著者
久保 久子
出版者
日本ロシア文学会
雑誌
ロシア語ロシア文学研究 (ISSN:03873277)
巻号頁・発行日
no.31, pp.58-69, 1999-10-01

アンドレイ・プラトーノフの作品には, 1920年代後半から1930年代にかけて, 文体の面でかなりの変化が見られる。全体としては, 描写が簡潔になり, 文章がわかりやすくなったという印象を受ける。本論では, この時期のプラトーノフの文体の変化の重要な一側面をなす, 『幸せなモスクワ』における身体の部位の用例について検討し, プラトーノフという作家の本質に近づくための一歩としたい。 『幸せなモスクワ』は, 近年プラトーノフ研究において大きな注目を集めている。1996年にモスクワで開催された第3回プラトーノフ国際学会は, 対象をこの『幸せなモスクワ』のみに絞って行われたほどである。その席で複数の研究者から, この作品がプラトーノフの文体の転換点にあたるのではないかという指摘がなされた。この作品は1932-36年の間に執筆されたと考えられている。主人公モスクワ・チェスノーヴァは孤児院育ちの娘で, さまざまな職業を体験し, さまざまな男と出会う。しかし決してひとりの男のものにはならず, 事故で片足を失うような目に遭いながらも, 自由な遍歴を続ける。この作品は, 現在題名だけが残っている『レニングラードからモスクワへの旅』という作品の前半部として構想されたのではないかと考えられている。本論では, この『幸せなモスクワ』と, 20年代後半に書かれた『チェヴェングール』, 29-30年に書かれた『土台穴』の文体的特徴を分析することにより, 20年代から30年代へかけての作家の文体の変化の傾向を探る。方法としては, テキストデータベースを利用した数量的比較を行う。 先にプラトーノフの文体の変化について, 大雑把な印象を述べたが, 具体的には何がどう変わったのだろうか。 これは非常に大きな研究テーマで, 検討しなければならない問題は数多く存在する。ここではそれらのうち, 最近発表されたИ. スピリドノヴァの論文『アンドレイ・プラトーノフの芸術世界における人物描写』で, プラトーノフの20年代の作品の主人公には外見の詳細な記述がほとんどなく, 30年代の主人公は詳しい外貌の特徴を持つ, と指摘されていることに着目したい。 登場人物の外貌を形作っているのは, まず何より身体的特徴であろう。人間の身体がプラトーノフにとって常に重要なテーマであることは, 多くの研究者が指摘している。例えばС. セミョーノヴァは「プラトーノフの身体に対する態度は驚くべきものだ。人間のただ一つの統一された構造物として, 身体は神聖なものである」と述べている。こうしたことから, まずひとつの手がかりとして, 主人公の外貌を形作る言葉, 身体の部位を表す単語の用法を検討してみたい。