著者
竹沢 尚一郎 関 一敏
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1998

本研究は、都市祭礼と山村の祭りの比較研究であり、都市祭礼として福岡市の2つの祭り(博多祇園山笠と博多どんたく港祭り)を、山村の祭りとして宮崎県東臼杵郡椎葉村の祭り(栂尾神楽)を取り上げ、文献調査を通じて個々の祭りの歴史と祭り研究の視点を確立すると同時に、現地調査を実施することでそれぞれの祭りの深い理解をめざした。その結果、いずれのケースとも祭りが地域社会と密接に結びつきながら遂行されてきたこと、とくに地域社会の中にさまざまな対立(年長者/年少者、男性/女性、参加者/観察者・加勢者など)を生み出しながら、それを超えて共同性や共同意識を生みだす働きをしていることが確認された。それぞれの祭りの固有性としては、山村の祭りは生業と密接に結びつきながら発展してきたこと、近代化と過疎化が進行する中でその機能が形骸化するのと対照的に、祭りがはたす成員のアイデンティティ付与の機能が強化されていることが理解された。また、それを観光資源として活用することに対しては、参加者の側に強い抵抗があることが理解された。一方、都市祭礼の方は、過去から現在にいたるまで、農村や周辺の市町村から都市へ人口と資源を吸引させる働きをしていることが確認され、そのために都市祭礼は構成要素間の競争をあおることで、ますます華美・勇壮・盛大になる傾向があることが理解された。都市祭礼と山村の祭りにおけるこれらの機能は、これまであまり研究されていないばかりか、現在進行中のものでもあり、今後の祭り研究の上で有効な視点になると判断される。
著者
竹沢 尚一郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.145-165, 2018 (Released:2019-02-24)
参考文献数
54

『文化を書く』の出版から四半世紀が過ぎた。他者にどう向きあい、どう書くべきかを問うたこの書は、今も人類学者に少なからぬ影響を与えている。しかしその四半世紀前に、おなじように他者に対する書き方を問う運動が日本にもあったことはほとんど知られていない。本稿は、谷川雁と上野英信というふたりの著述家が作った「サークル村」の運動を追いながら、そこでなにが問われ、いかなる答えが準備され、いかにしてすぐれたモノグラフが生み出されたかを跡づける試みである。 第二次世界大戦が日本の敗戦で終わると、文学サークル等が各地に誕生した。なかでも異彩を放ったのが、1958年に筑豊に形成された「サークル村」であった。他のサークルが職場や地域を拠点として活動したのに対し、それは九州各地のサークルの連携をめざすことで戦後の文化運動のなかで特異な位置を占めた。 会員の多くは、炭坑夫や孫請労働者や商店員であるか、その傍らで生活する人びとであったが、彼らはそれだけで社会の底辺に位置づけられた人びとについて書くことが許容されるとは考えなかった。彼らはどう書くかの問いを突き詰め、それへの答えを用意した。人びとの語りを最大限尊重するための聞き書きの採用、概念ではなく平易な言葉で生活世界と思想を再現すること、知識人による簒奪を避けうる自立した作品の創造、差別や抑圧を生み出す社会の全体構造を明らかにすること、である。 エスノグラフィ記述の基本ともいうべきこれらの指針に沿って、会員たちは多くのモノグラフを生み出した。上野英信の炭坑とそこで働く労働者についての記述。女坑夫についての森崎和江の聞き書き。不知火海の漁民の生活世界と病いと、チッソや地域社会による抑圧を描いた石牟礼道子の『苦海浄土』。 特定の地域を対象に、そこで生きる人びとの行為や相互行為を丹念に記述し、さらに差別や排除を生みだした全体構造までを書き出したこれらのモノグラフは、戦後日本が生んだ最良のエスノグラフィのひとつといえる。これらの作品を生んだ背景を追い、その成立過程を追うことで、人類学の可能性を検証する。
著者
竹沢 尚一郎 竹沢 尚一郎
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.213-263, 2017

日本民俗学の創始者柳田国男については多くの研究がある。しかしその多くは,柳田が日本民俗学を完成させたという終着点に向けてその経歴を跡づけるという目的論的記述に終わっているために,民俗学も民族学も存在していなかった明治大正の知的環境のなかで,柳田がどのようにして自己の学問を築いていったかを跡づけることに成功していない。 彼の経歴を仔細にたどっていくと,彼が多くの挫折と変化を経験しながらみずからの人生と学問を自分の手で築いていったことが明らかである。青年期には多くの小説家や詩人と交流しながらロマンティックな詩を書いた詩人であり,東京帝国大学で農政学を学んだあとの十年間は,日本農業の改革に専念したリベラリスト農政官僚であった。その後,1911 年に南方熊楠と知り合うことで海外の民族学や民俗学を本格的に学びはじめ,第一次世界大戦後は国際連盟委員をつとめるなかで諸大国のエゴイズムを知らされて失望し,それを辞任して帰国したのちは日本民俗学の確立に邁進する。こうした彼の人生の有為転変が彼の民俗学を独自のものにしたのである。 柳田がようやく彼の民俗学を定義したのは1930 年ごろである。それは,隣接科学(=民族学)との峻別と,民俗学独自の方法(データの採集方法)の確立,社会のなかでのその役割の正当化,研究対象としての日本の特別視という4 重の操作を経ておこなわれたものであった。英米の人類学はとくに1925 年から1935 年のあいだに理論と実践の両面で革新を実現したが,すでに自分の民俗学の定義を完了した柳田はそれを取り入れることをしなかった。彼の民俗学は,隣接科学や海外の学問動向を参照することを必要としない一国民俗学になったのであり,隣接科学との対話や交流という課題は今日まで解決されることなく残っている。Many studies have examined Yanagita Kunio, the founder of Japanesefolklore studies, but few have carefully traced how Yanagita built his disciplinein the academic environment of the Meiji–Taisho periods, during whichneither folklore nor ethnology existed as an independent discipline. This lackof investigation has occurred because, from a teleological perspective, paststudies have depicted the vicissitudes of Yanagita's life to conform to thefinal point that he completed Japanese folklore studies.Following his career, it is readily apparent that he constructed his academiclife deliberately and independently while experiencing numerous setbacksand changes. In adolescence, he was a poet who wrote romantic poemswhile cultivating friendships with many novelists and poets. After studyingagricultural science at Tokyo Imperial University, he worked as a liberalbureaucrat dedicated to the reform of the Japanese agricultural system. In1911, he became acquainted with Minakata Kumakusu and began pursuingethnology and folklore studies eagerly under his influence. After World War I,he was appointed as a committee member of the League of Nations and wasdisappointed to witness the arrogance shown by the major powers. After heresigned and returned to Japan, he struggled to establish Japanese folklorestudies. These experiences in his life made his folklore unique.Yanagita defined his discipline around 1930 as based on four factors:distinction from adjacent science( i.e. ethnology),establishment of methodology(method of collecting data), justification for its role in society, andgranting privileges to Japan as a privileged research subject. During 1925–1935 British and American anthropologists achieved radical changes in boththeory and practice. Nevertheless, Yanagita, who had already completed hisdefinition of folklore studies, never adopted them. His folklore studiesbecame a nationalist and closed science that required no reference to neighboringsciences and foreign academic trends. In light of this past history, realizingdialogue and exchanges with adjacent sciences remains a difficult taskfor Japanese folklore.
著者
竹沢 尚一郎
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.1-55, 2005
被引用文献数
1

19 世紀なかばのフランスでは,ブロカに率いられた人類学派が発展し,学界を超えて強い社会的影響をもった。それは,人間の頭蓋や身体各部位を計測し,一連の数字にまで還元することで,人びとを絶対的な人種の境界のあいだに分割することをめざした人種主義的性格の強い人類学であった。この人類学が当時のフランスで広く成功した理由は,産業革命が進行し,教会の権威が失墜した19 世紀なかばのフランスで,新しい自己認識と世界理解を求める個が大量に出現したことに求められる。こうした要求に対し,ブロカ派人類学は数字にまで還元/単純化された世界観と,白人を頂点におくナルシスティックな自己像/国民像の提出によって応えたのであった。 1871 年にはじまるフランス第三共和制において,この人類学は,共和派代議士,新興ブルジョワジー,海軍軍人などと結びつくことで,共和主義的帝国主義と呼ぶことのできる新しい制度をつくり出した。この帝国主義は,法と同意によって維持される国民国家の原則に立つ本国と,法と同意の適用を除外された植民地とのあいだの不平等を前提とするものであったが,ブロカ派人類学は植民地の有色人種を劣等人種とみなす理論的枠組みを提供することで,この制度の不可欠の要素となっていた。 1890 年以降,新しい社会学を築きつつあったデュルケームは,ユダヤ人排斥の人種主義を批判し,人種主義と関連しがちな進化論的方法の社会研究への導入を批判した。かれが構築した社会の概念は,社会に独自の実在性と法則性を与えるものであり,当時の支配的潮流としての人種主義とは無縁なところに社会研究・文化研究の領域をつくりだした。しかし,ナショナリスティックに構築されたがゆえに社会の統合を重視するその社会学は,社会と人びとを境界づけ,序列化するものとしての人種主義を乗りこえる言説をつくりだすことはできなかった。 人種,国民国家,民族,文化,共同体,性などの諸境界が,人びとの意識のなかに生み出している諸形象の力学を明らかにし,その布置を描きなおしていく可能性を,文化/社会人類学のなかに認めていきたい。
著者
竹沢 尚一郎 坂井 信三 仲谷 英夫 中野 尚夫
出版者
国立民族学博物館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2002

本年度は、本研究の最終年度でもあり、夏に研究会を開催して、本年度の研究計画と研究報告書についての打ち合わせをおこなった。本年度は、竹沢と仲谷の二人が、西アフリカ・マリ共和国での現地調査をおこなった。これには、現地研究協力者であるマリ文化省文化財保護局の局長テレバ・トゴラと、同文化財保護課長ママドゥ・シセも参加し、マリ東部のガオ地区で、2003年11月下旬から2004年1月下旬まで約72日間考古学発掘調査に従事した。これにより、西アフリカのサバンナ地帯で初めて、総石造りの建造物が出土した。規模については、20mX28mまで拡大して発掘をおこなったが、全容を解明するには程遠いほど巨大な建造物である。また時代的には、2年前におこなったガオ地区のサネ遺跡の土器との比較により、西暦7世紀から11世紀と推測される。この建造物に用いられた石については、いまだ特定はできていないが、ガオ近郊には産出されないものであることは確実であり、遠方より運ばれたものであることは確実である。ガオ地区は、中世のアラビア語文献によれば、ガーナ王国と並んで最初の黒人王国が成立した土地であり、今回の発見は、規模や材料、時代などの点から、西アフリカで発掘された最古の王宮の跡である可能性がきわめて高い。今回の成果は、規模、材料、時期のいずれの点においても、これまで西アフリカで実施された考古学発掘の成果としては類を見ないものであり、これまで謎とされていた時代の西アフリカ史の解明に大きく貢献するはずである。また、社会組織の成層化という社会人類学の重要な課題に対しても、大きな貢献をなすものと考えられる。
著者
竹沢 尚一郎 シセ ママドゥ
出版者
Japan Association for African Studies
雑誌
アフリカ研究 (ISSN:00654140)
巻号頁・発行日
vol.2008, no.73, pp.31-48, 2008-12-31 (Released:2010-04-30)
参考文献数
49

奴隷貿易と植民地支配以前, 西アフリカは繁栄を謳歌し, ガーナ, マリ, ガオ等の大国家が成立した。しかしその実態は, 歴史資料が乏しいこともあり十分に明らかにされてはいない。その空隙を埋めるべく, マリ共和国東部のガオ地区で発掘をおこなってきたので, その成果を報告する。ガオ-サネ遺跡での発掘からは, 長方形の日干しレンガ製建造物が出土した他, 400点を越えるビーズ, 北アフリカと同型のランプ, 鉄や銅の製品, 紡錘車が出土した。小型坩堝の他, 大小2種類の鎌形の銅の板が存在したが, これは貨幣として流通し, 必要に応じて製品に加工されたと考えられる。放射性炭素分析から遺跡はAD8Cから10Cと考えられる。製法と種類の異なる多様な土器の存在, 土製ランプの出土, 長方形の日干しレンガの使用, 西アフリカ最古の紡錘車の出現など, 西アフリカの他の遺跡との相違は顕著である。以上から, この遺跡は南方の黒人系だけでなく, 北アフリカの交易者・工人が居住していたと考えられる。古ガオ遺跡での発掘からは, 片翼36mの総石造りの建造物の他, 浴室を備えた小型建造物が出土した。出土品には, 約1万点のビーズ, 1千点以上の銅製品と鉄製品, 北アフリカ・中東産のガラス製小型容器片や磁器片などの貴重品がある。放射性炭素分析から建造物は10Cを通じて利用されていたと考えられる。使用された石は付近に存在しないので, 遠方から運ばれていたはずである。他に類を見ない石造りの大規模建造物であること, 建造用の石を遠方から運ぶほどの権力の集中が存在したこと, ガラス製容器等の貴重品がサハラを越えて運ばれていたことから, 建造物は王宮ないし権力者の居宅であったと考えられる。アラビア語史料によれば, 10Cのガオは王都と交易都市からなる双子都市であり, 私たちの発掘はそれを裏付けている。その他, 西アフリカで発見された最初の「王宮」であること, サハラ交易の開始が従来より少なくとも2世紀早められたこと, 西アフリカを東西に結ぶ交易路の存在が確認されたことなど,「中世」前期 (8-10C) の西アフリカ史を解明する上で多くの成果がもたらされている。
著者
竹沢尚一郎
出版者
南山大学
雑誌
研究所報
巻号頁・発行日
no.10, 2000
著者
竹沢 尚一郎 深海 菊絵 近藤 有希子 森田 良成
出版者
国立民族学博物館
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2021-04-01

2016年、米国の人類学者Sherry Ortnerは、失業や疾病、戦争、災害等に苦しむ人々を対象とする「暗い人類学が人類学の中心的テーマになっている」と断言した。この発言の背景にあるのは、グローバル化と新自由主義の進展による大量の移民や難民の出現、工場移転の結果としての失業や短期雇用の増加である。急速に変わりゆく現代世界の中で、人類学がその使命とされてきた「異文化研究の学」にとどまることは可能なのか。むしろそれは研究対象と研究方法の根本的な改変を必要としているのではないか。本研究の目的は、苦難に満ちた現代世界に生きる多様な人々を包括的に研究するための新たな方向性を見つけることである。
著者
竹沢 尚一郎 坂井 信三 大稔 哲也 杉村 和彦 北川 勝彦 鈴木 英明 松田 素二 武内 進一 高宮 いずみ 池谷 和信 宮治 美江子 富永 智津子
出版者
国立民族学博物館
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本研究は、欧米諸国に比して遅れているわが国のアフリカ史研究の推進のために実施された。それに当たり、アフリカ史を他地域との交流の観点から明らかにすること、考古学発掘をはじめとする一次資料の入手に主眼を置いた。本研究により、西アフリカで10世紀の巨大建造物を発掘したが、これはサハラ以南アフリカ最古の王宮と考えられ、交易やイスラームの進展について大きな寄与をなした。その他、13-14世紀の東・西・南部アフリカ各地で社会経済的発展が実現されたこと、国家をもたない社会における歴史記述の可能性が明らかになったことなどの成果があった。これらの成果をもとに、「アフリカ史叢書」の発刊の準備を進めている。
著者
竹沢 尚一郎 Shoichiro Takezawa
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.1-55, 2005-09-30

19 世紀なかばのフランスでは,ブロカに率いられた人類学派が発展し,学界を超えて強い社会的影響をもった。それは,人間の頭蓋や身体各部位を計測し,一連の数字にまで還元することで,人びとを絶対的な人種の境界のあいだに分割することをめざした人種主義的性格の強い人類学であった。この人類学が当時のフランスで広く成功した理由は,産業革命が進行し,教会の権威が失墜した19 世紀なかばのフランスで,新しい自己認識と世界理解を求める個が大量に出現したことに求められる。こうした要求に対し,ブロカ派人類学は数字にまで還元/単純化された世界観と,白人を頂点におくナルシスティックな自己像/国民像の提出によって応えたのであった。 1871 年にはじまるフランス第三共和制において,この人類学は,共和派代議士,新興ブルジョワジー,海軍軍人などと結びつくことで,共和主義的帝国主義と呼ぶことのできる新しい制度をつくり出した。この帝国主義は,法と同意によって維持される国民国家の原則に立つ本国と,法と同意の適用を除外された植民地とのあいだの不平等を前提とするものであったが,ブロカ派人類学は植民地の有色人種を劣等人種とみなす理論的枠組みを提供することで,この制度の不可欠の要素となっていた。 1890 年以降,新しい社会学を築きつつあったデュルケームは,ユダヤ人排斥の人種主義を批判し,人種主義と関連しがちな進化論的方法の社会研究への導入を批判した。かれが構築した社会の概念は,社会に独自の実在性と法則性を与えるものであり,当時の支配的潮流としての人種主義とは無縁なところに社会研究・文化研究の領域をつくりだした。しかし,ナショナリスティックに構築されたがゆえに社会の統合を重視するその社会学は,社会と人びとを境界づけ,序列化するものとしての人種主義を乗りこえる言説をつくりだすことはできなかった。 人種,国民国家,民族,文化,共同体,性などの諸境界が,人びとの意識のなかに生み出している諸形象の力学を明らかにし,その布置を描きなおしていく可能性を,文化/社会人類学のなかに認めていきたい。
著者
竹沢 尚一郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.83, no.2, pp.145-165, 2018

<p>『文化を書く』の出版から四半世紀が過ぎた。他者にどう向きあい、どう書くべきかを問うたこの書は、今も人類学者に少なからぬ影響を与えている。しかしその四半世紀前に、おなじように他者に対する書き方を問う運動が日本にもあったことはほとんど知られていない。本稿は、谷川雁と上野英信というふたりの著述家が作った「サークル村」の運動を追いながら、そこでなにが問われ、いかなる答えが準備され、いかにしてすぐれたモノグラフが生み出されたかを跡づける試みである。</p><p>第二次世界大戦が日本の敗戦で終わると、文学サークル等が各地に誕生した。なかでも異彩を放ったのが、1958年に筑豊に形成された「サークル村」であった。他のサークルが職場や地域を拠点として活動したのに対し、それは九州各地のサークルの連携をめざすことで戦後の文化運動のなかで特異な位置を占めた。</p><p>会員の多くは、炭坑夫や孫請労働者や商店員であるか、その傍らで生活する人びとであったが、彼らはそれだけで社会の底辺に位置づけられた人びとについて書くことが許容されるとは考えなかった。彼らはどう書くかの問いを突き詰め、それへの答えを用意した。人びとの語りを最大限尊重するための聞き書きの採用、概念ではなく平易な言葉で生活世界と思想を再現すること、知識人による簒奪を避けうる自立した作品の創造、差別や抑圧を生み出す社会の全体構造を明らかにすること、である。</p><p>エスノグラフィ記述の基本ともいうべきこれらの指針に沿って、会員たちは多くのモノグラフを生み出した。上野英信の炭坑とそこで働く労働者についての記述。女坑夫についての森崎和江の聞き書き。不知火海の漁民の生活世界と病いと、チッソや地域社会による抑圧を描いた石牟礼道子の『苦海浄土』。</p><p>特定の地域を対象に、そこで生きる人びとの行為や相互行為を丹念に記述し、さらに差別や排除を生みだした全体構造までを書き出したこれらのモノグラフは、戦後日本が生んだ最良のエスノグラフィのひとつといえる。これらの作品を生んだ背景を追い、その成立過程を追うことで、人類学の可能性を検証する。</p>