著者
Beillevaire Patrick ベイヴェール パトリック
出版者
琉球大学国際沖縄研究所
雑誌
International journal of Okinawan studies (ISSN:21854882)
巻号頁・発行日
vol.1, no.2, pp.53-83, 2010-12

1857年、通商条約締結の前夜、明治期の富国強兵論の先駆けとなった薩摩藩主・島津斉彬は、西洋諸国との密貿易計画を側近の家臣に明かした。江戸幕府への対抗策となるこの大計画には、蒸気式軍艦や武器の入手以外に、西洋への留学生派遣や海外からの指導者招聘という目的もあった。計画の実施には、江戸幕府の監視外にあった琉球王国の承諾が必須であった。斉彬がフランスを貿易相手国として最適とした理由には、フランス人宣教師が琉球に滞在していたこと、1855年に国際協定(琉仏条約)が締結されていたこと、そして1846 年に、フランスが琉球との間に通商協定を結ぼうとしていたということが挙げられる。目的の達成へ向けて、1857年秋に西洋科学技術の専門家である市来四郎が琉球へ派遣され、板良敷(牧志)朝忠などの有力人物を含む現地の協力者と共に、斉彬の命を遂行する重責を担った。1858 年、琉球王国の執行部にも重要な変化が生じる一方で、市来四郎は、滞琉中のフランス人と連携し、その協力を得て1859年夏までに軍艦や武器の他、多種多様な装備品が那覇へ届くように手配した。しかし全く想定外なことに、軍艦が琉球に到着するまであと2週間というところで斉彬の死去という訃報が届いた。また島津の後継者は、この事業の即刻中止を通達した。本論文では、薩摩藩が着手しようとしていた対フランス貿易について、数少ないフランス側史料を英訳して解説すると同時に、その内容を日本側の史料と照合していく。
著者
DEMAREE Gaston R. MAILIER Pascal BEILLEVAIRE Patrick 三上 岳彦 財城 真寿美 塚原 東吾 田上 善夫 平野 淳平
出版者
東京地学協会
雑誌
地學雜誌 (ISSN:0022135X)
巻号頁・発行日
vol.127, no.4, pp.503-511, 2018
被引用文献数
4

<p> ルイ・テオドール・フュレ神父(1816-1900年)は,パリ外国宣教会の宣教師として極東に派遣された。日本の琉球諸島・沖縄の那覇における彼の気象観測原簿の発見は,19世紀日本の歴史気候学に新しい進展を開くものである。フュレは,1855年2月26日に沖縄の主要な港である那覇(19世紀の文献ではNafaと綴っていた)に到着した。1856年12月から1858年9月まで,彼は1日5回(午前6,10時,午後1,4,10時)の気象観測を行った。水利技師アレクサンドル・デラマーシュ(1815-1884年)は,フランス海軍兵站部によってフュレ神父に委託された気象測器の検定を行った。気象観測は,1850年代のフランスで使われていた気象観測方式に従って実施された。気圧観測データは,気圧計の読みとり値,気圧計付随温度計の読みとり値,そして温度補正した気圧の数値で記載されている。気圧データは,必要に応じて,1850年代に使われたデルクロスとハイゲンスの公式を用いて検定・補正された。この歴史的な気圧観測データを現在の那覇における気圧平年値と比較した。観測期間中の1857年5月に台風が接近通過したことが,ルイ・フュレ神父によって目撃されている。ほかにも何度か気圧の低下が観測されているが,おそらく発達した低気圧の通過によるものであろう。そうしたなかで,オランダ船ファン・ボッセが多良間諸島の近くで難破したことがあったが,船長と彼の妻や船員達は島民に救助された。その後,彼らは沖縄の那覇に移送されたが,そこで3名のフランス人宣教師と出会い,最終的に出島のオランダ交易所からバタビア(現在のジャカルタ)へと航行した。</p>