著者
土佐 朋子
出版者
国立大学法人 東京医科歯科大学教養部
雑誌
東京医科歯科大学教養部研究紀要 (ISSN:03863492)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.77-94, 2017

『懐風藻』所収の大津皇子臨終詩には、複数の類型詩が指摘されている。場面および詩句の構成と表現において、強い類型性が確認されるそれらの臨刑詩は、人々の想像力が生み出す稗史の中に発生し伝承されたと考えられる。個別具体的な生と死のありようが捨象されて用いられる汎用性の高さから、特定個人の臨刑詩の継承ではなく、臨刑詩すべてに先行して、刑死者の最期を飾る決まり文句が存在し、知識人の悲劇を語る口承文芸の中で繰り返し活用され、再生産されたものと推定される。
著者
猪熊 恵子
出版者
国立大学法人 東京医科歯科大学教養部
雑誌
東京医科歯科大学教養部研究紀要 (ISSN:03863492)
巻号頁・発行日
vol.2023, no.53, pp.1-14, 2023 (Released:2023-03-24)

一般に、小説ジャンル誕生後ほどなくして書かれたリアリズム小説の多くは、「〈はじめ〉から〈なか〉を経て〈おわり〉に至る」という直線的時間軸に沿って展開するが、時代が下りモダニズム、ポストモダニズム小説が書かれるようになると、作品内の時間軸はより複雑で錯綜したものに置き換わる、と言われる。しかしこのような説明こそ、小説形態の時代に伴う変遷に直線的モデルを当てはめるものではないだろうか。本稿ではこの疑問から議論を起こし、小説黎明期の作品の多くが一本調子の時系列に対してきわめて自意識的な距離をとるものであることを明確にし、〈小説のはじまり〉がはらむ根源的な論理破綻に光を当てることを目指す。最終的に、あらゆる小説とは一見したリアリズム色の濃淡に関わらず、常にその〈はじまり〉において、「すでにあるはずのものに依存しなければ何もはじめられない」のに、「何かが今・ここではじまっているように信じたふりをしなければ何もはじめられない」という存在論的矛盾を抱え込むものであることを明らかにしたい。
著者
包 敏
出版者
国立大学法人 東京医科歯科大学教養部
雑誌
東京医科歯科大学教養部研究紀要 (ISSN:03863492)
巻号頁・発行日
vol.2022, no.52, pp.25-38, 2022 (Released:2022-03-16)

1949年10月1日、中華人民共和国が建国された。70年来、社会主義体制のもと、社会保障制度が構築されてきた。医療保障は社会保障制度における重要な部分である。中国の医療保障制度作りは計画経済の公共衛生、市場経済体制の基本医療および国民皆保険制度を経てきた。本稿では、中国における医療保障制度構築の歩みを振り返り、現存する問題点を指摘したうえ、今後の展望を示したい。
著者
中島 ひかる
出版者
国立大学法人 東京医科歯科大学教養部
雑誌
東京医科歯科大学教養部研究紀要 (ISSN:03863492)
巻号頁・発行日
vol.2019, no.49, pp.1-23, 2019 (Released:2019-06-28)

現代において、 フランスはどのように自らの共同体のアイデンティティを作ろうとしているのか、またそれを可視化するためにどのようにシンボルが使おうとしているのかを、歴史学者ノラの「記憶の場」の概念も援用しながら分析する。マ クロンは、EU の一体化を訴えることでヨーロッパのアイデンティティを再建し、その中でこそフランスのアイデンティティを示そうとするが、それはヨーロッパが自由、デモクラシー、人権といった世界のモデルになりえる普遍的な価値を体 現しているという啓蒙以来の観念と結びついている。しかしながら、難民受け入れ問題がヨーロッパ各国で、極右によるナショナリズムの擡頭を招いている今、この様な普遍理念によるヨーロッパのアイデンティティは既に自明なものではなくなっている。その中で、敢えてヨーロッパ再建を主張するとき、マクロンは民主主義発祥の地アテネやソルボンヌ大学といった、人々の共通の「記憶の場」である、文化遺産の力の助けを借りる。「記憶の場」は、ルソーの言う「祝祭空間」とも共通し、人々の一体感を高め、アイデンティティを確証するために役立つと考えられるからではないだろうか。
著者
田中 丹史
出版者
国立大学法人 東京医科歯科大学教養部
雑誌
東京医科歯科大学教養部研究紀要 (ISSN:03863492)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.33-47, 2017 (Released:2018-11-18)

日本では脳死・臓器移植をめぐって激しい論争が起こったが、定義としての脳死に関しては生命倫理の中で議論がなされない状況が続いた。例えば日本医師会生命倫理懇談会は、「死の自己決定権」という概念を導入し、脳死が人の死であるかどうかを個人の判断の問題とした。また生命倫理研究会・脳死と臓器移植問題研究チームは脳死を人の死であるか否かという問いを回避しつつ、臓器移植法の試案を発表した。しかし臓器移植法の改正をめぐる論議において発足した生命倫理会議は、法の改正を批判したばかりではなく、まさに定義としての脳死そのものを問い返すことで従来の生命倫理の活動の在り方自体をも批判したと言える。国際的にも定義としての脳死を再考する動きがあり、こうした議論が日本の生命倫理の中でさらに展開されることが望まれる。