著者
石井 翔子
出版者
東京女子大学
雑誌
東京女子大学紀要論集 (ISSN:04934350)
巻号頁・発行日
vol.65, no.1, pp.1-44, 2014-09

Masaoka Shiki not only preached the necessity of "innovation in tanka" in Meiji 31 (1898) but also put his ideas into practice. One of his ideas was to use gairaigo (words of foreign language origin) including kango (words of Chinese origin) in order to enrich tanka.This study examines the frequency of kango in Masaoka Shiki's Take no satouta [Collection of Tanka] and whether the kango had already been used in pre-Edo Japanese poems.Three characteristic became clear:1.Although Shiki used kango in his tanka before Meiji 30 (1897), he used them for different purposes after that. In Meiji 31, he used kango to enrich his tanka, and as a consequence there were many kango in his tanka that year.2.In Meiji 32 and 33, there were a slight tendency for the kango in his tanka to describe humans, artifacts, buildings, and human and mental activity. After Meiji 34, this tendency strengthened.It is thought that this was because Shiki believed that kango were more suitable for describing humans and artifacts than natural things.3.There were many kango in his tanka that had not been used in pre-Edo Japanese poems, which demonstrates that he was positive about using kango in his tanka and increased the range of words in Japanese poems.正岡子規は明治31年に短歌革新を主張した。その主張の一つに、歌に詠む語彙を豊富にする為の、従来の和歌世界とは異なる漢語などの外来語の使用がある。そして子規自身もそれを実践している。本稿では、子規の短歌に漢語がどのくらい見られるのか、また子規短歌の漢語(今回は「人間」「器物」「宮室」「人事」を表す漢語に限定する)が古歌(江戸時代までの和歌)で用いられているのものであるのかに注目し、子規短歌での漢語使用の実態を明らかにしたい。調査の結果、次のことが明らかになった。1、明治31年の短歌革新発表前から、子規は漢語を短歌に詠みこんでいる。しかし明治30年以前での漢語使用の実態と、明治31年での漢語使用の実態は異なっている。明治31年では、短歌に詠みこむ材料を豊富にするために漢語を使用している。その為、多様な内容を表す漢語を見ることができる。2、明治32年になると、短歌へ使用する漢語は、「人間」「器物」「宮室」「人事」といった人間や人工物を表すものを表すようになる傾向が強くなり始める。明治34年になると、その傾向が顕著なものとなる。明治31年以降、積極的に短歌に漢語を使用してゆく間に、子規は、人間や人工物を表すものの方が、自然物をあらわすものよりも、漢語で表現するのに適しているとするようになったと考えられる。3、子規が短歌に使用した漢語は、古歌では歌の中には使用されなかったものが多い。子規は短歌へ漢語を積極的に使用することにより、古歌では歌の中で表現されなかった漢語で表現する事柄を短歌の材料にしている。
著者
石井 翔子
出版者
東京女子大学論集編集委員会
雑誌
東京女子大学紀要論集 (ISSN:04934350)
巻号頁・発行日
vol.64, no.1, pp.53-85, 2013-09

本稿では、子規の短歌に詠まれた天体(太陽、月、星)にどの感覚表現が用いられているのかに注目し、短歌に見られる天体の表現が子規の生活の変化にどのように対応しているのかを明らかにする。天体を表す語彙の使用状況を調査した結果、次のことが明らかになった。1、全ての天体語彙に視覚表現が用いられている。月には触覚表現の使用も見られる。古典への意識が短歌革新後にも残り、また子規にとって月が古典の影響を受けやすい材料であると考えられる。2、子規の作品の太陽の表現方法の一つに、太陽の動きによって時間の推移を表現する方法がある。またその表現方法は、外出先の出来事の記録に多い傾向である。子規の短歌にもその表現方法が見られる。外出が不自由となった明治33年以降に、子規は短歌に太陽を詠むことが少なくなったが、この子規の太陽の表現方法が実生活と合わなくなった為と考えられる。3、月を詠んだ作品数が、太陽と星の場合よりも多くなっている。その理由として、子規の月への興味が強いことと、子規にとって空想や回想によって詠むことのし易い材料であったことが考えられる。しかし明治33年以降は月を詠む傾向が弱まっている。その理由として、子規にとって月の表現は、景色の一つとして表現され易い題材であったことが考えられる。その表現方法は、明治32年の、短歌は時間的なことを含むのに適しているという子規の考えと、一致しないものである。4、明治33年の子規の短歌では多様な趣向で星を詠んでいるが、34年以降は星を詠んだ短歌作品が見られない。その理由として、子規の星への興味の薄さと当時の子規の目の不調、糸瓜棚の設置による視界の狭まりが考えられる。
著者
石井 翔子
出版者
東京女子大学論集編集委員会
雑誌
東京女子大学紀要論集 (ISSN:04934350)
巻号頁・発行日
vol.64, no.2, pp.59-105, 2014-03

This study examines how the words associated with place names in Masaoka Shiki's Take no Satouta [Collection of Tanka] changed after innovations in his tanka in Meiji 31 (1898). Five characterristics are clear:1. More words associated with place names were seen in his tanka after Meiji 31.2. ‌From Meiji 31 to Meiji 33, there was a remarkable increase in the words associated with place names in Tokyo, the Kanto area (excluding Tokyo) and Asia. Most of the increased at this time was not utamakura (places described in classical Japanese verse).In particular, from Meiji 32 to Meiji 33, more words associated with place names in Asia and Europe were used in his tanka, and in Meiji 32 and Meiji 33, kango (Japanese words of Chinese origin) and yougo (Japanese words of Europe origin) were used more frequently in his tanka than in other years.3. ‌After Meiji 32, he tended to choose words associated with place names in tanka based on his friends' deeds. In particular, after Meiji 34, this tendency was particularly strong.4. After Meiji 31, he tended to use fewer classic utamakura.5. ‌In his tanka, he tended to avoid the use of place names associated with cities, towns and villages and kango when he did refer to a Japanese place name.本稿では、子規の短歌に詠まれた地名語彙がどのようなものであり、短歌革新を境にした明治31年前後でどのように対応しているのかを明らかにしたい。その結果、次のことが明らかになった。1. ‌明治31年以降は、明治30年以前と比べ、地名語彙を詠んだ作品が減少してゆくが、地名語彙での「用語の區域」の拡大は見られる。2. ‌明治31年では東京と関東とアジアの地名語彙の増加が著しい。この増加は明治33年まで見られる。特に明治32、33年は幅広いアジアや欧米の地名語彙が詠まれる。アジア・欧米の地名語彙として、漢語と洋語の積極的使用が見られる。またこの期間に増やされた地名語彙は歌枕となっているものは少ない。3. ‌明治32年以降、子規の知人の行動に拠る地名語彙が多く見られる。特に明治34年以降は、他者の行動やその人の説明の為に地名語彙が使用される傾向にある。4. ‌歌枕となる地名語彙について、明治30年以前と比べ、明治31年以降では古典的な用法で詠まない傾向が見られる。5. ‌紀行文と比べ、短歌では国名や都道府県名といった大きな行政区画でない地名語彙が詠まれる傾向が小さい。また日本の地名は和語で表す傾向が見られる。
著者
石井 翔子
出版者
東京女子大学
雑誌
東京女子大学紀要論集 (ISSN:04934350)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.1-28, 2012-03

This study examines the words associated with plants in Masaoka Shiki's Take no Satouta [Collection of Tanka] i.e., parts of plants such as branches and leaves, agglomerations such as fields of mulberry, and shady spaces produced by leafy recesses. This study reveals how Shiki's observations and attitudes changed in his tanka through his life.Three characteristics have become clear:1. Before Meiji 30 (1897), there was a clear tendency for Shiki to often cite the parts of plants. However, immediately after the "tanka innovation," this changed and, while the variety of the parts increased, the number of tanka associated with plants decreased. In his later works, the number of tanka which likewise cited parts of the plants increased again.2. During his describing agglomeration's period and up to Meiji 33 (1900), agglomeration's words increased. However, in later years, between 1901 and 1902, large scale agglomerations of plants such as forests no longer appeared and there was a decline in the use of words reflecting agglomerations of plants.3. From before Meiji 30 to his final year (1902), there is a tendency for the number of references to shady spaces formed by plants to decrease and in his final year, 1902, there are no references in any of his tanka to shady spaces.正岡子規の短歌に詠まれた植物語彙について、植物の部位(枝や葉など)と集まり(桑の田など)、植物によって作られた空間(木陰など)を表す語について調査することで、子規の短歌の写生の姿勢が期間毎にどのような変化をするのかを明らかにしたい。本稿では、植物の部位(枝など)や集まり(桑の田など)、植物によって作られた空間(木陰など)を表す語の、正岡子規の短歌での使用状況を調査した。その結果、次の3つのことが明らかになった。1、明治30年以前(1897年以前)の作品では植物の部位を詠み込む傾向が大きく、短歌革新直後の作品では植物の部位の種類は増えるが部位を詠んだ作品数が少なくなり、晩年の作品で再度植物の部位を多く詠み込むようになったこと。2、明治30年以前から33年までの期間(1897年以前~1900年)での作品では、植物の集まりを表す語を使用する傾向が強く、大規模な植物の集まりが詠まれなくなった晩年(1901~1902年)では、植物の集まりを表す語を使用する傾向が弱くなったこと。3、明治30年以前から晩年へと年が下がっていくに従って、植物によって作られた空間(植物によって生まれた陰)を詠むことが少なくなり、最晩年(1902年)では全く詠まれなくなったこと