3 0 0 0 OA 祭礼の笑い

著者
浦 和男
出版者
日本笑い学会
雑誌
笑い学研究 (ISSN:21894132)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.5-18, 2015-08-01 (Released:2017-07-21)

日本には落語、漫才などさまざまな笑いの文化があるが、一番身近なものは伝統的な祭礼で見る事ができる笑いである。伝統的な祭礼は厳格に執り行われていると思いがちだが、実は笑いにあふれている。笑う祭礼、笑うことを意図する祭礼、笑いを意図しないにもかかわらず、笑ってしまう祭礼など、日本の民俗社会の祭礼は、本来どこかに笑う場面が必ずあったと言われている。本稿では、本学会『笑いの民俗行事』プロジェクトが提案した祭礼の笑いのカテゴリーを検証し、祭礼における笑いの役割を考察する。祭礼では、ただおかしいから笑うというのではなく、その笑いには意味があり、それは日本人の笑い観にも影響を与えてきたと考えることができる。祭礼、行事についての民俗学的研究、文学的研究、あるいは、アジア諸国の祭礼、行事との比較文学、比較文化的、文化人類学的考察に関する先行論文は多数あるが、祭礼の笑いについて論じた先行研究はほとんどない。
著者
浦 和男
出版者
日本笑い学会
雑誌
笑い学研究 (ISSN:21894132)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.3-16, 2013-08-31 (Released:2017-07-21)

明治になり、日本に近代の文学が確立する時期に、文壇でいろいろな論争が起こった。そのひとつに、「滑稽文学の不在」論争がある。20年代末、「太陽」の編集をしていた若き高山樗牛が、すでに文豪として高名な坪内逍遥のエッセーに対して、そのユーモア観を批難し論争が始まる。その論争は、「ユーモアとは何か」から「滑稽文学の不在」論争となり、やがて「文学における滑稽の不在」が問われ、それが「笑わない国民」という点にまで達した。執拗な樗牛の批判に逍遥は無視を決めていたが、最後には樗牛は「笑殺」、逍遥は「笑倒」という語を使うまでになった。一年ほどで二人の論争は鎮まるが、論争は飛び火し、地方紙でも「滑稽の不在」に関する記事が掲載され、明治末年まで「笑いのない文学」が論じられた。本稿では、「日本人はユーモアがない、笑わない」という問題の起源ともなる、この論争を考証し、近代ユーモア史の一面を明らかにする。
著者
浦 和男
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.149-191, 2010-03-10

笑いに関する研究が国内でも本格的に行われるようになって久しい。大学でも笑い学、ユーモア学の名称で授業を行い、笑い学という領域が確実に構築されている。笑いそのものの考察に限らず、笑いと日本人、日本文化に関する研究も少しずつ行われている。これまで江戸期の滑稽に関する笑いの研究はすぐれた専攻研究が多くあるが、それ以降の時代の笑いに関する研究は十分に行われていない。本稿では、基礎研究の一環として、明治期に出版された笑いに関連する書籍の目録をまとめた。本稿で扱う「笑い」は、滑稽、頓智などに限定せず、言語遊戯、風俗など、笑いを起こす要素を持つものを広く対象としている。目録としてだけではなく、通史的に編纂することで、明治期を通しての笑いの在り方を考察できるように試みた。また、インターネットで利用できるデジタル資料情報、国立国会図書館で所蔵形態についての情報も付け加えた。
著者
浦 和男
出版者
関西大学国文学会
雑誌
國文學 (ISSN:03898628)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.303-318, 2017-03-01
著者
浦 和男
出版者
日本笑い学会
雑誌
笑い学研究 (ISSN:21894132)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.60-73, 2014-08-02 (Released:2017-07-21)

明治時代に、科学的な「笑い学」が本格的に始まる。文明開化は、「笑い」の研究にも影響した。最初に「滑稽」を扱うのは、自由民権運動の雄弁書の訳者黒岩大と、その影響を受けた真宗の加藤恵証であった。本格的な「笑い学」は、土子金四郎に始まる。実業家の土子は「洒落」を日常言語として分析し、哲学者の井上円了は詩的言語として分析する。発笑理論の嚆矢は、哲学者大西祝による。英文学者で女子教育の先駆者の松浦政泰は、「滑稽」と「笑い」を区別して扱った。哲学者桑木厳翼は、「滑稽」の要素を「詭弁」にあるとして「滑稽の論理」を考えた。二番目の発笑理論は、大西祝の弟子と思われる、哲学者川田繁太郎による。作家夏目漱石は、文学者、作家の立場から「滑稽」の本性を論じた。それぞれ、欧米の理論を利用せず、日本的な「笑い」を踏まえた独自の説を構築している。本稿では、以上の「笑い」論を通時的に考察し、研究黎明期を考証する。
著者
浦 和男
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.149-191, 2010-03-01

笑いに関する研究が国内でも本格的に行われるようになって久しい。大学でも笑い学、ユーモア学の名称で授業を行い、笑い学という領域が確実に構築されている。笑いそのものの考察に限らず、笑いと日本人、日本文化に関する研究も少しずつ行われている。これまで江戸期の滑稽に関する笑いの研究はすぐれた専攻研究が多くあるが、それ以降の時代の笑いに関する研究は十分に行われていない。本稿では、基礎研究の一環として、明治期に出版された笑いに関連する書籍の目録をまとめた。本稿で扱う「笑い」は、滑稽、頓智などに限定せず、言語遊戯、風俗など、笑いを起こす要素を持つものを広く対象としている。目録としてだけではなく、通史的に編纂することで、明治期を通しての笑いの在り方を考察できるように試みた。また、インターネットで利用できるデジタル資料情報、国立国会図書館で所蔵形態についての情報も付け加えた。
著者
浦 和男
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.41-69, 2009-03-01

文明開化とともに西洋の笑話が原文で紹介されるようになる。新聞・雑誌類では明治10年以降の掲載が確認され、明治25年には福沢諭吉が「開口笑話」を出版し約350篇の笑話を紹介した。明治30年代後半になり、西洋の笑話を利用した英語学習書が相次いで出版され、英語読本類にも笑話が掲載される。その背景には、明治20年代後半からの英語教育の普及と産業発展による英語ブームと、文法に重点を置かない実用英語指向の高まりがある。また、この時期には新しい「笑い」を求める雰囲気があり、西洋の笑話の英語学習への利用が高まったとも考えられる。原文による笑話の学習を通じて、明治期の読者は多文化に接触し、日欧に共通する笑いの存在を知ることで、日本人が異質でないことを知ることができた。これらの英語学習書の英語教育的な意義、扱われた西欧笑話の日本の笑いへの定着、近代文学への影響など、今後検討しなけらばならない問題は多く残されている。
著者
浦 和男
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.41-69, 2009-03

文明開化とともに西洋の笑話が原文で紹介されるようになる。新聞・雑誌類では明治10年以降の掲載が確認され、明治25年には福沢諭吉が「開口笑話」を出版し約350篇の笑話を紹介した。明治30年代後半になり、西洋の笑話を利用した英語学習書が相次いで出版され、英語読本類にも笑話が掲載される。その背景には、明治20年代後半からの英語教育の普及と産業発展による英語ブームと、文法に重点を置かない実用英語指向の高まりがある。また、この時期には新しい「笑い」を求める雰囲気があり、西洋の笑話の英語学習への利用が高まったとも考えられる。原文による笑話の学習を通じて、明治期の読者は多文化に接触し、日欧に共通する笑いの存在を知ることで、日本人が異質でないことを知ることができた。これらの英語学習書の英語教育的な意義、扱われた西欧笑話の日本の笑いへの定着、近代文学への影響など、今後検討しなけらばならない問題は多く残されている。
著者
浦 和男
出版者
日本笑い学会
雑誌
笑い学研究 (ISSN:21894132)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.18-31, 2012-07-21 (Released:2017-07-21)

現在の笑い研究は、今という時間に視座を置く共時的な分析が中心を占めている。しかし、昭和3年に柳田國男が指摘したように、笑いを知るためには、日本人が何を笑ってきたのか、という時間軸上の流れを追う、通時的な分析も同時に行われる必要がある。それによって、日本人の伝統的な笑い、ユーモアが明らかになり、笑い、ユーモアとは何かを明らかにする手立てが用意されることになる。社会相、文化相は、これまでに十分な考察が行われてきたが、笑い相とも呼ぶことができる面の分析は、まだまだ不完全である。本稿では、明治期以降の近代的な笑いが熟成すると考えることができる昭和初期の笑い相について、昭和3年に出版された「現代ユウモア全集」などを通じて分析を施し、近代日本の形成と共に熟成した近代日本の笑い、ユーモアの姿を解明する。その笑い、ユーモアは、伝統的な日本の笑い、ユーモアと共通するものであることも論じる。
著者
浦 和男
出版者
関西大学国文学会
雑誌
國文學 (ISSN:03898628)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.303-318, 2017-03-01
著者
浦 和男
出版者
日本笑い学会
雑誌
笑い学研究 (ISSN:21894132)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.59-70, 2016 (Released:2016-12-20)

地域と笑いについて考える場合、江戸・東京、上方・大阪については、これまでに多くの議論がなされてきた。この二都以外でも、京都、名古屋、福岡は、地域の笑いの歴史を比較的容易に遡ることができ、その地域の笑いの文化や伝統が明らかになっている。残念ながら、これらの地域を除けば、地域の笑いについて、とりわけ史的側面が論じられることは極めて少ないのが現状である。日本の笑い=東京の笑いではない。各地域に独自の笑いの歴史がある。笑いが画一化、均質化する現在、地域の笑いの歴史を論じ、「笑いの風土」を明らかにすることは、自己アイデンティティーを再確認するきっかけにもなるはずである。本稿では、比較的史料が発見されている三重を事例に、文字史料を一瞥しながら笑いの歴史を探り、三重の「笑いの風土」の背景を論じる。古くは庶民層のみならず武士層でも笑いが珍重され、「笑門」の土地柄であることが明らかとなる。
著者
浦 和男
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.149-191, 2010-03

笑いに関する研究が国内でも本格的に行われるようになって久しい。大学でも笑い学、ユーモア学の名称で授業を行い、笑い学という領域が確実に構築されている。笑いそのものの考察に限らず、笑いと日本人、日本文化に関する研究も少しずつ行われている。これまで江戸期の滑稽に関する笑いの研究はすぐれた専攻研究が多くあるが、それ以降の時代の笑いに関する研究は十分に行われていない。本稿では、基礎研究の一環として、明治期に出版された笑いに関連する書籍の目録をまとめた。本稿で扱う「笑い」は、滑稽、頓智などに限定せず、言語遊戯、風俗など、笑いを起こす要素を持つものを広く対象としている。目録としてだけではなく、通史的に編纂することで、明治期を通しての笑いの在り方を考察できるように試みた。また、インターネットで利用できるデジタル資料情報、国立国会図書館で所蔵形態についての情報も付け加えた。
著者
浦 和男
出版者
日本笑い学会
雑誌
笑い学研究 (ISSN:21894132)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.60-73, 2014

明治時代に、科学的な「笑い学」が本格的に始まる。文明開化は、「笑い」の研究にも影響した。最初に「滑稽」を扱うのは、自由民権運動の雄弁書の訳者黒岩大と、その影響を受けた真宗の加藤恵証であった。本格的な「笑い学」は、土子金四郎に始まる。実業家の土子は「洒落」を日常言語として分析し、哲学者の井上円了は詩的言語として分析する。発笑理論の嚆矢は、哲学者大西祝による。英文学者で女子教育の先駆者の松浦政泰は、「滑稽」と「笑い」を区別して扱った。哲学者桑木厳翼は、「滑稽」の要素を「詭弁」にあるとして「滑稽の論理」を考えた。二番目の発笑理論は、大西祝の弟子と思われる、哲学者川田繁太郎による。作家夏目漱石は、文学者、作家の立場から「滑稽」の本性を論じた。それぞれ、欧米の理論を利用せず、日本的な「笑い」を踏まえた独自の説を構築している。本稿では、以上の「笑い」論を通時的に考察し、研究黎明期を考証する。
著者
浦 和男
出版者
日本笑い学会
雑誌
笑い学研究
巻号頁・発行日
no.20, pp.3-16, 2013-08-31

明治になり、日本に近代の文学が確立する時期に、文壇でいろいろな論争が起こった。そのひとつに、「滑稽文学の不在」論争がある。20年代末、「太陽」の編集をしていた若き高山樗牛が、すでに文豪として高名な坪内逍遥のエッセーに対して、そのユーモア観を批難し論争が始まる。その論争は、「ユーモアとは何か」から「滑稽文学の不在」論争となり、やがて「文学における滑稽の不在」が問われ、それが「笑わない国民」という点にまで達した。執拗な樗牛の批判に逍遥は無視を決めていたが、最後には樗牛は「笑殺」、逍遥は「笑倒」という語を使うまでになった。一年ほどで二人の論争は鎮まるが、論争は飛び火し、地方紙でも「滑稽の不在」に関する記事が掲載され、明治末年まで「笑いのない文学」が論じられた。本稿では、「日本人はユーモアがない、笑わない」という問題の起源ともなる、この論争を考証し、近代ユーモア史の一面を明らかにする。
著者
浦 和男
出版者
日本笑い学会
雑誌
笑い学研究
巻号頁・発行日
no.19, pp.18-31, 2012-07-21

現在の笑い研究は、今という時間に視座を置く共時的な分析が中心を占めている。しかし、昭和3年に柳田國男が指摘したように、笑いを知るためには、日本人が何を笑ってきたのか、という時間軸上の流れを追う、通時的な分析も同時に行われる必要がある。それによって、日本人の伝統的な笑い、ユーモアが明らかになり、笑い、ユーモアとは何かを明らかにする手立てが用意されることになる。社会相、文化相は、これまでに十分な考察が行われてきたが、笑い相とも呼ぶことができる面の分析は、まだまだ不完全である。本稿では、明治期以降の近代的な笑いが熟成すると考えることができる昭和初期の笑い相について、昭和3年に出版された「現代ユウモア全集」などを通じて分析を施し、近代日本の形成と共に熟成した近代日本の笑い、ユーモアの姿を解明する。その笑い、ユーモアは、伝統的な日本の笑い、ユーモアと共通するものであることも論じる。