著者
渡邉 憲正
出版者
関東学院大学経済研究所
雑誌
経済系 : 関東学院大学経済学会研究論集 (ISSN:02870924)
巻号頁・発行日
vol.270, pp.160-180, 2017-01

市民社会概念には,基本的に,国家と同義語の市民社会を表す(アリストテレスから近代の自然法論等に及ぶ)伝統な準拠系と,経済領域としての市民社会を表すとされる(ヘーゲル,マルクス以来の)準拠系が存在する。しかし,これら2 系統の市民社会概念は,これまでの了解ほどに対立する概念であっただろうか。本稿は,ホッブズ,プーフェンドルフ,ロックらの社会契約説,ファーガソン,スミス,カントらの市民社会概念と,ヘーゲル,マルクスらの市民社会概念を検討し,前者にあっても国家=市民社会は,生産-所有の経済的次元と婚姻-家族等の社会的次元という再生産領域を包括する二重構造からなる国家社会の全体であり,たんなる政治体制を構成するだけのものではないこと,他方,後者は伝統的な国家=市民社会に対する批判をなしたとはいえ,市民社会の概念的理解において前者と本質的に異なるものではなかったこと,を示したものである。
著者
渡邉 憲正
出版者
関東学院大学経済経営研究所
雑誌
関東学院大学経済経営研究所年報 (ISSN:13410407)
巻号頁・発行日
no.41, pp.46-62,

マルクスは『経済学批判要綱』において資本主義的私的所有と無所有をテーマとして考察したとき,必ず歴史的なアプローチをとり,本源的所有(共同所有)の諸形態から資本主義的私的所有がいかに生成したかを貨幣章や資本章の各所で論じたが,それを系統的に論述することはなかった。そのためか,研究史でも本源的所有の解体過程ないし私的所有生成史は考察されることが少なく,マルクスの私的所有形態論は,『要綱』研究の欠落部分をなしている。本稿は,私的所有の生成に,共同体所有と対立した土地の私的所有と交換→商品生産→貨幣関係を媒介とする私的所有との2つの系統を区別し,それが相互作用を通じて貨幣資産を形成し,やがては資本主義的私的所有へと転化する過程に関するマルクスの把握を考察することによって,マルクスの私的所有形態論--私的所有生成史論--の整合的把握を試みた。
著者
渡邉 憲正
出版者
関東学院大学経済研究所
雑誌
経済系 : 関東学院大学経済学会研究論集 (ISSN:02870924)
巻号頁・発行日
vol.257, pp.22-44, 2013-10

明治期の日本が文明開化を図ろうとしたとき,福沢諭吉ら多くの論者は文明史を基本的に「野蛮(未開)—半開—文明」の3 段階に区分し,日本を「半開」として,周辺に「野蛮(未開)」をさまざまに設定した。だが,この場合,「野蛮(未開)」は,savage 段階とbarbarous 段階を包括する曖昧なものか「非文明」一般を表すものであり,また「半開」の理解も幅のあるものであったから,1875 年以後「文明と野蛮」図式は変質を遂げ,ついには中国(「支那」)・朝鮮をも「野蛮」と規定し,日清戦争を「文野の戦争」として正当化する図式に転化した。この過程には,「文明と野蛮」に関するいくつかの誤解とスペンサーらの社会進化論の受容における歪みが作用している。本稿は,福沢諭吉や加藤弘之の諸文献,スペンサーの翻訳書(『社会平権論』『政法哲学』等),『時事新報』の記事等の検討を経て,明治期の「文明と野蛮」図式の理解/誤解を考察したものである。
著者
渡邉 憲正
出版者
関東学院大学経済研究所
雑誌
経済系 : 関東学院大学経済学会研究論集 (ISSN:02870924)
巻号頁・発行日
vol.259, pp.1-26, 2014-04

中江兆民は1870 年代以降『一年有半』公刊まで,民権論を一貫して堅持した。他方,この時期に中江が対外関係論において「小国主義」から亜細亜雄張の国権拡張論へと「転換」を遂げたのも,紛れのない事実である。民権論における思想的連続性とこの「転換」とはいかにして整合するのか。また「転換」の思想的根拠は何か。本稿ではこのことを,論説「論外交」から『三酔人経綸問答』や『国会論』を経て論説「難儀なる国是」に至るまでの中江兆民の思想に即して考察し,結論的に,1)「小国主義」は「道義」の存在など条件付きで成り立つものであり,それが崩れた段階で顕在的な国権拡張論へと「転換」したこと,2)「転換」の思想的根拠は,自由民権論の基礎をなす近代思想の原理—各個人の自然権と自然法の支配—のダブル・スタンダード(「文明と野蛮」図式)のトータルな受容(それゆえ民権論は失われない)とスペンサー社会進化論影響下での変質にあったこと,などを主張した。
著者
渡邉 憲正
出版者
関東学院大学経済経営研究所
雑誌
関東学院大学経済経営研究所年報 (ISSN:13410407)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.26-41, 2017-03

市民社会は,西欧の概念伝統においては国家に等しい。この場合,国家は,政治体制として社会的な再生産領域と対立する統治(支配)機関だけでなく,再生産領域をも包括する支配=被支配関係の全体を意味した。ところが,こうした「国家=市民社会」理解は戦後日本においてほとんど見失われ,市民社会は,一方では自由な諸個人の対等な関係からなる政治社会として理念化され,他方では経済社会あるいはブルジョア社会として把握されながら,しかも2つの系譜は「近代文明社会」として混交された。いずれの把握においても,市民社会における国家権力による統治--近代国家の「二重構造」--という肝心な契機が問われず,市民社会は政治的に理念化され,市民社会批判という課題が曖昧にされた。本稿は戦後日本の市民社会論が基本的に市民社会を「近代文明社会」として理解したことを確認し,このことがもつ問題性を指摘するものである。
著者
渡邉 憲正
出版者
関東学院大学経済経営研究所
雑誌
関東学院大学経済経営研究所年報 (ISSN:13410407)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.86-114, 2014-03

一般に,初期の自由民権論は,民権(天賦人権)を張り人民主権に基づく立憲政体を構想し,国家独立を求める国権論--小国主義--として,主に政治的脈絡で了解される。だが,およそ明治十四年の政変を境に--つまり自由民権運動の昂揚期(1881-84)に--,それは天皇主権論と国権拡張論に接近するという「転換」を遂げ,国力増進の経済的社会的文明化の傾向をますます強く顕現させるに至った。本稿は,この「転換」を植木枝盛の思想に即して論じ,自由民権論の思想構造を考察するものである。そして結論的には,「転換」の根拠を,1)啓蒙主義とスペンサー社会進化論を前提する天賦人権説の限界,2)対外関係論において近代思想が本来抱えるダブル・スタンダードの最終的受容,3)天皇制の受容という国権の自立化による人民主権論の喪失,4)「文明と野蛮」図式の拡張・変質,の4点に求め,ここに自由民権論の思想構造が現れることを指摘した。
著者
渡邉 憲正
出版者
関東学院大学経済経営研究所
雑誌
関東学院大学経済経営研究所年報 (ISSN:13410407)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.46-70, 2013-03

近代西洋は,各個人の自然権と各国家の主権を原理として定立する一方,他ネイション(民族)の「権利」を侵害する植民地化と侵略戦争を遂行した。このときに,それを正当化する思想/理論が要請されるのは,必然である。では,そのために,いかなる思想/理論が要請されるのか。「文明と野蛮」図式は,この二重の相反した課題を果たすための実践的理論装置である。本稿は,「文明と野蛮」図式の形成を,1)所有権と植民,2)進歩の歴史,3)文明化としての戦争,という脈絡で考察し,近代西洋が野蛮を,1)土地所有権の不在,2)法的統治と富裕の不在,3)権利侵害の脅威を与える存在,として把握することによって,植民と戦争を正当化したことを示した。同時に本稿は,近代日本がこの図式を受容してアジアの植民地化と侵略戦争を遂行したこと,現代もなおそれに囚われていることを指摘して,思想史の了解全体を見直す必要を提起した。