著者
河崎 吉紀
出版者
日本マス・コミュニケーション学会
雑誌
マス・コミュニケーション研究 (ISSN:13411306)
巻号頁・発行日
no.63, pp.98-111, 2003-07-31

The purpose of this paper is to analyze the qualification system for journalists in Japan by examining the interwar period. Once the newspaper industry became large-scale, journalists claimed the socioeconomic status governed by the license, as had happened in the United States. But protection and control are two sides of the same coin. Journalist protections could be transformed into restrictions, as happened in Germany and Italy, when war approached. This system was introduced in Japan at the time of World War II.
著者
河崎 吉紀 Yoshinori Kawasaki
出版者
同志社大学社会学会
雑誌
評論・社会科学 = Hyoron Shakaikagaku (Social Science Review) (ISSN:02862840)
巻号頁・発行日
no.142, pp.39-67, 2022-09-30

本稿は20世紀初頭,アメリカで学位を取り,1910年代,20年代に衆議院で活躍したジャーナリストである関和知を例に,排日問題に取り組む政治家の活動,思想を明らかにするものである。学資の不足から留学先で働くことを余儀なくされ,彼はアメリカ社会のさまざまな階層を間近に見た。帰国後は『万朝報』『東京毎日新聞』で記者を勤め,1909年に衆議院議員となった。排日土地法案に対抗して中野武営らと相談会を催し,第18 回列国議会同盟会議では,アメリカの代議士たちと日米部会を結成するなど,具体的な政治活動を展開した。日米両国民の感情の行き違いに焦点を合わせ,互いの理解を深めることが最善であると訴えた。
著者
河崎 吉紀 Yoshinori Kawasaki
出版者
同志社大学社会学会
雑誌
評論・社会科学 = Hyoron Shakaikagaku (Social Science Review) (ISSN:02862840)
巻号頁・発行日
no.139, pp.1-21, 2021-12-31

第一次世界大戦後の対応を迫られるなか,野党として,憲政会の幹事長はいかなる政治活動を展開したのか。本稿は1919年から1920年にかけて,その任に就いた関和知の政治演説を分析する。パリ講和会議での交渉失敗を批判し,呂運亨と政府の関係を問題視するなど,その内容はもっぱら外交面に偏りをもつ。また,議会における首相・原敬との対決はマスメディアに大きく報道され,世間へのアピールという点で野党幹事長としての役割を果たした。他方,普通選挙を前面に押し出すのが遅れ,また,「独立の生計」を営む者という条件をつけたことにより憲政会の足並みは乱れていた。このため,彼の政治演説は内政批判において精彩を欠き,ことさら外交における失政を追及するといういびつなものとなった。
著者
河崎 吉紀 Yoshinori Kawasaki
出版者
同志社大学社会学会
雑誌
評論・社会科学 = Hyoron Shakaikagaku (Social Science Review) (ISSN:02862840)
巻号頁・発行日
no.141, pp.1-30, 2022-05-31

本稿は,1921年から1923年における憲政会の政治活動を,総務である関和知を例に,メディア・パフォーマンスの観点から捉えることを目的とする。与党である政友会を不名誉な多数と批判して衆議院を騒然とさせた関和知は,加藤友三郎内閣に対し,日支郵便約定で政府の過失を疑い,軍艦天城建造の不正を追及,内閣不信任案を提出して「弾劾演説家」と報じられるようになった。メディアを通して政党のプレゼンスを大衆に確保することは,普通選挙を目前に控えたパフォーマンスとして冷静な戦術であるように見える。なぜなら,臨時法制審議会では派手な演説ではなく,理性的な討論が行われ,普通選挙法案の実質が検討されるからである。
著者
河崎 吉紀
出版者
同志社大学
雑誌
評論・社会科学 (ISSN:02862840)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.1-14, 2011-01

論文(Article)19世紀のイギリスでは、ジャーナリストは職業としてあいまいであり、主として高級なジャーナリストとレポーターに分かれていた。前者は学識ある人々に知的なコラムを提供し、後者はゴシップやニュースを集める下層階級であった。新聞社の規模が拡大し、ジャーナリストに需要が生じると、参入者が増え組織化の機運が生まれた。1884年に誕生したジャーナリスト連合は資格を定め、取材の技能を中心に専門職として確立することを目指した。そこでは「記述的」に書くことが求められ、意見よりニュースが優先される。しかし、教養を重視する高級なジャーナリストは自由放任を主張し、レポーターは労働条件や賃金の改善を先に求めた。後者は1907年、ジャーナリスト組合を結成し、自らを労働ジャーナリストと位置づけるようになる。The definition of journalists in nineteenth-century England was rather ambiguous. They were roughly divided into two categories: writers and reporters. The former contributed articles targeted at intellectuals, while the latter wrote gossip columns and covered events for the masses. Triggered by the growth of the newspaper industry, when the demand for journalists rose, there was a need for the establishment of a professional organization for journalists. Consequently, the National Association of Journalists, established in 1884, sought the status of journalism as a profession. It focused on compilation of news rather than personal opinions of journalists, and emphasized descriptive writing skills. However, writers in higher positions continued following the laissez-faire approach, while low-ranking reporters were considered as working journalists after the inception of the National Union of Journalists in 1907.