著者
青山 忠正
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.131-139, 2017-03-01

慶応三年(一八六七)十月十四日、将軍徳川慶喜は、土佐藩の建白に応じて、朝廷に「政権」奉還の上表を呈し、朝廷は翌十五日、これを許可した。上表提出に先立つ十三日、慶喜は在京四十藩の重臣、約五十名を二条城に呼び集め、「政権」奉還の構想を公表し、彼らから意見を徴していた。これらの事実は、すでに周知の事柄であるが、本稿では、佛教大学附属図書館所蔵『新発田藩京都留守居役寺田家文書』のうちから、とくに『諸家様廻章留』及び『窪田平兵衛上京一件』を通じて、大政奉還から王政復古に至る時期の政治状況ならびに諸藩側の立場に立った政治動向を概観する。十月十三日、諸藩重臣の二条城参集において、新発田藩からは京都留守居役寺田喜三郎が参加した。当事者の自筆記録を紹介するのは、本稿が初めてであろう。大政奉還新発田藩京都留守居王政復古
著者
斎藤 英喜
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.11, pp.65-88, 2021-03-01

折口信夫の学問に陰陽道、陰陽師の存在が重要な意味をもつことは、これまでも指摘されてきたところだ。とりわけ柳田國男の学問との相違点として論じられてきた、定型的な議論ともいえる。これにたいして、本稿では、近年の陰陽道史研究の進展のなかで、折口説を読み直し、その先駆的な見解とともに、陰陽道、陰陽師研究が、神社を基盤とした近代神道を歴史的に対象化し、そのあり方を相対化することで、国家神道?神社神道へのアンチテーゼとなることを明らかにする。折口信夫陰陽道簠簋内伝天社神道神社神道批判
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 = Journal of the School of History (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.8, pp.19-38, 2018-03

第七師団歩兵聯隊の上等兵が、従軍中に書き続けた日記の翻刻。氏名不詳。召集まで北海道焼尻島警察分署に勤務していた警察官。従軍中に伍長に任じられ下士官となった。記録の期間は、一九〇四年一一月一三日大阪港を出発し、奉天会戦などに参戦し、一九〇六年二月一八日三台子から「凱旋ノ途」につき、二八日神戸港に着くが上陸許可されず、三月三日室蘭港に入港、市民数十万人の歓迎を受け、帰国。一六日増毛に入港して、故郷の歓迎を受ける一八日までの日誌である。休戦協定以後の隊内娯楽の記述は珍しく、また講和成立に対する聯隊長と兵士の差が面白い。今回は、二回連載の前半部になる。日露戦争従軍日記歩兵聯隊乗馬歩兵隊第七師団
著者
青山 忠正
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 = Journal of the School of History (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.10, pp.43-56, 2020-03

慶応三年十二月九日、「王政復古」の政変が起きた。これにより、「摂関幕府等廃絶」が宣言され、公家・武家双方の旧制度が廃止されたのである。この政変については、薩摩藩及び長州藩の主導によるとの印象が、一般的には強いようだが、現実の政局運営においては、必ずしも有力とはいえないような諸藩の勢力が、多数意見を形成し、政局の動向を根底の部分で規定していた。本稿では、このような諸藩の見解を公議ととらえ、新発田藩を事例として、政局との関わりを明らかにする。公議王政復古新発田藩京都留守居窪田平兵衛
著者
門田 誠一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.1, pp.15-32, 2011-03

朝鮮三国時代の新羅の金石文と日本古代の文献には牛を殺して盟誓や祭儀を行うといわゆる殺牛祭祀が記されている。とくに新羅の殺牛祭祀は近年になって発見された金石文にみえるので、日本古代の殺牛との比較研究は少なく、また、中国の供犠や祭祀に伴う殺牛との比較も十分とはいえなかった。本論では新羅と古代日本の殺牛祭祀を相互に比較するとともに、中国の文献や考古資料にみえる牛を用いた犠牲や祭祀をも参照しつつ、それらとの対比から東アジアにおける新羅と古代日本で行われた殺牛祭祀の各々の特質を示し、あわせて両者には系譜性があることを論じた。東アジア古代金石文殺牛祭祀
著者
髙田 祐介
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.55-78, 2016-03-01

本稿では、明治維新直後に生じた外交問題として知られる、堺事件とその「殉難者」の近代日本における顕彰過程に焦点をあてた。近代という時間軸を通してこれを跡づけた場合、国家による評価の揺らぎや、ときに国家との相克を伴う地域の顕彰活動および歴史像の形成が析出された。それとともに事件現場の堺のみならず事件当事者の出身地である高知あるいは中央の政治家など、広範な顕彰主体の存在と時々の情勢に沿ったその変遷という顕彰の推移が明確となり、特に靖国合祀に至る経過を、初めて実証的に解明した。明治維新堺事件殉難者顕彰靖国神社合祀
著者
小俣ラポー 日登美
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.11, pp.45-65, 2021-03-01

16世紀にイエズス会によりカトリックキリスト教の宣教を受けた日本については、日本がいわゆる鎖国を行った後も、様々なイメージがイエズス会の活動を通じてヨーロッパに普及した。「偶像崇拝」の地であるという言説は、そのイメージの一側面である。本稿では、ローマにあるイエズス会母教会ジェズ教会の彫刻にあった日本の神仏についての刻印と、その制作の思想的背景を準備したと考えられるフランス人イエズス会士ルイ・リショームの著作にみられる日本関連の記述を分析する。その過程で、本著作での日本への言及は、近世ヨーロッパのカトリック教会にとってより大きな脅威であったプロテスタントやオスマン帝国の宗教だったイスラム教の比較対象として登場した事が明らかとなる。像崇拝イエズス会日本のイメージプロテスタントイスラム教
著者
西川 利文
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.6, pp.35-52, 2016-03

従来から、曹操が独自の勢力を形成する時に、辟召(公府による辟召)を盛んに行ったことが指摘されている。しかしそれがどのように行われたのか、具体的な分析は必ずしも十分には行われてこなかった。そこで本稿では、漢代の一般的な辟召と対照した時、曹操の行った辟召にどのような特徴が見られるのかを、具体例を提示しながら基礎的な分析を行った。そこからは、従来の辟召では行われなかった、新たな形の辟召の姿が見えてくる。その一つが、現役の官僚(命官)を辟召するということである。これがいかなる意味を持つのか、本稿ではその一端を提示する。後漢後半期曹操公府辟召曹操政権論
著者
今掘 太逸
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.7, pp.3-22, 2017-03

徳川家の女性と総本山知恩院今堀太逸〔抄録〕日本人と寺院の歴史を研究するとき、宗派の歴史をふまえて考察する必要がある。慶長八年(一六〇三)、徳川家康は法然廟堂の浄土宗総本山知恩院に大伽藍を造立した。以後、御影堂には徳泰院(家康母於大)と家康・秀忠の将軍束帯像が安置され、所司代以下の武家衆が月参りをすることになる。家康が知恩院を将軍家京都菩提所としたのは、先祖松平親忠の五男超誉存牛が二十五世住職として、天皇家の帰依を受け、勅願所・浄土宗総本寺の地位を確立したことによる。徳川三代将軍は、勅願所である知恩院を将軍家菩提所として崇敬、支援することで、天皇家と将軍家の融和を果たした。その結果、元禄十年(一六九七)一月十八日、東山天皇より法然に「円光大師」の大師号が下賜され、知恩院が京の町の平和と繁栄を象徴する伽藍として隆盛する。本稿では、徳川家の菩提所としての知恩院、また、徳川家ゆかりの女性の浄土宗帰依と知恩院崇敬を考察する。日本人と寺院将軍家京都菩提所葬祭と年忌仏事信心と供養勢至堂万日回向
著者
西川 利文
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.6, pp.27-42, 2016-03

漢代の「史書」は、一般的には書体(隷書や大篆)を意味すると考えられているが、一方で「吏書」=官文書とする異説があった。張家山漢簡・史律の釈文が公表されると、そこに見られる「史書」をめぐって、文献史料とのかかわりで議論が活発化した。しかしそこでも書体説が大勢を占めているようであるが、私見では史律の「史書」は従来の見方ではとらえきれないものだと考える。この点については以前に指摘しており、本稿では文献史料に見える「史書」を再点検する。そこから、従来から見解が分かれるのは、文献史料の「史書」が時期によって、その意味する内容が異なることに一因があることを指摘し、新たな「史書」に対する観点を提示する。漢代史書聡慧(聡恵)小学官文書
著者
植村 善博
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.4, pp.1-18, 2014-03

The Kitatajima earthquake (M=6.8) hit at 11:10 a.m. May 23, 1925, and caused vast devastation of Toyookacho and Kinosakicho located on alluvial plain of River Maruyama,Northern Hyogo Prefecture.This happened in about one year and nine months after 1925 Kanto and before 1927 Kitatango earthquakes. This paper is aimed at discussing the cause of seismic damage and reconstruction process of Toyookacho from view point of comparison with 1925 and 1927 earthquakes. Conclusions are summarized as the followings: 1)Judged from degree and distribution of damaged houses, seismic intensity of the town was 6 degree, but Nagai located on newly reclaimed land and Odai located on abandonned channel were experienced up to 6high degree by more severe shaking resulted from soft ground. 2)Prefectural authorities quickly coped with rescue and temporal recovery,and claimed local governments to widen main roads and to perform land readjustment based on the lesson learned from Kanto earthquake. 3)Toyookacho tried to perform town planning of urban area by way of cultivated land reajustment,but was failed in it by strong opposition of landowners and temples. As a result, there had been left broad area with irregular and narrow roads 4)Reconstruction of Toyookacho is characterized by some remarkable achievements as follows. (1) As a street in front of station,Daikai Street (old Nagai douri)was widened 14.4m width with sidewalk and roadside tree both sides. (2)The civic center where city hall,post office,police station,tax office and firehouse were newly rebuilt,was completed as the only one example of reconstruction in Japan.(3)New anti-fire concrete buildings were encouraged, and there are many concrete buildings with unique design that are evaluated as cultural asset located along Daikai and Motomachi Streets.5)In Kitatango earthquake, Mineyamacho firstly decided widenning the roads in urban area instead of abandonment land readjustment. But, Aminoku of Aminocho was perfectly achieved land readjustment of residence area by way of cultivated land adjustment. These should be reflected the lesson learned from reconstruction process of Toyookacho in Kitatajima earthquake.seismic damagereconstruction processToyookacho1925 Kitatajima earthquake
著者
村田 真一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.11, pp.107-122, 2021-03-01

「応令大神宇佐二氏任八幡大菩薩宮司事」と題される弘仁十二年の太政官符(「弘仁官符」)に引載された「大神清麿等解状」には、八幡神は「太上天皇の御霊なり」とあり、飯沼賢司はこれを聖武天皇のことだと指摘した。「弘仁官符」が八幡聖武同体説を示すのだとすれば、古代八幡信仰について八幡応神同体説を前提としない分析が求められる。この観点から以下のことを論じた、『続日本紀』の八幡神の出現と活躍は聖武天皇が皇神化を企図したものであり、また、それは百官諸氏が参集した八幡神の東大寺礼拝という儀礼において国家的神話として承認される。そして、このような聖武天皇と八幡神の特異な関係を前提に「弘仁官符」の八幡聖武同体説があらわれるのである。さらに「弘仁官符」は、八幡聖武同体説を基幹とした、大神氏による宇佐宮祭祀の必要性を訴える神話について、大宰府、太政官という官僚官人組織の経路において国家的に承認するものであった。八幡神聖武天皇応神天皇続日本紀弘仁官符
著者
樽井 由紀
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.10, pp.43-50, 2020-03-01

日本には三千近い温泉地があると言われている。日本人は熱い湯に身体を浸すと気持ちがよく、疲れが取れ、気持ちよく感じ、熱い湯につかるのを好む。このように熱いお湯に入るのは世界では珍しく、日本独特の習慣、文化だといえる。本稿は「湯浴みをめぐる習俗と伝承」についての研究である。「湯浴みをめぐる習俗と伝承」とは、湯を浴びること、湯に入って身体を暖め、洗うこと、温泉に入って病気を治すことをはじめとして、湯治、温泉と共同湯など「湯」と関わる習慣、文化、入浴法、慣わしなどを含む全般的な習俗と伝承を指すと考えたい。温泉民俗学湯浴み有馬温泉湯女
著者
斎藤 英喜
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.7, pp.37-60, 2017-03

独創的な国文学者、民俗学者、あるいは詩人として知られる折口信夫は、もうひとつの顔をもつ。「神道学者」としての折口信夫である。それは狭い神道学に限定されることない可能性を孕んでいる。すなわちヨリシロ・マレビト・ミコトモチ・鎮魂・ムスビという「折口名彙」とその学問的成果は、近代に形成されていく「神道」(国家神道・神社神道)への異議申し立てという役割を担っていたからである。本稿は、大正期から昭和・戦前、戦後にわたる折口の学問を、中世から近世、近代へと展開する<神道史>のなかに位置づけなおし、その可能性を探る試みである。折口信夫髯籠の話大嘗祭鎮魂神道宗教化論ムスビ神既存者
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.6, pp.95-113, 2016-03

青森県南津軽郡野沢村出身の對馬政治郎が記した、日露戦争従軍日記の翻刻紹介。對馬政治郎日露戦争従軍日記青森県野沢村浪岡町
著者
青山 忠正
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.10, pp.43-56, 2020-03-01

慶応三年十二月九日、「王政復古」の政変が起きた。これにより、「摂関幕府等廃絶」が宣言され、公家・武家双方の旧制度が廃止されたのである。この政変については、薩摩藩及び長州藩の主導によるとの印象が、一般的には強いようだが、現実の政局運営においては、必ずしも有力とはいえないような諸藩の勢力が、多数意見を形成し、政局の動向を根底の部分で規定していた。本稿では、このような諸藩の見解を公議ととらえ、新発田藩を事例として、政局との関わりを明らかにする。公議王政復古新発田藩京都留守居窪田平兵衛
著者
門田 誠一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 = Journal of the School of History (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.8, pp.1-18, 2018-03

本論では魏志倭人伝にみえる魏から卑弥呼に下賜された物品のうち、「五尺刀」について、漢代を中心とした鉄刀の銘文に尺の単位で表現される類例から、五尺刀の長さを推定する。また、刀銘には吉祥句などが記され、佩用する者を寿ほぐという目的があるとともに、史料・文献から臣に対する寵愛や死後の追悼の際に下賜され、匈奴に対する事例に示されるように蛮夷に対して与えられた。刀剣の長さである尺寸に関しては、漢代から南北朝にかけて、尺を単位とし、文化・教養に依拠したいわば人文的類型の表現であり、尺刀が官吏の用いる文房具的な利器であるのに対し、七尺刀が軍事的権威や個人の勇武を可視的に表徴し、五尺刀は佩刀としては一般的なものではあるが、南北朝期の歌謡にも所有が切望されることがみえ、南朝・梁では有銘の五尺刀そのものの発現が吉祥とされた。このように五尺刀を含む刀剣は、吉祥句を銘すことによって佩用者を寿ほぎ、あるいは有銘の五尺刀そのものが祥瑞であり、また、これを黄金ともに下賜品することは漢代以来の系譜を引くことを示した。五尺刀卑弥呼魏志倭人伝銘文刀剣
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.8, pp.19-38, 2018-03-01

第七師団歩兵聯隊の上等兵が、従軍中に書き続けた日記の翻刻。氏名不詳。召集まで北海道焼尻島警察分署に勤務していた警察官。従軍中に伍長に任じられ下士官となった。記録の期間は、一九〇四年一一月一三日大阪港を出発し、奉天会戦などに参戦し、一九〇六年二月一八日三台子から「凱旋ノ途」につき、二八日神戸港に着くが上陸許可されず、三月三日室蘭港に入港、市民数十万人の歓迎を受け、帰国。一六日増毛に入港して、故郷の歓迎を受ける一八日までの日誌である。休戦協定以後の隊内娯楽の記述は珍しく、また講和成立に対する聯隊長と兵士の差が面白い。今回は、二回連載の前半部になる。日露戦争従軍日記歩兵聯隊乗馬歩兵隊第七師団