言及状況

外部データベース (DOI)

Yahoo!知恵袋 (1 users, 1 posts)

豊臣秀頼の大坂城外への巡視行は、複数の文献史料に見える話なのかも知れませんが、自分が実際に読んだうちでパッと出てくるのは、秀頼の伝記である『豊内記』です。 この『豊内記』は、記述内容から豊臣方の人間によって書かれたものと考えられていて、全体的に豊臣びいきの潤色が加えられているため、史料として一級の価値があるとは言えないまでも、とりあえず「秀頼が合戦予定地を見て回った」という事実関係くらいは信用し ...

レファレンス協同データベース (2 libraries, 2 posts)

『足利季世記』『長享年後畿内兵乱記』にある、東条での柳本賢治(やなぎもとたかはる)の暗殺事件についての記録が見たい。
以下の二人について記述のある文献はあるか。二人の関係が分かるような資料があればなおよい。 1.松野平助(介とも書く) 信長の家臣であり、吉田松陰の家の始祖にあたる人物 2.松野利右衛門 『穂積町史 史料編』pp.392-394に記載あり。下穂積村(現:岐阜県瑞穂市穂積)に住んでいたらしく、何代も続く名前のようだが、どの代についての記載でもかまわない。

Twitter (27 users, 48 posts, 31 favorites)

「大人ニテ馬モ五町乗ス不叶サレハ」具房が馬に乗れない話の元ネタは足利季世記だったのか…見落としていた…これの133コマめ。https://t.co/S85Cvg46r9
@Srugadate https://t.co/yNpEvGqrH3 高天神小笠原家譜からです。よくわからないのですが要約すると人質をとってー帯を制圧した、で合っていると思います(あまり自信なし)
"史籍集覧"https://t.co/4y7fzXffuw
『蘆田記』国会図書館デジタルコレクションで読めるやん(無知 https://t.co/EkJ7KwTGM8
彗星も。オーロラも。その後に日食。てんこもりや。(^▽^;)「立入左京亮入道隆佐記……(天正十年)四月廿一日(1582/05/13)此よりいぬいにあたり、白雲にちのことく、自地直に立、末は長太刀なりにゆかみ、よひの間立、四ツ前よりきへ申候」 https://t.co/YmtFT5hw1S https://t.co/wsyxeupe5H
本能寺の変の3ヵ月前にオーロラ「天正十年二月十四日(1582/3/8)夜、従北方赤雲天下をヽい、其光光明しゆのことし、信長大吉事云々、……信忠之御手前にて、瀧川手にて、悉被討捕候、其首上洛候……武田四郎子太郎……」立入左京亮入道隆佐記 https://t.co/YmtFT5hw1S https://t.co/LqgCxj5vDM
惟任退治記を改めて読んでみて、秀吉これさぁ… 光秀討伐の主役はどこまでも秀吉で神戸も丹羽も他の面子もおまけ扱いのこの内容を、養子の秀勝に信長の葬儀をやらせた時期のすぐ後に流布したかと思うと… https://t.co/UGZjDn3um0
〇今川記 史籍集覧 https://t.co/gXoekfgZWW 続群書類従 今川氏の盛衰を系譜的に叙した書 p171 https://t.co/rCXtDJD4Zh 〇今川記 続群書類従 今川家譜に今川系図を加えた合戦記 p226 https://t.co/0ZByPKRujD
@teika70_H 『改定史籍集覧』ですよ。 https://t.co/jpjpNcmAQT
@hamamatsusayaka @koqzo1 高天神小笠原家譜によると、三河経由とのことです。https://t.co/92QBUSV5Ev
長倉追伐記 長倉追罰記 羽継原合戦記 p453 https://t.co/8NTKECmpgJ 雙林寺伝記 p48 https://t.co/lzdAMFz2SB 公方両将記 p59 https://t.co/vf01KQ0f9u
『足利季世記』「先若狭国エ御下リ有リケル。人々ハ過半矢島ニ被留北国御安座ヲ被定ハ可召寄由仰ラル」二次史料だけど過半は矢島に留めたと書いてあった。 https://t.co/QH14nr3T95
誰得軍記「長倉追罰記」。佐竹氏の家中をめぐっての対立から挙兵した長倉義成の長倉城を足利持氏が攻める話。これだけでもローカルすぎて誰得なんだけど、軍記として調子がいいのは前半ちょこっとで、あとは参陣した諸将の幔幕の紋が延々と記されているだけ。https://t.co/D2Etu90EP1
@haneko_tweet https://t.co/KjFXHkZU7H 畠山家が分裂し、討ちつ、討たれつしていたが、ついには"天下ノ乱ト成て" 応仁元年正月18日の御霊合戦を始めとして、同5月26日より京都、二つに破れて、"大動乱と成りにける" とあって「応仁の乱」という言葉はないかもしれない。
@haneko_tweet 成立時期は不明だが、織豊時代くらいから江戸時代初期だろうと考えられている『足利季世記』の冒頭には "応仁乱ノ起リシハ" (応仁の乱が起こったのは) https://t.co/svc4dYhAJh
足利義輝の立ち回りの元ネタは『足利季世記』というので『史跡集覧』で見てみたが、三日月とか大典太とか刀の「名」は1つも載ってないんだな。https://t.co/v6mlNQ4N7O 大典太は足利義昭以前に遡るのは無理があると個人的には思っている。『利家夜話』もこの本にある。
今川記 第二 https://t.co/wHcQYI8uFI 足利義教について。"此公方 久敷 門跡に御座し御慈悲もふかく御心も優にそましまさんと思ひけるに殊外に荒強なる御振舞にて殊更たくましき御心なり 人々も思の外なる心地し おそれ奉る事 かきりなし
『今川記』第四 https://t.co/eqyyRaZ7EW "龍王殿 御母ハ北側殿と申て京公方の御執事 伊勢守殿 御めいなり 先年 御上洛の時かりそめ迎給ひ 若君 誕生ありしかハ 北川殿とて新殿を作り居給ふ 其弟 伊勢新九郎長氏と申人 其比 備中国より京へ のほり 今出川殿へ付申されしか 今出川殿 伊勢へ御下向の時
『大和軍記』『史籍集覧』第13冊。明治35年5月15日印刷 5月21日発行 https://t.co/eeLVs9Ao2x "久秀 対三好殿に逆心の刻も是等籠城被仕候を三好殿被押寄東大寺の大仏殿を本陣に被仕着陣被申候夜 久秀 夜軍に被仕掛候故 三好敗北にて歴々数多討死仕候 其時不慮に鉄炮の薬に火移大仏殿其外堂塔炎上仕候"
『足利季世記』『改訂 史籍集覧』第13冊 明治35年5月15日印刷 5月21日発行 https://t.co/kyWH2efwjS 「畠山政長自害之事」 "明応二年四月九日ノ夜ニ入テ政長ハ心ヤスシトテ葉室大納言光忠卿以下籠城ノ人々最後盃シテナミイテ腹ヲ切給フ"
扨テハ重代ノ刀ニテ主ヲ惜ミケルソヤ イカヽスヘキト宣フ処ニ丹下備後守カムリ落ノ信国ノ刀ヲヌイテ 己カ モヽヲ二ツ突通 イカニモ刃ヨシトテ政長ヱ奉ル" 『足利季世記』『改訂 史籍集覧』第13冊 明治35年5月15日印刷 5月21日発行 https://t.co/kyWH2efwjS 「畠山政長自害之事」
翌日には戦場に出たという点では足利季世記も大心院記も同じだが。大心院記では、輿に乗って討って出て、手頃な敵を見つけて輿の上から小太刀を振るって挑みかかり、主君のあとを追って切腹するかわりに、戦場で死んだ。あわれなことだとしている。 https://t.co/W5Yl9aodRr
細川政元に仕えていた小姓で、政元ともに切られて死んだが、すぐに生き返って翌日には合戦に参加して、主君の仇を討った人の話は『足利季世記』や『応仁後記』にある。 https://t.co/R8GCElbK5J

Wikipedia (7 pages, 10 posts, 2 contributors)

収集済み URL リスト