著者
高橋 慎一
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.113-127, 2008 (Released:2020-03-09)
被引用文献数
1

1990年代以降、日本の性同一性障害医療とトランスジェンダリズムは、当事者の身体改変のニーズの原因について語ってきた。本稿が論じたのは、以下の2点である。(1)性同一性障害医療とトランスジェンダリズムは、当事者のニーズを曖昧に把握するせいで、自由な医療の選択が不安定になっているということである。(2)このニーズを明確にすることで分かるのだが、トランスジェンダリズムは、当事者の社会的強制状況の批判と自由な医療の選択を両立させる論理をもっている。 (1)まず、性同一性障害医療は、生物学的基盤をニーズの原因としたが、当事者の社会的不利益を原因から除外しきれなかったのだと検討した。また、トランスジェンダリズムは、身体改変のニーズの原因を社会的不利益に置いていた。本稿は、この両者とも、身体改変のニーズが社会的強制状況の作用を受けていると示唆し、当事者の自由な医療選択を不安定にしてしまうのだと述べた。 (2)ところが、トランスジェンダリズムには、社会的強制状況と医療を両立させる語りがある。本稿の視点では、当事者のニーズの原因は、生物学的基盤と社会的不利益の両方であり、論理的には、社会的不利益が取り除かれた後にしか、身体改変の自由な選択の存在は、確証もされず否定もされない。本稿は、このニーズの位置づけを踏まえて、トランスジェンダリズムを再び読解した。そして、それが社会的強制状況の批判と医療の主体的な選択を両立させる論理を示唆していると結論した。
著者
石島 健太郎
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.41-53, 2015 (Released:2020-03-09)

本稿の目的は、堀智久によって日本の障害学の固有性を規定するものとして提出された反優生思想と、欧米の障害学を中心に議論されている健常主義Ableism批判を比較することによって、前者の性質を精緻に理解すると同時に、障害学の存立基盤がいかなるものであるべきかを議論することにある。 本稿は反優生思想と、健常主義批判の議論を概観した上でこれらを比較し、これらが障害の社会モデルの難点を克服するという点で共通するものの、ある一点で決定的に異なることを示す。それは、障害者/健常者というカテゴリーを維持するか否かという点である。すなわち、反優生思想を基盤とする障害学は、その他のマイノリティとは質的に異なるものとしての障害に定位して学を展開できる一方で、障害者の産出プロセスや、人々を序列づける機制を疑えない。逆に健常主義批判を基盤とする障害学は、そうした人々を障害者や健常者として分ける仕組みを根底から批判できる一方、この社会で不利益を被る他のマイノリティと障害者との差異に鈍感になってしまう。 こうした一長一短を踏まえた上で、本稿は健常主義批判の方が障害学の基本的視角として有効であると考えるが、一方で本稿は反優生思想の障害者運動や相互行為場面における実践的有効性を認める。ゆえに、学と運動がそれぞれ、健常性を相対化していくという共通の基盤の上に連動していくことがポスト社会モデルの障害学のあり方として提示される。
著者
赤川 学
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.4-13, 2017 (Released:2020-03-09)

本論文は、性の多様性に関して以下のことを論じた。 第一に、セクシュアリティの社会学の問題構成は、多様である性が、いかにして、なぜ、性別二元制や異性愛主義に収斂するのかという問いであるとともに、doing gender / undoing gender、性の脱アイデンティティ化/再アイデンティティ化、脱医療化/再医療化が同時発生する現象を読み解くことにあるとした。 第二に、性差や性の社会・歴史・文化・言説的構築を強調する構築主義を理論的構築主義と、性に関わる言説を社会問題を構築するクレイム申し立て活動と捉える方法的構築主義とを区別した上で、両者を実践する英国の歴史社会学者ジェフリー・ウィークスの理論的変容を整理した。それは、性が社会や政治によって構築されるという〈受動性〉から、セクシュアリティを生きる人々が社会関係や親密性を再構築する〈能動性〉への転換である。 第三に、ウィークスの議論に刺激されつつ、英米における同性婚やシヴィル・パートナーシップの合法化を可能にする言説のレトリックを確認した。合法化を求める人たちは、異性愛カップルと同じ権利を要求する権利のレトリックに加え、家族形成や社会に対するコミットメントを強調する責任のレトリックを併用することで、保守派を取り込むことに成功した。 第四に、日本の同性婚をめぐる議論では、少子化対策という文脈が強く、やがて生殖や養育を生きる人と、そうでない人との間の「正義」や「平等」の問題が浮上しうることを指摘した。
著者
歐陽 宇亮
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.141-155, 2008 (Released:2020-03-09)

この研究は、「場」という概念装置を導入しつつ、現場でのフィールドワークを主要な方法とした、日本の「美少女ゲーム」のオーディエンスのアイデンティティと相互作用を分析し、「場」という概念装置の再検討をおこなう文化消費研究である。差異化・卓越化を図る文化消費の圏域として、ピエール・ブルデューによって提起された「場」は、日本では南田勝也によって応用され、関与対象の「文化的正統性」をめぐる象徴闘争によって参与者の卓越化が図られると論じられた。本稿は日本の美少女ゲームの文化消費をめぐる議論を通じて、メディアとオーディエンスという二つの文化消費研究の概念を用いた場の論理の精微化を例示する。日本の「美少女ゲーム場」において、メディアとオーディエンスが断絶し、文化的正統性をめぐる象徴闘争は卓越化が図りえない状況において展開する。このような対外的にのみ同一化する場を、「不完全な場」と表現することができる。それは外部のヘゲモニーによって場の力学が部分的に撹乱された状態であり、その背景には社会空間における社会的権力関係がある。
著者
喜多 加実代
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.111-123, 2009 (Released:2020-03-09)

本稿は、スピヴァクのフーコーに対する批判を検討するものである。スピヴァクは、フーコーが『知の考古学』で否定した主権的主体を再導入しているとして批判した。その批判の主眼は、抵抗する主体や語る主体になりえない者についてフーコーが十分に考察していないということにある。スビヴァクの議論は、人々の沈黙や発言を、特に被抑圧者とされる人々のそれをどのように考えるべきかについて重要な問題を提起している。本稿は、批判の趣旨は評価しつつ、しかしこうしたスピヴァクの解釈とは逆に、フーコーが被抑圧者の発言を無媒介に入手可能でその意図に近づけるものとして扱ったわけではなく、スピヴァクの提案をむしろ先取りする形でその分析方法を提示していた可能性を示す。
著者
徳安 彰
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.68-75, 2016 (Released:2020-03-09)

本稿は、福島原子力第一発電所の事故のような社会全体に影響のおよぶリスク問題を題材にして、ルーマンの社会システム理論に依拠して問題の構図を記述し、科学技術とリスク・アセスメントの関係、リスク・アセスメントへの非専門家の参加について論じる。現代社会における複雑性の増大は、機能分化した社会構造をもたらした。複雑性の増大は、複雑性の縮減メカニズムとして象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアを生み出すとともに、システム信頼を生み出した。複雑性の増大は、可能な選択肢を増大させ、選択の自由/選択の強制をもたらすとともに、選択の結果として損害が生じうる状況つまりリスクを生み出した。さらに複雑性の増大は、不安の増大と緩和の要求を生み出した。科学技術のリスク・アセスメントは、科学システムにおける専門知識を駆使して行われるが、科学的知識には本質的な不定性があるから、つねに厳密で頑健なリスク評価ができるとはかぎらない。他方で、科学技術の採用や規制の政策決定は、政治システムの問題である。政治システムそのものは、科学的な真/非真を判断できないから、科学システムの結論を導入しながら、集合的意思決定を行わなければならない。民主主義的な手続きと科学や政治に対する信頼を重視すれば、リスク・アセスメントや政策決定には非専門家の参加が不可欠だが、それは非専門家自身が意思決定者としてリスクをとることを意味する。
著者
河村 賢
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.80-93, 2013 (Released:2020-03-09)

「ルールに従うこと」は社会的現実の基礎をなす原初的行為として、多くの社会学者たちの関心を捉えてきた。そこで焦点となったのは、ルールに従うことはルールによって因果的に引き起こされた行動として記述できるのかという論点であった。本稿はルールに従うことの因果的描像を最も一貫した形で提示した哲学者であるジョン・サールの社会哲学を批判的に検討することによって、この古典的な議論に決定的な結論を与えることを試みる。サールは、現実に存在する様々なルールを区分するための理念型として、統制的規則/構成的規則の二分法を導入した上で、構成的規則の持つ「新たな行為可能性を作り出す」という性質こそが、社会制度に関わる諸事実の基盤であるとした。この統制的規則/構成的規則という区分は、1950年代にロールズが「二つのルール概念」論文で展開したルールの要約的見方/実践的見方という区分を着想の源としている。だが、サールとロールズの間には、ルールとそれによって描かれる行為の関係を因果関係として捉えるか、ルールを人々が用いて様々な活動を営むという実践的関係として捉えるかという差異が存在する。そして本稿はサールのような外在的・因果的記述の立場ではなく、ロールズのような内在的・実践的記述の立場を取ることによって、社会的現実が編成される場面を、その場面に外的な装置を持ち込まずに分析することが可能になると論ずる。
著者
大屋 雄裕
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.4-13, 2018 (Released:2020-03-09)

近代の法制度において前提されている自由と幸福の関係が現在さらされている緊張について、ローレンス・レッシグによるアーキテクチャの権力と、キャス・サンスティーンのリバタリアン・パターナリズムの差異を踏まえつつ検討し、特に後者が個人の自己決定に関する干渉を内包していること、それを正当化する要因として想定されているメタレベルでの自己決定が十分な根拠となっているかに疑義があること、サンスティーン自身が立脚しているとされる共和主義的自由の概念と抵触する可能性があることを指摘する。そのうえで、自然による制約を自由に対する脅威から除外する観点が、人工知能を通じた干渉が想定し得る現代において持ち得る問題性を指摘し、人格なき法制度を可能とする法制度の一例としてリバタリアンによる損害賠償一元化論を紹介する。
著者
渡邊 拓哉
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.173-184, 2010 (Released:2020-03-09)

近年の「エンハンスメント」をめぐる主要な争点のひとつに、向精神薬の治療目的外の使用がある。スマートドラッグによる認知増強や抗響薬による感情調整などがこれに該当する。薬理学的な操作にもとづくそうした「精神活性化Jは、米国を中心にいまや社会問題化するまでに至っている。本稿は、薬物による精神活性化の文化的な来歴と、社会的な意味合いの変容を検討することを目的としている。これに向け本論では、1950-60年代の米国で展開されたサイケデリック運動とヒューマン・ポテンシャル運動を参照する。ともにA.ハクスリーから思想的な影響を受けたこの2つ類縁的な文化運動もまた、現代の認知増強や感情調整と同様、精神の薬理学的な操作を積極的に評価したことで知られる。だが、そうしたかつての精神活性化のありようと、現代のそれにはもちろん隔たりもある。その隔たりは、現代の精神活性化が技術的にも心理的にも、より消費社会に根づいたことを示唆している。60年代的な「変性意識」の実験を通じて広まった、精神の薬理学的な改変可能性という認識が消費社会の欲望と結びつくとき、精神活性化は自らの交換価値を高める手段として利用されることになる。
著者
高艸 賢
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.55-67, 2017 (Released:2020-03-09)
被引用文献数
1

本稿の目的は、A. シュッツにおける学問と生の区別と連関の論理を明らかにすることである。シュッツによる理解社会学の基礎づけの議論は日常知と科学知の関係づけを模索するものとして捉えられてきたが、常識と科学の二分法の下では、シュッツの論じる生の論理的重層性が見えにくくなるという問題がある。そこで本稿は、ウィーン時代に書かれた著作および草稿を扱い、シュッツが生における体験次元と意味次元という区別を導入していることに注目する。ベルクソンに依拠したこの概念化は、人間の思惟の基盤を分析するという点で、科学知への批判的視点と日常知に埋没することへの警戒を同時に含意している。シュッツは主著『社会的世界の意味構築』において、両次元の区別に基づいて社会的世界の機制を解明している。意味次元についてシュッツは、他者理解が所与の知識に基づく意味付与として遂行されるという「自己解釈」の機制を明らかにし、他方で体験次元については、他者の体験の連続的生成を見遣るという「持続の同時性」を論じている。体験次元と意味次元は日常的行為者においては主観的意味という形で統一を形成しているが、「主観的意味連関の客観的意味連関」としての社会科学は必然的に体験次元を欠く。理解社会学の認識限界を踏まえたシュッツは、生きられる日常における体験と意味の統一に、純粋に哲学的な思惟や社会科学的分析によっては得られない社会学的反省の基盤を見いだしている。
著者
岸 政彦
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.14-22, 2017 (Released:2020-03-09)

この論考(エッセー)で私は、質的調査に携わる社会学者の視点から、現在の社会学理論に欠けているものが何かを考えたい。具体的にいえばそれは、少数の事例を一般化して現実の社会問題について分析するための方法と、人びとの行為の理由や動機や欲求などを、社会的な状況のなかで考えるための理論である。私たちは、構築主義を乗り越え、再び社会学と実在との間の結びつきを回復させる必要がある。
著者
出口 剛司
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.16-28, 2010 (Released:2020-03-09)

『権力の批判』、『承認をめぐる闘争』、『正義の他者』といった主要な著作の翻訳が刊行される中、アクセル・ホネットの承認論が社会学理論の分野でも注目を集めている。しかし、ホネット自身の社会批判の内実については、かならずしも明確にされていない。それに対して本稿では、ホネットの著作の再構成を通して、その批判理論としての特徴と可能性の中心を明らかにすることをめざす。ホネットは「学以前のレヴェルにある解放の審級」という視座に立つことによって、フランクフルト学派の批判理論の伝統の中に自身を位置づけると同時に、語用論的形式主義に流れるハーバーマスとの距離化をはかっている。本稿ではまず、ホルクハイマーの問題関心に遡って批判理論の特徴を確認しつつ、そのコンテクストに第一世代、第二世代のハーバーマス、第三世代のホネットそれぞれの社会理論を位置付ける。つづいて、ホネットが「自己実現」の可能性の条件としての承認の「形式」に注目することによって、一方で内容ある善き生というコンセプトを堅持した批判理論を構築し、他方で特定の伝統的内容に依拠した価値の実体化を回避しようとした点を確認する。さらに「資本主義的近代化のパラドックス」というコンセプトのもとで進められているホネットとハルトマンのネオリベラリズム批判を取り上げる。そこで、ヘーゲルに由来する三つの承認形式を四つの承認領域として立体的に再構築することによって、ネオリベラリズムにおける承認構造の変化とその問題性を批判する視座を手にすることができた点を明らかにする。
著者
藤本 龍児
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.114-130, 2007 (Released:2020-03-09)

本稿は、ニューエイジ運動と個人主義の関係を考察するものである。「世俗化」理論によると、現代の宗教は「私事化/個人化(privatization)」していると言われる。事実、1970年代から、ニューエイジ運動と呼ばれる個人主義的な宗教現象が注目されるようになった。また、ニューエイジが生じてきた1970年代には、個人主義も新しい展開を見せている。したがって、ニューエイジ運動と個人主義の関係を考察することは重要であるにちがいない。 第1章では、まずニューエイジ運動について概観し、それがいかなる特徴をもっているのか、ということを確認した。ニューエイジは、「自己宗教」と言い換えられたりすることからも分かるように、その特徴は、個人主義的である、というところにある。そこで第2章では、個人主義の現代的形態であると考えられるナルシシズムを採りあげ、そのナルシシズムとニューエイジ運動を比較し、両者の共通点を指摘した。両者がいくつかの特徴を共有しているとすれば、問題点についても共通しているところがあると推測できる。第3章では、ニューエイジ運動を「宗教的個人主義」の系譜に位置づけて考察した。アメリカには宗教的個人主義と呼ばれる考え方が受け継がれてきているのである。 以上の考察により、現代の宗教は「自己内超越」という特質をもち、またそれに伴って倫理観を形成するための契機を欠いている、という問題点をもつことが明らかになった。
著者
本柳 亨
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.185-196, 2010 (Released:2020-03-09)

ファストフード・レストランのマクドナルドでは、利用者の無礼な振る舞いと、それを許容する周囲の無関心が共存する奇妙な光景が繰り広げられている。本稿では、場所性を喪失した「非場所」の代表であるマクドナルドにおいて発生する利用者の無礼と、その無礼を許容する「無礼の受け手」の無関心について考察する。 本稿で明らかにするのは、第一に、マクドナルド内では、利用者の抱く信頼の作用が活発化するという点である。利用者が抱く「システム信頼」の対象は、マクドナルドのサービスや店員の行動から、場を共有する他の利用者の行動へと拡大している。信頼の拡大適用が活発化する要因として、「予測可能性」が遍在化するマクドナルドの特徴と、過去の情報を過剰に利用する信頼の脆弱な構造的特徴との共振関係が挙げられる。 本稿で明らかにするのは、第二に、「無害化」という意識がマクドナルドの利用者の聞で発生している点である。マクドナルド内では、信頼の拡大適用を底流として活用しながら、他人の無礼な振る舞いを「予測可能性」に回収する「無害化」という意識が、利用者の中で発生している。 以上のように、利用者の「無害化」という意識が、マクドナルドで発生する無礼に付与された社会的意味を一時的に解除することにより、「無礼の受け手」は己の自尊心を防衛しているのである。