著者
西村 則昭
出版者
仁愛大学
雑誌
仁愛大学研究紀要 (ISSN:13477765)
巻号頁・発行日
no.3, pp.23-37, 2004

本稿では,思春期女子のアイデンティティの表明としてのあるストリート・ファッション,「ゴシック&ロリータ」と呼称されるジャンルを取り上げ,そこにみられる「魂の論理」を探求した.このジャンルに心酔し,実行する女子は,破壊的な「闇」の近隣に「私」の存在を見出し,そのポジションにあって,自覚的に,ことさらに「無垢」を生きることに,アイデンティティを見出していることがわかった.その背後には,サトゥルヌスープエラ(永遠の少女)のペアの元型が,見通されえた.また,彼女たちは「人形」に憧れるが,それは,「トラウマ」を想像することによって,失われた無垢を演じつつ,日常的な世界構成を停止させ,そこにおのずと性起する「静的な,永遠のリアリティ」(パトリシア・ベリィ)を,我が身の上に表現することで,「私」の存在の実感を希求していることだとわかった.幾多の想像的な世界観(虚構世界を構成する,感性やイマジネーションの特質とか,美意識とか,価値観といったもの)が享受される,この現代にあって,思春期女子の作り上げたアイデンティティのあり方のひとつが,浮き彫りにされた.
著者
西村 則昭
出版者
仁愛大学
雑誌
仁愛大学研究紀要 (ISSN:13477765)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.41-55, 2004-03-31

魂とは, ひとそれぞれの個性や来歴とわかちがたくむすびついた, 心の「機微」や「深み」のことである. そうした魂の存在に気づくとき, われわれの意識は, 自我 (現実世界を合理的・意志的に生きる主体) から, 魂へとシフトする. そして魂の観点をもつようになった意識は, 世界の魂 (美) に開かれていく. 魂の現象学とは, そうした人間と世界の両者の魂の現象に即して, そこにみられる論理をたしかな言葉へともたらそうとする試みである. 本稿では, 服飾という現象が扱われた. 服飾とは, 人間の魂と世界 (服) の魂との相応・融合である. 本稿では, とくに創造的なブランド, コムデギャルソンの心理学的な分析検討がおこなわれた. コムデギャルソンの創造性は, 既成の意味の網目を慎重に, 大胆に, 巧妙に解き, 意味以前の物自体, 身体自体の次元に到って, そこにおいて創作をおこない, 人間の存在を問いつつ, 「エレガンス」の名に値する, 新たなものを樹立することであることがわかった. その背後にはたらく元型的な力として, ギリシア神話の神々が, 見通されえた. まずクロノスに言及され, その創造的にして保守的な特質, 抑うつを惹起する邪悪な力が, どのようにコムデギャルソンの創造性と関連しているかが, 論じられた. またコムデギャルソンの提示する異形のエレガンスの背後に, 母親に捨てられた醜怪な子, プリアポスが, その母, アフロディーテにいとおしげに抱きしめられる様が, 透見されえた. そして本稿では, ひとつの臨床事例が提示され, 以上の論にもとついて, その事例の理解が深められた.
著者
西村 則昭
出版者
仁愛大学
雑誌
仁愛大学研究紀要 (ISSN:13477765)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.41-56, 2007

詩とは,言葉を言語の日常的なあり方(散文的なあり方)から離脱させることによって,新しい時空,魂(散文的な言葉ではうまく捉えられない感覚や思い)に相応しい場を,開き出すものであるといえる.ところで,現在の言語の状況を見るならば,言語の散文的なあり方の拘束力が強まり,詩的な飛躍は難しくなっているのではないだろうか.現代の詩人たちは,言語の散文的なあり方の強い拘束力を意識した上で,それに対抗しうるより強度のある言葉を探求しているように思われる.本稿では,現代日本の詩人,金井美恵子(1947- ),野木京子(1957- ),小笠原鳥類(1977- ),水無田気流(1970- )の各々の作品を取り上げ,それらにはどのような魂の論理が見出されるか,分析解釈を行なった(魂の現象学の試み)が,その際,ジャック・ラガンの精神分析理論を参照しつつ,それらの作品における魂の表現のための言葉はどのようなものであるかを論じた.
著者
西村 則昭
出版者
仁愛大学
雑誌
仁愛大学研究紀要. 人間学部篇 (ISSN:21853355)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.33-44, 2009-12-30

本稿(2)では,統合失調症の臨床事例(西村,1998)の再解釈が,特にクライエントの報告した三つの夢をめぐって試みられた.クライエントは面接過程の中で,アニマ像に導かれ,現実界に接近し,父の名の体得が行なわれるべき場へと再び到った.しかし主体は父の名の課す去勢を建設的な体験にすることができず,激しい怒りの反応を呈するだけで,父の名の受け取りを自ら拒否し,象徴界の外部,現実界の真っ只中に留まったまま,象徴界との凄まじい緊張関係に立たされる道(精神病者への道)を選んだ.心理療法はそのことを確認するために行なわれたようにも思われた.総合的考察では,『ブランビラ王女』における主体(ジーリオ)との比較によって,精神病的主体のあり方が浮き彫りにされ,そして物自体に相応するイメージを紡ぎ出し,主体を現実界へと接近させる存在として,ラカン的に捉え直されたアニマが,ラカン理論における対象a に相当することが論じられた.
著者
西村 則昭
出版者
仁愛大学
雑誌
仁愛大学研究紀要. 人間学部篇 (ISSN:21853355)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.23-32, 2009-12-30

本稿(1)(2)では,かつてユング心理学の観点から解釈が行なわれた,ドイツ・ロマン派の作家ホフマンの『ブランビラ王女』(西村,1997)と統合失調症の臨床事例(西村,1998)が,今回はラカンの精神分析の観点から再解釈が試みられた.『ブランビラ王女』の主人公ジーリオも事例も,若い男性で,誇大妄想をもっていたが,その背後にはユングのいうアニマ(心の深層の女性的存在)の問題と絡んでラカンのいう「父の名」の問題が横たわっていたと考えられた.幼少期,父の名が体得されることによって,主体は象徴界(言語活動の次元)に組み込まれ,欲動を制御しつつ,このわれわれの共同の現実世界を生きていくことが可能となる.本稿(1)では,『ブランビラ王女』の再解釈までを載せる.主体(ジーリオ)は去勢を是認して父の名の体得をやり直すという課題に直面した.その際,父の名は,主体の側と,<他者>における言語の側に分裂した.主体は,主体の側にある父の名の片割れの援助を受けつつ,アニマ像に導かれ現実界へと接近し,鏡像段階以前の,現実界の中の主体,物自体としての主体,根源的主体に立ち返った.そして根源的主体は,それに相応しい大いなる<私>のイメージに包まれ匿われ守られ,いわば誇大妄想の状態で,父の名の体得のやり直しを果たした,と考えられた.
著者
西村 則昭 Nishimura Noriaki
出版者
仁愛大学
雑誌
仁愛大学研究紀要. 人間学部篇 (ISSN:21853355)
巻号頁・発行日
no.18, pp.21-36, 2019

白隠の布袋画の中にメビウスの帯の描かれたものが二種類ある.本論文では,それらを白隠の禅の境地を表現するものと捉え,ラカンの考え方を用いて分析検討した.ラカンは精神分析の経験を提示するためにトポロジーを用いたが,それは精神分析が禅と同様,現実界を志向する営為だからである.「無限」という観念が象徴界の限界を示すものであるならば,メビウスの帯が作り出す「無限の深みの更なる深み」は現実界を示す.問題の画の一つには,メビウスの帯を作り出す布袋の姿が描かれており,そこには現実界の中で言語活動の根源相を自覚的に生きる白隠の境地が表現されていると考えられる.もう一つには,メビウスの帯の面をくぼませ,無限大以上の容量の袋にして,その縁を口にくわえている布袋の姿が描かれており,そこには見性という仕方で『法華経』の深理に契当した白隠の,現実界から汲めども尽きない利他の活力を得ている境地が表現されていると考えられる.
著者
西村 則昭
出版者
仁愛大学
雑誌
仁愛大学研究紀要 (ISSN:13477765)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.109-123, 2006-12-30

児童養護施設R学園で子どもの遊び相手のボランティアをしていたとき,筆者は幼児や小学生の子どもたちを楽しませるため,さまざまな「こわい話」を行なった.そのときの子どもたちの反応,様子を報告し,彼らの心理(児童養護施設の子どもならではの心理も含めて)について,魂の現象学の立場(現象を客観的・科学的に観るのではなく,現象の中に入っていって,自分の心も見つめながら,現象の中の論理を見出していくような姿勢)で考えてみた.