著者
新井 和広
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.36, pp.77-105, 2021

はじめにハドラマウトに関する史料 (書籍) と所蔵状況, 入手方法ハドラミー関連の伝記集の形式ハドラミー関連の伝記集おわりに
著者
長谷部 史彦
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.35, pp.275-300, 2020

はじめに1. ブーラーク港のハワージャー2. ハーン・ハリーリーのハワージャー3. イブン・トゥールーン地区のハワージャー4. その他のハワージャーおわりに
著者
前田 伸人
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.26, pp.73-94, 2011

はじめに1. 問題の所在2. 研究史3. 本稿の構成第一章1. スペインの分割構想2. スペイン継承戦争とユトレヒト体制3. オランダの障壁条約4. オランダの外交政策の揺らぎ第二章1. 皇后ファルネーゼの専制2. 寵臣アルベローニの時代3. イタリア侵攻の失敗第三章1. フェリペの退位と復位2. 寵臣リペルダー3. ウィーン条約締結4. リペルダーの顛末第四章1. パティーニョとイタリア回復2. トスカーナ問題おわりに
著者
小林 邦夫
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.25, pp.295-324, 2010

ゲーテの「ファウスト」において,「宝」という言葉がどのように用いられているかを調べてみると,作品中の多くの箇所に現れ,様々な意味合いをもって用いられていることが判明した。本稿では,この「宝」という言葉の用い方を多少整理した形で示してみようと思う。そのことによって,この言葉が作品中においてどのようなな役割を果たしているかが明らかとなってくるであろう。尚,「宝」を表現する言葉はドイツ語ではSchatzであるが,その他にも,金銀財宝,地所,貨幣,宝石,その他貴重な物,大切なこと,大切な人等を表現する言葉,あるいは事柄も,この「宝」の中に含めることとした。第一章. メフィストと宝第二章. 幸福論と宝第三章. 美と宝第四章. 自己と宝
著者
瀧本 佳容子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.23, pp.351-377, 2008

1. Introducción2. Esbozo biográfico de Fernando de Pulgar3. Transformación de la crónica real4. Definiciones alfonsinas de los oficios cancillerescos5. Laicización de lectura y escritura : elevación de la importancia de los oficiales de la cancillería real6. Conclusiones
著者
塩澤 寛樹
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.21, pp.176-157, 2006

はじめに第一章 復興支援の状況、主体者、目的第二章 大仏光背の制作第三章 中門二天像と大仏殿諸像の仏師選定おわりに
著者
佐野 洋子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.23, pp.151-176, 2008

はじめに1. セミーク・トロイツァ祭2. 白樺編み・白樺ほどき3. カッコウの洗礼4. 契りの儀式
著者
小菅 隼人
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.20, pp.73-96, 2005

はじめに1 .問題の所在2 .第2 幕第4 場:ラヴィニアが失った身体3 .第3 幕第1 場:タイタスの嘆き4 .悲嘆の逆転5 .結論
著者
前田 伸人
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.31, pp.1-23, 2016

【はじめに】【第一章 : ラテンアメリカの探検】【第二章 : コロンビアの政治と経済】【第三章 : アルフレート・ヘットナーの旅行記】【まとめに代えて】
著者
吉田 量彦
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.25, pp.57-78, 2010

はじめに1. 問題の背景 : 『神学・政治論』における自由と反逆2. 意見opinio と行為factum3. 反逆と社会契約
著者
成田 和信
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.15, pp.29-53, 2000

我々が思慮deliberationに基づいて一定の信念beliefを獲得できるのは,理性の働きによると思われる。たとえば,「pならばq」という信念と「p」という信念を持っている時に,論理に従って考えれば,たいてい我々は「q」という信念を獲得できる。これは,我々の理性の働きによるのであろう。このような働きをする理性を「理論理性theoreticalreason」と呼ぼう。これと同じように,我々が思慮に基づいて一定の行為へと動機付けられる時に,その動機付けmotivationを生み出す働きをする理性があるとすれば,それを私は「実践理性practical reason」と呼ぶ。(1)たとえば,ある事柄Eを目的として定め,行為Aを行えばEが達成できることが分かった時に,たいてい我々はAを行おうと思うものであるが,こう思うことが(少なくとも部分的には)理性の働きによるとすれば,この理性は実践理性である。(2)本稿の目的は,最近の英語圏で展開されている議論を参考にしながら,実践理性とは何かを,目的の手段となる行為への動機付けの場合に限って,詳しく描くことにある。 私はいま「目的の手段となる行為への動機付けの場合に限って」と書いたが,「目的の手段となる行為への動機付け」を(英語圏の実践理性をめぐる議論の慣習に倣って)「道具的動機付けinstrumental motivation」と呼び,また,そのような動機付けにおいて働く実践理性を「道具的実践理性instrumental practical reason」と呼ぼう。本稿の目的は,実践理性とは何かを,道具的動機付けの場合に限って描くこと,つまり,道具的実践理性とは何かを描くことにある。 さて,本論に入る前に,実践理性をあぐる問題との関連で,いま述べた本稿の目的について補足しておきたいことがある。実践理性をめぐっては二っの大きな問題がある。第一の問題は,実践理性が果たして存在するかという問題である。たとえば,ヒュームは実践理性の存在を否定しているという解釈が成り立つ。(3)したがって,実践理性の存在を肯定するには,少なくともこのようなヒ3 ム解釈に基づく実践理性否定論を論駁することが必要となる。しかし,ここではこの問題には取り組まずに,実践理性が存在することを前提した上で,それがどのようなものなのかを明確にすることを目指す。その後に,稿を改めて,そのような実践理性が存在するかどうかを論じたいと思う。その意味で,本稿は実践理性の存在の問題に対する取り組みの準備作業の一つである。 第二の問題は,実践理性が働くためには(それが働く以前に行為者があらかじめ持っている)欲求が必要であるかという問題である。(4)トーマス・ネイゲル,クリスティン・コースガード,ジーン・ハンプトンなどのカント主義者は,必ずしも必要でないという立場を取る。(5)これに対して,アルフレッド・ミールなどの「合理的ヒューム主義者」と呼べるような論者は,必要であるという立場を取る。(6)本稿では,この問題に関しても特定の立場を取らずに議論を進あたい。この問題へのアプローチのためにも実践理性をできるだけ明確に規定することが必要であり,その意味でここでの作業は,この問題への取り組みの準備作業ともなる。 繰り返しになるが,本稿の目的は,実践理性(正確に言えば,私が「実践理性」と呼ぶもの)とはどのようなものなのかを,道具的動機付けの場合に限って,明らかにすることにある。さて,冒頭に述べたように,実践理性は,人が思慮に基づいて一定の行為へと動機付けられる時に,その動機付けを生み出す働きをする。(7)したがって,実践理性とは何かを詳しく示すためには,「思慮に基づいて」ということと「動機付けを生み出す働き」ということを明確にすることが重要となる。そこで,まず第1節と第2節では,「思慮に基づいて」の「思慮」の部分に焦点を当てる。第1節では,実践理性が働く際になされる思慮とはどのようなものなのかを説明する。第2節では,話を道具的動機付けの場合に絞って,そこでなされる思慮の特徴を細かく見る。次に第3節で,実践理性の「動機付けを生み出す働き」という点に焦点を当て,その働きを明確にする。最後に第4節では,「思慮に基づいて」の「基づいて」という部分に焦点を当て,その意味を明らかにすることによって,実践理性の輪郭をさらに鮮明する。
著者
荒金 直人
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.25, pp.31-55, 2010

1. 『想像力』2. 『想像的なもの』(A.心象について)3. 『想像的なもの』(B.画像について)画像とは何か? - サルトルは,この問いへの答えを,彼なりの仕方で提供してくれているのだろうか。 1936年の『想像力』における問題提起は極めて興味深く,その問題の分析が本格的に展開される1940年の『想像的なもの』(邦題『想像力の問題』)に期待が寄せられる。しかし我々がそこに見出すのは,なかなか突破口を開こうとしない,開いたはずの突破口を渡ろうとしない,慎重でじれったいサルトルである。想像力という観点から画像の問題に接近しようというのは,やはり無理だったのか。心的な像(心象)の経験と物質的な像(画像)の経験とが類似的な志向的構造を有しているという発想自体に,無理があったのだろうか。本稿では,『想像力』と『想像的なもの』においてサルトルが展開する像についての分析が,「画像とは何なのか」という我々の問いに対して何を与えてくれるのか,それを探ってみたい。
著者
堀江 聡 Nicolao ex Castellaniis Petro
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.21, pp.1-22, 2006

ここに邦訳する世界初訳のテキストは,1519年にファウェンツァ出身ピエール・ニコラ・カステッラーニによってラテン語に訳された『アリストテレスの神学』全14章のうちの第十章十三節までである。この書は錯綜した素性をもつ。紀元3世紀後半,プロティノスによってギリシア語で記された『エンネアデス』の後半部分,第4 ~ 6 『エンネアス』の翻案であるが,これとは別の, 9世紀前半バグダードで成立した「流布版『アリストテレスの神学』」と呼び慣わされるアラビア語の翻案もある。後者の出自にすら定説はなく,世界的に議論が喧しい現状であるが,前者の素性はそれに輪をかけて謎に包まれている。研究が進捗しない原因として,このラテン語版の近現代語訳が一つもないことが挙げられる。さらに近現代語訳がない理由は,ラテン語版に先行し,全体の約3/4残存するいわゆるユダヤ・アラビア語(ヘブライ文字表記のアラビア語)版の校訂(プラス翻訳?)をフェントンがかなり以前に予告したにもかかわらず,未だ完了していないことによる。流布版は全10章であるのに対し,ラテン語版は14章からなるので,『アリストテレスの神学』の「長大版」(longerversion)と称されている。とはいえ,流布版から省略された箇所も多々あるので,単純な拡大版でないことは注意を要する。第一章から第八章までは,両版が一対一対応であったのに対し,長大版第九章も第十章も,相変わらず流布版第八章のパラフレーズの続きであることが判明した。 ラヴェンナのフランチェスコ・ローズィがダマスクスの図書館で発見したアラビア語写本を,キプロス出身のユダヤ人医師モーセス・ロヴァスを雇ってイタリア語,ないしは粗雑なラテン語に訳させたものを,ニコラが彫琢することによってラテン語版が成立した。それをさらに洗練されたラテン語に移したジャック・シャルパンティエの訳もある。流布版が長大版に先行するという説が優勢ではあるが,長大版から流布版に移行したという主張が消えたわけではない。長大版の研究はまだ緒に就いたばかりなのである。 底本には,Sapientissimi philosophi Aristotelis stagiritae. Theologia sive misticaphilosophia secundum Aegyptios noviter reperta et in Latinum castigatissimeredacta, ecphraste Petro Nicolao ex Castellaniis, Roma, 1519 を用い,常時 Libriquattordecim qui Aristotelis esse dicuntur, de secretiore parte divinae sapientiaesecundum Aegyptios, per Iacobum Carpentarium, Paris, 1571 を参照した⑽。底本のニコラ版は句読点が不正確で誤植も散見されるので,シャルパンティエ版を援用しつつ文脈を解釈しなければならなかった。流布版『アリストテレスの神学』に対応箇所がない部分は太字で明示した。ただし,解釈者の視点の差によって,太字部分の確定は議論の余地のないものとはなりえないことをお断りしておきたい。私の立場は,哲学的に重要で長大版に特有な思想を識別できれば,それで充分というものである。その思想の独自性をことさら強調したい箇所には下線を施してみた。[ ]内はフォリオ数である。言うまでもないが,見開きにすれば,rは右頁,vは次の紙の左頁になるのは注意を要する。{ }内は文意を明確にするための訳者による補足である。原文における名詞の複数形は,和訳でも愚直に保存するよう努めたが,意味が通じる箇所では,もちろん日本語表現の審美的観点から,そのかぎりではない。 今回訳出した長大版第十章第一節から十三節まででは,流布版のパラフレーズというよりも,ほとんどが脱線というか,新たな教説の挿入である。その意味で,長大版独自の思想を探るには絶好の箇所であると言えよう。とりわけ,形而上学的体系全体が提示されているので,その全体を素描してみることにする。 まず頂点には,「神」である「第一の創始者」が位置し,それは「第一の存在者」,「第一能動者」,「真の能動者」,「両世界の創始者」,「第一位の創始者」,「神的知性」といった,さまざまな名称によって言い換えられている。 次の階層は,長大版独自の展開として,かねてより注目してきた「神の言葉」,「神的な言葉」の階層である。神と知性の間に別の存立を仮設しない点では,流布版は『エンネアデス』から逸脱していなかったが,『エンネアデス』にも流布版にも対応箇所をもたない特有の思想として,創造主と知性の間に措定される言葉(kalimah, λόγος)の教説がボリソフ以来夙に指摘されてきた。これは,万物を命令形「在れ!」(kun)の一言で創造する神の言葉であり,神の意志,命令と関連する。事実,[52r]には,「意志」「命令」「知恵の指図」の語が現れている。「創造する言葉」「懐胎された言葉」「最も完全な言葉」という表現も見られる。「第一の形相」という言い換えからは,その形相の担い手である基体が要請されるらしい。それが[46v]では「精神」とされる。「第一位の精神」「首位の精神」のように形容される場合もある。 その次には,「能動知性」が来る。「第一位の能動知性」「第一能動知性」「第一知性」「首位の高貴な知性」「高所の知性」「純粋で絶対的な知性」,さらに「存在者そのもの」「第一の被造物」も同じものを指し示していると思われる。 次は,「可能知性」であり,「第二知性」「第二位の知性」「自然的知性」「質料的知性」などとも呼ばれるが,いわゆる「われわれの知性」「知性的魂」である。これがさらに,思考の座であり推論的探求を行う「理性的魂」と同一視されているようである。 この下に,表象し評価する能力をもつ「感覚的魂」があり,これはおそらく「前進する力」「呼吸する力」をも含む動物の魂に相当するのだろう。そして, 増殖力をもつ「植物的魂」, それから, 天の円環運動を司る「自然」,最後に「下位の自然」として,多様な運動と形態を備え生成する「複合物体」と「構成要素」が続くのである。 これら階層間の連関は,上から下へ下降するに伴い,次第に暗く弱まる「光」,「生命」,「力」の「照明・発出・流入」と「物体的粗雑さ」の増大,その裏返しである下位のものの上位のものへ還帰への希求という新プラトン主義的常套句で説明される。しかも,「産出したものを愛し完成させる」という表現から察するに,創造は一度では成就せず,少なくとも論理的には二段階の過程を経るというプロティノス流の二相性の原理が貫徹していると予想される。階層から階層へと転送されてゆく力の連鎖は,途切れることなく上から下まで連なり,「神の言葉の隠然たる影響」により,すべてが「霊的な色で塗られている」世界が現出する。とはいえ,「霊的世界」から隔たった理性的魂は,つねに「無知,過誤,忘却,不確実,逸脱,腐敗」の可能性に晒されているゆえ「学問による教科」が必要であり,その目指すべく魂の完成とは,「自己自身へと還帰し」,「ダイモーン的霊に類同化し」,「光り輝く世界」たる能動知性と「愛し愛されるように」一つの実体へと結合し,「光で沸き立ち燃え立つ」「諸真理」を観照することにあると言えよう。