著者
南條 佳代
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.55-70, 2014-03-25

佛教大学二条キャンパス造成地であった京都市中京区西ノ京星ヶ池町にて、「三条院釣殿高坏」と墨書された高坏が出土しよしみたため、そこは、平安時代前期に右大臣を務めた藤原良相(八一三?八六七)の邸宅「西三条第」(百花亭)跡地であることが確実になった。さらにそこでは、仮名文字が記された墨書土器が多数出土した。その表記内容について解釈されている釈文を、新たに変体仮名の文字形態より分析、検討を加えた結果、出土土器(墨14)には、古今和歌集の初句が表記されているのではないかと考えられ、また、(墨15)は、「かつらきの」と判読できることから万葉歌の一部分であると考察される。それらを踏まえ、書風についても実際の書道史上の作品との比較を通して明確にする。
著者
青山 忠正
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.23-42, 1999-03-25

The period between the signing of Japan-America Washin (和親) agreement in 1854 and the commercial treaties in 1858 has been generally considered the age in which Western European countries opened Japan, and the Zyoui (攘夷) movement that become widspread in 1862-1863 was believed to be a conser- vative reaction to the foreign threat. The aim of this paper is to counter the above opinions and to interpret what the words, Washin (和親) , Tsusho (通商), Zyoui (攘夷) originally meant in the East Asia of the 19th century on the historical basis of Kai-Tituzyo (華夷秩序). In 19th century, Japan had two available courses, Tsusho and Zyoui, for dealing with Western foreign powers. Tsusho meant to give foreigners permission of limited trade in Nagasaki. Zyoui meant to expel foreigners who refused Tsusho. And Japan might take a temporary measure while it was not prepared to expel the foreigners yet. That was Washin. The Tokugawa Shogunate Office signed the commercial treaty of free trade in 1858 without domestic agreements, and planned to return to the Washin later. But the Western countries did not recognize the plan. A political group in Japan insisted that Japan should break the treaty if Japan would start a war against the Westerners, and sign a new treaty to which everyone in Japan agreed. They called the strategy Hayakuzyoui (破約攘夷) in 1862-1863. The Hayakuzyoui group did not hesitate to begin war but the Emperor (天皇) and Shogun finally avoided it. Therefore Hayakuzyoui was not realized and the group lost their power.
著者
鈴木 亜香音
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.95-113, 2015-03-25

本稿は,元安寧学区絵図群,特に大工町を中心に,絵図から地籍図,そして旧公図への系譜を検討したものである。先行研究で指摘されてきた9種類の絵図のうち,記載項目の変化や加筆の有無を指標として検討した結果,大工町では「町組改正絵図」,「軒役改正絵図」,「大工町絵図」(「壬申地券地引絵図」と推定),「地租改正地引絵図(等級)」,「地籍編纂地籍地図」,「旧公図」の6種類が確認できた。その6種類の系譜的関係から,近世町絵図を出発点として,近代初期の町絵図から地籍図的な要素をもつ絵図,地籍図,そして旧公図への流れが確認できた。このことは,近代の地図として理解されてきた地籍図が,近世町絵図を近代的な土地管理への移行にあわせて改変したものであったことを意味している。また,近代的な地籍図への転換点が「壬申地券地引絵図」から「地籍編纂地籍地図」への変化にあったことが明らかになった。これは,図面と台帳との分化がここから進んでいったことにも現れているのである。
著者
アンダソヴァ マラル
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.71-81, 2014-03-25

本稿は、古事記および日本書紀における崇神天皇の段を取り上げ、オホモノヌシの登場をふくめ、両書におけるシャーマニズムの考察を試みるものである。古事記ではヤマトは異界として位置付けることができ、その中で崇神天皇によるオホモノヌシの祭祀が描かれる。それに対して、日本書紀では中国を意識した天皇像が描かれつつも、天皇が神々の祭祀を自ら行っていくというシャーマニズムの在り方がうかがえるのである。
著者
筒井 大祐
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.1-18, 2014-03-25

神功皇后新羅出兵譚を語る中世期の資料のひとつに『平家物語』がある。『平家物語』の神功皇后新羅出兵譚は、八幡縁起資料の内容と異なり、その依拠資料は未だ解明されていない。そこで本稿では、中世期における神功皇后伝承の展開を考察するためにも、延慶本『平家物語』の神功皇后新羅出兵譚を取り上げ、その依拠資料の解明を目的とする。そのために本稿では、従来、言及されていない延慶本と同一の神功皇后伝承を載せる資料として、聖徳太子伝を指摘し、その内容を延慶本と比較した。さらに、延慶本と同文の新羅出兵譚を有する太子伝の伝本である、寛文六年刊本、真福寺文庫蔵『仏法最初弘仁伝』、養寿寺蔵『平氏伝』などの文保本太子伝と、延慶本を比較、検討した結果、延慶本の神功皇后新羅出兵譚の依拠資料が聖徳太子伝であると結論付けた。
著者
長谷川 智治
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.67-108, 2012-03-25

数多ある山岳表現をもつ作例の中でも法隆寺・玉虫厨子の山岳に施された表現・技法は特殊であり、類似作例はみられない。だがその全てが独自のもので、他からの影響が皆無であるとは考え難い。本論ではその源流を辿るべく古代中国の山岳表現をもつ作例の観察と読み解きを進めた。その上で玉虫厨子山岳表現の詳細な観察との比較を行った結果、玉虫厨子の山岳はある特定の時代や様式の影響を受けて施工されたのではなく、様々な時代の特徴を内包した復古的とも呼べる表現であることが判明した。そして比較対象として重要な表現をもつ作例が、梁と西魏と云う隣接した時代に確認された。さらに捨身飼虎図は場面の中に枝の折れた竹を含ませることで、場面から場面への時間的推移を表していた。そして物語の舞台である山岳は静から動へと変動していく様を場面順に捉えており、『金光明経』捨身品にある「大地六種震動」の情景が描写されている可能性が示唆された。
著者
飯田 隆夫
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.27, pp.17-26, 2020-03-25

相模国の古義真言宗寺院の大山寺には、一五三二(享禄五)年の仮名本『大山寺縁起絵巻』と一六三七(寛永十四)年の真名本『大山縁起』の他に一七九二(寛政四)年『大山不動霊験記』が存在する。後者は全15巻に及ぶ大部の霊験記である。この霊験の内容に関して圭室文雄・川島敏郎氏らの先行研究で解明されてきたが、霊験主に焦点を当てた分析は行われておらず、本論はこの視点から検討する。不動明王石尊権現複合霊験主不動剣と木太刀
著者
吉村 裕美 中河 督裕
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.1, pp.253-274, 2008-12-25

日本の国語教科書に採用されている「三年峠(三年とうげ)」は、韓国(朝鮮)理解の教材として位置づけられていることは、広く知られている。本稿は、この「三年峠」が日本の植民地時代に朝鮮総督府編纂の朝鮮語教科書に使用された経緯とその歴史的意味について考察したものである。もっとも、本稿の意図は安直に過去と現在とを直結させて、「三年峠」が「いわくつきの」テクストだと言いたいのではない。むしろ、教材が時代の要請をどのように反映してきたのかについて理解し、日本と朝鮮の近代が抱えた矛盾をじっくり考えさせるテクストとしての可能性を模索するところに主たる意図がある。
著者
中河 督裕
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.1, pp.19-36, 2008-12-25

今日「古都京都」ということばに違和感を持つ人はいないだろう。京都の代名詞になった感のある「古都」ということばは、しかし、いつ使われるようになり、どのように定着していったのか。近代の小学校国語教科書の教材文と京都内外の出版物の書名にその出発点を探り、さらにレコードや映画などにうかがうことのできる三都(京都と東京・大阪)の性格の変遷をそこに重ねてみると、大正末から昭和初年代にかけて、京都が三都の力学的関係の中で独り伝統に回帰していこうとする足取りをたどることができる。時代の推移につれ、「寺と女」を京都の代表的風物と見なすような外からのイメージを、京都が自らのアイデンティティとして受け入れざるを得なくなる様相をとらえたい。
著者
田所 弘基
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.24, pp.15-25, 2017-03-25

高村光太郎の「「道程」時代」の詩歌を検討することは、「「道程」以後」・「「猛獣篇」時代」の詩歌との繋がりを明らかにするうえで重要である。「「道程」時代の詩歌」には、頽廃的な雰囲気を漂わせる「デカダン性」を表現した詩歌が複数見受けられる。これまで、このような詩歌が創作された理由としては、特に、当時の光太郎の生活態度が頽廃的であったことが挙げられてきた。しかしながら、「「道程」時代」の詩歌と、同時期に発表されていた美術に関する評伝・評論の翻訳との関連を検討することで、光太郎の生活態度からではない別の理由が明らかになった。本稿では、特に、アルセーヌ・アレクサンドルのトゥルーズ・ロートレック評伝を光太郎が翻訳した「痛ましき地獄の画家」に着目し、「「道程」時代」の詩歌と比較した。その結果、風景や人物のモチーフとなる対象が類似する点を明らかにすることができた。そしてこれらのモチーフが描かれたのは、「露骨な本能の発表」という新しい風景描写の表現をするためであると考えられる。高村光太郎トゥルーズ・ロートレック道程痛ましき地獄の画家本能
著者
東海林 良昌
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.281-294, 2009-03-25

「随自顕宗・随他扶宗」の語は,浄土宗第七祖聖冏(一三四一-一四二〇)の教学を特徴づける概念として広く用いられている。すなわち「随自顕宗」とは,自宗の経論や論理を用いてその立場を明らかにすることであり,「随他扶宗」とは,他宗の経論や論理を用いて自宗の立場を扶助するという意である。言うまでもなく,聖冏は,教団の組織面と教理面において,浄土宗一宗の独立を基礎づけたとして評価されてきた。しかし,特に教理面で,二祖三代の教学とは異なる独自の論理を展開させていることから,これまで細心の注意をもって取り扱われてきた研究史がある。本稿では,聖冏教学に対する代表的な見解として,江戸時代中期浄土宗を代表する学僧の一人である大玄(一六八〇-一七五六)の思想を取り上げ,聖冏教学に対する分析や「随自顕宗・随他扶宗」の語について考察を行った。
著者
天野 知幸
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.1, pp.161-176, 2008-12-25

戦後の京都市上京区五番町と京都府与謝郡を舞台に、「赤線」で働く「接客婦」の夕子と彼女のもとに通う吃音の僧、櫟田正順を描いた水上勉の小説「五番町夕霧楼」について、五番町と夕子の生まれた与謝郡「樽泊」の空間的な関係性、性産業をめぐる戦後の状況やそれらに対する社会の差別的な視線、さらには、「鳳閣寺」放火事件を報じるメディア上の言説とそれを起こした正順の「声」「ことば」との関係などを明らかにしながら、この作品が他者表象、他者理解の困難さを提示していることを論じた。
著者
舩田 淳一
出版者
佛教大学
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.359-380, 2009-03-25

近年,中世の律宗・律僧に対する関心は高く,多くの研究が蓄積されているものの,いまだそれらの中心は叡尊・覚盛ら南都の戒律復興僧が占めていると言って良い状況にある。そこで本稿では,叡山の戒律復興運動に対する一考察を試みる。具体的には叡山における律僧集団である「戒家」の劈頭をなす,恵尋を主たる対象に据えるものであり,特に戒家の戒律思想が国家観念と結合していた点に注目したい。これは叡山の戒律復興運動を中世思想史の中に位置づけるための基礎作業である。
著者
君塚 大学
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.8, pp.1-17, 2001-03-25

There have been. some argument that traditional Confucian culture has still a strong influence in the lives of the people of East Asia. Some scholars find Confucian ethics to be the main cause for the miraculous economic development in the countries known as the Four Dragons. Furthermore some political analysts foresee the clash of civilizations between Confucian China and Christian Europe, especially the USA. But others deny such ideological functions of Confucianism. In these ways, there are many disputes concerning Confucian culture. In order to discuss these problems empirically, we must construct statistical accounts of the existence and strength of Confucian hegemony. Therefore I try in this paper to construct statistical scales to measure the main elements of Confucian culture. With the data from a comparative survey conducted in Japan, South Korea, and China in 1999, I have devised five indices as measuring scales. The first, Confucian economic culture scale, deals with economic ethics and industriousness. The second, Confucian political culture scale, tests authoritarian orientation and dependency on political leaders. The third, Confucian integral culture scale, is a tool to observe the inclination of social solidarity by ascription principles such as filiality, senior fidelity, and communalism that have been seen as typical features of the Confucian tradition. The fourth, Confucian life-world culture scale, serves to reveal the degree of ancestor worship and cultural ethnocentrism. Lastly, the Confucian whole culture scale, measures the prevalence of Confucian cultural ensemble among the population by combining the four scales.
著者
赤松 徹真
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
vol.1998, no.1, pp.277-305, 1998-03-14

'Bukkyo Seito Doshikai 仏教清徒同志会 was inaugurated in February, 1899 (Meiji 32) in order to part with the existing Buddhist orders which have been propelling the movement of Koninkyo 公認教運動. This organization depended on the state for protection. It insisted on normalization of relations between politics and religion, criticizing some Buddhist orders which took the stance of exclusivism against Christianity, the use of religion for governmental purposes and govermental interference in religious matters. However, this organization's fundamental posture went no further than the 'Constitution of the Empire of Japan (1889) '. Its idea of freedom of religion was based on the Article 28 in Chapter II 'Rights and Duties of Subject' : Japanese subjects shall, within limits not prejudicial to peace and order, and not antagonistic to their duties as subjects, enjoy freedom of religious belief. The philosophy of this organization was based on the principle of "Protection for and interference in religion should be expelled"; yet, its demand for freedom of religion did not necessarily mean the demand for human rights ensuring human dignity. The 1912 (Meiji 45) anti-Sankyokaido movement 「三協会同」反対運動 exhorted the policy of freedom of religion, but 'Bukkyo Seito Doshikai' accepted the theory that Shinto was not counted as religion, in the same manner as other Bukkyo organizations, without criticizing the system of State Shinto. As was observed in the issue of propagation of the Buddhist faith in inland China 支那内地布教権問題 , the reformative stance held by this movement at its conception had disappeared, and they now positively approved of the division of the colonized land in China by the Japanese Empire. Moreover, when the Japanese government tried to delete the Fifth of the Twenty-one Requests as to 'negotiate at a later date' thus practically trying to eradicate the matter, a member of the New Buddhist Movement made great efforts to acquire the right for propagation of the faith in China, and censured the weak-kneed diplomacy of the government. The transfiguration of New Buddhists who took an active part in imperialist foreign policy was revealed. The New Buddhist Movement lost its meaning and finally its identity in the changing situation; and this movement ceased activities in August 1915 (Taisho 4). As described above, this New Buddhist Movement began and ended with a focus on mundane affairs. Its ideology, reform of New Buddhism had vanished in the changing circumstances, and its raison d'etre finally disintegrated as the imperialist movement became firmly established. Consequently it was clear that the movement itself lacked a universal ideology and the ability to grasp the situation objectively, despite their declaration that the movement was based on New Religion and New Faith. The New Buddhist Movement raised questions about the problems between politics and religion, particularly Buddhism, in modern Japan, which have yet to be answered with regard to historical and Buddhist ideological ideas.
著者
井上 隆弘
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
佛教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.24, pp.1-14, 2017-03-25

比婆荒神神楽は中世に開郷された名を単位とする中世神楽の色彩を色濃く残した神楽であるが、近世的な再編を経ていることは見逃せない。このなかで重要な位置を占めるのが土公神祭祀である。土公神は中世的な地霊から世界の王へと転形をとげた。また土公神との習合によって、不定形で無数の集合霊であった荒神は組織を与えられた。かくて比婆荒神神楽は、世界の秩序を更新・再生する祭となったのである。こうした再編は吉田神道の影響のもとで行われたと考えられる。土公神荒神九魔王神吉田神道陰陽道