著者
片山 隆裕 カタヤマ タカヒロ KATAYAMA TAKAHIRO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.31, no.2, pp.1-13, 2017-02

2013年7月に,訪日し短期滞在(15日以内)するタイ人とマレーシア人への観光ビザ取得が免除される措置がとられた。新成長戦略の柱の1つとして「観光立国」を掲げる日本政府は,経済成長を続けるアジア圏の中でも,特に近年,中間層の所得が急速に増加し,成長を続けるタイとマレーシアからの観光客に増やしたいという狙いがあっての措置とされる。タイ人の訪日観光客数を他のアジア主要国からの観光客数と比較してみると,2012年時点では年間約26万人と,韓国(約157万人),台湾(約133万人)など比べると,決して多いとは言えなかった。韓国,台湾からの観光客数はさらに増加傾向にあるが,他方,中国からの観光客数は尖閣諸島領有権問題などの影響を受け,減少傾向にある。しかしながら,2013年以降のタイからの観光客が大きく増加し,ビザの免除措置がとられてからは,45万人(2013年),65.8万人(2014年),77.7万人(2015年)と,年々着実に急増している。このほかにも,訪日タイ人観光客急増の理由としては,もともと親日国である上に,バンコクを中心としてタイ国内にさまざまな日本文化があふれていること,日本関係のイベントが頻繁に開催されていること,日本・タイの航空便の増便など,様々な理由が考えられる。中でも「一生行くことがないであろう県全国1位」(マイナビフレッシャーズ)の佐賀県へのタイ人観光客の急増ぶりは,全国平均の増加率をはるかにしのいでおり,300人(2013年),1480人(2014年),5180人(2015年)と急増している。では,なぜ今,「はなわさんの歌以外に思いつくものがない」(男性23歳),「アクセスが悪いので,旅行先として選びにくい」(女性26歳),「九州地方に行くとしたら,他の県が優先になる」(男性35歳)などと評される佐賀県にタイ人観光客が急増しているのだろうか?本稿では,そうした訪日タイ人の増加を,ミクロな視点から九州の佐賀県に絞って考察し,佐賀を訪れるタイ人観光客が急増した理由として,タイ映画・ドラマというコンテンツの広告効果について検討することを目的としている。まず初めに,近年におけるコンテンツツーリズムとフィルムツーリズムの概況を述べる。次に,日本とタイの交流史について触れ,現代の日タイ関係と映画『クーカム』とその中でタイ人人気俳優が演じる日本兵コボリのタイ人への影響を述べる。その上で,近年公開された幾つかのタイ映画・ドラマを取り上げ,その宣伝・広告効果と訪日タイ人観光客の観光行動との関係についての考察を行うものとする。
著者
井口 正俊 Masatoshi IGUCHI
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.1-37, 2006-05

「隠喩」(metaphora)は,非本来的な意味へと適応される語の転用である。たとえば,類から種への,種から類への,ある種から他の種への,あるいはまた,類比に即して〈kata to analogon〉の転用である」(アリストテレス『詩学』1457b 21)「わたしは口を開いて譬を語り,いにしえからの謎を語ろう」(旧約聖書『詩篇』78)「隠喩的なものは,形而上学の内部にのみ存する」(ハイデガー『根拠律』)「隠喩はしたがって,いつもその死を自分自身のうちに宿している。そしてその死はまた,疑いなく哲学の死でもある」(J・デリダ『哲学の余白』-白けた神話-)「エスのあったところで,自我は生成しなければならない」(フロイト『続・精神分析入門講義』第31講義-精神的人格の解体-)
著者
塩野 和夫 シオノ カズオ SHIONO KAZUO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.30, no.2, pp.15-20, 2016-02

舘野泉は現在「左手のピアニスト」と呼ばれている。脳溢血(脳出血)のため2002(平成14)年に右半身不随となったが,04年には演奏活動を再開する。09年以降は海外各地でも精力的に活動を続けている。舘野泉ファンクラブ九州が主催する「舘野泉氏を囲む親睦会」(2014年9月20日,ホテルオークラ福岡)では,午前11時15分より「《演奏曲目》秘密です」のピアノ演奏を堪能した。会食の後に持たれた懇親会で,各テーブルから舘野泉先生に「フィンランドの空気の色」,「お正月の過ごし方」,「奥様のマリアさんはいつ日本に来られるのか」などと質問が寄せられる。質問内容が多様であっただけに際立ったのは,ほぼ全員が「今日の演奏は素晴らしかった」と異口同音にスピーチを始められたことである。しかも,聞いたばかりの演奏に対する感動を込めて「素晴らしかった」と語るスピーカーの顔は,いずれも紅潮しているように見えた。聴衆の心をとらえてやまなかったピアノ演奏の素晴らしさとは何なのか。いくつかの視点から考えてみたい。
著者
津田 謙治 ツダ ケンジ TSUDA KENJI
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.165-182, 2015-07

「あなたは,神が場所の中に包まれるのであってはならないと言っている。〔しかし〕今やこの神が〔エデンの〕園の中を歩き回ると言うのであろうか」―― 有限な場所であるエデンの園を神が歩んだとする創世記の記述に関して,二世紀の非キリスト教徒アウトリュコスが物語上で問い掛けたこの疑問は,この時代のキリスト教の神概念と教理における幾つかの重要な問題を浮彫にしている。神は有限な場所(限られた空間)の中に限定される(閉じ込められる)ほど小さな存在なのか。(包み込まれる)神が(包み込む)場所よりも小さな存在だとすれば,場所や世界を構成する質料の方が神よりも大きな存在とならないだろうか。このような場所の問題によって,神があらゆるものの唯一の支配者であるとする単一支配(モナルキア)は維持できなくなるのではないだろうか。また,神は人間と同じ場所に立ち,人間に知覚される存在なのか。すなわち,神は感覚で捉えられる存在なのだろうか。冒頭の問い掛けに応答したアンティオキアの司教テオフィロス(169頃活躍)は,ロゴス概念を用いてこの問題を解こうと試みている。彼は,神自身は有限な世界に閉じ込められず(包み込まれることなく),むしろ世界を包括する偉大な存在であり,世界を造り出し,支配する唯一の存在であって,また神は人間の感覚では捉えられないとする。したがって,エデンの園に顕れた神は,神自身ではなく,神のロゴスであって,このロゴスを最初の人間であるアダムは捉えたのだと彼は説明している。このようなテオフィロスの創世記解釈は,神自身とロゴスを区別することによって,超越者が世界に内在する問題を解決しようとするものである。しかし,一見すると,この解釈は一神教を放棄することで成り立っているような印象を受ける。ロゴスも神であるとすれば,二神論になるのではないだろうか。また,神でもあるロゴスが人間に知覚されるのであれば,神を超越者とする,この時代の神的概念にそぐわないのではないだろうか。本論では,「場所」概念を手掛かりとして,上述のテオフィロスのロゴス概念を分析し,彼の説く一神教概念や否定神学的文脈との整合性を吟味する。それによって,彼を含む二世紀の護教家教父たちが説いたロゴス概念が,後の時代の三位一体論などで展開されるキリスト論の教理史上で,どのようなかたちで位置付けられるかを考察してみたい。
著者
楊 華 ヨウ カ YANG Hua
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.31, no.2, pp.145-160, 2017-02

松本清張は明治四十二年に北九州市小倉で生まれ,昭和二十六年,処女作『西郷札』が『週刊朝日』の「百万人の小説」の三等に入選,第二十五回直木賞候補となった。昭和二十七年,『ある「小倉日記」伝』を発表し,第二十八回芥川賞を受賞した。昭和三十二年『点と線』,『眼の壁』の発表によって,日本では爆発的な「清張ブーム」が起こった。この頃,松本清張は社会派推理小説家としての地位が確立された。「清張以後」という言葉があるように,松本清張の文壇登場以来,日本の推理小説の作風は大きく変わった。従来の探偵小説のトリック一辺倒に対して,松本清張は犯行の動機を重視し,それを取り巻く社会問題を追及している。清張以外,水上勉,森村誠一,黒岩重吾,有馬頼義などの作家たちも,「社会派推理小説」の作品を多数発表している。松本清張は昭和二十六年文壇に登場する頃から,平成四年に亡くなるまで四十年間の作家生活において,ミステリー,ノンフィクション,評伝,現代史,古代史など幅広い分野において,1000篇を超える作品を出している。松本清張の初期作品の代表作『点と線』は昭和三十二年に発表された。戦後の昭和三十年代のはじめという時代は,高度成長のとば口にかかってきたころである。組織の力が大きくなり,その中で個人が次第に歯車化していく。清張はこういう権力悪という社会問題を自分の作品に取り込んだ。『点と線』において,清張は小官僚の課長補佐佐山という人物を設定し,彼の死亡をめぐり,ストーリーを展開した。このような戦後の組織の中の官僚にまつわる作品は,ほかに『ある小官僚の抹殺』(昭和三十三年),『危険な斜面』(三十四年),『三峡の章』(三十五年~三十六年),『現代官僚論』(三十八年),『中央流沙』(四十年)などが挙げられる。『点と線』は「社会派推理小説の記念碑的な作品」と従来から高く評価されているが,権力悪の暴露という面において,後の作品ほど十分ではないと考えられる。『点と線』の不徹底から後の作品における徹底的な暴露に発展していく過程に,昭和三十三年二月に発表された『ある小官僚の抹殺』が重要な役割を果たしている。『点と線』,『ある小官僚の抹殺』,両作品とも汚職事件の渦中にある小官僚の死に関する社会問題を扱う作品だが,それぞれのテクストから現れる「権力悪」への追及の程度が違う。したがって,本稿は,タイトル,構成,ジャンル,「社会悪」の暴露などにおいて,『点と線』から『ある小官僚の抹殺』への発展をめぐり,検討していきたいと思う。
著者
後藤 新治
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.93-115, 2014-09-02

「私の性格のいけないところは,私が決して自分に満足しないこと, 自分の仕上げ具合を本当に心から喜ばないことで,常に心のうちで, またこの目のうちにもう一つ進歩を求めようとすることです。」-ルオーのシュアレス宛て書簡 1193年11月1日
著者
金縄 初美 カネナワ ハツミ KANENAWA HATSUMI
出版者
西南学院大学
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.32, no.2, pp.111-139, 2018-02

中国少数民族・納西(ナシ)族の社会における歌唱の役割と内容的特徴を分析した。
著者
井口 正俊 Masatoshi IGUCHI
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.20, no.2, pp.1-22, 2005-08

*「踊りにおいてだけ,至高なるものの比喩を語ることが出来ることを私は知っている,しかし今は,私の最も高貴なる比喩は語られずに,私の身に残り続けている!最高の希望は,語られもせず,救済されることもなく私の中に残存し続けていた!そして,私の青春の面影と慰めの言葉は私にとってすべて死んでしまった。……しかし,墓のあるところに,復活もまたあるのだ」(ニーチェ『ツァラトウストラはかく語りき』第二巻「墓の歌」)*「終末論の世俗化に代わっての終末論による世俗化」(H・ブルーメンベルク『近代の正統性』Ⅰ-4)*「誰が語っているか,あるいは誰が書いているかがもはやわからなくなるや,テクストは黙示録的になる」(J・デリダ『哲学における最近の黙示録的語調について』)
著者
井口 正俊
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
西南学院大学国際文化論集 (ISSN:09130756)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.1-42, 2014-09-02

「…人々は,此の世は再びばらばらの原子の粒子に帰ったと感じているのである。総てが粉々の破片となって,あらゆる統一が失われた。総ての公正な相互援助も,総ての相関関係も喪失した。王様も,家臣も,父親も,息子も忘れ去られてしまった」ジョン・ダン「一周忌の歌・此の世の解剖」「ある誰かがやってくる, 私ではない誰かが, そして発言する:"私は絵画における特異な言語〈l'idiome〉に関心がある"…そもそも絵画は一つの「言語」〈langage〉であり…しかも絵画芸術におけるその言語の, いかなる何ものにも還元されない"単独なるものあるいは特殊なるもの"に関心があるのだ,と。」(J・デリダ『絵画における真理』)