著者
鈴木 裕介 小林 渉 林 伸善 橋本 和孝
出版者
一般社団法人情報処理学会
雑誌
情報処理 (ISSN:04478053)
巻号頁・発行日
vol.43, no.3, pp.288-295, 2002-03-15
参考文献数
4

本稿では,H-II Aロケット用の搭載計算機である誘導制御計算機について,その役割,技術的特徴,開発経過等を,ロケットの誘導制御システムの概要とともに紹介する.また,これまでのH-I,H-IIロケット用の搭載計算機からの変遷についても併せて記述する.
著者
橋本 和孝
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.117, pp.157-171,

わが国においてシンガポールを研究している社会学者は少ない。そのため社会構造については、わが国では十分明らかにされているとは言い難い。論文は、シンガポールの社会構造を解明する方法の一つとして、社会階層に焦点をあて、分析することを目的とする。しかし、シンガポールの有力な社会階層研究が、階層意識研究に基づいてなされていること、階層意識にもとづいて帰属階層を区分する方法は、社会階層の実態を示していない。そこで、民族別の社会階層の実態を、既存統計をもちいて、時系列的に分析する。その結果、以下の特徴が解明されたのである。第1は、学歴ヒエラルヒーが年を経るごとに強まっていることである。第2は、経営者と新中間層の上層に位置しているのが、華人と「その他」であり、近年インド人も新中間層に参入する傾向があることである。第3に、旧中間層に位置するのが、華人とインド人で、マレー人は新中間層の中・下層かブルーカラーに位置する傾向を示している。
著者
橋本 和孝
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.120, pp.223-232, 2010

「食はシンガポールにあり」といわれている。東南アジアの中継ぎ貿易基地として発展してきたシンガポールは、多くの民族が集結している文明の結節点である。したがって、さまざまな食文化が、ここには集約されており、そのことをもって先のように語られるのである。本論は、1999年2月25日から3月1日にかけて関東学院大学文学部が国際交流として実施したシンガポールツアーについて、食という視点を交えながら、筆者の独自の経験を踏まえて、再構成したものである。メンバーは、学生5人、大学院生1人、教員6人という、合計12人のメンバーであった。
著者
橋本 和孝 高橋 一得
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.129, pp.65-79, 2013

21世紀に入って、日本は"ベトナム・ブーム"ともいうべき現象を経験してきた。大量の日本人観光客がホーチミン市に群がる構図である。一方、日本企業はベトナムへの投資を増加させ、他方、ベトナム政府は、日本のODAや民間資金に期待している。ベトナムの大都市では、日本語学校や大学における日本語学科が増加し、日本人のためのビジネスが活発化してきた。ホーチミン市には、「リトル・ジャパン」と語るに相応しい界隈も登場した。今日では、2000年代前半にはなかった日本人会も存在し、ベトナムおよびホーチミンの日本商工会の会員数は激増を見せている。論文は、"ベトナムの中の日本"が、ベトナムの経済、社会、文化にいかなる影響を及ぼすかを探究しようとしたものであり、2005年発表した Japan in Vietnam: A Case Study of Japanese Globalization について再考したものである。
著者
橋本 和孝
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
no.125, pp.139-157, 2012

これまでベトナムに関する社会学的研究は、わが国にはほとんど紹介されてこなかった。社会階層ついても紹介されていない。論文の課題は、次の二点である。まず第1に、ベトナムにおける社会階層研究の一端を概観することであり、第2は既存統計を用いていかに社会階層を再構成できるかという点にある。第1の課題では、ホアン・バ・ティン「社会構造」(ファム・タト・ゾン=レ・ゴク・フン編『社会学 新版』2008年)とチン・ズイ・ルオン=ブイ・テ・クオン「社会階層と社会正義」(『ベトナムにおける社会発展-2000年における社会学の概観-』)を取り上げ、社会階層研究の一端を紹介する。第2の課題では、2009年版「労働力調査」結果を用いて、わが国ではかなりの伝統がある階級構成表を作成し、分析を行うことである。その結果、概ねわが国の1950年段階に当てはまるものの、サラリーマン比率から見れば、1975-1985年段階に当てはまると言える。
著者
橋本 和孝
出版者
関東学院大学[文学部]人文学会
雑誌
関東学院大学文学部紀要 (ISSN:02861216)
巻号頁・発行日
vol.115, pp.129-134, 2009-03

ハノイ(河内)のチュクバック湖(竹百湖)の近くに神光寺(●●●)という仏教寺院がある。その門柱に「国家有永山河固」という漢越語が書いてあった。小稿は、この漢越語の歴史的背景を検討する。神光寺はチュクバック湖の近くにあることから、チュクバック湖について概説し、神光寺が、18世紀初頭、鄭氏時代に建立されたことを指摘する。そこは五社寺院とも呼ばれ、五社通りに立地しており、近隣の5つの村からやってきた鋳物師達が住んでいた。かくして神光寺は、銅職人達の守護聖人を奉る。鄭氏時代は、北部の鄭氏と南部の阮氏という二つの国家に分裂した時代と見なされ、両者の抗争が頻発した。国家は無力化し、水利施設の建設・補修などの事業は行われなくなり、飢饉に見舞われた反面、鄭氏の諸候達は、遊興三昧で、寺や豪邸を建築した。ここから小稿では、神光寺の建立と維持に銅職人達が関わったと見なす観点と鄭氏の諸候達が建立したとする二つの観点を提示した。