著者
青山 忠正
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.131-139, 2017-03-01

慶応三年(一八六七)十月十四日、将軍徳川慶喜は、土佐藩の建白に応じて、朝廷に「政権」奉還の上表を呈し、朝廷は翌十五日、これを許可した。上表提出に先立つ十三日、慶喜は在京四十藩の重臣、約五十名を二条城に呼び集め、「政権」奉還の構想を公表し、彼らから意見を徴していた。これらの事実は、すでに周知の事柄であるが、本稿では、佛教大学附属図書館所蔵『新発田藩京都留守居役寺田家文書』のうちから、とくに『諸家様廻章留』及び『窪田平兵衛上京一件』を通じて、大政奉還から王政復古に至る時期の政治状況ならびに諸藩側の立場に立った政治動向を概観する。十月十三日、諸藩重臣の二条城参集において、新発田藩からは京都留守居役寺田喜三郎が参加した。当事者の自筆記録を紹介するのは、本稿が初めてであろう。大政奉還新発田藩京都留守居王政復古
著者
青山 忠正
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.23-42, 1999-03-25

The period between the signing of Japan-America Washin (和親) agreement in 1854 and the commercial treaties in 1858 has been generally considered the age in which Western European countries opened Japan, and the Zyoui (攘夷) movement that become widspread in 1862-1863 was believed to be a conser- vative reaction to the foreign threat. The aim of this paper is to counter the above opinions and to interpret what the words, Washin (和親) , Tsusho (通商), Zyoui (攘夷) originally meant in the East Asia of the 19th century on the historical basis of Kai-Tituzyo (華夷秩序). In 19th century, Japan had two available courses, Tsusho and Zyoui, for dealing with Western foreign powers. Tsusho meant to give foreigners permission of limited trade in Nagasaki. Zyoui meant to expel foreigners who refused Tsusho. And Japan might take a temporary measure while it was not prepared to expel the foreigners yet. That was Washin. The Tokugawa Shogunate Office signed the commercial treaty of free trade in 1858 without domestic agreements, and planned to return to the Washin later. But the Western countries did not recognize the plan. A political group in Japan insisted that Japan should break the treaty if Japan would start a war against the Westerners, and sign a new treaty to which everyone in Japan agreed. They called the strategy Hayakuzyoui (破約攘夷) in 1862-1863. The Hayakuzyoui group did not hesitate to begin war but the Emperor (天皇) and Shogun finally avoided it. Therefore Hayakuzyoui was not realized and the group lost their power.
著者
青山 忠正
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.55-66, 2015-03-01

いわゆる破約攘夷論は、文久二年(一八六二)から三年にかけて最盛期を迎えた。しかし、その主唱者、長州毛利家の言動を見ても、それは一般に理解されているような、一方的な外国艦打ち払い論ではない。むしろ、現行の条約をいったん破棄してでも、日本側が主体的な性格を持つ条約に改めようとする意図を持っていた。孝明天皇においても、その点は同様である。その天皇は、慶応元年(一八六五)十月、条約を勅許するに至った。そこに至る経過を、下関戦争の国際的な背景などを踏まえ、言葉の意味を再吟味しながら考察する。
著者
青山 忠正 淺井 良亮
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.17-33, 2014-03-01

寺田家は、十八世紀において京都の呉服商であったが、十九世紀初めに、越後国新し発ば田たの大名・溝口家の用よう聞きき、ついで京都留守居を務めるようになって士分に取り立てられ、やがて明治四年の廃藩置県を迎える。その間、六十年間以上にわたる関係史料は、約三千点にのぼる。なかでも、二十六冊に及ぶ御用留は、京都留守居の活動状況を知る上で興味深い。本稿は、この寺田家文書の概要を紹介するとともに、御用留の一端を提示して、その史料価値などについて考察する。
著者
青山 忠正
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.61-74, 2001-03-25