著者
水上 雅晴 小幡 敏行 鶴成 久章 名和 敏光 末永 高康 武田 時昌 石井 行雄 近藤 浩之 高田 宗平
出版者
中央大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2015-04-01

平成29年度も年号資料の調査と考察を継続するかたわら、研究組織の構成メンバーは、国内外での学会に積極的に参加し、研究報告を行った。特筆すべきは、国立歴史民俗博物館において、三つの大きな行事を実行したことである。それは特集展示「年号と朝廷」、歴博フォーラム「年号と日本文化」、国際シンポジウム「年号と東アジアの思想と文化」である。特集展示を実施するためには、展示物の選定、展示パネル、解説シートや広報用ポスターの作成など多岐にわたる準備が必要であったが、研究組織として十分な協力体制を築くことができたので、研究成果を社会に還元する上で大きな意味を持つ事業を成功させることができた。研究報告がなされた歴博フォーラムと国際シンポジウムにも多くの参加者が集まり、研究成果を可視化し共有する面で大きな進展が見られた。同じく二十名を超える研究者からの報告がなされた国際シンポジウムは、報告者の中から第二回目を実施してほしいと声が挙がってきたばかりか、参加者として会場にいた出版社の編集者から論文集出版に関する相談がなされたほどの盛況であった。そこで、当初の計画には無かったが、次年度にも年号に関する学術会議を開催することに加え、論文集の出版準備も進めることを決めた。これまで三年間準備を進めてきた年号資料の影印出版事業が『日本漢学珍稀文献集成(年号之部)』(上海社会科学出版社)全5冊、5千頁が本年度内に出版されたことで、研究計画を構成する大きな柱の一つが完成した。収録した資料に対する解題を日中二カ国語で記したので、国際的な学術成果の発信も行うことができた。
著者
高田 宗平
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.163, pp.265-292[含 英語文要旨], 2011-03

日本古代の『論語』注釈書の受容について、日本史学では『論語集解』のそれに関しては研究が見られるものの、『論語義疏』については等閑に付されてきた。このことに鑑み、『論語義疏』を引用する日本古代典籍の性格、成立時期、撰者周辺の人的関係を追究すること、古代の蔵書目録から『論語義疏』を捜索すること、古代の古記録から『論語義疏』受容の事跡を渉猟すること、等から、日本古代の『論語義疏』受容の諸相とその変遷を検討した。『論語義疏』は、天平一〇年(七三八)頃には既に、日本に伝来しており、奈良・平安時代を通じて、親王・公卿・中下級貴族・官人・釈家に受容され、浸透していた。八~九世紀では「古記」・「釈」・「讃」の撰者である明法官人によって律令解釈に、一〇世紀末~一一世紀初頭に於いては皇胤である具平親王が『止観輔行伝弘決』所引外典の講究のために、更に、一一世紀前半では明法博士惟宗允亮が朝儀・吏務の先例を明らかにするために、右大臣藤原実資が有職故実の理解のために、それぞれ『論語義疏』を利用していた。また、釈家では、九世紀で空海、一〇世紀で法相宗興福寺の中算が『論語義疏』を利用していたが、一一世紀後半に至ると、仏典を始め多様な日本古典籍に『論語義疏』が利用された。そして、一二世紀前半では、左大臣藤原頼長が幾多の漢籍を講読したが、その一つとして『論語義疏』を講読していた。就中、具平親王の周辺や藤原頼長の周辺に、文才に長けた公卿並びに中下級の貴族や官人である文人・学者が集まり、両者はともにそれぞれの時期の論壇の中心となって、漢籍・漢学の講究・談義が行われた。そこに於いて、講読されていたものの一つが『論語義疏』である。Regarding the acceptance of the commentaries of the "Analects of confucius" in ancient Japan, Japanese historical studies have discussed "Lunyu–jijie", but have paid little attention to "Lunyu–yishu". This article examines various aspects of the acceptance of "Lunyu–yishu" in ancient Japan and its historical development by the following methods : investigation of the nature of ancient Japanese books quoting "Lunyu–yishu", the time of their formation, and human relationships around the editors; search of "Lunyu–yishu" in the ancient inventory of books; and search of the evidence of the acceptance of "Lunyu–yishu" in ancient historical records."Lunyu–yishu" was introduced to Japan in 738 ( Tenpyo 10) , and was accepted by Imperial princes, court nobles, middlegrade and lowgrade nobles, officials, priests of Buddhism, etc., and permeated among them through the Nara period and the Heian period.From the 8th to 9th century, "Lunyu–yishu" was used by legal officials, who were the editors of "Koki", "Shaku", and "San", to interpret legal codes. From the end of the 10th century to the beginning of the 11th century, it was used by Prince Tomohira, who was an imperial descendant, to investigate non–Buddhist scriptures quoted in "Shikan–bugyoden–guketsu". In the first half of the 11th century, it was used by Koremune–no–Tadasuke, who was a teacher in laws and ethics, to clarify the precedents of court ceremonies and official duties, and by Fujiwara–no–Sanesuke, who was the Minister of the Right, to understand the ancient practices and usages. Among the priests of Buddhism, Kukai used "Lunyu–yishu" in the 9th century, and Chuzan of the Kohfuku–ji Temple of the Dharma– character school in the 10th century. In the last half of the 11th century, "Lunyu–yishu" was used in various Japanese classical books including Buddhist Scriptures. In the first half of the 12th century, Fujiwara–no–Yorinaga, who was the Minister of the Left, lectured on many Chinese classical books, one of which was "Lunyu–yishu".Writers and scholars with literary talent, who were also court nobles, middlegrade and lowgrade nobles, and officials, gathered especially around Prince Tomohira and Fujiwara–no–Yorinaga. Both of them played a key role in lectures and discussions on Chinese writings and literature in respective times. One of the books treated in such activities was "Lunyu–yishu".
著者
高田 宗平
出版者
大阪府立大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2016-04-01

本年度も資料の蒐集・調査・分析に注力した。①清原家以外の公家・官人層、顕密僧の漢学実態を解明するため、京都大学総合博物館所蔵勧修寺家文書、国立歴史民俗博物館所蔵の廣橋家旧蔵記録文書典籍類並びにその同館所蔵資料、国立公文書館内閣文庫所蔵資料を調査・分析し、データ集積を図った。その成果の一端を上海師範大学で開催された国際学術会議「古寫本經典的整理與研究國際學術研討会」にて発表した。②日本中世に於ける漢学の実態を解明するため、日本古代中世に於ける類書利用について調査・分析した。③日本中世に於ける『論語義疏』の受容の実態を解明するため、精力的に日本古典籍所引『論語義疏』を蒐集し、それらと旧鈔本『論語義疏』等とを比較検討した。その成果の一端は国際学術雑誌『域外漢籍研究集刊』に投稿し、掲載された。また、台北へ出張し、台北故宮博物院図書文献館にて旧鈔本『論語義疏』を調査し、国家図書館にて関連資料を蒐集した。①の成果を中国哲学、経学、敦煌本・吐魯番学、中国古典文献学、仏教文献学などを専門とする日中学者が出席した上記国際学術会議にて発表し、また同国際学術会議の「總合討論」にて、日本伝存漢籍旧鈔本・古鈔本、日本古典籍所引漢籍の特徴・意義について提起し、討議できたことは大きな成果である。席上、上海師範大学哲学与法政学院教授 石立善氏、浙江大学古籍研究所教授 許建平氏、南京師範大学文学院副教授 蘇ホン(艸+凡,peng)氏、等と情報交換し学術交流した。③に関して、同上国際学術会議にて『論語義疏』についての発表のコメンテーターを務めた。また台北故宮博物院図書文献館にて、同館の諸氏と情報交換し学術交流した。上記のように、上海の国際学術会議にて研究発表と討議し、海外に発信でき、上海と台北にて海外の研究者と情報交換し、学術交流できた。この成果は学術ネットワークの基礎を築く一歩を踏み出すことになると言える。