- 著者
-
植田 康孝
- 雑誌
- 江戸川大学紀要 = Bulletin of Edogawa University
- 巻号頁・発行日
- vol.28, 2018-03-31
「ナイト・エンタテインメント」は,「子供向けエンタテインメント」に対し,自律的にナイトタイムに楽しむ「大人向けエンタテインメント」を指す。「子供向けエンタテインメント」は,大人の世界への入口に位置付けられる。子供たちは,従来,大人たちの様々な行為を観察して遊びの世界に取り入れることで楽しんで来た。子供は,仲間が集まって行う「子供向けエンタテインメント」から,工夫することの面白さや社会のルールを学ぶ。子供の遊びで良く使われる「~ごっこ」という名称は,「~ごと」には,「真似る」「仮託する」という意味を内包する。 「ナイト・エンタテインメント」は,このような「子供向けエンタテインメント」から独立する。本稿は,「子供向けエンタテインメント」に対する教育的な「遊び」とは遊離した形態で,「遊び」の原点である「快楽」を求める「ナイト・エンタテインメント」の一つである「ギャンブル」を取り上げる。現代社会は,貧富の格差が固定化して社会の閉塞感に溢れ,「夢を持ち難い時代である」と言われる。そのため,ギャンブルで夢やファンタジー,非日常性を見たい人が増える背景が確実に存在する。確率から考えると明らかに非合理的行動に捉えられる「宝くじを購入する」人が現在も少なからず存在することが,それを示す。 商業カジノは依然として,世界的に成長が著しいエンタテインメント分野であり,世界の100カ国以上で開業されているが,日本においても解禁されることが議論されている。カジノには,負の側面があることも見逃すことが出来ない。これまで10年以上に亘って何度も導入が試みられながら挫折を重ねて来たのは,ギャンブルに対して国民の根強いアレルギーがあることを背景とする。お酒,エロスを含め嗜好的な色彩が強い「ナイト・エンタテインメント」は,倫理面から批判されることも多い。ここに,経済学で良く知られた「合成の誤謬」が発生する。ミクロ経済の個人行動として道徳的なことでも,みんなで行うとマクロ経済では困難な状況を招くことを指す。例えば,倹約や借金をなくす行為は,個人的な道徳観では良いこととされるが,みんなでやると消費が落ち込み,不況になり,結果,みんなの所得が少なくなり,失業が発生する。政府の借金である国債をゼロにしようとすると,超緊縮財政になり,国民経済は大きなダメージを受ける。「借金をしない方が良い」という個人の道徳心は,ビジネス面においてはマイナス面が大きい。個人や企業の借金を増やしたこと自体を道徳的に批判することは,マクロ経済的観点からすれば筋違いとなる。同様に「ナイト・エンタテインメント」を消費することは,個人的な道徳心に反しても,厳しく批判したり否定したりすることは「合成の誤謬」につながる。 カジノは概して,他のエンタテインメントと同様にビジネス面で機能することが実証されている。映画館,プロスポーツチーム,遊園地と同様,消費者が進んで支出するサービスを提供する娯楽に過ぎないが,カジノなどギャンブル全般を不道徳であると見做し,偏見を持っている人は多い。このような主張は,良く言えば極めて単純,悪く言えば短絡的に捉えられる。日本は,「サッカーくじ」導入の際も,子供への悪影響など机上の空論を議論して,時間を費やした苦い過去を持つ。カジノも同様の側面があり,イメージではなく,正確にメリットとデメリットの両面を,学術的に把握する段階に来ている。