- 著者
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江口 聡
EGUCHI Satoshi
- 出版者
- 京都女子大学
- 雑誌
- 現代社会研究科論集 (ISSN:18820921)
- 巻号頁・発行日
- no.1, pp.23-37, 2007-03
国内のジェンダー論・セクシュアリティ論に大きな影響を持つジュディス・バトラーの『触発する言葉』(バトラー, 2004)2)は、英国の哲学者J. L. オースティンの言語行為論を積極的に援用あるいは「脱構築」し、憎悪表現、ポルノグラフィなどの社会的・法的問題を扱っている。しかしこのバトラーの解釈はさまざまな問題がある3)。ここでは、バトラーの曖昧で難解な4)議論を追うことはできない。しかしバトラーの議論全体は、レイ・ラングトンの論文(Langton,1993)のオースティン解釈に多くを負っており5)、またラングトンの議論は哲学的にも実践的にも興味深いものであって、この議論の魅力とその弱点は正確に理解される必要があると思われる6)。そのための作業として、本論では「言語行為speech act」としてポルノグラフィや憎悪表現をとらえることが、どの程度の理論的含意を持つのかを確かめたい。In this paper, I will introduce Rae Langton's approach to the problems of pornography in her "Speech Acts and Unspeakable Acts". I will try to show that her approach has a merit of being philosophically interesting and practically important, but has some fundamental flaws. Pace Langton, I will show that "act" of pornographic expression should be considered as perlocutional act, and we need some empirical evidences of harms in order to regulate pornography legally. In conclusion, I will argue that we need psychological / phenomenological investigations how ordinry men read, watch, and experience pornography.