著者
奥野 義雄
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-22, 2013-03-01

本稿では、『日本史辞典』の「荘官」「荘司」の項の記述を契機に荘園公領制における<荘司>の存在は、辞典の記述と同様であるのかという疑問が湧き、<荘司>について検討することにした。そこで、古代・中世での荘司自体の存在形態の変化は在り得るものなのか、また古代・中世の<荘司>の職責は変貌したものなのか、そして荘官である荘司と預所・下司を同一視する身分であるものなのかという疑問点を検討してきた。この検討で、古代の荘司自体とその職責は中世に至っても大きな変化をもたらさずに存在することを提示してきた。併せて、<荘司>が預所や下司と同一視できないことも言及している。
著者
奥野 義雄
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.21-42, 2012-03-01

本稿では、〈荘務〉と〈所務〉にいて究明していく。とりわけ、〈荘務〉と〈所務〉が荘園領主と地頭を含む在地領主と深くかかわっていることは、先学によって触れられてきたが、詳しく〈荘務〉〈所務〉について論究する先学は多くはない。その論及の大半は所職と〈荘務〉との関連を提示している。だが、荘園領主による勢力保持と在地領主の勢力伸長の手段として〈荘務〉あるいは〈所務〉を有効に活用してきたと考えている。とりわけ、在地領主による荘園所領の侵食に〈所務〉が深くかかわっていることもあわせて言及する。
著者
青山 忠正
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.131-139, 2017-03-01

慶応三年(一八六七)十月十四日、将軍徳川慶喜は、土佐藩の建白に応じて、朝廷に「政権」奉還の上表を呈し、朝廷は翌十五日、これを許可した。上表提出に先立つ十三日、慶喜は在京四十藩の重臣、約五十名を二条城に呼び集め、「政権」奉還の構想を公表し、彼らから意見を徴していた。これらの事実は、すでに周知の事柄であるが、本稿では、佛教大学附属図書館所蔵『新発田藩京都留守居役寺田家文書』のうちから、とくに『諸家様廻章留』及び『窪田平兵衛上京一件』を通じて、大政奉還から王政復古に至る時期の政治状況ならびに諸藩側の立場に立った政治動向を概観する。十月十三日、諸藩重臣の二条城参集において、新発田藩からは京都留守居役寺田喜三郎が参加した。当事者の自筆記録を紹介するのは、本稿が初めてであろう。大政奉還新発田藩京都留守居王政復古
著者
斎藤 英喜
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.11, pp.65-88, 2021-03-01

折口信夫の学問に陰陽道、陰陽師の存在が重要な意味をもつことは、これまでも指摘されてきたところだ。とりわけ柳田國男の学問との相違点として論じられてきた、定型的な議論ともいえる。これにたいして、本稿では、近年の陰陽道史研究の進展のなかで、折口説を読み直し、その先駆的な見解とともに、陰陽道、陰陽師研究が、神社を基盤とした近代神道を歴史的に対象化し、そのあり方を相対化することで、国家神道?神社神道へのアンチテーゼとなることを明らかにする。折口信夫陰陽道簠簋内伝天社神道神社神道批判
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 = Journal of the School of History (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.8, pp.19-38, 2018-03

第七師団歩兵聯隊の上等兵が、従軍中に書き続けた日記の翻刻。氏名不詳。召集まで北海道焼尻島警察分署に勤務していた警察官。従軍中に伍長に任じられ下士官となった。記録の期間は、一九〇四年一一月一三日大阪港を出発し、奉天会戦などに参戦し、一九〇六年二月一八日三台子から「凱旋ノ途」につき、二八日神戸港に着くが上陸許可されず、三月三日室蘭港に入港、市民数十万人の歓迎を受け、帰国。一六日増毛に入港して、故郷の歓迎を受ける一八日までの日誌である。休戦協定以後の隊内娯楽の記述は珍しく、また講和成立に対する聯隊長と兵士の差が面白い。今回は、二回連載の前半部になる。日露戦争従軍日記歩兵聯隊乗馬歩兵隊第七師団
著者
青山 忠正
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.55-66, 2015-03-01

いわゆる破約攘夷論は、文久二年(一八六二)から三年にかけて最盛期を迎えた。しかし、その主唱者、長州毛利家の言動を見ても、それは一般に理解されているような、一方的な外国艦打ち払い論ではない。むしろ、現行の条約をいったん破棄してでも、日本側が主体的な性格を持つ条約に改めようとする意図を持っていた。孝明天皇においても、その点は同様である。その天皇は、慶応元年(一八六五)十月、条約を勅許するに至った。そこに至る経過を、下関戦争の国際的な背景などを踏まえ、言葉の意味を再吟味しながら考察する。
著者
青山 忠正
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 = Journal of the School of History (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.10, pp.43-56, 2020-03

慶応三年十二月九日、「王政復古」の政変が起きた。これにより、「摂関幕府等廃絶」が宣言され、公家・武家双方の旧制度が廃止されたのである。この政変については、薩摩藩及び長州藩の主導によるとの印象が、一般的には強いようだが、現実の政局運営においては、必ずしも有力とはいえないような諸藩の勢力が、多数意見を形成し、政局の動向を根底の部分で規定していた。本稿では、このような諸藩の見解を公議ととらえ、新発田藩を事例として、政局との関わりを明らかにする。公議王政復古新発田藩京都留守居窪田平兵衛
著者
門田 誠一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.1, pp.15-32, 2011-03

朝鮮三国時代の新羅の金石文と日本古代の文献には牛を殺して盟誓や祭儀を行うといわゆる殺牛祭祀が記されている。とくに新羅の殺牛祭祀は近年になって発見された金石文にみえるので、日本古代の殺牛との比較研究は少なく、また、中国の供犠や祭祀に伴う殺牛との比較も十分とはいえなかった。本論では新羅と古代日本の殺牛祭祀を相互に比較するとともに、中国の文献や考古資料にみえる牛を用いた犠牲や祭祀をも参照しつつ、それらとの対比から東アジアにおける新羅と古代日本で行われた殺牛祭祀の各々の特質を示し、あわせて両者には系譜性があることを論じた。東アジア古代金石文殺牛祭祀
著者
髙田 祐介
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.55-78, 2016-03-01

本稿では、明治維新直後に生じた外交問題として知られる、堺事件とその「殉難者」の近代日本における顕彰過程に焦点をあてた。近代という時間軸を通してこれを跡づけた場合、国家による評価の揺らぎや、ときに国家との相克を伴う地域の顕彰活動および歴史像の形成が析出された。それとともに事件現場の堺のみならず事件当事者の出身地である高知あるいは中央の政治家など、広範な顕彰主体の存在と時々の情勢に沿ったその変遷という顕彰の推移が明確となり、特に靖国合祀に至る経過を、初めて実証的に解明した。明治維新堺事件殉難者顕彰靖国神社合祀
著者
太田 修
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.83-110, 2015-03-01

本資料は、日韓会談文書全面公開(「日韓会談文書開示決定処分取消等請求控訴事件」)について東京高等裁判所で行われた裁判のために書いた陳述書である。最初に、日韓国交正常化交渉の歴史をふり返り、植民地支配・戦争被害が清算されなかったことを論じた。次に、この植民地支配・戦争被害を不問にする枠組みは、その後もそのまま維持されたわけではなく、1990年前後の東西冷戦の崩壊後には、日本政府の立場は、植民地支配不当論へと変化したことを明らかにし、その上で、今日の日韓間、および日朝間の植民地支配・戦争被害の問題における現状と課題について述べた。最後に、日韓会談文書非開示の問題点とその公開の公益性および必要性について論じ、日韓間、および日朝間にある植民地支配・戦争被害の問題を真に解決するためにも、日韓会談文書の全面公開が必要であることを訴えた。
著者
小俣ラポー 日登美
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.11, pp.45-65, 2021-03-01

16世紀にイエズス会によりカトリックキリスト教の宣教を受けた日本については、日本がいわゆる鎖国を行った後も、様々なイメージがイエズス会の活動を通じてヨーロッパに普及した。「偶像崇拝」の地であるという言説は、そのイメージの一側面である。本稿では、ローマにあるイエズス会母教会ジェズ教会の彫刻にあった日本の神仏についての刻印と、その制作の思想的背景を準備したと考えられるフランス人イエズス会士ルイ・リショームの著作にみられる日本関連の記述を分析する。その過程で、本著作での日本への言及は、近世ヨーロッパのカトリック教会にとってより大きな脅威であったプロテスタントやオスマン帝国の宗教だったイスラム教の比較対象として登場した事が明らかとなる。像崇拝イエズス会日本のイメージプロテスタントイスラム教
著者
斎藤 英喜
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.79-102, 2014-03-01

高知県の民間信仰、いざなぎ流には「金神の祭文」が伝えられている。金神忌は、平安時代末期から陰陽道と明経道のあいだで、その禁忌をめぐって議論されてきた、恐ろしい遊行神である。本論では平安期の古記録に見られる金神忌の記事の分析、中世における金神の神格をめぐる「神話」、そして民間系陰陽道書の『内伝』の解読を通じて、いざなぎ流の「金神の祭文」の独特な儀礼世界を読み解くで、その歴史的な特質を明らかにしていく。
著者
西川 利文
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.6, pp.35-52, 2016-03

従来から、曹操が独自の勢力を形成する時に、辟召(公府による辟召)を盛んに行ったことが指摘されている。しかしそれがどのように行われたのか、具体的な分析は必ずしも十分には行われてこなかった。そこで本稿では、漢代の一般的な辟召と対照した時、曹操の行った辟召にどのような特徴が見られるのかを、具体例を提示しながら基礎的な分析を行った。そこからは、従来の辟召では行われなかった、新たな形の辟召の姿が見えてくる。その一つが、現役の官僚(命官)を辟召するということである。これがいかなる意味を持つのか、本稿ではその一端を提示する。後漢後半期曹操公府辟召曹操政権論
著者
今掘 太逸
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.7, pp.3-22, 2017-03

徳川家の女性と総本山知恩院今堀太逸〔抄録〕日本人と寺院の歴史を研究するとき、宗派の歴史をふまえて考察する必要がある。慶長八年(一六〇三)、徳川家康は法然廟堂の浄土宗総本山知恩院に大伽藍を造立した。以後、御影堂には徳泰院(家康母於大)と家康・秀忠の将軍束帯像が安置され、所司代以下の武家衆が月参りをすることになる。家康が知恩院を将軍家京都菩提所としたのは、先祖松平親忠の五男超誉存牛が二十五世住職として、天皇家の帰依を受け、勅願所・浄土宗総本寺の地位を確立したことによる。徳川三代将軍は、勅願所である知恩院を将軍家菩提所として崇敬、支援することで、天皇家と将軍家の融和を果たした。その結果、元禄十年(一六九七)一月十八日、東山天皇より法然に「円光大師」の大師号が下賜され、知恩院が京の町の平和と繁栄を象徴する伽藍として隆盛する。本稿では、徳川家の菩提所としての知恩院、また、徳川家ゆかりの女性の浄土宗帰依と知恩院崇敬を考察する。日本人と寺院将軍家京都菩提所葬祭と年忌仏事信心と供養勢至堂万日回向
著者
西川 利文
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.6, pp.27-42, 2016-03

漢代の「史書」は、一般的には書体(隷書や大篆)を意味すると考えられているが、一方で「吏書」=官文書とする異説があった。張家山漢簡・史律の釈文が公表されると、そこに見られる「史書」をめぐって、文献史料とのかかわりで議論が活発化した。しかしそこでも書体説が大勢を占めているようであるが、私見では史律の「史書」は従来の見方ではとらえきれないものだと考える。この点については以前に指摘しており、本稿では文献史料に見える「史書」を再点検する。そこから、従来から見解が分かれるのは、文献史料の「史書」が時期によって、その意味する内容が異なることに一因があることを指摘し、新たな「史書」に対する観点を提示する。漢代史書聡慧(聡恵)小学官文書
著者
貝 英幸
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.35-46, 2014-03-01

室町期に行なわれた近江国百済寺の再建復興活動および勧進活動に際して作成された勧進願文を題材にしながら、願文にみえる創建譚を検討する。特に創建の逸話には、創建譚創出時の同寺を取り巻く社会的な状況が反映していると考えられることから、勧進願文の検討を通じて同寺創建譚創出の事情および背景を探る。
著者
若井 敏明
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.77-89, 2013-03-01

白雉四年(六五三)に中大兄皇子らが孝徳天皇をおいて難波から飛鳥に帰還した事件(白雉四年の政変と呼称)を、改新政府がすすめた改革と大夫や伴造・国造との関係を中心に考察。改新政府の進めた徳治主義的改革は彼らの利害とあいいれず、その不平を背景に開発独裁的政治をめざす中大兄皇子がおこしたクーデターとの評価が与えられることを論じた。
著者
植村 善博
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.4, pp.1-18, 2014-03

The Kitatajima earthquake (M=6.8) hit at 11:10 a.m. May 23, 1925, and caused vast devastation of Toyookacho and Kinosakicho located on alluvial plain of River Maruyama,Northern Hyogo Prefecture.This happened in about one year and nine months after 1925 Kanto and before 1927 Kitatango earthquakes. This paper is aimed at discussing the cause of seismic damage and reconstruction process of Toyookacho from view point of comparison with 1925 and 1927 earthquakes. Conclusions are summarized as the followings: 1)Judged from degree and distribution of damaged houses, seismic intensity of the town was 6 degree, but Nagai located on newly reclaimed land and Odai located on abandonned channel were experienced up to 6high degree by more severe shaking resulted from soft ground. 2)Prefectural authorities quickly coped with rescue and temporal recovery,and claimed local governments to widen main roads and to perform land readjustment based on the lesson learned from Kanto earthquake. 3)Toyookacho tried to perform town planning of urban area by way of cultivated land reajustment,but was failed in it by strong opposition of landowners and temples. As a result, there had been left broad area with irregular and narrow roads 4)Reconstruction of Toyookacho is characterized by some remarkable achievements as follows. (1) As a street in front of station,Daikai Street (old Nagai douri)was widened 14.4m width with sidewalk and roadside tree both sides. (2)The civic center where city hall,post office,police station,tax office and firehouse were newly rebuilt,was completed as the only one example of reconstruction in Japan.(3)New anti-fire concrete buildings were encouraged, and there are many concrete buildings with unique design that are evaluated as cultural asset located along Daikai and Motomachi Streets.5)In Kitatango earthquake, Mineyamacho firstly decided widenning the roads in urban area instead of abandonment land readjustment. But, Aminoku of Aminocho was perfectly achieved land readjustment of residence area by way of cultivated land adjustment. These should be reflected the lesson learned from reconstruction process of Toyookacho in Kitatajima earthquake.seismic damagereconstruction processToyookacho1925 Kitatajima earthquake
著者
村田 真一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.11, pp.107-122, 2021-03-01

「応令大神宇佐二氏任八幡大菩薩宮司事」と題される弘仁十二年の太政官符(「弘仁官符」)に引載された「大神清麿等解状」には、八幡神は「太上天皇の御霊なり」とあり、飯沼賢司はこれを聖武天皇のことだと指摘した。「弘仁官符」が八幡聖武同体説を示すのだとすれば、古代八幡信仰について八幡応神同体説を前提としない分析が求められる。この観点から以下のことを論じた、『続日本紀』の八幡神の出現と活躍は聖武天皇が皇神化を企図したものであり、また、それは百官諸氏が参集した八幡神の東大寺礼拝という儀礼において国家的神話として承認される。そして、このような聖武天皇と八幡神の特異な関係を前提に「弘仁官符」の八幡聖武同体説があらわれるのである。さらに「弘仁官符」は、八幡聖武同体説を基幹とした、大神氏による宇佐宮祭祀の必要性を訴える神話について、大宰府、太政官という官僚官人組織の経路において国家的に承認するものであった。八幡神聖武天皇応神天皇続日本紀弘仁官符