著者
森山 達矢
出版者
一般社団法人 日本体育学会
雑誌
体育学研究 (ISSN:04846710)
巻号頁・発行日
pp.12061, (Released:2013-05-13)
参考文献数
25
被引用文献数
1

This paper examines the relationship between ethics and the Japanese martial arts (budo). The issue of this relationship has been studied mainly from the standpoint of history, and has not been much researched from the standpoint of practitioners. Therefore, in this paper, I describe how practitioners acquire the ethics of budo by approach the topic through the concept of “becoming,” as maintained by Sakuta, Yano and Kameyama, with the intention of clarifying the inner processes adopted by practitioners. For this purpose, I observed participants at an aikido dojo. Generally, participant observation means describing the experiences of field work objectively. In this paper, however, I describe the aikido practitioners' inner experiences, and from that I try to clarify the practical aspect of the relationship between ethics and budo. The findings of my study were as follows. In the practice of aikido, the practitioners are instructed to harmonize with each other and are taught that this feeling of harmonization is the “Aikido spirit”. Not only by developing this feeling, but also an awareness that the mind and body don't match each other, and control of mind and body cannot be achieved together, aikido practitioners gain a new view of the world, and reflect on everyday life and communication with others through the feeling gained in the dojo. Aikido practitioners acquire ethics through constant reflection on mind and body. Such reflection is indispensable in order for practitioners to embody morality. I think it is possible to consider fundamentally the roles of modern Japanese martial arts by clarifying these processes.
著者
森山 達矢
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.50-62, 2012 (Released:2020-03-09)

本稿は、身体という対象を社会学的に理解するための、認識論と方法論について検討するものである。このテーマについて、ローイック・ヴァカンの身体社会学の根幹をなしている「肉体の社会学」(carnal sociology)を検討する。彼の肉体の社会学は、師であるピエール・ブルデューの反省的社会学を実践するものであり、認識論と方法論とを反省的に問い直す過程において提出されたものである。肉体の社会学の特徴は、「身体の社会学」と同時に「身体からの社会学」となっているということである。「身体からの社会学」が意味していることは、社会学者の身体を、対象を理解する手段とするということである。しかし、ヴァカンは、フィールド・ワークにおける身体性と反省性について十分に検討していない。この点にかんして、本稿は、リチャード・シュスターマンのsomaesthetics(1)の議論を検討する。シュスターマンは、反省-前反省的領域という図式には含みこまれない、感性的な反省の存在を指摘し、この感性的な反省の学術的可能性を論じている。こうした議論から、筆者は、社会学者には、方法論として「感性社会学的反省」が必要であることを主張する。
著者
森山 達矢
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.87-99, 2008-03-20 (Released:2011-05-30)
参考文献数
8
被引用文献数
1

本稿のテーマは、武道の「身体技法」がどのように伝えられるのかということである。武道の身体技法の習得において重要なのは、その外面的「型」だけではなく、「内部感覚」、すなわち「身体感覚」を身につけることである。しかし、この身体感覚は、デジタル情報のように、完全なコピーを指導者から学習者に伝達することは出来ない。本稿では、筆者自身のフィールドワークに基づき、この感覚を伝達する実践の記述をおこなう。筆者は、合気道の稽古を実際におこなっている。本稿では、合気道の技の基礎を成している「呼吸力」に焦点を当てている。この呼吸力は、普段われわれが意識せず使う力とはまったく異なるため、発揮するためにさまざまな稽古が必要である。筆者がフィールドとしている合気道の流派は、この呼吸力の習得に重点を置いている。この流派では、呼吸力は、開祖植芝盛平の精神、すなわち合気道の精神を体現したものとして捉えられている。この呼吸力を発揮するための「身体技法」がいかに伝えられるのか、その独特の感覚をいかに伝えるのかということ。これが本稿の論点である。この問題に関して、伝達実践において使用される言葉に着目し、感覚を「学ぶ」という側面と感覚を「教える」という側面から、感覚伝達の実践を記述する。感覚伝達の実践においては、稽古者が自身の感覚に対して注意を向け、さらに自分の身体感覚についてより微細に感じることが可能となるような稽古体系となっていることを指摘する。そして、技遂行時の感覚が、師範が示している世界観に基づいて意義づけされることによって、指導者から学習者へと伝達されていることを指摘する。
著者
森山 達矢
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.17, no.2, pp.65-75, 2009-09-30 (Released:2016-10-05)
参考文献数
23

本稿は、身体の感性的次元の分析という論点に関わるものである。近年身体研究のなかで、パフォーマンスに着目する研究がなされている。本稿ではそのなかでも特に、研究者が研究対象としているパフォーマンスを実際に習得しながら研究をおこなっているものに注目する。本稿では、そうした研究を「実践的パフォーマンス研究」と呼び、その研究の意義を検討する。こうした研究は、パフォーマンスが遂行されるときの身体感覚やその感覚がどのように獲得されるのかということを問題にしている。本稿で取り上げる論者は、ボクシングを研究したL.D.ヴァカン、カポエラを研究したG.ダウニー、空手を研究したE.バー- オン=コーエンである。本稿では、この3人の研究に表れている身体に関する議論をブルデューの議論と比較しながら、身体の感性的次元に着目する身体論の可能性を検討している。本稿ではブルデューのハビトゥス概念と象徴権力概念を中心として、検討をおこなう。ダウニーとバー- オン=コーエンは、ハビトゥス概念が説明していない実践が生み出される過程を現象学的に記述し、ヴァカンは、象徴権力が身体の感性的次元でいかに作用しているのかということを内在的に記述している。 実践的パフォーマンス研究の意義は、以下の3点にまとめられる。すなわち、この研究の意義とは、感性そのものに着目することで、①ブルデュー理論の死角となっている論点を補完している、②感性による現実の構築を記述している、③パフォーマンスに対する新たな認識のありかたや方法論を提供している、ということである。
著者
森山 達矢
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.150-162, 2009 (Released:2020-03-09)

身体化された実践をいかにとらえるのか。本稿はこの間いをめぐるものである。ピエール・ブルデューの研究が明らかにしたように、再生産においては日常の前反省的な実践が重要な役割を果たしている。しかし、そうした実践は意識しておこなわれない行為であるがゆえに、その行為主体ですら言語的な説明が困難なものとなっている。本稿では、そのような実践をいかにとらえるのかという視点から、ニック・クロスリーの身体論を検討する。ブルデューが実践やハビトゥスの前反省性を強調するのに対し、クロスリーは実践の反省性や再帰性を強調する。クロスリーは、モーリス・メルロ=ポンティ、マルセル・モース、G.H.ミードらの議論を摂取しながら、実践や身体技法における精神的側面と社会的側面の両方をとらえる「再帰的身体技法(reflexive body techniques) 」概念を提出している。クロスリーはこの概念によって、行為主体の精神的側面を強調すると同時に、ハビトゥスや実践が機械的なものではないということを主張し、そして日常的な実践や身体技法を、言説と行動のどちらにも還元しない研究のあり方を指し示そうとしている。クロスリーのこうした議論は、主観性にも客観性にも還元できない身体的生をとらえようとするものであり、身体論に関して新たな視点を提示している。