著者
山口 建治 ヤマグチ ケンジ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.17, pp.1-20, 2019-03-20

八坂神社や津島神社の祭神であった牛頭天王は、最初期には「五頭天王」とも称されていた。筆者はこれまで、この「五頭天王」は中国民間の五道大神(五道神、五道将軍とも称される)が日本に伝来した後の別称ではないかと指摘してきた。それはおもにゴトウ(五頭)、ゴズ(牛頭)というコトバの音声の類似性と神格の類似性に基づく仮説であった。ところが最近、滋賀県琵琶湖北岸の塩津港遺跡から発掘された大型木簡のうち、「五頭天王」と「五道大神」の両方がともに記されている一つの木簡があることに気づいた。 五道大神は今日の日本ではほとんど顧みられることのない、かつて日本に伝来してきたことすら忘れさられている中国の民間神である。しかし日本の密教仏典に照らしてみると、11~13世紀のころにさかんに行われた焔魔天(密教では閻魔をこのように称す)の修法のなかで重要な役を演じた神であり、それゆえとくに秘匿を要する神であったことがわかる。10世紀のころまで疫神として人々に崇められてきた「祇園の天神」が、本来どういう神であったかを明確に指摘した人はいないが、五道大神は密教では天部の神、仏法の守護神であり、まさに「祇園の天神」と称されるにふさわしい。11世紀のころ、この五道大神と入れ替わるように牛頭天王が文献上にも顕在化してくる。密教僧は、祇園神= 五道大神を秘匿する代償として、いわばその身代わりに、新たな祇園神= 五頭天王(のちに牛頭天王)を創出する必要があった、と考えられるのである。 小論は、塩津港遺跡起請文札のうちのある一つの木簡に、上界の神「五道大神」と王城鎮守の祇園「五頭天王」の両方がそろって記されていることの意味を読み解き、中国民間の五道大神が牛頭天王にすり替わる、その神格誕生の秘密の経緯をあらためて明らかにし、識者のご批評を仰ごうとするものである。
著者
石井 和帆
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.16, pp.97-130, 2018-09-30

柳田国男の登場以前は文字以外に図像による記録がされていた。だが、柳田の登場によりヴィジュアル資料が内包する芸術性や演出の排除がおこり、図像による記録は一旦途切れてしまう。柳田以後は時代が下り、手軽に正確に民俗事象を切り取れる写真が記録手段として選択されるようになる。 ただ、写真が受容された近代以降においても明治期に残された写真は限定的であり、図像資料に頼らざるを得ないのだが、これまで民俗学において明治期の図像資料の検討や活用は十分になされてこなかった。それは資料としての図像の客観性の乏しさが要因の一つだと考えられる。絵師がイメージを出力する過程において不明確な要素が多数生じ、そこには表象された事物の正否はもちろんのこと、画面上に表象されない内包された意味も同時に生まれる。 また、当時の民俗事象全てが図像として描かれてきたわけではなく、描かれて残されてきた民俗事象と、そうでない民俗事象が同時に存在する。そこには近代の図像資料として民俗事象が描かれた意味が内包されており、図像を民俗資料として捉えにくくしている要因がある。 そこで、『風俗画報』に投稿された記事と挿絵を比較してみると、投稿者と絵師における視点の相違から絵師の意向が強く反映されることがあり、両者の主観が混在することで図像の客観性や正確性の低さが浮き彫りとなる。 また、民俗事象の中でも表現できる場面は限られており、距離という物理的な問題から描かれる地域が制約される場合や、日常よりも絵画映えする非日常の行事などが描かれる傾向にあった。加えて、民俗事象の中でも絵師は絵画映えする盛時(クライマックス)の場面を意図的に選択して描くことで、図像資料の場面に偏りが生じることが明らかとなる。 さらに、絵師によって意図的に事物を描かない、あるいは事実とは異なるように改変して事物を描く場合もあり、この場面の選択や事物の改変には柳田が排除した演出が含まれており、図像の客観性の乏しさが改めて露呈した。Prior to the work of(Kunio) Yanagita, scholars created pictorial records of folkloristic events along with written accounts. However, as Yanagita emerged as the leading scholar of folklore studies, iconographic materials as sources for folklore studies came to be rejected on grounds that pictorial representations have an inherent tendency to pay more attention to artistry and dramatic effect than to accuracy. In the period after Yanagita, photographs came to be used as a convenient and accurate method of recording folkloristic events. However, even though the use of photography has been widely accepted in modern and more recent times, photographs from the Meiji era are limited in number and relying on illustrative renderings often becomes necessary. Nevertheless, iconographic materials from the Meiji era have not been adequately examined or utilized until now. One reason may be the lack of objectivity seen in iconographic sources. Numerous undefined factors could have influenced the output process of eshi(painters and draftsmen), casting doubt on the accuracy of the events portrayed and raising the possibility of holding latent meanings which are not clearly evident. Furthermore, not all folklore events of the time were rendered into pictorial representations, with some folkloristic events being recorded as paintings or drawings while other events were not recorded at all. Representations of certain folklore scenes in modern times may also contain latent meanings, which make them difficult to accept as straightforward visual records. A comparison between the articles and their accompanying illustrations in the magazine Fuzoku gaho reveals that some of the illustrations strongly reflect a perspective which is widely different from the viewpoint of the articleʼs author, and the juxtaposition of the two subjective interpretations brings into sharp relief their lack of objectivity and accuracy. Furthermore, only certain scenes could be rendered into pictorial representations ; events taking place at physically distant locations could not be represented, restricting the portrayals of folklore events to certain regions, and there was also a tendency to prefer flamboyant special events over everyday practices. And eshi preferred picturesque scenes depicting the climax of folkloristic events, creating a bias in the iconographic materials. In addition, certain eshi may have intentionally omitted certain features from their representations or made factually inaccurate modifications. This selection of scenes and modifications by the eshi were the aspects of pictorial renderings that Yanagita rejected and has led to a renewed realization of the lack of objectivity in iconographic materials.論文
著者
田島 奈都子
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.20, pp.1-29, 2020-03-20

本稿は「大戦ポスター」としばしば称される、第一次世界大戦期に欧米で製作されたポスターが、1910年代半ば~1920年代までの間に、日本のデザイン界においてどのように受容され、影響を与えたのかについて論じた「戦前期日本のデザイン界における第一次世界大戦ポスターの受容と影響」の続きであり、1931年の満洲事変勃発以降、1945年の終戦までの間に、大戦ポスターがどのように取り上げられ、受容されたかについて検証することを目的としている。 日本における政治宣伝を目的としたプロパガンダ・ポスターは、1929年に陸軍省と文部省を依頼主として製作された作品に遡る。ただし、その製作が本格化したのは、1931年の満洲事変勃発以降であり、1937年の日中戦争開戦を契機として、それは一段と活発化した。しかし、それまでの日本においては、プロパガンダ・ポスターが製作されてこなかったことから、依頼主となる各省庁も依頼を受ける図案家も、どのような図案にすればよいのかわからず、その際に参照・翻案 とされたのが大戦ポスターであった。 こうして、大戦ポスターは十五年戦争期に再び注目され、ポスターや新聞広告を製作する際に盛んに翻案とされたが、この時代に積極的に選ばれたのは、銃剣を手にして戦う兵士を主題としたものや、機関銃や戦車、弾薬など、前線を感じさせる作品であり、1920年代までとは大きく異なっていた。ただし、十五年戦争期の日本においては、実際の製作・使用から10年以上が経過した大戦ポスターが再び注目され、新たなグラフィック作品を製作する上で大いに活用されたのは事実であり、その頻度は欧米よりも高く、影響は長く続いた。 なお、この時代の大戦ポスターは、市民に対して銃後の覚悟を促すための、格好の材料としても盛んに活用され、実際にはそのような文脈で、直接的に紹介・使用されることの方が多かったことも忘れてはならない。
著者
石井 和帆
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.81-110, 2019-09-30

『風俗画報』に収録された挿絵の数も膨大であり、且つ形態や描かれた時代、画題なども様々である。さらに、挿絵を描く絵師と、それに関連する記事を書く編集員あるいは地方の好事家も多数存在することで、極めて複雑であることが、同誌の資料的評価を困難にしている要因だろう。そこで、本論考では『風俗画報』の挿絵を描いた絵師を数人選別し、特に地方を描いた風俗画に着目して正否を分析するように試みた。 まず、その前提となる『風俗画報』を取り巻く出版背景についてまとめる。吾妻健三郎は石版印刷技術を習得後、同誌を創刊すると非常に人気を博した。そのため、全国に流通し、全国各地の風俗に関する投書が送られるようになる。また、編集会議では好事家による投稿記事を精査し、どの風俗を掲載するのか検討され、絵師には編集員から指示が降り、その編集方針に従って挿絵を描くことになる。遠方への取材の場合は、編集員に絵師が同行し、現地で絵師はスケッチを行い、編集員は記事にする風俗について調査するのが基本の形である。 このような方法で描かれた地方の民俗事象は、風俗を記録する視点を持った編集の意図が反映されたものであった。遠方への取材では編集員に絵師が同行する形をとるため、的確に特定の民俗事象を伝える場面の選択、モチーフやランドマークを配置する画面構成が行われる。そのため、絵師によって特定の民俗事象の描き方に大きな差異が生まれることはなく、編集員によって一定の統一性が図られているといえる。 中には、社会的・政治的背景によって意図的に描かれない場面や事物もあるが、描かれている事物や場面に関しては実際の風俗や出来事を表象している。つまり、戦争絵や災害絵など、絵師が直接見聞することが困難な場面を描く際は想像画にならざるを得ないが、全国各地の風俗を収集する場合は基本的には取材を行い、実景を得て描いているため資料的価値は高いといえるだろう。論文
著者
加治 順人
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.16, pp.37-68, 2018-09

本稿では、琉球・沖縄の神社の歴史を概観して、その多面的な特徴を指摘する。 琉球・沖縄の神社神道の歴史とは、琉球・沖縄が日本と向き合ってきた歴史と軌を一にする。しかし、それは単に在来信仰が日本の宗教文化に包摂されたことを意味するのではない。日本からの文化的影響を受け、時に政策的に統制されながらも、さまざまな特例措置や独自の改変によって、沖縄特有の神社文化を形成してきた。 沖縄で最初の神社は、14世紀後半に創建されたと伝えられる。だが、おそらくそれ以前から沖縄では、日本の神道の考え方とよく似た信仰の形態を育み、その聖地である御嶽を祀ってきた。だからこそ在来信仰と親和的な熊野信仰が琉球に根付くことになったのだろう。琉球王朝時代の官社「琉球八社」には、在来信仰と日本の神道が巧みに混合されている。薩摩の琉球侵攻、明治維新による琉球処分、日清戦争以後の日本の近代戦争、沖縄戦、アメリカによる占領期、本土復帰、と琉球・沖縄の近現代史はめまぐるしい変動にさらされた。だが、逆説的なことに、明治時代の改革、太平洋戦争、本土復帰、と「日本化」の風圧が特に強まった時期に、かえって民間信仰が正式に神社神道へ参入する道が拓かれてきたのである。その結果、沖縄では独自の神社文化が形成されたと筆者は考えている。 筆者は現役の神職で、沖縄県護国神社に勤めて22年になる。自身が職務を通じて経験したこと、関係者への聞き取り、現地調査での発見も「資料」として記述に活かした。そのほか、写真、古地図、慣習、建造物などの非文字資料も活用するよう努めている。The aims of this paper are to provide an overview of the history of the Shinto shrines in Ryukyu⊘Okinawa, and to discuss their unique multi-faceted characteristics. The history of shrines in Okinawa has been influenced by that of Japan-Ryukyu⊘Okinawa political relationships. However, it does not mean that Ryukyu⊘Okinawaʼs indigenous religious beliefs have been passively assimilated to the religious traditions of Japan. Okinawa has been indeed influenced by the Japanese culture, including its government policies. But, within Japanʼs sphere of influence, the Okinawans have developed their own unique shrine culture. Okinawa has benefited from reinterpreted and modified the Japanese governmentʼs preferential measures. Though the first shrine in Okinawa was probably founded in the late 14th century, well before then its people had developed religious beliefs which were very similar to Shintoism of Japan. Then the Ryukyuʼs Eight Shrines, the official shrines of the Ryukyu Dynasty, clearly blend together their own religious traditions and the Japanese Shinto, while keeping its uniqueness Furthermore, during the periods of increasing pressure to" become Japanese" such as during the Meiji reforms, the Japanʼs modern wars since the Sino-Japanese war, and the reversion to Japan in 1972, Okinawaʼs indigenous religion found a way to formally merge into the system of the mainstream Shintoism of Japan, and allowed the Okinawan to develop a unique Shinto shrine culture in Okinawa. The author is currently an active Shinto priest who has served at the Gokoku Shrine in Okinawa for 22 years. This paper draws on his personal experience as a Shinto priest, based on interviews with relevant parties, as well as discoveries made through fieldwork research. The author also attempted to elucidate the history of religion in Ryukyu/Okinawa, by including nonwritten M aterials such as photographs, old maps, rchitecture, and descriptions of traditional customs.招待論文
著者
佐々木 長生 ササキ タケオ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.35-63, 2019-09-30

農書は、わが国では元禄時代(1688~1703)を境に上層農民や下級武士等によって著述されてきた農業技術書である。若松城下近くの幕内村(会津若松市)の肝煎佐瀬与次右衛門は、貞享元年(1684)に『会津農書』を著述している。会津地方の自然に即した農法を、著者自らの体験と「郷談」と呼ばれる旧慣習を中心に著述している。わが国の農書の代表とされる宮崎安貞の『農業全書』(元禄10年1697)より13年も早く、古典的価値を有する農書といえる。 農書は、稲作や畑作また農民の生活に関る内容を主に著述されたものが多く、本来は「非文字資料」であったものが、「文字をもつ伝承者」の著者によって、「文字資料」化された存在といえる。『会津農書』は、著者佐瀬与次右衛門という「文字をもつ伝承者」が江戸中期に会津地方の農法や農耕儀礼等の「非文字資料」を農書という「文字資料」化された形に達した一例と位置づけることもできる。 本稿は、こうした視点に立って『会津農書』にみる「非文字資料」から「文字資料」化への一例を、麦の栽培技術と民俗を軸に述べることを目的とする。麦は雑穀のひとつでもあるが、米に次ぐ主穀的な存在として、全国的に栽培されてきた。麦は、「クリーニングクロップ」とも呼ばれ、麦を栽培した跡地は病虫害防除の性質もあるという。 『会津農書』でも麦を栽培した跡地に煙草を植えると、ネギリムシが付きにくいと記載されている。『会津農書』には麦栽培に関する農耕儀礼も多く、「麦穂掛」なども記載されている。同様の儀礼は、埼玉県内では近年まで行われてきた。また、麦に関する食習や食物加工など、麦に関る民俗が多く行われてきた。麦の栽培が全国的に廃止され、麦に関する農法や民俗も消滅しつつある。「文字をもつ伝承者」により農書という形をとり、「非文字資料」が「文字資料」として、その歴史・文化的価値を現在に遺しているともいえる。
著者
蒋 明超
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.199-221, 2019-09-30

「石敢當」は中国古代の習俗の一つで、一般的に道路の突き当たりや家の壁、橋の入り口などに設置される魔除けや厄除けのための石造物である。石敢當には一般的な石敢當(泰山の文字がない物)と泰山石敢當がある。具体的な出現時期と発祥地は不明であるが、石敢當は唐代末期に今の福建省南部で誕生したと考えられている。宋元時代には北方の山東泰山地域で泰山石敢當が出現した。 中国古代史料の中に、石敢當に関する事柄が頻繁に出ているが、石敢當を建てる習俗の記述を除くと、そのほとんどは石敢當の由来についての解明である。古代資料には泰山石敢當の実物及び泰山石敢當を設定する事情の記述も多くあるが、興味深いことに、泰山石敢當の由来についての記述は一つもなかった。 1970 年代以後、日本でも石敢當に関する多くの書物に中国の石敢當が書かれているが、その研究は主に中国南方に限られており、単独で泰山石敢當を対象にしたものは特に行われていなかったといえる。一方で、同時代の中国の石敢當研究は、まさに泰山石敢當ブームであったともいえる。現時点では、中国においても、日本においても、石敢當と泰山石敢當を分けて比較する研究はほとんど行われていない。 本稿では、中国北方と南方における石敢當のフィールドワークを通し、先行研究の資料と併せて各地域の石敢當の様子、石敢當と泰山石敢當の割合、地域住民の石敢當に対する認識などを調査し、中国南北の石敢當にはどのような異同があるのかを究明したい。中国の地理テキストは秦嶺―淮河を境界線にして、中国南方と北方を分けている。本論文で使用する中国南方と北方はおおよその範囲であり、必ずしも地理定義のように精確なものではない。なお、中国少数民族集住地域と山東省、福建省、浙江省など漢民族集住地域の石敢當はまた違うため、本論文では少数民族集住地域を対象外とする。調査地域は、中国北方の山東省泰山地域と南方の福建省中南部地域を選定した。
著者
下地 和宏 シモジ カズヒロ
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.19, pp.1-30, 2020-01

日本の神社には鳥居、狛犬、灯籠、拝殿、神殿などの付属施設が建設されている。沖縄の宮古の御嶽の奥中央にはイビ(威部)と呼ばれる御神体の石が安置され、神が鎮座すると考えられている。他に複数のイビがある。これは遙拝の神である。イビ手前の広場が神庭であり、ここに祭祀のために籠る祭祀小屋が設けられている。宮古には800余の御嶽があるといわれる。多くの御嶽は神社風に施設が建設され変化しているが、厳かなる場所に変わりはない。 「琉球併合」後の沖縄の近代化は、「忠君愛国」の教育とともに歩んできた。「教育勅語」の暗唱、「御真影」への最敬礼、宮城遙拝、天皇陛下万歳三唱などを強制されてきた。いわゆる「皇民化教育」の洗礼を受けた人々が、日本への「同化」に向けて、多くの住民が参詣する由緒ある御嶽の「神社化」を図った。鳥居、灯籠を建立、籠り屋を拝殿に、イビを神殿に改築し神社風に変えた。とりわけ鳥居は御嶽(神社)への入り口として象徴的に扱われた。鳥居建立の風潮は戦後も引きずることになる。むしろ拡大し、御嶽に神社と表記する地域も見られる。今や鳥居は違和感なく御嶽に建立されている。老朽化した神明系の鳥居は明神系に再建される傾向にある。招待論文
著者
加治 順人 カジ ヨリヒト
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.16, pp.37-68, 2018-09-30

本稿では、琉球・沖縄の神社の歴史を概観して、その多面的な特徴を指摘する。 琉球・沖縄の神社神道の歴史とは、琉球・沖縄が日本と向き合ってきた歴史と軌を一にする。しかし、それは単に在来信仰が日本の宗教文化に包摂されたことを意味するのではない。日本からの文化的影響を受け、時に政策的に統制されながらも、さまざまな特例措置や独自の改変によって、沖縄特有の神社文化を形成してきた。 沖縄で最初の神社は、14世紀後半に創建されたと伝えられる。だが、おそらくそれ以前から沖縄では、日本の神道の考え方とよく似た信仰の形態を育み、その聖地である御嶽を祀ってきた。だからこそ在来信仰と親和的な熊野信仰が琉球に根付くことになったのだろう。琉球王朝時代の官社「琉球八社」には、在来信仰と日本の神道が巧みに混合されている。薩摩の琉球侵攻、明治維新による琉球処分、日清戦争以後の日本の近代戦争、沖縄戦、アメリカによる占領期、本土復帰、と琉球・沖縄の近現代史はめまぐるしい変動にさらされた。だが、逆説的なことに、明治時代の改革、太平洋戦争、本土復帰、と「日本化」の風圧が特に強まった時期に、かえって民間信仰が正式に神社神道へ参入する道が拓かれてきたのである。その結果、沖縄では独自の神社文化が形成されたと筆者は考えている。 筆者は現役の神職で、沖縄県護国神社に勤めて22年になる。自身が職務を通じて経験したこと、関係者への聞き取り、現地調査での発見も「資料」として記述に活かした。そのほか、写真、古地図、慣習、建造物などの非文字資料も活用するよう努めている。
著者
游 舒婷
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.17, pp.125-149, 2019-03-20

西来庵事件という植民地期台湾で最も大規模な武装蜂起が1915年に起きたことを背景に、 宗教的な問題が表面化し、1919年に『台湾宗教調査報告書』が刊行された。蜂起に巻き込まれた 農民は「迷信」にとらわれる「愚か」な民衆と捉える傾向があった。だが、信仰に基づいた民衆世界はまさに俗民社会の一つの特質を表すものであると考える。僧侶・道士・巫覡・術士といった宗 教的職業者が、民衆にとってはどのような存在であったのか、彼らの社会的地位はどうであったの か。本稿は民間療法、識字問題、職業の階級的な分類などの側面から、その一端を考察するもので ある。 僧侶・道士・巫覡・術士というのは職能による便宜上の分類で、実際に複数の職能を有する人が 少なくない。植民地初期における彼らは社会地位の低い存在であった。僧侶や道士の大半は寺廟に属するものではなく、市井において生計を維持し、寺廟や信徒に対して権威を持たないものである。 巫覡は清領期では娼女や俳優と同じく「下九流」という賤民階級に属していた。日本統治下、こうした身分制度は廃止されたが、この職業に向けられる差別意識が民衆の中に根付いていったようである。ところが、植民地初期における識字者は極めて少なかったという状況の中、それらの宗教者(特に術士)はある程度の漢学的能力、即ち文化資本を持っている存在でもあった。また、病気による死亡率が高かったという状況の中、彼らは「病気平癒」を行ったりすることで、民衆に頼りにされる存在であった。彼らは病気の原因について現報因果説を説いたり、社会秩序の維持にも貢献したりした。1918年における僧侶・道士・巫覡・術士の人口割合について、澎湖島は台湾島(特に西部)のそれより遥かに高い数字を示した。このことが両地域の社会的差異を語っているのであろうか。
著者
華 雪梅
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.149-175, 2019-09

秦の始皇帝の命を受け、不老不死の仙薬を探すために、徐福(ジョフク)が日本に渡来したという伝説は、日本最北の地 北海道から最南端の鹿児島県に至るまで、全国に伝承されている。本論文では、筆者がさまざまなロマンにあふれる佐賀県佐賀市の徐福ゆかりの地を訪れ、人々に語り継がれてきた徐福伝説の歴史と現状を考察する。地元に語り継がれている口碑と文字記録として残された史料などを併せて分析すると、徐福伝説が地元で盛んに流布されていた時代は、江戸時代であろうと推測される。 佐賀市には徐福に関わるさまざまな地名や事物、伝説がある。浮盃(ブバイ)・寺井・千布(チフ)という地名は、徐福伝説に由来するといわれ、古くから地元の人々に語り継がれてきた。事物としては、「徐福が持ってきた」といわれている樹齢2200 年のビャクシンの古木がある。また、筑後川に生息する「エツ」という川魚は、葦の片葉が川面に落ちて生まれたという伝承や、徐福が見出した「フロフキ」という仙薬もある。伝説としては、徐福と地元の娘のお辰との悲恋伝説がある。地元の住民たちは、この伝説を熟知し、情熱を傾けて語り継いでいる。さらに、佐賀市に伝わる口碑によると、徐福は不老不死の仙薬を探すため、金立山に登り、地元の金立神社の祭神となったといわれる。往古から住民たちの信仰を集め、「金立大権現」と呼ばれて祭られている。このように徐福伝説は、佐賀市でさまざまな形で伝えられ、地元に融合し、生き生きと伝承されている。 民間伝承として伝わる徐福伝説は、関連する事物によって、地元の人々に記憶として刻み付けられている。特に、雨乞い行事と金立神社例大祭が行われる時期になると、徐福伝説にちなんだ事物は、その伝説に対する記憶を思い出す糸口となり、古くからの徐福信仰の記憶を呼び戻しながら、また新たな信仰の記憶を構築する。本論文は佐賀県佐賀市の徐福伝説にまつわる事物の調査や、地元の人々に対する聞き取り調査を基に、徐福伝説が佐賀市で定着し、語り継がれている背景や要因と、その伝承形式を明らかにするものである。論文
著者
佐々木 長生
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター
雑誌
非文字資料研究 = The study of nonwritten cultural materials (ISSN:24325481)
巻号頁・発行日
no.18, pp.35-63, 2019-09

農書は、わが国では元禄時代(1688~1703)を境に上層農民や下級武士等によって著述されてきた農業技術書である。若松城下近くの幕内村(会津若松市)の肝煎佐瀬与次右衛門は、貞享元年(1684)に『会津農書』を著述している。会津地方の自然に即した農法を、著者自らの体験と「郷談」と呼ばれる旧慣習を中心に著述している。わが国の農書の代表とされる宮崎安貞の『農業全書』(元禄10年1697)より13年も早く、古典的価値を有する農書といえる。 農書は、稲作や畑作また農民の生活に関る内容を主に著述されたものが多く、本来は「非文字資料」であったものが、「文字をもつ伝承者」の著者によって、「文字資料」化された存在といえる。『会津農書』は、著者佐瀬与次右衛門という「文字をもつ伝承者」が江戸中期に会津地方の農法や農耕儀礼等の「非文字資料」を農書という「文字資料」化された形に達した一例と位置づけることもできる。 本稿は、こうした視点に立って『会津農書』にみる「非文字資料」から「文字資料」化への一例を、麦の栽培技術と民俗を軸に述べることを目的とする。麦は雑穀のひとつでもあるが、米に次ぐ主穀的な存在として、全国的に栽培されてきた。麦は、「クリーニングクロップ」とも呼ばれ、麦を栽培した跡地は病虫害防除の性質もあるという。 『会津農書』でも麦を栽培した跡地に煙草を植えると、ネギリムシが付きにくいと記載されている。『会津農書』には麦栽培に関する農耕儀礼も多く、「麦穂掛」なども記載されている。同様の儀礼は、埼玉県内では近年まで行われてきた。また、麦に関する食習や食物加工など、麦に関る民俗が多く行われてきた。麦の栽培が全国的に廃止され、麦に関する農法や民俗も消滅しつつある。「文字をもつ伝承者」により農書という形をとり、「非文字資料」が「文字資料」として、その歴史・文化的価値を現在に遺しているともいえる。論文