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豊臣秀頼の大坂城外への巡視行は、複数の文献史料に見える話なのかも知れませんが、自分が実際に読んだうちでパッと出てくるのは、秀頼の伝記である『豊内記』です。 この『豊内記』は、記述内容から豊臣方の人間によって書かれたものと考えられていて、全体的に豊臣びいきの潤色が加えられているため、史料として一級の価値があるとは言えないまでも、とりあえず「秀頼が合戦予定地を見て回った」という事実関係くらいは信用し ...

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『足利季世記』『長享年後畿内兵乱記』にある、東条での柳本賢治(やなぎもとたかはる)の暗殺事件についての記録が見たい。
以下の二人について記述のある文献はあるか。二人の関係が分かるような資料があればなおよい。 1.松野平助(介とも書く) 信長の家臣であり、吉田松陰の家の始祖にあたる人物 2.松野利右衛門 『穂積町史 史料編』pp.392-394に記載あり。下穂積村(現:岐阜県瑞穂市穂積)に住んでいたらしく、何代も続く名前のようだが、どの代についての記載でもかまわない。

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@Srugadate https://t.co/yNpEvGqrH3 高天神小笠原家譜からです。よくわからないのですが要約すると人質をとってー帯を制圧した、で合っていると思います(あまり自信なし)
"史籍集覧"https://t.co/4y7fzXffuw
『蘆田記』国会図書館デジタルコレクションで読めるやん(無知 https://t.co/EkJ7KwTGM8
彗星も。オーロラも。その後に日食。てんこもりや。(^▽^;)「立入左京亮入道隆佐記……(天正十年)四月廿一日(1582/05/13)此よりいぬいにあたり、白雲にちのことく、自地直に立、末は長太刀なりにゆかみ、よひの間立、四ツ前よりきへ申候」 https://t.co/YmtFT5hw1S https://t.co/wsyxeupe5H
本能寺の変の3ヵ月前にオーロラ「天正十年二月十四日(1582/3/8)夜、従北方赤雲天下をヽい、其光光明しゆのことし、信長大吉事云々、……信忠之御手前にて、瀧川手にて、悉被討捕候、其首上洛候……武田四郎子太郎……」立入左京亮入道隆佐記 https://t.co/YmtFT5hw1S https://t.co/LqgCxj5vDM
「長篠合戦物語」 https://t.co/fDapBSbWWJ 一 勝頼は討死可ㇾ被ㇾ成と被ㇾ仰少も退給ふ気色もなし然る處に穴山梅雪来り早々御のき候へと申上らる勝頼聞入不ㇾ給そこにて梅雪大に腹を立日頃我儘にて家老の申事をも不₂聞入₁候故今如斯の仕合也此上にも承引なき事不覚悟なる仕合とて
「長篠合戦物語」 https://t.co/fDapBSsZYJ 一 勝頼又前のだいへ御うつりかかり太鼓御うたせ被成時、内藤修理鉄砲に當り死する。真田兄弟常々權を争ひ中悪かりしが爰にても互に權をあらそひ四人ともに討死也。 ※真田兄弟の不仲設定 ※内藤昌秀・真田信綱・昌輝で三人……
「蘆田記」 https://t.co/iKNqhs2j9S 田の口と申城は阿江木能登守(常林)居申候間。常陸介(依田信蕃)威勢を以、田の口城明退申候。其時小諸へ大道寺尾張守(駿河守政繁)扨又岩尾城に岩尾の主(大井行吉)居申候間、両所より外に佐久郡に敵一所も無之候つる間岩尾城者ほりぬけに可罷成を、 https://t.co/5j19YHAnDu
「蘆田記」 https://t.co/nv1Tqmkrii 癸未正月元日に右の侍共代々の者並に右衛門佐前に大形折帋にて禮盃等も譜代の被官並に候つる由承候。此年家康四十二の御歳にて候間四十三に御祝直し被成候御心持にて閏正月御祝儀被成候御分国其分に御座候。 https://t.co/8WK3ncW3IX
「蘆田記」 https://t.co/nv1Tqmkrii 小田井と申城手に入申。此外城々の小侍共あなたより降参仕候者。一番に平原善心、二番に平尾平蔵、三番に大井民部介(是備中子にて候)、小山田六左衛門、森山豊後、志賀與左衛門、柏木六郎、望月卯月斎、是等は右知行三千石之格にて御座候。
「祖父物語」柴田の亡霊(初耳) https://t.co/UTPO5PZ6Jj 其翌年正月元日に北の庄の城広間に不審なることあり。柴田六具しめ長刀を持ち、五郎左に向い俺が首をやと云て消うせける。五郎左是を見るにより煩付けるとかや。
https://t.co/UTPO5PZ6Jj 柴田北の庄に籠られければ太閤僧を使とし、いにしへの傍輩なり一命を助へし。高野山の麓へ退たまへ、領地三万石扶持せんよし仰つかはさる。是はすかして、お市御料を取らんとの謀成へしと其沙汰人口にまちまちなり。
「祖父物語」秀吉がお市の方に好意を寄せている設定 https://t.co/09y98Wpdyc 太閤と柴田修理と取合は其比威勢あらそいとも云。又信長公の御妹お市御料人のいはれなりとも申なり。淀殿の御母儀なり。近江の国浅井が妻なりける。浅井に離れさせ玉ひて御袋と一所におはしけるが、
惟任退治記を改めて読んでみて、秀吉これさぁ… 光秀討伐の主役はどこまでも秀吉で神戸も丹羽も他の面子もおまけ扱いのこの内容を、養子の秀勝に信長の葬儀をやらせた時期のすぐ後に流布したかと思うと… https://t.co/UGZjDn3um0
穴山梅雪の発言は「長篠合戦物語」の345コマ目の最後~346コマ目にありました https://t.co/fDapBSsZYJ 小栗大六の発言は343コマ目にあります https://t.co/Gaaw70JazL https://t.co/zZh4N9gXqD
穴山梅雪の発言は「長篠合戦物語」の345コマ目の最後~346コマ目にありました https://t.co/fDapBSsZYJ 小栗大六の発言は343コマ目にあります https://t.co/Gaaw70JazL https://t.co/zZh4N9gXqD
〇今川記 史籍集覧 https://t.co/gXoekfgZWW 続群書類従 今川氏の盛衰を系譜的に叙した書 p171 https://t.co/rCXtDJD4Zh 〇今川記 続群書類従 今川家譜に今川系図を加えた合戦記 p226 https://t.co/0ZByPKRujD
@teika70_H 『改定史籍集覧』ですよ。 https://t.co/jpjpNcmAQT
@hamamatsusayaka @koqzo1 高天神小笠原家譜によると、三河経由とのことです。https://t.co/92QBUSV5Ev
長倉追伐記 長倉追罰記 羽継原合戦記 p453 https://t.co/8NTKECmpgJ 雙林寺伝記 p48 https://t.co/lzdAMFz2SB 公方両将記 p59 https://t.co/vf01KQ0f9u
『足利季世記』「先若狭国エ御下リ有リケル。人々ハ過半矢島ニ被留北国御安座ヲ被定ハ可召寄由仰ラル」二次史料だけど過半は矢島に留めたと書いてあった。 https://t.co/QH14nr3T95
誰得軍記「長倉追罰記」。佐竹氏の家中をめぐっての対立から挙兵した長倉義成の長倉城を足利持氏が攻める話。これだけでもローカルすぎて誰得なんだけど、軍記として調子がいいのは前半ちょこっとで、あとは参陣した諸将の幔幕の紋が延々と記されているだけ。https://t.co/D2Etu90EP1
@haneko_tweet https://t.co/KjFXHkZU7H 畠山家が分裂し、討ちつ、討たれつしていたが、ついには"天下ノ乱ト成て" 応仁元年正月18日の御霊合戦を始めとして、同5月26日より京都、二つに破れて、"大動乱と成りにける" とあって「応仁の乱」という言葉はないかもしれない。
@haneko_tweet 成立時期は不明だが、織豊時代くらいから江戸時代初期だろうと考えられている『足利季世記』の冒頭には "応仁乱ノ起リシハ" (応仁の乱が起こったのは) https://t.co/svc4dYhAJh
足利義輝の立ち回りの元ネタは『足利季世記』というので『史跡集覧』で見てみたが、三日月とか大典太とか刀の「名」は1つも載ってないんだな。https://t.co/v6mlNQ4N7O 大典太は足利義昭以前に遡るのは無理があると個人的には思っている。『利家夜話』もこの本にある。
今川記 第二 https://t.co/wHcQYI8uFI 足利義教について。"此公方 久敷 門跡に御座し御慈悲もふかく御心も優にそましまさんと思ひけるに殊外に荒強なる御振舞にて殊更たくましき御心なり 人々も思の外なる心地し おそれ奉る事 かきりなし
『今川記』第四 https://t.co/eqyyRaZ7EW "龍王殿 御母ハ北側殿と申て京公方の御執事 伊勢守殿 御めいなり 先年 御上洛の時かりそめ迎給ひ 若君 誕生ありしかハ 北川殿とて新殿を作り居給ふ 其弟 伊勢新九郎長氏と申人 其比 備中国より京へ のほり 今出川殿へ付申されしか 今出川殿 伊勢へ御下向の時
『大和軍記』『史籍集覧』第13冊。明治35年5月15日印刷 5月21日発行 https://t.co/eeLVs9Ao2x "久秀 対三好殿に逆心の刻も是等籠城被仕候を三好殿被押寄東大寺の大仏殿を本陣に被仕着陣被申候夜 久秀 夜軍に被仕掛候故 三好敗北にて歴々数多討死仕候 其時不慮に鉄炮の薬に火移大仏殿其外堂塔炎上仕候"
『足利季世記』『改訂 史籍集覧』第13冊 明治35年5月15日印刷 5月21日発行 https://t.co/kyWH2efwjS 「畠山政長自害之事」 "明応二年四月九日ノ夜ニ入テ政長ハ心ヤスシトテ葉室大納言光忠卿以下籠城ノ人々最後盃シテナミイテ腹ヲ切給フ"
扨テハ重代ノ刀ニテ主ヲ惜ミケルソヤ イカヽスヘキト宣フ処ニ丹下備後守カムリ落ノ信国ノ刀ヲヌイテ 己カ モヽヲ二ツ突通 イカニモ刃ヨシトテ政長ヱ奉ル" 『足利季世記』『改訂 史籍集覧』第13冊 明治35年5月15日印刷 5月21日発行 https://t.co/kyWH2efwjS 「畠山政長自害之事」
翌日には戦場に出たという点では足利季世記も大心院記も同じだが。大心院記では、輿に乗って討って出て、手頃な敵を見つけて輿の上から小太刀を振るって挑みかかり、主君のあとを追って切腹するかわりに、戦場で死んだ。あわれなことだとしている。 https://t.co/W5Yl9aodRr
細川政元に仕えていた小姓で、政元ともに切られて死んだが、すぐに生き返って翌日には合戦に参加して、主君の仇を討った人の話は『足利季世記』や『応仁後記』にある。 https://t.co/R8GCElbK5J

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