著者
角 幸博 石本 正明 角 哲 原 朋教
出版者
一般社団法人 日本建築学会
雑誌
日本建築学会技術報告集 (ISSN:13419463)
巻号頁・発行日
vol.13, no.25, pp.287-290, 2007-06-20 (Released:2008-08-01)

This report is the result of investigation of existing lighthouses in southern Sakhalin which were built during the Japanese period (1905∼1945). In southern Sakhalin, ten lighthouses including one beacon light were built during the Japanese period. Seven lighthouses were exist, six of them were in operation. These lighthouses are Lopatina (former Kenushi, 1918), Tonin (former Airo, 1935), Aniva (former Nakashiretoko, 1939), Lamanon (former Chirai, 1940), Slepikovsky (former Konotoro, 1943) and beacon light of the Rock of Danger (former Nijyouiwa, 1926). All of them were constructed by reinforced concrete. Moreover, houses for lighthouse keeper built in Japanese period are used now. We hope that these modern heritages for Japan and Russia will be preserved.
著者
井澗 裕 角 幸博
出版者
Architectural Institute of Japan
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.68, no.571, pp.121-128, 2003-09-30 (Released:2017-02-09)
参考文献数
17

ユジノ-サハリンスク市は、1905年から1945年までは豊原と呼ばれ、日木統治下の南サハリンにおける中心都市であった。そのため、市内には当時の建造物が数多く残されている。その現存状況については1996年から予備的調査を実施し、72件の建造物(群)については日本建築学会技術報告集第5号にも報告したが、短期間での調査のために未調査地域や誤謬も多かった。そのような事情を踏まえて、第1回小渕フェローシップにおける派遣研究活動および文部科学省科学研究費基盤研究(B)(2)「南サハリンにおける日本統治期(1905-1947)の建造物に関する広域実態調査」の一環として、ユジノ-サハリンスク全市域を対象とした建造物状況の再調査を2001年度に実施し、43の建築物群、総数93件の日本期建造物についてその状況を把握した。本稿はその概要を報告するものである。サハリンでの建造物調査においては日本の建造物を判別する方法が難しく、前回の調査ではこれを確立できなかったが、ここでは以下に挙げる3つのうち、いずれかを満たすものを日本期建造物と判断した。1)当時の地図・図版や写真から日本期建造物と判断されるもの、2)日本期建造物を特徴付けるような、ロシア建築には見られない部材や構造的特徴をもつもの、3)旧豊原市の居住者やユジノ-サハリンスク居住歴の長いロシア人の知識人など、日本期建造物に関して知識を有している人物から複数の証言が得られたもの。判明した43の日本期建造物(群)は、便宜上旧建築用途によって官庁建築・産業施設・商業建築・宗教建築・上木建造物と記念碑の5つに分類して概説した。日本期の官庁建築には日ソ交替期にソ連軍に接収され、現在あるいは近年まで軍事施設として利用されているものが多く、管理や修繕が比較的行き届いたものが多い。とりわけ樺太庁技師貝塚良雄の設計による旧樺太庁中央試験所本館(P-5, 1933年)・同温室(P-6,1934年)・旧樺太庁会議室(P-8, 1935年)・旧樺太庁博物館(P-9, 1937年)などは、全体的なプロポーション細部意匠の巧みさや施工精度の高さで注目すべき存在である。産業施設群にはサハリンにおける近代工場の嚆矢である旧樺太庁豊原乾溜工場(I-1, 1911年)のほか、旧王子製紙豊原工場(I-3, 1917年)、旧樺太製糖豊原工場(I-4, 1931年)などサハリンの近代化を語る上で無視できないものが多い。ただいずれの工場も軍事施設、機械修理工場、製菓工場に転用されており、日本期の状態を回復することは難しい。商業建築の中では旧北海道拓殖銀行豊原支店(C-1, 1931年)が白眉であり、現在はユジノ-サハリンスク美術館に転用されているが、この他にもあわせて3件の店舗・店蔵の現存が確認された。サハリン全域でも商業建築の現存例はほとんどないため貴重である。ユジノ-サハリンスクの日本期住宅は製紙工場・製糖工場の社宅群や樺太庁官舎群など数の上では多くの建造物が現存するが、いくつかの例外を除けば良好な状態とはいえない。また、外壁・開口部・屋根部材のいずれもがロシア風の部材に改変されているため、古い木造住宅はソ連時代のものとの識別が大変に難しい。しかしながら、サハリン各地にある全半壊した日本期住宅群を調査する限り、主要な柱や基礎部分にはほとんど改変が見られないため、同様の手法で改変されたと見られる木造住宅群をここではロシア化された日本期建築(Russianized Japanese Buildings)として調査対象に加えた。住宅建築の中では旧樺太庁部長官舎(H-3)や旧樺太庁拓殖学校校長官舎(H-10)の現存状態が良好であることが注目される。宗教建築についてはSamarin, I. A.の研究があり、校倉造に似せたコンクリート造の旧樺太神社宝物殿(R-5, 1940年?)と権現造の旧招魂社本殿基礎(R-4)が歴史的建造物として知られている。また、サハリン各地に現存している奉安殿がユジノ-サハリンスク市内には1件も存在しないことも特徴的である。土木建造物としては、コンクリート造の橋が2件現存している(M-1, M-2)。また、旧師範学校寄宿舎(S3)、旧樺太庁鉄道事務所職員官舎群(S-2)など日本期建造物群の可能眩か高い5件の建造物(群)については、確証を得られなかった建造物群(suspected Japanese buildings)として別記した。これらの確認は今後の課題としたい。ユジノ-サハリンスク市内にはあわせて90件以上の日本期建造物の現存が明らかになったが、この数字の評価は難しい。なぜなら、中国東北部や朝鮮半島、台湾といった他の旧海外植民地と比較するなら大きな数字ではないが、都市の起源・発展経緯・人口・規模において類似点の多い、稚内(2件)・北見(6件)・釧路(1件)・根室(6件)といった北海道北部あるいは東部の諸都市に比べて、むしろ恵まれた部類に属する。とりわけ、サハリンスカヤ通(旧真岡通)を中心とした旧市街地北部には、旧樺太守備隊の建築群や旧王子製紙工場施設群を中心として日本期建造物が集中しており、歴史的建築物群としての価値も十分に有している。しかしながら、現在のロシアではこうした建造物群に対する法的保護を図ることは難しい。ユジノ-サハリンスク市内で歴史的建造物として認知されているものは、旧樺太庁博物館や旧北海道拓殖銀行豊原支店などわずか6件のみである。しかしながら、ロシア側と日本側が協力体制を深めてこれら日本期建造物の保護に努めることは、両国の友好関係や相互理解の深化にとっても有効な方策であろう。
著者
角 哲 角 幸博 池上 重康
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.72, no.619, pp.165-172, 2007-09-30 (Released:2017-02-25)

In this paper, we examine the residential area of Oji Paper Co. Ltd. Tomakomai factory. The residential area had located around the factory. Officers area located near the main office, and the welfare buildings had a high amenity for officers. Worker's area located around officers. Officers area didn't expand but got number of residence increased. Almost all the houses made from wood, and served out by the company until WWII. The structure of the houses changed into concrete blocks or RC. after the war. Many welfare buildings were there in this company town, buildings for officers, like club-house, were built led to workers before 1933. After that, the welfare buildings were served for all employees without difference of class after 1933.
著者
角 哲 角 幸博 石本 正明
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.69, no.577, pp.173-179, 2004

This paper examines nine company's residential areas of Oji Paper Co. Ltd. in KARAFUTO (present southern Sakhalin). About each area, it carried out under explanation with the viewpoint of development circumstances, site planning, housing, and welfare buildings. Those company's residential areas are classified as an urbanized type and a remote district type. However it had same components and construction in domestics, because both had the purpose of recruiting employees in KARAFUTO where was developed on large scale after 1905. It had gradually changed into intentional site planning and improved habitability, especially in Showa era. As measureres against fire prevention of dwellings, massive firewalls and R.C. apartment houses were constructed. Housings and welfare buildings provided city-amenities for employees in KARAFUTO.
著者
角 哲 角 幸博 石本 正明
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.69, no.577, pp.173-179, 2004-03-30 (Released:2017-02-09)
参考文献数
15

This paper examines nine company's residential areas of Oji Paper Co. Ltd. in KARAFUTO (present southern Sakhalin). About each area, it carried out under explanation with the viewpoint of development circumstances, site planning, housing, and welfare buildings. Those company's residential areas are classified as an urbanized type and a remote district type. However it had same components and construction in domestics, because both had the purpose of recruiting employees in KARAFUTO where was developed on large scale after 1905. It had gradually changed into intentional site planning and improved habitability, especially in Showa era. As measureres against fire prevention of dwellings, massive firewalls and R.C. apartment houses were constructed. Housings and welfare buildings provided city-amenities for employees in KARAFUTO.
著者
井澗 裕 角 幸博
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.68, no.571, pp.121-128, 2003

ユジノ-サハリンスク市は、1905年から1945年までは豊原と呼ばれ、日木統治下の南サハリンにおける中心都市であった。そのため、市内には当時の建造物が数多く残されている。その現存状況については1996年から予備的調査を実施し、72件の建造物(群)については日本建築学会技術報告集第5号にも報告したが、短期間での調査のために未調査地域や誤謬も多かった。そのような事情を踏まえて、第1回小渕フェローシップにおける派遣研究活動および文部科学省科学研究費基盤研究(B)(2)「南サハリンにおける日本統治期(1905-1947)の建造物に関する広域実態調査」の一環として、ユジノ-サハリンスク全市域を対象とした建造物状況の再調査を2001年度に実施し、43の建築物群、総数93件の日本期建造物についてその状況を把握した。本稿はその概要を報告するものである。サハリンでの建造物調査においては日本の建造物を判別する方法が難しく、前回の調査ではこれを確立できなかったが、ここでは以下に挙げる3つのうち、いずれかを満たすものを日本期建造物と判断した。1)当時の地図・図版や写真から日本期建造物と判断されるもの、2)日本期建造物を特徴付けるような、ロシア建築には見られない部材や構造的特徴をもつもの、3)旧豊原市の居住者やユジノ-サハリンスク居住歴の長いロシア人の知識人など、日本期建造物に関して知識を有している人物から複数の証言が得られたもの。判明した43の日本期建造物(群)は、便宜上旧建築用途によって官庁建築・産業施設・商業建築・宗教建築・上木建造物と記念碑の5つに分類して概説した。日本期の官庁建築には日ソ交替期にソ連軍に接収され、現在あるいは近年まで軍事施設として利用されているものが多く、管理や修繕が比較的行き届いたものが多い。とりわけ樺太庁技師貝塚良雄の設計による旧樺太庁中央試験所本館(P-5, 1933年)・同温室(P-6,1934年)・旧樺太庁会議室(P-8, 1935年)・旧樺太庁博物館(P-9, 1937年)などは、全体的なプロポーション細部意匠の巧みさや施工精度の高さで注目すべき存在である。産業施設群にはサハリンにおける近代工場の嚆矢である旧樺太庁豊原乾溜工場(I-1, 1911年)のほか、旧王子製紙豊原工場(I-3, 1917年)、旧樺太製糖豊原工場(I-4, 1931年)などサハリンの近代化を語る上で無視できないものが多い。ただいずれの工場も軍事施設、機械修理工場、製菓工場に転用されており、日本期の状態を回復することは難しい。商業建築の中では旧北海道拓殖銀行豊原支店(C-1, 1931年)が白眉であり、現在はユジノ-サハリンスク美術館に転用されているが、この他にもあわせて3件の店舗・店蔵の現存が確認された。サハリン全域でも商業建築の現存例はほとんどないため貴重である。ユジノ-サハリンスクの日本期住宅は製紙工場・製糖工場の社宅群や樺太庁官舎群など数の上では多くの建造物が現存するが、いくつかの例外を除けば良好な状態とはいえない。また、外壁・開口部・屋根部材のいずれもがロシア風の部材に改変されているため、古い木造住宅はソ連時代のものとの識別が大変に難しい。しかしながら、サハリン各地にある全半壊した日本期住宅群を調査する限り、主要な柱や基礎部分にはほとんど改変が見られないため、同様の手法で改変されたと見られる木造住宅群をここではロシア化された日本期建築(Russianized Japanese Buildings)として調査対象に加えた。住宅建築の中では旧樺太庁部長官舎(H-3)や旧樺太庁拓殖学校校長官舎(H-10)の現存状態が良好であることが注目される。宗教建築についてはSamarin, I. A.の研究があり、校倉造に似せたコンクリート造の旧樺太神社宝物殿(R-5, 1940年?)と権現造の旧招魂社本殿基礎(R-4)が歴史的建造物として知られている。また、サハリン各地に現存している奉安殿がユジノ-サハリンスク市内には1件も存在しないことも特徴的である。土木建造物としては、コンクリート造の橋が2件現存している(M-1, M-2)。また、旧師範学校寄宿舎(S3)、旧樺太庁鉄道事務所職員官舎群(S-2)など日本期建造物群の可能眩か高い5件の建造物(群)については、確証を得られなかった建造物群(suspected Japanese buildings)として別記した。これらの確認は今後の課題としたい。ユジノ-サハリンスク市内にはあわせて90件以上の日本期建造物の現存が明らかになったが、この数字の評価は難しい。なぜなら、中国東北部や朝鮮半島、台湾といった他の旧海外植民地と比較するなら大きな数字ではないが、都市の起源・発展経緯・人口・規模において類似点の多い、稚内(2件)・北見(6件)・釧路(1件)・根室(6件)といった北海道北部あるいは東部の諸都市に比べて、むしろ恵まれた部類に属する。とりわけ、サハリンスカヤ通(旧真岡通)を中心とした旧市街地北部には、旧樺太守備隊の建築群や旧王子製紙工場施設群を中心として日本期建造物が集中しており、歴史的建築物群としての価値も十分に有している。しかしながら、現在のロシアではこうした建造物群に対する法的保護を図ることは難しい。ユジノ-サハリンスク市内で歴史的建造物として認知されているものは、旧樺太庁博物館や旧北海道拓殖銀行豊原支店などわずか6件のみである。しかしながら、ロシア側と日本側が協力体制を深めてこれら日本期建造物の保護に努めることは、両国の友好関係や相互理解の深化にとっても有効な方策であろう。
著者
角 幸博 井澗 裕 石本 正明
出版者
一般社団法人 日本建築学会
雑誌
日本建築学会技術報告集 (ISSN:13419463)
巻号頁・発行日
vol.7, no.14, pp.331-334, 2001-12-20 (Released:2017-04-14)
参考文献数
21
被引用文献数
1

We describe the history and the present state of the Official Residence for the Commander of Karafuto-Guards, which was completed in 1908. We also deal with its suspected designer, Army Architect Yasushi Tamura (1878-1942), who is known as the designer of the Divisional Headquarters Office of the Imperial Guards. The official residence has high value in the modern architectural history not only because it is one of the oldest buildings of the Japanese colonial period in Sakhalin, but also because it was a dwelling house built for the people of highest class in Sakhalin.
著者
角 幸博 石本 正明 角 哲 原 朋教
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会技術報告集 (ISSN:13419463)
巻号頁・発行日
vol.13, no.25, pp.287-290, 2007-06-20

This report is the result of investigation of existing lighthouses in southern Sakhalin which were built during the Japanese period (1905〜1945). In southern Sakhalin, ten lighthouses including one beacon light were built during the Japanese period. Seven lighthouses were exist, six of them were in operation. These lighthouses are Lopatina (former Kenushi, 1918), Tonin (former Airo, 1935), Aniva (former Nakashiretoko, 1939), Lamanon (former Chirai, 1940), Slepikovsky (former Konotoro, 1943) and beacon light of the Rock of Danger (former Nijyouiwa, 1926). All of them were constructed by reinforced concrete. Moreover, houses for lighthouse keeper built in Japanese period are used now. We hope that these modern heritages for Japan and Russia will be preserved.
著者
角 幸博 石本 正明 井澗 裕 松本 浩二 角 哲
出版者
一般社団法人 日本建築学会
雑誌
日本建築学会技術報告集 (ISSN:13419463)
巻号頁・発行日
vol.8, no.15, pp.335-338, 2002-06-20 (Released:2017-04-14)
被引用文献数
1

This report is the result of investigation of buildings which remain on the east and west parts in Southern Sakhalin during the Japanese colonial period (1905-45) in 2000 and 2001. We point out that there are about 260 buildings in existence and explain on the main 8 constructions during the Japanese colonial period. We report on the main facilities of six old paper mills, the hospital of the Karafuto garrison, the Toyohara carbonization factory which was first government-managed factory in Japanese colonial period, Oji paper company houses and Hoan-den shrines etc.
著者
角 幸博
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.59, no.465, pp.175-181, 1994-11-30 (Released:2017-01-27)
被引用文献数
3 3

Max Hinder (1887-1963), a Swiss architect, was born in Zurich on 20th of January, 1887. In 1924, after pursuing his career as an architect in Switzerland, Germany, Austria etc., he came to Japan. He resided in Sapporo for three and half years till 1927, where he worked on numerous houses including his own, two mountain huts, two missionary schools-the Fuji (1924) and the Hokusei (1929), the St. Franciscan monastery(1925), a cathedral in Niigata (1927) and other buildings, besides proposed a project for the architectural competition for the erection of a LEAGUE OF NATIONS BUILDING AT GENEVA in 1926. He moved to Yokohama in 1927 and continued his work untill the year of 1940, when he went to Germany. During these thirteen years, he designed the Jochi University (1931) and the St. Mary Hospital (1931) at Tokyo, a cathedral in Utsunomiya (1932) and others. He closed his earthly pilgrimage in Regen, a small town of Germany, in 1963.
著者
中井 和子 角 幸博 小澤 丈夫 石本 正明
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会技術報告集 (ISSN:13419463)
巻号頁・発行日
vol.16, no.33, pp.747-752, 2010
被引用文献数
1 2

After Kaitakushi period, Dairy barn with gambrel roof was transplanted in Hokkaido from USA. There are many Farmers' Bulletins by U.S. Department of Agriculture in Hokkaido University Library and in National Agricultural Research Center for Hokkaido Region, which presented the Dairy barn with gambrel roof. And also, there are some books that presented the construction and the ventilation for Dairy barn with gambrel roof. Those books for farm building from USA and USDA Farmers' Bulletins were referred for the introduction of Dairy barn with gambrel roof.
著者
角 幸博 井澗 裕 石本 正明
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会技術報告集 (ISSN:13419463)
巻号頁・発行日
no.14, pp.331-334, 2001-12-20
被引用文献数
2

We describe the history and the present state of the Official Residence for the Commander of Karafuto-Guards, which was completed in 1908. We also deal with its suspected designer, Army Architect Yasushi Tamura (1878-1942), who is known as the designer of the Divisional Headquarters Office of the Imperial Guards. The official residence has high value in the modern architectural history not only because it is one of the oldest buildings of the Japanese colonial period in Sakhalin, but also because it was a dwelling house built for the people of highest class in Sakhalin.
著者
呉 農 越野 武 角 幸博
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.64, no.517, pp.277-282, 1999-03-30 (Released:2017-02-03)
参考文献数
16
被引用文献数
1 1

The Kaitakushi. or Colonization Commission (1869-1882) built many of the model factories since 1871 in order to exploit the natural resources in Hokkaido. The Sapporo Factory of Industrial Bureau was one of those important factories during that period, and included wood processing mills, smiths, iron manufacture shop, and casting shops etc. In this paper its planning of location, layout and relations between the buildings and the product system have been clarified.
著者
池上 重康 越野 武 角 幸博
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.66, no.541, pp.213-219, 2001-03-30 (Released:2017-02-04)

We ascertain the history and the staffs of the architectural section of Hokkaido Imperial University between 1918 and 1940, and tried defining it as a part of the official architectural organizations. There was an aspect of the control by the Education Ministry, that only the men who had had some experience in the architectural section of the Education Ministry were appointed to the engineers or the assistant engineers in the period from 1918 to 1921. With the enactment of 'Law of University' and 'Law of Higher School' in 19.18, however, we can say that, the improvements of the facilities and the cultivation of the architects along with the progress of higher education enabled the architectural section of the University to employ its staffs and design it's facilities independently.
著者
池上 重康 越野 武 角 幸博
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.59, no.466, pp.153-162, 1994-12-30 (Released:2017-01-27)

There, since 1922, lived several professors of the newly founded School of Medicine, Hokkaido University, in Kita 10-11 Nishi 3 blocks, Kita-ku, Sapporo. In the community called "Igakubu-bunkamura", they had certain relationship to the activities of the Bunka-Seikatsu Kenkyukai (Modern Life Society) promoted by Dr. Kokichi Morimoto, and wrote some essays on the society's jounal "Bunka-Seikatsu". We could, by statements and photographs of their relatives, observe that they achieved some improvements in their houses : the use of hard floors for drawing rooms, studies and dining rooms, and of glass window panes, the improvement of engawa, the utilization of space between ceiling and roof.