著者
武藤 三代平
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.15-32, 2016-12-15

これまで明治政治史を論及する際,榎本武揚は黒田清隆を領袖と仰ぐこと で,その権力基盤を維持しているものとされてきた。箱館戦争を降伏して獄 中にあった榎本を,黒田が助命運動を展開して赦免に至った一事は美談とし ても完成され,人口に膾炙している。そのためもあり,黒田が明治政界に進 出した榎本の後ろ盾となり,終始一貫して,両者が「盟友」関係にあったこ とは疑いを挟む余地がないと考えられてきた。はたしてこの「榎本=黒田」 という権力構図を鵜呑みにしてよいのだろうか。 榎本に関する個人研究では,明治政府内で栄達する榎本を,黒田の政治権 力が背景にあるとし,盲目的に有能視する論理で説明をしてきた。榎本を政 府内でのピンチヒッターとする一事も,その有能論から派生した評価である。 しかし,榎本もまた浮沈を伴いながら政界を歩んだ,藩閥政府内での一人の 政治的アクターである。ひたすら有能論を唱える定説が,かえって榎本の政 府内での立ち位置を曇らせる要因となっている。 本稿では榎本が本格的に中央政界に進出した明治十年代を中心とし,井上 馨との関係を基軸に榎本の事績を再検討することで,太政官制度から内閣制 度発足に至るまでの榎本の政治的な位置づけを定義するものである。この明 治十年代,榎本と黒田の関係は最も疎遠になる。1879年,井上馨が外務卿に なると,榎本は外務大輔に就任し,その信頼関係を構築する。これ以降,榎 本の海軍卿,宮内省出仕,駐清特命全権公使,そして内閣制度発足とともに 逓信大臣に就任するまでの過程において,随所に井上馨による後援が確認さ れる。この事実は,従来の政治史において定説とされてきた,「榎本=黒田」 という藩閥的な権力構図を根本から見直さなければならない可能性をはらん でいる。
著者
武藤 三代平
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.49-68, 2019-03-25

明治中期に設立された北海道協会について、これまでの研究では北海道拓殖事業における後援団体、拓殖専門の政策団体、あるいは貴族院議員らの利益代表団体といったように、論者によって評価が分かれている。北海道協会の活動が政治、経済、拓殖事業、移民奨励事業、出版事業、あるいはアイヌ保護活動といったように広範囲に及んでおり、先行研究はその一側面を対象とし、局所的に評価したものが多数を占めている。これは基本的な協会の性格と組織構造が提示されていないことが原因といえる。 本論では明治中後期を対象とし、北海道協会の基礎的な組織や人的構成、活動内容とその経過を検討する。そのうえで協会の外郭団体としての多面的な性格を提示する。検討にあたり、協会を主導した近衛篤麿、行政側から協会を支えた北垣国道をキーパーソンとし、協会の成立からその盛衰を射程とした。その際、「内務省(中央官庁)― 北海道庁(地方官庁)― 北海道協会(民間)」という「官民調和」の政治構造に焦点をあてる。協会の成立により、民間レベルでの利害を行政に意見することが出来、一方、貴衆両院議員や官吏など、公的な地位を有する者が協会員となることで、行政機構の内外に渡る活動が展開できた点を解明した。また帝国主義下での人種競争という概念のもと、協会が行ったアイヌに対する活動も検討対象とした。こうした北海道協会の基礎的な性格を提示することは、それ以後に続いた植民地経営における外郭団体の祖型を考究することに結びつく。
著者
武藤 三代平
出版者
北海道大学大学院文学研究科北方研究教育センター
雑誌
北方人文研究 (ISSN:1882773X)
巻号頁・発行日
no.12, pp.49-68, 2019

明治中期に設立された北海道協会について、これまでの研究では北海道拓殖事業における後援団体、拓殖専門の政策団体、あるいは貴族院議員らの利益代表団体といったように、論者によって評価が分かれている。北海道協会の活動が政治、経済、拓殖事業、移民奨励事業、出版事業、あるいはアイヌ保護活動といったように広範囲に及んでおり、先行研究はその一側面を対象とし、局所的に評価したものが多数を占めている。これは基本的な協会の性格と組織構造が提示されていないことが原因といえる。 本論では明治中後期を対象とし、北海道協会の基礎的な組織や人的構成、活動内容とその経過を検討する。そのうえで協会の外郭団体としての多面的な性格を提示する。検討にあたり、協会を主導した近衛篤麿、行政側から協会を支えた北垣国道をキーパーソンとし、協会の成立からその盛衰を射程とした。その際、「内務省(中央官庁)― 北海道庁(地方官庁)― 北海道協会(民間)」という「官民調和」の政治構造に焦点をあてる。協会の成立により、民間レベルでの利害を行政に意見することが出来、一方、貴衆両院議員や官吏など、公的な地位を有する者が協会員となることで、行政機構の内外に渡る活動が展開できた点を解明した。また帝国主義下での人種競争という概念のもと、協会が行ったアイヌに対する活動も検討対象とした。こうした北海道協会の基礎的な性格を提示することは、それ以後に続いた植民地経営における外郭団体の祖型を考究することに結びつく。The purpose of this article is to clarify the organization of The Hokkaido association during the mid and late Meiji era through an analysis of personnel, activities, and relation with government office. In the case, I'd like to pay attention to two key persons; KONOE Atsumaro and KITAGAKI Kunimichi. The former is the person who took the lead in The Hokkaido association, the latter supported them from the viewpoint of governor in Hokkaido. They worked out the Hokkaido immigration policy, "Public-private cooperation (Kanmin kyocho 官民協調)" by agreement of Ministry of Home Affairs that controlled the Hokkaido government in March 1893. The word as public and private cooperation offers the key and background to an understanding of The Hokkaido association. I would like to suggest the following three conclusions'. In the first place, the officials of The Hokkaido association are usually government official. Especially the officials of the Hokkaido government and the executives of The Hokkaido association in the region of Hokkaido turned out to be duplicated. Namely, Government officials selectively use public and private as necessary, and smoothly promoted administration concerning immigration. This is one element on the structure of "Public-private cooperation". In the second place, discount enterprises for Hokkaido migrants by The Hokkaido association was a great success. Since the beginning of this enterprises, the number of migrants to Hokkaido has increased sharply. Besides this, they developed various projects. In political activities, they acted as an intermediary to the government and parliament. And they were responsible for informing society of the protection of Ainu. All activities are that government officials can not do, their role was to link the center and region from outside the administrative organization. Only in the final place, to investigate The Hokkaido association will elucidate the prototype of an affiliated organization in colonial administration in modern Japan.
著者
武藤 三代平
出版者
北海道大学文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.16, pp.15-32, 2016

これまで明治政治史を論及する際,榎本武揚は黒田清隆を領袖と仰ぐことで,その権力基盤を維持しているものとされてきた。箱館戦争を降伏して獄中にあった榎本を,黒田が助命運動を展開して赦免に至った一事は美談としても完成され,人口に膾炙している。そのためもあり,黒田が明治政界に進出した榎本の後ろ盾となり,終始一貫して,両者が「盟友」関係にあったことは疑いを挟む余地がないと考えられてきた。はたしてこの「榎本=黒田」という権力構図を鵜呑みにしてよいのだろうか。榎本に関する個人研究では,明治政府内で栄達する榎本を,黒田の政治権力が背景にあるとし,盲目的に有能視する論理で説明をしてきた。榎本を政府内でのピンチヒッターとする一事も,その有能論から派生した評価である。しかし,榎本もまた浮沈を伴いながら政界を歩んだ,藩閥政府内での一人の政治的アクターである。ひたすら有能論を唱える定説が,かえって榎本の政府内での立ち位置を曇らせる要因となっている。本稿では榎本が本格的に中央政界に進出した明治十年代を中心とし,井上馨との関係を基軸に榎本の事績を再検討することで,太政官制度から内閣制度発足に至るまでの榎本の政治的な位置づけを定義するものである。この明治十年代,榎本と黒田の関係は最も疎遠になる。1879年,井上馨が外務卿になると,榎本は外務大輔に就任し,その信頼関係を構築する。これ以降,榎本の海軍卿,宮内省出仕,駐清特命全権公使,そして内閣制度発足とともに逓信大臣に就任するまでの過程において,随所に井上馨による後援が確認される。この事実は,従来の政治史において定説とされてきた,「榎本=黒田」という藩閥的な権力構図を根本から見直さなければならない可能性をはらんでいる。