Hamlet Dissolution Ceremony" was held on May 18, 1941, she and her parents moved to National Sanatorium Nagashima-Aiseien in the Seto Inland Sea, and KS was placed in the nursing home attached to Aiseien. She was only 1 and a half years old at that time.These two were not Hansen's disease patients, but they have experienced "another segregation policy" by being housed in nursing homes attached to Hansen's disease sanatoriums. That is not all. The story of these two women reveals that Honmyoji Hamlet in Kumamoto and Yunosawa Hamlet in Kusatsu were the communities where Hansen's disease patients helped each other and enjoyed reproductive rights to give a birth to their children and raise them with their free will. We can see that the segregation policy was not just an enforced isolation of Hansen's disease patients, but also an attempt to strip the Reproductive Rights from them.
著者
趙 亜男
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.16, pp.135-148, 2019

本稿は千利休と豊臣秀吉が催した茶会を中心に、和物茶道具の使用状況を考察し、唐物から和物へと推移する経緯の一端を分析しながらその原因を解明するものである。第一部では、千利休の祖父千阿弥と唐物とのかかわりについて扱った。第二部では、利休茶会における禅僧墨跡の使用状況から利休の創意を看取し、さらに、その原因が茶道具の目利きである利休と弟子の織田有楽が偽物の墨跡を購入した経験があるとかかわりを持っている可能性が高いという考察を導出した。第三部では、秀吉茶会における和物茶道具の使用状況を考察し、秀吉の茶の湯に対する発想の独創性を示した。また、秀吉の時代におきた天正飢饉への飢饉対策と家臣の加藤清正の禁酒令の分析を通して、秀吉が主催した茶会では和物を使いはじめるや、庶民にも参加してもらうことから、秀吉の茶の湯文化を庶民にまで広く普及させたい狙いが読み取れ、その原因は天正時代に起きた飢饉と実行された禁酒令に繋がっているという結論をつけた。本论文旨在以千利休和丰臣秀吉举办的茶会为中心,通过对其和物茶具的使用情况的考察从而探究茶会中唐物到和物使用的转变和其中的原因。第一部分考察了千利休的祖父千阿弥与唐物的关系。第二部分先是通过对千利休的茶会中禅僧墨宝的使用情况的考察分析了利休在茶会上的创意体现,之后考察得出其墨宝的更替与利休本人及其弟子都曾购买过墨宝赝品的经历不无关系。 第三部分通过对秀吉茶会中和物的使用情况的调查,提示出秀吉在茶会上展现的创新意识。此外,通过秀吉颁布的饥荒对策和加藤清正推出的禁酒令的分析,从秀吉在茶会中开始使用和物以及允许百姓也可以参加茶会中,除了可以窥测出秀吉打算将茶汤文化在民间普及开来的意图,也考察得出其中的缘由与天正时期的饥荒和颁布的禁酒令息息相关。
著者
福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
日本アジア研究 : 埼玉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程 (学際系) 紀要 = Journal of Japanese & Asian studies (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
no.16, pp.57-78, 2019

宮古島は因縁のフィールドである。2004年秋に宮古南静園で「第24回ハンセン病問題に関する検証会議」が開催される運びとなり,検討会委員であった福岡も出席を予定していたが,台風襲来で突然の延期。南静園での検証会議は2週間後に開催されたが,ちょうど,授業は半期15コマ実施が必須という方向に大学が移行していく時期で,重ねての休講はできず,宮古訪問は断念せざるをえなかった。2005年3月に検証会議が解散してからも,私たちはハンセン病問題調査を続行。2007年度から科研費がもらえるようになったので,2008年2月,福岡安則,黒坂愛衣,ゼミ生の塚原千恵の3名で宮古島を訪ねた。調査旅行の日程は,2008年2月19日,羽田から那覇空港へ。乗り継いで宮古空港16:15着。退所者の知念正勝氏(当時76歳)が,翌日からは所用のため,この日の夜のうちに,南静園の面会人宿泊所にて3時間の聞き取りを実施。「明日からはサトウキビの刈り入れかなにかで忙しいのですか?」と尋ねたところ,知念氏は「6年前に心臓のバイパス〔手術〕したんで,一度くらいはカテーテル検査をしないと」と答えられた。私も2015年夏に不安定狭心症,2016年冬にも冠攣縮性狭心症を発症しているので,いまなら大いに反応していただろうと思うが,そのときは聞き流してしまった。翌20日は,入所者の前里財祐氏(当時85歳),野原忠雄氏(当時72歳)から聞き取り。21日には福祉課から長靴を借り,野原氏の案内で,戦争中に患者たちが避難した自然壕「ヌストゥヌガマ」を見学。当時はまだ私たちのような訪問客にも療養所での入所者用の食事を廉価で出してもらえていた。最初は"これは健康食だ"などと言っていたのだが,食べ続けると淡泊な味に厭きてくる。南静園入所者自治会長であり全国組織の全療協会長でもあった宮里光雄氏にその旨を言ったら,夕食を宮古の郷土料理の店でご馳走してくださった。いまは亡き宮里会長の心配りを忘れられない。滞在4日目の22日の午前には,再入所者であり自治会副会長でもある池村源盛氏(当時69歳)から聞き取り。帰りがけに美味しい宮古そばを食べて帰ろうとしたが,生憎この日は「旧暦1月16日」の祖先供養の日にあたっていて,島民は墓所に集まって飲み食いに明け暮れる日で,お店は軒並み休業。南静園にタクシーを呼ぶこと自体が難しかった。宮古空港15:10発のJTAで那覇空港へ。「沖縄ゆうな協会」のある那覇市古波蔵までバスで行き,「沖縄楓の友の会」の奥平恵福氏と再会。泊めてもらう。23日,那覇空港発のJALに乗り,19:00羽田着。それにしても,一昔前にやった聞き取りをほったらかしにしてきたことの釈明を一言。沖縄は,『沖縄県ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編』,同『宮古南静園編』(2007年)という,立派な証言集がすでに編纂されていて,私たちの出る幕はないと思っていた。実際『宮古南静園編』には知念氏の語りも収録されている。屋上屋を架すのは愚行であり,沖縄での聞き取りは,ひたすら私たちの勉強のためにすぎないと思い定めていたのだ。しかし,2016年12月26日の「ハンセン病家族集団訴訟」の第2回期日での「原告意見陳述」で,その原告女性が"妻が堕胎の注射を打たれたが,それでも娘が生まれてきた"という9年前の語りの娘さんだと知り,ある意味驚愕し,知念氏の語りをまとめ直そうと思い立った次第である(以下,敬称略)。知念正勝は,1933年12月,宮古諸島の水納島生まれ。小学校3年のころ,尻に斑紋が出ているのを父親が見つける。16,7歳のころには症状も進み,足の裏傷もひどくなり,島の誰もが知るところとなる。宮古本島に行き,宮古南静園の園長を兼務する開業医に診てもらい,「治るから南静園に入りなさい」との言葉を信じて,1951年5月入所。1956年,園内で結婚。1958年,妻が妊娠し,堕胎の注射を打たれるが,流産に至らず。――隔離政策・優生政策が医療従事者をして,命の芽を絶つという残酷なことを当然のこととして行わしめる一方,生まれてきてしまえば,その子のためにおむつ等を用意するという人間的な心を保持した看護婦たちがいたという語りは,じつに印象的であった。堕胎の処置をした者とおむつを用意した者は"同一人物"ではないかもしれないが,ハンセン病療養所という施設のなかの"同一人格"(人格=役柄存在)であったことは確かだ。"同一人格"において,殺すも生かすもできてしまうことは,じつは"殺すこと"――ひとを隔離収容すること,いのちを堕胎すること――自体が"患者のため"と信じ込まされていたことの証であろう。知念夫妻は,園の決まりに従って,生まれた子どもを1年間は南静園で手許に置いて育てるが,その後は水納島の母親に子どもを託す。1960年代前半に,集団移住で知念一家が宮古本島に移住。――これは,知念氏にとって,隔離収容されているあいだに,ふるさとの水納島が人の住まない島に変じてしまい,帰るべき故郷を喪失したということを意味しよう。Heimatlos!娘が小学校2年のとき,園に籍を置いたまま,社会復帰。土木の仕事,電気料の集金,宮古スキンクリニックの職員など,さまざまな仕事に従事。1999年,腰を傷めて,再入所。国賠訴訟の宮古原告団事務局長として活動。2001年5月の熊本地裁の判決では"沖縄は「ハンセン氏病予防法」のもと在宅治療が認められていたから"として,賠償金が一律,最低の800万円に押さえられていたのに対して,"沖縄3原告"の一人として,同年6月26日,熊本地裁の法廷に立って,判決の不当性を訴え,沖縄も本土と同等の基準による賠償を勝ち取る。2002年4月,再度の社会復帰。ハンセン病問題の啓発活動に取り組む。2017年には「ハンセン病全国退所者原告団連絡会(全退連)」の4代目代表に就任。2018年には「沖縄ハンセン病回復者の会」の共同代表となる。Miyakojima Island is a field which has a shady history in relation to our research. I (Fukuoka) had a chance to attend the 24th Conference of the Verification Committee Concerning the Hansen's Disease Problem at National Sanatorium Miyako Nanseien as a member of the working group for the varification committee in the autumn of 2004, but the conference was suddenly postponed for the typhoon. Although the conference was convened two weeks later, my hard teaching schedule at the university did not allow me to visit Miyakojima Island to join the conference.The Verification Committee was discharged in March 2005, but I continued the research on the Hansen's disease problems and received the research grant from Kakenhi (JSPS Grant-in-Aid for Scientific Research). In February 2008 Yasunori Fukuoka, Ai Kurosaka, and Chie Tsukahara (Fukuoka's seminer student at Saitama University at the time of the research) visited Miyakojima Island.We flied from Haneda airport to Naha airport and finally arrived at Miyako airport at 16:15 in February 19th, 2008. We immediately met Mr. Masakatsu Chinen (76 years old at the time of the interview), a former resident of Nanseien, at the visitors' lodge of the sanatorium and had three hours interview with him on that night, since Mr. Chinen had a business from the next day. I asked if he would be busy for suger cane harvest, but he replied that he had the appointment for the cardiac catheterization because he had heart bypass surgery 6 years ago. At that time I did not react that much to his health condition but I would be more sympathetic to him if I hear about it these days, since I had unstable angina in the summer of 2015 and vasospastic angina in the winter of 2016.On the next day we had interviews with sanatorium residents, Mr. Zaiyu Maesato (85 years old at the time of the interview) and Tadao Nohara (72 years old at the time of the interview). On February 21st, we borrowed pairs of long boots from the welfare service office of the sanatorium and had a chance to observe Nusutu-nu-Gama (the Cave of Thieves), a natural cave where the sanatorium residents evacuated during the Battle of Okinawa, under Mr. Nohara's guidance.When we visited the sanatorium in those days, the sanatorium provided visitors like us with resident's dairy meal at cheap price. The first impression of the meal tasted healthy and good, but began to cloy as we had it seveal times in succession. We talked about it to Mr. Mitsuo Miyazato, the president of the residents' council of Nanseien and also the chair of All-Japan Association of Hansen's Disease Sanatorium Residents (Zenryōkyō), and then he treated us with traditional Miyako foods for dinner. Mr. Miyazato passed away seveal years ago but we never forget his kindness.On February 22nd, the fourth day of our stay, we practiced the interview with Mr. Gensei Ikemura (69 years old at the time of the interview). He was the resident who reentered the sanatorium and served as the vice-president of the residents' council. We planned to enjoy delicious Miyako soba noodle after the interview but all local restaurants were closed because that day was the ancestors memorial day (January 16th of the lunat calendar) that local people in the island assembled at the clan's cemetery and spent all day to eat and drink. Even to call a taxi to Nanseien was difficult.We departed from Miyako airport via JTA at 15:10 for Naha airport and then moved to Kohagura in Naha City where Okinawa Yūna Society is located in. We rejoined Mr. Keifuku Okuhira of Kaede-no-Tomo-no-Kai, the society of former Hansen's disease sanatorium residents in Okinawa, and stayed a night at his place. On February 23rd we departed from Naha airport via JAL and arrived at Haneda airport at 19:00.If you give us to excuse for our delayed publishing of this old interview, we would like to say that we missed the timing to introduce this interview earlier, since quite excellent testimonies such as Testimonies of Hansen's Disease in Okinawa Prefecture: The Volume of Okinawa Airakuen and Testimonies of Hansen's Disease in Okinawa Prefecture: The Volume of Miyako Nanseien were already published in 2007. As a matter of fact, Testimonies of Hansen's Disease in Okinawa Prefecture: The Volume of Miyako Nanseien includes Mr. Chinen's testimony as well. We simply thought it would be unnecessary work to deal with the life story that was already published. Thus, we used the interviews that we practiced in Okinawa only for our own research. However, we became surprised that one of plaintiffs who made a statement at the second pleading of the lawsuit of class action of Hansen's disease patients' families at Kumamoto District Court in December 26th, 2016 was Mr. Chinen's daughter who survived from the abortion injection in the sanatorium. Then we decided to review and publish the interview with Mr. Chinen that we had done seveal years ago.Masakatsu was born in Minnajima Island, one of the Miyako archipelago, in December 1933. His father found some macules on Masakatsu's hip when he was in the 3rd grade of the elementary school. His symptom such as ulcer on his feet got worse when he became 16 and 17 years old and everybody in the island became aware of his disease. He met a doctor at the Miyakojima Main Island. The doctor advised that his disease could be cured without requiring a long period of time at Nanseien. Masakatsu believed him and entered the sanatorium in May 1951.He got married to a female resident in the sanatorium in 1956. His wife bacame pregnant in 1958 but the staff in the sanatorium gave the abortion injection to his wife. Luckily, the abortion did not happened.It was an impressive story that the staffs in the sanatorium did cruel action to attempt the abortion to follow the Segregation Policy and Eugenic Policy and they also showed humane kindness to prepare diapers when the baby was born. Probably the staff who tried abortion would not be the same person who prepared diapers for the baby. However, it is certain that both actions represent the double phases of the character of the sanatorium. They were able to do both "kill" and "help." In fact the staff in the sanatorium would believe that "kill" (segregation and abortion) could be a way to help the residents.Masakatsu and his wife raised their baby by themselves only for one year. That was a rule of Nanseien. Afterward they asked Masakatsu's mother to take care of the baby at Minnajima Island. In early 1960s, Chinen family moved to Miyakojima Main Island by the collective move-out policy. While Masakatsu stayed in the sanatorium, his hometown Minnajima became an uninhabited island. This means he lost his hometown to return. Heimatlos!Masakatsu and his wife returned to society when their daughter was in the 2nd grade of elementary school, although they still kept their resident registration at the sanatorium. He had done several jobs such as construction worker, electricity bill collector, and the staff of Miyako Skin Clinic.In 1999 he got injured in his waste, returned to the sanatorium. And then, he served as the general secretary of the Miyakojima plaintiffs group for the national suit on beharf of Hansen's disease sufferers. In May 2001, Kumamoto Disrict Court judged that the government of Japan should compensate only 8 million yen to the plaintiffs from Okinawa area because the Hansen's Disease Prevention Law in Okinawa permitted the patients to take treatment at their home. However, in June 26th, 2001, Masakatsu protested against this judgement along with Mr. Masaharu Kinjo and Sachiko Kinjo, and won the case to receive the same amount of compensation that the government give to the plaintiffs from the mainland of Japan.Masakatsu returned again to society in April 2002 and has worked for Hansen's disease problems campaign movement. In 2017 he took to the 4th representative of All-Japan Association of the Former Hansen's Disease Sanatorium Resident Plaintiffs. In 2018, he became the co-representarive of the Society of the Hansen's Disease Recovered Sufferers in Okinawa.