著者
鈴木 蒼
出版者
史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
雑誌
史林 = The Journal of history (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.103, no.4, pp.457-492, 2020-07

平安時代においては、京内の学習施設「大学」で学識を身につけ、官人として朝廷に仕えた人々が多数存在していた。通説的には、彼らは人材主義的・反貴族的な存在とされ、世襲的な貴族層との対立や自身の質的変容により、九世紀中には姿を消していったと考えられている。しかし、そうした所説には疑うべき点が少なくない。本稿では、彼らを「文人官僚」として定義し、官歴・政治的行動の面から網羅的に検討することで、九・十世紀の官人社会における基礎的な性質を確認し、併せて従来の理解について再検討を行った。その結果、九・十世紀において文人官僚に顕著な没落や変質の形跡は見出せず、彼らが反貴族的な行動を取った形跡も何ら見出せないことが判明した。文人官僚は、その学識による能力と、学問を通じて権力者との人格的関係を構築しやすい点にその特徴を求められるのであり、むしろ親貴族的な存在として理解すべきなのである。During the Heian period many who served the court as bureaucrats had received an education at the Daigaku, the official academy in the capital. The prevailing scholarly consensus has explained that these officials were men of talent produced by the bureaucracy to serve the system, that they opposed the hereditary nobility, and that due to decline in their quality, they disappeared in the 9th century. However, as this interpretation places too much emphasis on the opposition of those who studied at the Daigaku to the nobility and positions them on a predetermined course in opposition to the nobility, there are several points in this interpretation that must be reconsidered. Furthermore, because this view has been short-term and the results of studies of the Daigaku system have not been fully incorporated within it, various issues remain to be addressed. In this article I thus make an exhaustive examination of those whom I define as bunjin kanryō, which includes the relatively large number of bureaucrats who had studied at the Daigaku and rose to high-ranking positions who were students of the Kidendō (the curriculum devoted to history and letters) and those who attended the Daigaku but did not follow a fixed course of study, by focusing on their bureaucratic careers and political activities. Based on the results of this examination, I ascertained the fundamental character of the bunjin kanryō within the bureaucracy of the 9th and 10th century and then reexamined the scholarly consensus in light of these findings. As a result I was first able to confirm that in fact the number of bunjin kanryō increased from the middle of the 9th century and accompanying this shift was the establishment of a special route for advancement of the bunjin kanryō within the bureaucracy. The bunjin kanryō had established by that time a certain fixed presence within the bureaucracy. I also determined that from that point onward until the end of the 10th century conspicuous signs of the decline of bunjin kanryō were not apparent. Furthermore, examining the actions they took in political disputes, I was unable to find any sign of opposition to the nobility and instead recognized that these officials behaved extremely submissively toward those in power with whom they maintained a subservient relationship. Judging from these findings, I concluded that special characteristics of the bunjin kanryō were to be found in their capabilities based on their scholarship and the ease in which they could build personal relationships with those in power through their learning, and they should be understood as allies rather than opponents of the nobility. From the 11th century onward when the bureaucracy experienced a great upheaval, these special characteristics of the bunjin kanryō were to face new changes.
著者
鈴木 蒼
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.3, pp.38-62, 2020 (Released:2021-09-09)

本稿は、文化史上特に重要とされながら、これまで研究が僅少であった、平安時代における書筆に優れ文字を巧みに書いた人々、「能書」の性質について考察を行ったものである。当該期における「能書」は、種々の依頼(命令)に応じてさまざまな文書の清書を行うという、彼らにしか行い得ない独自の社会的役割を持っていた。こうした彼らの書に関する能力は、九世紀初頭より十世紀後葉頃までは、紀伝道を中心とする大学での学習、あるいは親族間による書の技術の伝習という、二つの方法を中心として育成された。この二つを巧みに利用した小野氏をはじめとするいくつかの一族は、能書の一族として九・十世紀の間勢力を保持した。また、彼らはその能力を、天皇・皇太子といった権力者と人格的関係を築く一助としても活用した。 十一世紀前後より、能書は自身の臣従する主君(権門)の命令による清書のみを行うようになる。また、十一世紀中葉までに摂関家に臣従した能書とその後裔以外の人物は、能書としては没落してしまう。こうした変化の背景として、十世紀後葉以降、権門が官人を掌握するようになるという、貴族社会の質的変容が考えられる。 またこの時期、故実や特定の血統といった単純な書の能力以外のものが、能書にも求められるようになる。その中で、藤原行成という優れた能書を祖に持ち、故実の創出を行った世尊寺家(藤原行成子孫)が、十一世紀後葉には有力な能書の一族として立ち現れてくる。しかしそのために、九・十世紀に比べ、大学出身者の能書は大幅に減少する。また、鳥羽・後白河院政期には、院近臣の一族である勧修寺流藤原氏が、摂関家の能書藤原忠通との人格的関係や、複数の権門と良好な関係を築いたことによって、書の一族として急成長する。しかし、後白河院政の終了後、彼らは急速に能書役から退いたため、平安時代以降に書の一族として残ったのは世尊寺家のみであった。
著者
鈴木 蒼
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.3, pp.38-62, 2020

本稿は、文化史上特に重要とされながら、これまで研究が僅少であった、平安時代における書筆に優れ文字を巧みに書いた人々、「能書」の性質について考察を行ったものである。当該期における「能書」は、種々の依頼(命令)に応じてさまざまな文書の清書を行うという、彼らにしか行い得ない独自の社会的役割を持っていた。こうした彼らの書に関する能力は、九世紀初頭より十世紀後葉頃までは、紀伝道を中心とする大学での学習、あるいは親族間による書の技術の伝習という、二つの方法を中心として育成された。この二つを巧みに利用した小野氏をはじめとするいくつかの一族は、能書の一族として九・十世紀の間勢力を保持した。また、彼らはその能力を、天皇・皇太子といった権力者と人格的関係を築く一助としても活用した。<br> 十一世紀前後より、能書は自身の臣従する主君(権門)の命令による清書のみを行うようになる。また、十一世紀中葉までに摂関家に臣従した能書とその後裔以外の人物は、能書としては没落してしまう。こうした変化の背景として、十世紀後葉以降、権門が官人を掌握するようになるという、貴族社会の質的変容が考えられる。<br>  またこの時期、故実や特定の血統といった単純な書の能力以外のものが、能書にも求められるようになる。その中で、藤原行成という優れた能書を祖に持ち、故実の創出を行った世尊寺家(藤原行成子孫)が、十一世紀後葉には有力な能書の一族として立ち現れてくる。しかしそのために、九・十世紀に比べ、大学出身者の能書は大幅に減少する。また、鳥羽・後白河院政期には、院近臣の一族である勧修寺流藤原氏が、摂関家の能書藤原忠通との人格的関係や、複数の権門と良好な関係を築いたことによって、書の一族として急成長する。しかし、後白河院政の終了後、彼らは急速に能書役から退いたため、平安時代以降に書の一族として残ったのは世尊寺家のみであった。
著者
鈴木 蒼
出版者
史学会 ; 1889-
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.129, no.3, pp.306-330, 2020-03