著者
関戸 明子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.17, no.2, pp.265-285, 2022 (Released:2022-08-06)
参考文献数
52
被引用文献数
3

本稿では,明治期の東京における温泉浴場について,公文書,新聞記事,案内書などの資料を精査して,施設の形成過程や分布の変遷を明らかにした.そして当時の社会的背景をふまえたうえで,温泉浴場という場所の意味について考察した.東京では1870年代前半に温泉を名乗る浴場が現れ,1870年代後半から「開化」を象徴するものとして流行した.それは人工的な温泉であり,薬湯,温泉地より原湯を運んだもの,湯の花を入れたものであった.風紀や衛生面で問題のあった浴場の改良も進んだ.1877年には44の浴場は市街地とその近隣に多く分布していた.1885年には178の浴場は市街地に集中的な立地がみられ,その外縁部への展開も認められた.1897年には,浴場が淘汰された結果,市街地外縁部に立地するものが目立つようになった.それらの温泉浴場は,手軽な行楽地として,繁華な市街地から離れて保養する場所となっていた.
著者
関戸 明子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

本報告は,昭和初期に推進された群馬県の観光プロモーションの特徴について,当時の社会的・地域的文脈との関わりから考察するものである。群馬県では,1935(昭和10)年3月20日に群馬県勝地協会が創立された(昭和10年「商工雑事」群馬県立文書館)。会長には当時の群馬県知事・君島清吉,副会長には群馬県経済部長と県会議長など,理事には群馬県総務部長・学務部長・警察部長・土木課長・林務課長・商工課長・衛生課長といった行政職や前橋・高崎・桐生市長など,幹事には前橋・高崎の商工会議所会頭など,評議員には伊香保・水上・草津・四万といった温泉の組合長や各郡の町村長会支部長などが就任しており,官民挙げての組織だったことがわかる。群馬県勝地協会の解散に関する記録は確認できていないが,出版物の刊行状況からみると,1943(昭和18)年までは活動が続いていたことがわかる。1940年以降,不要不急の旅行が抑制され,鉄道輸送の旅客制限が強められていくが,勝地協会の事業はこうした時期にも行われていた。<br> 「設立趣意書並会則」(県史資料「群馬県勝地協会関係綴」群馬県立文書館)には次のようにある。「本県は三面秀嶺を繞らして坂東太郎の清流を養ひ(中略)山河襟帯到る処風光明媚の勝地である。加ふるに史蹟,伝説の人口に膾炙するもの極めて僥く,動植物の世に珍稀なるもの亦少くない。更に温泉は各所に湧出して,古来著しき霊験を伝へ,帝都に近く交通至便なるは真に本県独特の天恵と謂はねばならぬ。殊に上毛三山の一たる赤城山には,昨秋 畏くも 聖駕を枉げさせ給ひ次で奥利根一帯の地は国立公園に指定されて景勝群馬の名声は愈々揚り,正に錦上花を添うるの趣がある」。 このように群馬県は風光明媚の勝地であり,史蹟や温泉も多く,東京に近いことをうたっている。「聖駕を枉げ」とあるのは,1934年11月,群馬県庁に大本営を置いて陸軍特別大演習が行われて,さらに県内を昭和天皇が行幸したことによる。また1934年3月に初めて3か所の国立公園が指定されたのに続き,同年12月に指定を受けた日光国立公園に「奥利根一帯の地」である尾瀬が含まれた。こうしたことが協会設立の契機となったのであろう。<br> さらに「地元大衆の理解と用意とは未だ此の天資に添はず動もすれば其の勝景を傷け,或は適当の施設を誤り,却て造化の殊寵を暴殄するものさへあるは,夙に識者の憂ふる所である。(略)近時一般保健思想の向上は交通機関の発達と相俟て,野外趣味の勃興を促し,国策亦国立公園の開設を計つて以来,各地競うて其の助成策を講じ,天下靡然として観光施設に汲々たる状況である本県民たるもの,豈此の勝地を擁して拱手傍観するを得やうか。(略)是に於て関係者並に有志相諮り,官民合同の勝地協会を設立し,統制ある組織の下に県下の景勝霊地を江湖に紹介し,其の愛護開拓を図つて,来遊者に利便を与え,大いに内外の観光客を迎へ,以て益々国土の精粹を顕揚し,文化の進展に寄与すると共に,天与の恵沢を頒つに遺憾なきを期せんとするものである」と設立の趣意を述べている。保健思想の向上,野外趣味の勃興とは,この時期に健康への関心が高まり,スキー,スケート,ハイキングなどが人気となったことがある。このように群馬県勝地協会は,官民合同の組織のもとで景勝霊地を紹介し,内外から観光客を迎えることを目的として設立された。<br> 「昭和十年度歳入歳出決算並事業成績」には,1.国立公園映画作製,2.赤城公園座談会,3.温泉とスキー展覧会,4.スキー大会,5.「勝地群馬」刊行,6.勝地絵葉書刊行の六つの事業が記されている。「勝地群馬」の著作権兼版権所有者は吉田初三郎,この鳥瞰図の印刷費は3453円32銭で,同年度の歳出の53%を占めていた。図裏面の案内情報には,名所・温泉・スキー場・スケート場・神社・仏閣・史蹟・天然記念物・国宝・重要美術品・古社寺の188箇所を掲載する。さらに勝地協会は1941年に『群馬の史蹟めぐり』,1943年に『群馬健康路 史蹟と温泉巡り』を発行している。 昭和初期の群馬県では,どのような場所がツーリズムの対象となり,意味や価値を付与されたのか,当日報告を行う。<br> [文献] 関戸明子2008.吉田初三郎の鳥瞰図.中西僚太郎・関戸明子編『近代日本の視覚的経験-絵地図と古写真の世界-』119-124. ナカニシヤ出版.
著者
関戸 明子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.252, 2009

明治43(1910)年、群馬県が主催し、関東1府6県、甲信越3県、秋田を除く東北5県が参加した1府14県連合共進会が前橋市を会場に開催された。この連合共進会は、関東地方で開催されたものとしては過去最大規模であった。<br> この共進会に合わせて、群馬県教育品展覧会が開催された。この展覧会は、群馬県教育会の前身である上野教育会が主催したもので、会場は高崎中央尋常高等小学校、開催期間は57日間、入場者は11万人を超えた。展覧会には、教具・器具・資料など25,689点が出品された。<br> 教育品展覧会の出品物は「十の八九は教育者の熱心なる考案製作蒐集施設研究調査の結果にして、従来往々諸処の展覧会が生徒の成績品を以て場の大部分を填めたる如きと頗る其の趣を異にせり。……本県全町村の郷土誌は学校職員と役場員との共同の編纂に成れるものにして、多大の労力と時間とを要せしものなり」(下平末蔵「明治四十三年が与へたる活教訓」上野教育278、1910、pp.1-5)と位置づけられている。<br> 郷土誌は、修身・国語・算術・歴史・地理・理科といった初等教育に設けられた19のカテゴリーの一つとして展示された。『群馬県教育品展覧会目録』には、市町村単位の郷土誌119点が記載されている。10月21日と23日の『上毛新聞』に掲載された記事「展覧会場一巡」によれば、156点の郷土誌が出品されていたことが確認できる。こうした点数の違いは、郷土誌の完成が遅れて追加出品されたことなどで生じたと思われる。<br> これらの郷土誌は、明治42(1909)年9月の県知事の訓令によって編纂されたもので、当時208あった市町村のうち、半数以上で所在が確認されている。この訓令には、市町村長・小学校長は別紙目次により明治43(1910)年6月30日までに郷土誌を調製して市町村役場と市町村立小学校に備え付けることとあるだけで、目的などは明記されていない。郷土誌の目次としては、自然界が地界・水界・気界・動物・植物・鉱物の6章と14節、人文界が戸口・教化・郷土ノ沿革・官公署・風俗習慣・村是規約条例等・経済の7章と29節39目を掲げている。<br> この目次のうち、人文界の第7章「経済」・第8節「郷土ノ公経済」には、地租・耕地・小作料・生産額・消費額・基本財産などに関して15目のデータの収録を求めており、編纂当初より単なる教授資料の調製だけを目的に、この事業が企図されたとは考えにくい。郷土誌は、県レベルや郡レベルでも作られてきた。そのなかで、この編纂事業が町村を範域としたことは、地方改良運動の展開期に行われたことと結びついていると考えられる。このことは、郷土誌を県に提出するのではなく、小学校と役場に備え付けるように命じた点からも推察される。<br> 日露戦争後、地方の疲弊が顕在化するなか、明治41(1908)年10月に戊申詔書が発せられた。これは、国運の発展のために、上下一致して勤勉倹約することなどを説き、地方改良運動を支える精神的な柱となった。これを受けて群馬県では、翌年3月に戊申会が結成され、詔書の奉読が各地で行われた。戊申会成立の準備段階で作られた「群馬県斯民会準條」には、精神教育の奨励、道徳と経済の調和、教育産業の発達、地方自治の向上を目的とすると記されている(『雑事綴(戊申会庶務係)』群馬県立文書館所蔵)。明治42年9月に始まる郷土誌編纂事業もこうした流れを受けたものであろう。<br> その後、明治45(1912)年6月に、郷土誌を初等教育と自治民育とに活用するため県知事の訓令が出された。この訓令は、群馬県報で27頁にも及ぶ詳細なもので、郷土誌の利用方法として7点を掲げている。そのなかには、市町村自治行政上の方針を立てるには資料を郷土誌に採ること、市町村民の指導教化の材料として郷土誌を十分に利用することなどとあり、教育だけでなく地方自治にも活用することを求めている。さらに、「郷土ノ公経済」の項目には、町村の富の程度を他町村と比較し、生産・消費の額を明らかにし、輸出入の過不足を調査し、町村民の自覚と発奮を促し、富の増加を計るべしとある。<br> 郷土誌の編纂とその展覧は、その出来不出来を一覧する機会となった。そこで、町村相互の競争を求めつつ、郷土に役立つ人材の育成を期待したものと考えられる。この時期、国家を支える基盤となる地方行財政の強化を急務としていたため、郷土は町村という具体的な範域をとったといえる。