著者
柴田 伊冊
出版者
総合危機管理学会
雑誌
総合危機管理 (ISSN:24328731)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.69-77, 2019 (Released:2019-12-10)

危機状態若しくは通常とは異なる緊張状態にあるときに言語に課される役割を、航空管制(英語)の場合と、日本の消防の場合の比較によって明らかにする。航空管制(英語)の場合が、極めて合理的な思考方法によって整理され、世界規模での標準化を行っているのに対して、日本の消防の場合は、基本形提示による言語の使用のほか、実際の運用では人的な経験の程度や知識の有無に依存する傾向がある。日本語について、その「曖昧さ」が言語として優れた面であるとする評価があるが、日本語の解釈が客観性の追究よりも、人的な要素を重視する方向にあるということが本論の結論になる。
著者
柴田 伊冊
出版者
千葉大学大学院人文公共学府
雑誌
千葉大学人文公共学研究論集 = Journal of studies on humanities and public affairs of Chiba University (ISSN:24332291)
巻号頁・発行日
no.39, pp.71-83, 2019-09

[要旨] 日本国憲法は、アジア太平洋地域において日本がもたらした戦禍の反省から生まれた平和を指向する憲法である。その戦禍は、マサチューセッツ工科大学のジョン・ダワー(John W. Dower)が「敗北を抱きしめて("Embracing defeat:Japan in the Wake of World War II")(1999 年)」で、「日本人は乱暴の限りをつくした(They had run amok)」と表現したものであり、これによって中国だけで約 1,200 万人以上の人々が命を落とし、そして 200 から 300 万人以上の人々が命を落としたと推定される朝鮮戦争の勃発を導き、その結果、現在に至るまで継続している南北分断という地政が現れ、フィリピン、シンガポール、インドネシア、ベトナム、台湾、マレーシア、そして長い間、日本の植民地であった韓国と朝鮮民主主義人民共和国という広範囲の地域で約 500 万人の命が失われたと推定される。これらの戦場では軍人・軍属のみならず、老人と若者、男女、そして子供が犠牲者となることに何ら分け隔てがなかったし、それは第二次世界大戦での典型的なホロコーストであるナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺(約 600 万人)を上回る規模であった。そして日本人自身にも約 310 万人の死者があったから、朝鮮戦争まで含めれば、2,300 万人以上が戦禍によって命を落としたことになる。フィリピンに焦点を当てただけでも、1945 年 2 月から本格化したマニラ攻防戦では、日本帝国陸軍と日本帝国海軍は自身を守るためとして多くのマニラ市民を殺害した。建物にマニラ市民を閉じ込めたまま爆破したり、焼却した。このため、マニラ攻防戦での市民の死亡者は、米軍の砲撃による犠牲者が含まれるものの、日本帝国陸軍と日本帝国海軍による虐殺が広範囲で発生したから、結局、10 万人以上に達したとされている。さらに、フィリピンでの戦争は、3 月に入ってからルソン島北部に中心が移ったが、ここでも日本帝国陸軍と日本帝国海軍は「ゲリラ討伐」と称して、多くの村落を焼き討ちして住民を殺戮した。そして開戦以来、フィリピンで死亡した日本帝国陸海軍軍人は約 48 万 7,000 人とされているから、フィリピンは、日本国によって、沖縄県を大きく上回る悲惨な戦場になった。1946 年 11 月 3 日、日本国憲法は、大日本帝国によって招来した戦禍、すなわち自国と周辺諸外国に及ぼした戦禍を踏まえて、将来に向けて、戦争を行なわない平和国家としての日本の実現を掲げて制定された。それ故、我々は、日本帝国陸軍や日本帝国海軍による「乱暴の限り」から目を背けることなく、日本国憲法に込められた意義、すなわち日本国が恒久の平和を求めるに至ったことの意味を見失わないようにしなければならない。 日本国憲法は、日本国によって命を落とした人々のために、そして日本国が起源になって再び平和を脅かさないことを追求し、そのために戦争を否定し、加えて事実上の武力の行使や武力による威嚇を行わないことによって、武力を手段として国際社会の秩序を維持することを放棄したものであり、それは日本国を席巻した軍国主義の再来を忌避した、第二次世界大戦直後における日本国民の総意であった。 第二次世界大戦の経験は、それを直視した世代が日本内外で 90 歳代に至った現在でも見失われるべきではなく、そして今後も語り継がれるものであるから、日本の周辺に位置する諸外国が、2,000 万人を超える犠牲者の悲惨を踏まえて、日本の将来を考えるときには不動の礎になる。そして我々が日本のあり方を考えるときの礎でなければならない。 このような視点から、本研究ノートは、法学の観点、すなわち法文の解釈や背景となる思想と現状の比較検証に止まらず、加えて、国際関係という現実から日本国憲法の変遷を顧みることに止まらず、第二次世界大戦当時の日本国周辺地域での戦禍を確認し、その凄惨さを不動の前提として考察を試みている。それは「軍隊」というもののあり方を直視することであり、日本国憲法の出発点において国民によって認識されたこと、すなわち国民の多くが、第二次世界大戦敗戦という経験から、それぞれが日本の今後を見通したという事実を尊重するものである。
著者
柴田 伊冊
出版者
総合危機管理学会
雑誌
総合危機管理
巻号頁・発行日
vol.3, pp.69-77, 2019

危機状態若しくは通常とは異なる緊張状態にあるときに言語に課される役割を、航空管制(英語)の場合と、日本の消防の場合の比較によって明らかにする。航空管制(英語)の場合が、極めて合理的な思考方法によって整理され、世界規模での標準化を行っているのに対して、日本の消防の場合は、基本形提示による言語の使用のほか、実際の運用では人的な経験の程度や知識の有無に依存する傾向がある。日本語について、その「曖昧さ」が言語として優れた面であるとする評価があるが、日本語の解釈が客観性の追究よりも、人的な要素を重視する方向にあるということが本論の結論になる。
著者
柴田 伊冊
出版者
千葉大学大学院人文公共学府
雑誌
千葉大学人文公共学研究論集 = Journal of Studies on Humanities and Public Affairs of Chiba University (ISSN:24332291)
巻号頁・発行日
no.39, pp.71-83, 2019-09-26

[要旨] 日本国憲法は、アジア太平洋地域において日本がもたらした戦禍の反省から生まれた平和を指向する憲法である。その戦禍は、マサチューセッツ工科大学のジョン・ダワー(John W. Dower)が「敗北を抱きしめて("Embracing defeat:Japan in the Wake of World War II")(1999 年)」で、「日本人は乱暴の限りをつくした(They had run amok)」と表現したものであり、これによって中国だけで約 1,200 万人以上の人々が命を落とし、そして 200 から 300 万人以上の人々が命を落としたと推定される朝鮮戦争の勃発を導き、その結果、現在に至るまで継続している南北分断という地政が現れ、フィリピン、シンガポール、インドネシア、ベトナム、台湾、マレーシア、そして長い間、日本の植民地であった韓国と朝鮮民主主義人民共和国という広範囲の地域で約 500 万人の命が失われたと推定される。これらの戦場では軍人・軍属のみならず、老人と若者、男女、そして子供が犠牲者となることに何ら分け隔てがなかったし、それは第二次世界大戦での典型的なホロコーストであるナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺(約 600 万人)を上回る規模であった。そして日本人自身にも約 310 万人の死者があったから、朝鮮戦争まで含めれば、2,300 万人以上が戦禍によって命を落としたことになる。フィリピンに焦点を当てただけでも、1945 年 2 月から本格化したマニラ攻防戦では、日本帝国陸軍と日本帝国海軍は自身を守るためとして多くのマニラ市民を殺害した。建物にマニラ市民を閉じ込めたまま爆破したり、焼却した。このため、マニラ攻防戦での市民の死亡者は、米軍の砲撃による犠牲者が含まれるものの、日本帝国陸軍と日本帝国海軍による虐殺が広範囲で発生したから、結局、10 万人以上に達したとされている。さらに、フィリピンでの戦争は、3 月に入ってからルソン島北部に中心が移ったが、ここでも日本帝国陸軍と日本帝国海軍は「ゲリラ討伐」と称して、多くの村落を焼き討ちして住民を殺戮した。そして開戦以来、フィリピンで死亡した日本帝国陸海軍軍人は約 48 万 7,000 人とされているから、フィリピンは、日本国によって、沖縄県を大きく上回る悲惨な戦場になった。1946 年 11 月 3 日、日本国憲法は、大日本帝国によって招来した戦禍、すなわち自国と周辺諸外国に及ぼした戦禍を踏まえて、将来に向けて、戦争を行なわない平和国家としての日本の実現を掲げて制定された。それ故、我々は、日本帝国陸軍や日本帝国海軍による「乱暴の限り」から目を背けることなく、日本国憲法に込められた意義、すなわち日本国が恒久の平和を求めるに至ったことの意味を見失わないようにしなければならない。 日本国憲法は、日本国によって命を落とした人々のために、そして日本国が起源になって再び平和を脅かさないことを追求し、そのために戦争を否定し、加えて事実上の武力の行使や武力による威嚇を行わないことによって、武力を手段として国際社会の秩序を維持することを放棄したものであり、それは日本国を席巻した軍国主義の再来を忌避した、第二次世界大戦直後における日本国民の総意であった。 第二次世界大戦の経験は、それを直視した世代が日本内外で 90 歳代に至った現在でも見失われるべきではなく、そして今後も語り継がれるものであるから、日本の周辺に位置する諸外国が、2,000 万人を超える犠牲者の悲惨を踏まえて、日本の将来を考えるときには不動の礎になる。そして我々が日本のあり方を考えるときの礎でなければならない。 このような視点から、本研究ノートは、法学の観点、すなわち法文の解釈や背景となる思想と現状の比較検証に止まらず、加えて、国際関係という現実から日本国憲法の変遷を顧みることに止まらず、第二次世界大戦当時の日本国周辺地域での戦禍を確認し、その凄惨さを不動の前提として考察を試みている。それは「軍隊」というもののあり方を直視することであり、日本国憲法の出発点において国民によって認識されたこと、すなわち国民の多くが、第二次世界大戦敗戦という経験から、それぞれが日本の今後を見通したという事実を尊重するものである。
著者
柴田 伊冊
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.24, pp.14-31, 2012-03

1994 年のICAO(International Civil Aviation Organization)における自由化をめぐる世界規模での議論を踏まえ、米国を起点にした国際航空の自由化は世界規模で進行している。オープンスカイ政策によって、米国が世界に求めた自由化は、既存の二国間航空協定を改定する方法による自由化で、航空当局者ごとの交渉を通じて、米国への又は米国からの路線において波及的に国際航空の自由化を図ることであった。ICAO フォーラム(1994年)で提言された国際航空の自由化は、それぞれの国家の地勢と、既存の航空会社の競争力に応じて段階的に実現されるという視点に応じていたから、米国の方法は実践的であったことになる。 EU(European Union)域内では、英国やオランダなど自由化に積極的な国家と、ヨーロッパ統合という政治的主導によって自由化が進行した。EU 域内の航空会社は、英国航空(イベリア航空との統合で世界第7位の売上高 2010 年)を中心に、国家の介入による自国航空会社の保護育成という政策を脱し、かつ、インフラとして航空会社の運航を支える空港管理主体の民営化が進行して自由を基軸として統合された地域を伴う航空会社となった。それ以降、米国国内とEU 域内及び大西洋路線が、世界の航空の需要の大半を占めている事実から、米国とEC(European Community)の接続の形態が国際航空の次世代の原形となるとする見解もある。米国とEC という国際航空における自由化の核の外に位置する日本も国際航空路線の多くを米国及びEU 域内と接続しているために自由化を免れることができない。そして日本では第二次世界大戦の敗戦以降、米国の航空会社が運航の路線数や以遠において優勢であり、かつ隣接の中華人民共和国の航空の急速な発展に当面していることから、日本はここに至るまで自由化に慎重であった。 国際航空の自由化との関係で争点になるシカゴ条約前文の航空の機会均等は、これまでそれぞれの政府による、それぞれの締約国の航空会社の保護育成政策によって実効性が担保されていたのであり、国際航空の自由化の進行前においては、IATA(International AirTransport Association)によって世界規模で統一された手続によって運航に必要な条件が整備されながらも当該保護育成の方法は国家ごとに異なっていたから、オープンスカイ政策以降の自由化を意図する変革の方法と目的も国家ごとであり、世界規模では同一でない。それ故に、マランチェク(Peter Malanczuk)が多様化する国際公法の今後を「細分化」と称したように、国際航空の自由化についても、日本における「自由化」の意義を確定する必要がある。そして、それは緩やかな漸進的自由化であり、国家による統制の潜在化である。